2017年11月04日

『Mersal』

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ヴィジャイ最高かよって映画だった。

まずこの作品が上映された川口SKIPシティの映像ホールは映像、音響共に最高レベル。音楽はラフマーンだったが、一音一音がとてもクリアで彼の音楽と共にとても良い状態で楽しむことができた。

ヒーロー映画はこうあるべき、という見本のような作品だった。
冒頭から主役のヴィジャイ登場までためるためる。群衆の中、警察の護送車に乗せられる彼の後ろ姿が映る。じらしにじらし、そして満を持して手錠をかけられた手を上に掲げてようやくヴィジャイの正面からの顔がスローモーションで映る。はい、ここ指笛ポイントですと言わんばかりだ。

ルンギ姿で身軽に動き周り、アクションシーンではピンチをマジックで切り抜ける。おいおい、いつもマジックネタ仕込んでるのかよ・・というツッコミは不要だ。なぜならヴィジャイだからだ。飛び道具がピストルでなく手裏剣というのも素晴らしい。

いちいち挙げればキリがないが、監督はヒーローを格好良く映す術をよくわかっている。キメ顔、ウインク、ヒゲをくぃっと直す。これがカッコよくないんだったら何がかっこいいのかと小一時間問い詰めたい。

ストーリーの本筋はインドの医療制度について。
悲しみと怒りの事件が続き、観客は否が応でもヴィジャイの気持ちに同化する。そして最後には熱いメッセージをカメラ目線で訴える。インドの医療制度も英語字幕もよくはわからないが、とりあえずヴィジャイの言うことが正しい!と思わざるを得ない展開。それに問題が生じた・・という記事を読んだが、この強力なメッセージに関係者が怖がるのも止むを得ない気がする。

ダンスシーンも良かった。
インドのダンスシーンはこうあるべき、という人海戦術大量人数投入で画像に迫力を持たせる。赤い粉を全身に塗った人々の中で踊る白いシャツ姿のヴィジャイは幻想的な雰囲気ですらあった。

それにしてもタミルは血のり多めだ。ボリはやられても倒れてるだけだったりするが、やられて倒れて血を吐くところまでが勝負だ。傷口もリアルなら白目をむくシーンもリアル。

今回ビジャイ役の奥さんがパンジャーブ人という設定なのでシクに囲まれるヴィジャイが新鮮だった。今回は1人3役だったが、もうこうなったら全員ヴィジャイでもいいのでは・・と思うくらいヴィジャイ映画だった。

指笛を本気で鳴らせるようにしよう・・と決意して帰路についたのだった。  


2017年11月02日

『セクシー・ドゥルガ』(東京国際映画祭)

以下は100%個人的解釈なので、「それはおかしい」と思う方もいらっしゃるかもしれませんがご容赦下さい。

作品は祭のシーンから始まる。きちんと身なりを整えた踊り手の男たち。祭が始まるとトランス状態になり、太鼓の音に身を委ねて全身を震わせる。口には串を通され、身体のあちこちに針を通して上から皮だけで引っ掛けられて宙吊りの状態。見ているだけで痛そう。だが祭の主役になったことを喜んでいるようでもあり、女神への生贄のようでもある。

一方で駆け落ちと思われる男女が夜中にヒッチハイクして駅に向かおうとする。ようやく止まった車には男2人組。酒に酔い、いかにもガラが悪そう。さらに仲間が加わってカップルをからかう。何度も逃げようとするが、他の車は止まらず、仕方なく彼らの車に戻る。

最初は夜道は気をつけましょうという啓蒙映画かと思った。そんな危険な車に乗らず、明るくなるまで待って、それから移動すればいいのに。しかしカップルは彼らの車がもう一度声をかけてくれるのを待つかのように歩き続ける。

『セクシー・ドゥルガ』というタイトルを見た時、最初はインドの路地裏で売られているような裏物セクシーDVDを想像してしまった。カップルはよせばいいのに2度ならず3度も同じ車に乗ろうとする。女性の名はドゥルガ。いったい何がセクシーなの?え・・・もしかして彼女はその監禁されそうなギリギリの状態に一種のトランス状態を覚えてる?もしくは女神として周りの男たちが大はしゃぎしている様子を見て楽しんでる?男たちは生身のドゥルガ、セクシーな女神を崇めるかのように。あるいは駆け落ちしようとした男がムスリムであることが名前からわかり、無意識にその行く手を遮っているのか?

