創価教学研究室 (Tommyのブログ) 稲枝創価学会  

創価学会稲枝支部・一壮年部が作成した御書講義・創価教学研鑽のためのブログです。

時光御返事 1549~1550 

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「御書名」がわからない場合は、「巻カデコリー」の右側に御書ページを示していますので、参考にしてください。



注記
1 第13巻(0691~0895)は本来一冊の本ですが、御書全集のページに従ってカデコリを作成しているため前(0691~0700)後(0848~0853)に分割します。
2 守護国家論講義録は三冊(1巻上・中・下)になっていますがひとつのカデコリにまとめてあります。
3 同様に開目抄上・下二巻をひとつにしてあります。
4 聖愚問答抄も上下の区分はしていません。
5 御義口伝上・下は単独で「品の大事」とたてたものと、2~4品でまとめたものがあります。
6 以下の御書は資料不足のため、現代語訳のみのもの、全編または一部未編集となっています。
  現代語訳のみ
   四信五品抄(0338~0343)
  全編未編集
   御講聞書(0804~0847)
   本因妙抄(0870~0877)
   産湯相承事(0878~0880)
  一部未編集
   唱法華題目抄(0001~0016)
   百六箇抄(0854~0869)
   

1549~1550 時光御返事 1565:11~1566:04 第二章 迦葉尊者の過去世の因縁を明かす

15491550 時光御返事 1565:111566:04 第二章 迦葉尊者の過去世の因縁を明かす

 

本文

 

  迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたとき人なり、此の人の家をたづぬれば摩かだい国の尼くりだ長者の子なり、宅にたたみ千でうあり・一でうはあつさ七尺下品のたたみは金千両なり、からすき九百九十九・一のからすきは金千両、金三百四十石入れたるくら六十・かかる大長者なり、めは又身は金色にして十六里をてらす、日本国の衣通姫にもすぎ・漢土のりふじんにもこえたり、此の夫婦道心を発して仏の御弟子となれり、法華経にては光明如来といはれさせ給う、此の二人の人人の過去をたづねれば 麦飯を辟支仏に供養せしゆへに迦葉尊者と生れ、金のぜに一枚を仏師にあつらへて毘婆尸仏の像の御はくにひきし貧人は此の人のめとなれり。

 

現代語訳

 

 迦葉尊者という人は、仏の弟子の中では第一に尊い人である。この人の家を尋ねると、摩竭題国の尼拘律陀長者の子であった。家には畳が千畳もあり、一畳の厚さは七尺もあり、下等の畳でさえ金千両もした。また唐鋤が九百九十九もあり、一つの唐鋤は金千両であった。また三百四十石の金が入った倉が六十もあるという大長者であった。その夫人は、身は金色に輝き、十六里を照らしたという。その美しさは日本国の衣通姫よりも優れ、中国の李夫人よりも越えていた。この夫婦は道心を発して仏の弟子となり、法華経では光明如来となるであろうと記されたのである。

 この二人の人の過去を尋ねるならば、麦飯を辟支仏に供養したために迦葉尊者と生まれ、金貨一枚を仏師にたのんで、金箔として毘婆尸仏の像を塗った貧人は、この人の夫人となったのである。

 

語釈

 

迦葉尊者

 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。

 

摩かだい国

 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。

 

尼くりだ長者

 梵語ニャグローダ(Nyagrodha)の音写。無節・縦広などと訳す。インドのマガダ国にいたバラモンの富豪。摩訶迦葉の父。付法蔵因縁伝巻一によると、過去の修徳によってマガダ国王の千倍もの財宝を持ち、高才博達で智慧が勝れていた。しかし子がなかったため樹神に祈ったが子が授からなかったので怒り、願いが叶わなければ樹を切ると申しつけた。恐れた樹神は梵天・帝釈に願って一男子を授けさせた。それが摩訶迦葉であるという。

 

衣通姫

 日本書紀・古事記などにある。容姿が絶妙で比類なく、その美しさが衣を通して輝いていたのでその名があるという。日本書紀では、第19代允恭天皇の后で皇后忍坂大中姫の妹・弟姫としている。また古事記には同天皇の皇女・軽大郎女としている。

 

りふじん

 中国・前漢代の武帝の寵姫。漢書巻九十七上によれば、楽人の出身であったが、一顧すれば城を傾け、再顧すれば国を傾けるというほどの絶世の美人であり、舞もよくしたので武帝の愛を一身に受けたという。美人の形容である傾城・傾国はここから出たという。

 

光明如来

 釈迦の十大弟子のひとり、迦葉が未来世において成仏したときの名。

 