祭りのムードを盛り上げる太鼓やラッパの音と車から鳴り響くヘビメタ、身体中針をさしたびっくり人間とパーティーグッズの怪物のお面をかぶってはしゃぐ男たち。そして祭を眺める見物客と真夜中のヒッチハイクの顛末がどうなるのかハラハラする観客。その対比を意図したかどうかはわからない。ただそこにある唯一の共通点は「非日常」。

この映画はまたインド人のああ言えばこういうというか軽口というか、掛け合いがリアリティあった。インドの街角で聞こえてくるようなやりとり。ほぼ意味がないが、それは彼らのコミュニケーションなのだ。酒酔い運転で警察が「今度から気をつけろよ」と見逃したのは笑った。

とにかくインド人の口車には乗らない、夜道は歩かない事だけは肝に銘じた。それにしても悪いヤツの車のBGMはなぜヘビメタ率が高いのだろう。  


2017年10月30日

『ヴィクラムとヴェーダ』(東京国際映画祭)

警察と犯人が実は似た者同士、表裏の存在、という設定はよくある。
それを巧みに利用して何が善で何が悪か、その判断基準はどこにあるのか、という事を犯人の行方を模索していく中で観客に問い続ける。

例えばある人物が殺された時にその事実は1つしかない。だが殺された理由や殺した人間によって、観客も「これは止むを得ない」「いやそれは許されない」と考えが変わる。そのくらい人の善悪なんて曖昧なものだ。特にインドでは身内や仲間が殺されたら復讐は何ものにも優先されるという裏ルールがある。このあたりの心理も巧みについている。

各エピソードを回顧するという形なので、ストーリーの勢いがやや分断される感じがあったが、あえてこういう形式をとったのか。また警官の妻が、彼が追っている殺人犯の弁護士というシュールな設定を法律的な裁きを含めてもう少し生かしても良かった。モラルと法は決して相反するものではないから。

『アキラ』に出てきた登場人物も悪人ばかりだったが、この作品も似たようなところがある。元々人間なんてそんなきれい事ばかりじゃない。すると主人公の最後の問いかけ、何を判断材料にするか?

その答えは結局、主人公が最初に言っていた「自分で決める」事に戻るのではないかと私は思った。冒頭と最後に出てきたアニメーションがベースとなっている伝説を表していたのだろうが、それぞれの民族や宗教に根ざしている価値基準というのは無意識下でとても大きなものだと感じた。
  


2017年10月28日

『ビオスコープおじさん』(東京国際映画祭)

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第一印象は初監督という事もあってか、とても丁寧に作られた作品だと思った。父を事故で亡くしたミニー。悲しみの最中に突如殺人犯として服役中だった男が彼女の前に現れる。彼は父が生前、身元引き受け人として恩赦を求め続けてきた男だった。

男の出身はアフガニスタン。国から脱出し、インドでは町から町へと子供達にビオスコープを見せていた。

監督のQ&Aで、ボリウッドはアフガニスタンで沢山のロケをしている。だがその惨状は描かれない。自分はそれを撮りたかったと。人々が殺されるようなシーンも1つの表現だろう。しかしこの映画では銃痕と、切り裂かれたスクリーンに自由を奪われた人々の悲しみを映す。

アフガニスタンという美しくも政情が不安定な国を出て、彼は子供達に夢を見せる。共に脱出した女たちは現実を生きることで必死だ。

監督はボリウッドを2時間半の夢物語と言っていた。主人公のビオスコープおじさんが歩くシーンには映画スターの名前が入った曲がかかる。「私の靴は日本製」(『詐欺師』)の歌詞が使われたのはいい偶然だった。

人はひと時の夢で現実の辛さを忘れられる。でも一番大切にしなければならないのは目の前の現実なのだ。失ってから知る悲しみ。だからこそ失う前に大事にしなければ・・・と気づかされる。人でも、故郷でも、思い出でも。  


『Sultan』(スルターン)

今年のIFFJの大トリを飾るのにふさわしい作品だった。
英語字幕付きで観たことはあったが、日本語字幕が付いて感動を新たにした。

スポーツの王道ものには違いないがそれはあくまでも表向きであって、メインのテーマは生きることそのものにある。人生を諦めかけた中年男がリングに再び立つ。その男に夢をかけた人たちもまた自分の人生を託す。

サルマンの存在感は今更言うまでもないが、こういう男臭い作品には主人公を引き立てる役がとても重要だ。気の置けない幼馴染、まだ半人前の若き興行主、ひと癖あるアウトローなコーチ、どれもいいキャラだ。彼らがいるからサルマンが輝く。

相手役はアヌシュカ。彼女の最大の魅力はどんな相手役でもぴったり呼吸を合わせられるところだ。『pk』のショートカットも良かったが、ジャージー姿の彼女も魅力的。

「敗者こそがヒーローだ。勝利の価値がわかるから」という台詞が印象的だった。だからこそ諦めず、希望を持ち、自分自信と戦うのだ。人生というリングで。

曲はどれも良い。「ベイビーはベース(重低音)が好き」の歌は振り付けも衣装もとても好き。サルマンがアヌシュカを愛おしく思い続ける男性ボーカルの歌があるが、ラストに同じ曲を女性ボーカルが歌う。つまりは私もあなたのことを思っているのよ・・という呼応なのだが、こういう曲の使い方はインド映画は本当にうまい。

何が本当の勝利なのか、スポーツで戦うその先に何があるのか・・・ストレートのパンチが胸を打つ。インドで観たらさぞかし盛り上がっただろうな。  


2017年10月21日

『Golmaal Again』

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ボリウッドのエキスがぎゅ〜っと凝縮されたような映画だった。

基本はコメディ。それもこってこて。上からバケツが落ちてくるとかお尻に火がついて大慌てとか、このギャグを2017年も使うかとさえ思うが、いわゆる1周回って面白くなる。ローヒト・シェッティ監督はジョニー・リーヴァルのギャグが好きなのかな。『Dilwale』でもそうだったが、台詞はよくわからなかったが寒さギリギリっぽい一人ギャグシーンが繰り広げられていた。これもある意味お約束。そして下ネタギャグはほとんど使わないのはファミリーを意識してか。

懐かし映画ネタもてんこ盛り。恋に落ちるシーンではアジャイ主演の『Ishq』(恋)の曲がかかり、ダンスシーンでもアレンジされたものが使われている。キラキラ原色のボリウッドソング。キャッチーな振り付けはガネーシュが担当。彼の振り付けは楽しくて好き。

南インド映画のパロディっぽいアクションシーンから始まり、タッブー主演の『Cheeni Kum』、『Chennai Express』や『Dil Se』の「Chaiyya Chaiyya 」っぽいシーンなどなど小ネタが散りばめられている。

とにかく使われている俳優がみな一流どころだから演技には文句なし。特にプラカーシュ・ラージがおバカなギャグを全身で演じているところはプロだな〜と関心してしまった。そして安定のタッブー。彼女は何を演じてもかっこいい。脇にしっかりした人たちがいると映画が締まる。

コメディーにホラーがミックスされたジャンルはインド映画はお得意。更に1本筋が通った脚本になっているので最後はちょっと感動してしまった。どんなバカバカしいギャグが続いても、役者と脚本がしっかりしているのでとても安心して観ていられる。ディワリに家族で楽しく観るにはぴったりの作品。  


2017年10月20日

『Shour Se Shuruaat』(始まりは音から〜インド詩七篇〜)