毘婆尸仏

 梵語ヴィパシュイン(Vipaśyin)の音写。毘鉢尸・毘婆沙とも書き、勝観・浄観・種種見などと訳す。小乗経で説く過去七仏の第一。長阿含経には過去荘厳劫・釈尊出世の九十一大劫前に出現して、波波羅樹下で成道し、初会の説法で168,000人、二会の説法で100,000万人、三会の説法で80,000人を化導したとある。

 

講義

 

 南条時光の麦の供養の功徳をたたえるために、次に、釈尊の十大弟子の一人で頭陀第一とされた迦葉尊者の過去世の因縁を明かされている。

 迦葉とは摩訶迦葉の略で、「仏の御弟子の中には第一にたとき人なり」「僧の中の第一」といわれるように、釈尊の声聞の弟子の中でもとくに峻厳な修行を貫いたため頭陀第一と称され、釈尊滅後は付法蔵の第一として第一回の仏典結集を主宰し、20年の間小乗教を弘通して、阿難に付嘱した後に鶏足山で没したといわれている。

 その迦葉も「むかしうえたるよにむぎのはんを一ぱひ供養」(1541:03)した功徳善根によって、富裕な家に生まれ、仏弟子となって光明如来の記別を受けることができたのである。

 また、迦葉の出家前の夫人も、過去世に貧しい女人の身でわずかの金を手に入れ、金色が欠けていた毘婆尸仏の像に箔として供養した功徳で金色に輝く肌に生まれたと説かれている。

1549~1550 時光御返事 1549:01~1550:03 第一章 阿那律の故事を引き供養の功徳を延ぶ

15491550 時光御返事 1549:011550:03 第一章 阿那律の故事を引き供養の功徳を延ぶ

 

本文

 

時光御返事   弘安元年七月八日    五十七歳御作   与南条時光

  むぎのしろきこめ一駄・はじかみ送り給び畢んぬ。

  こくぼんわうの太子あなりちと申す人は・家にましましし時は俗性は月氏国の本主てんりん聖王のすえ・師子けう王のまご・浄飯王のおひ・こくぼん王には太子なり、天下に・いやしからざる上・家中には一日の間・一万二千人の人出入す、六千人はたからをかりき・六千人はかへりなす、かかる富人にておはする上・天眼第一の人・法華経にては普明如来となるべきよし仏記し給う。

  これは過去の行は・いかなる大善ぞとたづぬるに.むかしれうしあり山のけだものをとりて.すぎけるが・又ひえをつくり食とするほどに・飢えたる世なればものもなし、ただ・ひえのはん一ありけるを・くひければ・りだと申す辟支仏の聖人来りて云く・我七日の間食なし汝が食者えさせよと・こわせ給いしかば・きたなき俗のごきに入れて・けがしはじめて候と申しければ・ただえさせよ今食せずば死ぬべしと云う、おそれながら・まいらせつ、此の聖人まいり給いしが・ただひえ一つびを・とりのこして・れうしにかへし給いき、ひえへんじていのことなる、いのこ変じて金となる・金変じて死人となる・死人変じて又金人となる・指をぬいて売れば本のごとし、かくのごとく九十一劫・長者に生れ今はあなりちと申して仏の御弟子なり、わづかの・ひえなれども飢えたる国に智者の御いのちを・つぐゆへに・めでたきほうをう。

 

現代語訳

 

 白くついた麦一駄、ショウガをお送りいただいた。

 斛飯王の太子であった阿那律という人は、出家する以前の俗姓は月氏国の本主・転輪聖王の後裔で、師子頰王の孫、浄飯王の甥、斛飯王の太子であった。高貴な身分であるうえ、家には一日に一万二千人の人が出入りし、六千人は金を借りにくる人で、六千人は金を返しに来る人であった。このような裕福な人であったうえに、釈尊の弟子となってからは、天眼第一の人となり、法華経では普明如来となるであろうと仏は記されたのである。

 こういう阿那律は、過去世にどのような大善を行じたのかと尋ねると、昔、猟師がおり、山の獣を獲って生活しており、また稗を作って食糧としていたが、飢饉の世で、何もなく、ただ稗の飯が一杯あったのを食べていると、利吒という辟支仏の聖人が来ていうには「私は七日の間、何も食べていない。あなたの食物を施してくれまいか」と乞われた。猟師は「汚い俗人の食器に入れて、食べかけになっていますが」と答えると、聖人は「それでよい。いま食べなければ死んでしまう」といったので、猟師は恐縮しながら差し上げた。この聖人は、食したあと、ただ一粒の稗を残して猟師に返された。この時、稗は変わって猪となった。猪は変わって金となった。金は変わって死人となった。死人は変わってまた金人となった。指を抜いて売るとまた指が生えて元のようになった。こうして九十一劫の間長者に生まれ、今は阿那律となって仏の弟子となった。わずかの稗であったけれども、飢えた国で智者の御命を助けたために、すばらしい果報を得られたのである。