音をテーマにしたオムニバス。
7人の監督が、それぞれ「音」に対してどのようなイメージを膨らませているかが面白い。

想像力がない私などは「音・・といえば音楽。インドだから歌がたくさん盛り込まれるのかな?」なんて単純に思っていたが、いわゆる映画音楽の類はどの作品もまったく出てこなかった。

そのかわりに街の雑踏をイメージする監督が多かった。
それは時には耐え難いノイズであるし、生活そのものであり、生きている証でもある。そして人々の噂やSNSなど、実際に耳では聞こえてない世間の声も一種の音として捉えているところが面白かった。

最後はイムティヤーズ・アリー監督が、自分の裸の動画をネットにアップされてしまった少女をテーマに描く。ネットに動画をアップされたというくだりは最近インド映画でよく見かけるが、頻発しているのだろうか。商業ベースを気にせず、彼の感性で自由に撮っているような気がした。

  


『Raman Raghav 2.0』(ラマン・ラーガブ2.0〜神と悪魔〜)

アヌラーグ・カシュヤプ監督はエグい。
殺人鬼を主人公にした作品なので当然のごとく殺人のシーンがあり、その血塗られたリアリティもそうなのだが、この監督は人間の嫌な部分から目をそらさず真正面から描いているところがエグい。

インド映画は比較的性善説のような作品が多く、悪人も人の子的な描かれ方をしていていたりするので見ていてほっとする。しかし性悪説というか原罪というか、人間の心に封印してある何かをこじ開けてしまうような描き方をこの監督はする。

例えば性的欲求を満たすために殺人をする・・・というのはとりあえず動機がわかったような気になる。だが食事をするかのごとく殺人をするような生き物に動機はない。強いて言えば自分が歩いている道に落ちている石が邪魔だから蹴飛ばすような感覚で殺すのだ。ナワーズッディーン・シッディーキーのすごいところはそれを必要以上に大げさにすることなく、神の声を聞いた悪魔を普通に演じている。インドの街角にどこにでも歩いている男。一人の男の狂気と共に、それを放し飼いにしているインドの街すらも狂気であるかのようだ。古今東西殺人鬼を演じた名優はたくさんいるが、彼の演技は決して引けをとらないと思う。

対決するのはヤク中の刑事。だが実質はナワーズッディーン・シッディーキーの一人芝居に近い。本来なら善と悪である刑事と殺人犯が表裏一体として描かれる。
映像の力強さとナワさんの演技に惹きつけられた。  


2017年10月14日

『Mantra』(マントラ)

あまり期待していなかったのが、予想に反してとても面白い作品だった。何が面白かったかというと、この映画は英語とヒンディー語を巧みに使い分けているのだ。

デリー出身のパンジャブ人である主人公のビジネスマン、カピルはロンドンから帰ってきている。家族とは常に英語で話す。妻と3人の子どもたちはみな別々の方向を向いており、家族団らんの食事風景もどことなく他人行儀だ。まるで欧米風の家族を皮肉っているようでもある。

カピルの友人は地元の有力者もいて、英語とヒンディー語を半々くらいで話す。おそらくそれなりの学校だったのだろう。英語からヒンディー語、またその逆へと会話の移行はとても自然だ。そしてカピルもとてもリラックスしているように見える。

地元の人たちと話す時はもちろんヒンディー語。ビジネスの時は英語でも、ヒンディー語を使う時は素の顔に近くなる。

この英語とヒンディー語の使い分けもそうだが、カピルが経営する会社が外資にのっとられそうというメインのストーリーをはじめ、彼が妻と寝室を別にしているのに反して彼の会社の番頭さん的な役割である歳のいったインド人は妻と同じベットで古いインド映画を観ている。作品のタイトルにもなっている「マントラ」はカピルの息子が経営するレストランバーの店名なのだが、いかにもインド的な名前なのに店は洋風である。表面だけインドで中身は欧米的。こうしたメッセージが作品のあちらこちらに散りばめられている。

インドが変わっていくことを危惧し、インドはインドなのだというまさに「インド的」なメッセージが欧米風の家族のあり方を通して映し出されていた。