 

語釈

 

こくぼんわう

 迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もある。

 

あなりち

 梵語でアニルッダ(Aniruddha)といい、阿樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失ったという。法華文句巻一下 には「阿樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり(中略)賢愚経に云く、弗沙仏の末法の時世饑饉なり、支仏有り、利吒と名く。乞を行じ鉢を空うして獲ること無し。一貧人有り、見て悲悼す。白して言さく、勝士能く稗を受けんやいなやと、即ち噉う所を以て之を奉ず。食し已りて十八変を作す。後に更に稗を採るに、兎有りて跳んで其の背を抱き変じて死人と為る。件の脱を得る無く闇を待ちて家に還る。地に委するに即ち金人と成る。指を抜くに随いて生じ、脚を用うるに更に出で、之を取るに尽ること無し。悪人悪王、来て之を奪はんと欲するに但だ死尸を見るのみ。而して其観る所は純ら是れ金宝なり。九十一劫にして果報充足す、故に無貧と号す。其の生じて已後は家業豊溢なり、日夜に増益す」とある。なお、本文にある「いのこ云云」との出典は未詳である。

 

月氏国

 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

てんりん聖王

 インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。

 

師子けう王

 中インド迦毘羅国の王。浄飯王・斛飯王の父。釈尊・阿那律の祖父。

 

浄飯王

 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。

 

普明如来

 五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。

 

ひえ

 イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。

 

りだ

 阿那律の過去世の兄。雑宝蔵経巻四によると、長者の子に利吒・阿利吒という兄弟がいた。父からは二人で力を合わせていくようにと諭されていたが、父の死後、二人は別れて暮らすようになった。最初のうちは兄が富裕で弟が貧しかったが、後には反対になり、兄は出家して辟支仏になった。弟もやがて富を失い、薪を打って生活しなければならなくなった。そうした時、城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したという。

 

辟支仏

 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。

 

講義

 

 本抄は、弘安元年(127878日、日蓮大聖人が身延で御執筆になり、南条時光に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。

 本抄の末文に「此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん」等とあることから「時光御返事」と呼ばれている。

 内容は、阿那律の故事や迦葉尊者の過去世の因縁を引かれて、時光の供養の志をたたえ、この功徳が時光の身にかえってくることを述べられている。

 南条時光が麦一駄を御供養したのに対し、その功徳の大きなことを示されるため、はじめに、釈尊の十大弟子の一人で天眼第一といわれた阿那律が過去世に稗の飯を辟支仏に供養したことによって九十一劫の間、長者となったとの故事が述べられている。

 阿那律は過去世に猟師だったとき、辟支仏にわずかしかない粗末な稗の飯を供養した功徳によって、九十一劫の間長者に生まれ、最後に斛飯王の太子となり、釈尊の弟子となっては天眼第一とうたわれ、法華経五百弟子授記品第八で普明如来の記別を受けるに至ったのである。

 これは、供養した品物の価値や金額が尊いのではなく、供養する人の真心や信心の志こそ大切なのであり、それに応じて功徳がきまることを示している。猟師が供養したのは稗の飯一杯にすぎなかったが、飢饉の世で他に食物がなく、自らの命をつなぐ大事な糧であった。だからこそ、それを供養した功徳が大きかったのである。

 そのことを、白米一俵御書には「仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596:14)と御教示くださっている。

 信心で大切なことは真心であり、命を支える唯一の糧を供養することは命そのものを供養するのと同じ意義がある。ゆえに、それが成仏の種子となるのである。

1549~1550 時光御返事 1550:04~1550:18 第三章 時光の供養の功徳の大なるを示す

15491550 時光御返事 1550:041550:18 第三章 時光の供養の功徳の大なるを示す

 

本文

 

  今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり、国主ににくまれて我が身をせく上・弟子かよう人をも・或はのり・或はうち・或は所領をとり・或はところをおふ、かかる国主の内にある人人なれば・たとひ心ざしあるらん人人もとふ事なし、此の事事ふりぬ、なかにも今年は疫病と申し飢渇と申しとひくる人人もすくなし、たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに・麦の御とぶらい金にもすぎ珠にもこえたり、彼のりだがひゑは変じて金人となる、此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん、此の法華経の文字は釈迦仏となり給い・時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へかけり給へ、かへりて時光が身をおほひ・はぐくみ給へ、恐恐謹言。

       弘安元年七月八日                  日 蓮 花 押

     上野殿御返事

 

現代語訳

 

 今、日蓮は、聖人ではないけれども、法華経の御名を立てたために、国主に憎まれて、自分が責められるばかりでなく、弟子や往き来する人までも、あるいは罵られ、或は打たれ、或は領地をとられ、或は住所を追われたりした。このような国主の領内に居る人々であるので、たとえ志があるであろう人々も訪れることはない。このことは事新しいことではないが、それにしても、今年は疫病や飢饉などで、訪れて来る人々が少ない。たとえ、病にかからなくても、飢えて死ぬことは疑いないと思っていたところに、あなたが送ってくださった麦は、金よりも勝れ、宝珠よりも有り難いものである。あの利吒の稗は変わって金人となった。今、時光から送られた麦が、どうして法華経の文字にならないことがあろうか。この法華経の文字は釈迦仏となられて、時光のなき父上の左右の翼となって、霊山浄土へ飛んで行かれ、更に帰って来て、時光の身を覆い育まれることであろう。恐恐謹言。

  弘安元年七月八日          日 蓮  花 押

   上野殿御返事

 

語釈

 

霊山浄土

 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(0757:07)とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

講義

 

 最後に、法華経の行者である大聖人が飢えにあわれている時に麦を供養した時光の功徳が、阿那律等にはるかに勝れることを述べられて、本抄を結ばれている。

 「今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり」と仰せられているのは、大聖人が法華経を宣揚され、仏法上最も尊い御立場であり、御本仏であるとの御心と拝せられる。阿那律や迦葉が過去世に供養したのは辟支仏であったが、それでも前に述べられているような大功徳があったのであり、いま末法の御本仏を供養した時光の功徳がそれにはるかに勝れることはいうまでもない。

 しかも大聖人の御境遇は、「国主ににくまれて我が身をせく上……」と仰せのように、幕府の権力者から数々の迫害を加えられているばかりか、弟子達や訪れる信徒まで弾圧されたことから訪れる人も少なく、しかもこの弘安元年(1278)は疫病の流行と飢饉のため特に訪ねる人とてなかったのでる。

 弘安元年(1278)に疫病と飢饉という災難が重なっていたことは、同年閏十月の御消息に「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき……八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし」(1552:02)と仰せになっていることからもうかがえる。

 そのため、「たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべき」と仰せのように、食糧にも事欠き飢えに迫られた窮乏の御生活だったのである。

 そうした時だけに時光からの麦の御供養は「金にもすぎ珠にもこえ」るほどありがたいものであり、利吒が飢えた辟支仏に稗の飯を供養して大功徳を得たように、時光の麦の供御養は父兵衛七郎を成仏させるのみでなく、時光の身にもかえってきて成仏を育むことだろうと、その功徳の大なることを述べられている。

 最後に、法華経の行者である大聖人が飢えにあわれている時に麦を供養した時光の功徳が、阿那律等にはかるかに勝れることを述べられ、本抄を結ばれている。

 「今日蓮は聖人にあらざれども法華経に御名をたてたり」と仰せられているのは、大聖人が法華経を宣揚され、仏法上最も尊い御立場であり、御本仏であるとの御心と拝せられる。阿那律や迦葉が過去世に供養したのは辟支仏であったが、それでも前に述べられているような大功徳があったのであり、いま末法の御本仏を供養した時光の功徳がそれをはるかに勝れることはいうまでもない。

 しかも大聖人の御境遇は「国主ににくまれて我が身をせく上」と仰せのように、幕府の権力者から数々の迫害を加えられているばかりか、弟子達や訪れる信徒まで弾圧されることから訪れる人も少なく、しかもこの弘安元年(1278)は疫病の流行と飢饉のため特に訪ねる人とてなかったのでる。

 弘安元年(1278)に疫病と飢饉という災難が重なったことは、同年閏10月の御消息に「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・ 五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし」(1552:02)と仰せになっていることからもうかがえる。

 そのため、「たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべき」と仰せのように、食糧にも事欠き飢えに迫られ窮乏の御生活だったのである。

 そうした時だけに時光からの麦の御供養は「金にもすぎ珠にもこえ」るほどありがたいものであり、利ダが飢えた辟支仏に稗の飯を供養して大功徳を得たように、時光の麦の供御養は父兵衛七郎を成仏させるのみでなく、時光の身にもかえってきて成仏を育むだろうと、その功徳が大なることを述べられている。

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