2005年12月25日

コラム 〜コトノハ〜

めずらしく昼間から起きてます、しゅーとです。
リアルと妄想の狭間で
1ミリたりともクリスマスを満喫してません、私。

クリスチャンでもないので・・・
リクルート活動していた去年が懐かしいです。
することないので一筆書かせていただきます。
まあ、よく意味がわかりませんが、本日は世界で最も「愛の告白」が多い日でしょう。
すべての状況においてというわけではないですがその時に使うものがあります!

!お金!

めんどくさくなくていいかもですが、嘘です。

たぶん言葉でしょう。
メール等でも言葉使ってますし。
つまり「告白」という言葉が、既に言葉で伝えること一般的としてますよね。
せっかくなので今日は言葉について考えてみます。

1番言いたいことは「言葉って大切ですよね」ってことです、ちなみに。
ジグソーパズルのようにばらばらな世界を、繋ぎとめ
はっきりと形を提示してくれているのは「言葉」において他ならない気すらします。

一手段としての「言葉」。
つまり相手に何かを伝えようとするときに皆さんも使われるその「言葉」。
でも、自分の言いたいことが伝わりきらない
なんてことも少なくないでしょう。

いきなりですが本日は視点を変えて考えて見ましょう。
○○語と呼ばれる言語は世の中に無数にありますが、
元々言葉ってどこからどんな風に生まれたんでしょう?
最初は「ウホウホ」「ウホ!」みたいな会話が成り立っていたんですかね・・・
想像つきませんね。

日本語において「言葉」という言葉は元々「言(こと)」+「端(は)」の複合語。
それ以前は「言」一語だったらしいのですが
「事」も「言」と同じ意味を音で近い意味を持つので
それの重要度によって「端」という文字を補い差別化を図ったと思われます。
その後、「コトの葉」という形になり
(「葉」はたくさんの意味で広がりを意味したのでしょうかね?)
現在の「言葉」という言葉に至ったと私は考えます。

我々の使う日本語。
基本的に日本人同士なら日本語を用いてコミュニケーションをとることが
可能ですよね。
ですが、この日本語、おもしろい起源論が種々あるようです。
あくまでも一説ですが、一つ書いて見ましょう。

「阿加陀麻波袁佐閇比迦禮杼斯良多麻能岐美何餘曾比斯多布斗久阿理祁理」
これは古事記の一文です。
そのまま読むと
「あかだまはおさへひかれどしらたまのきみがよそひしたふとくありけり」
皆さんが学校で習ったであろう古文風にすると
「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の君が装し 貴くありけり」
となります。
これが現在の国学者の見解です。
まあぱっと見、よくありがちな詩のようですね。
古事記自体こういったものの連続なのですが、
これに対しある説があります。
「アカ ダマユ サエ ヒガ レジ シ ラジ ダマ キン ガ ユ グシ タブ トク アルケル」
これは上のものをほぼ原型をとどめたままカタカナにしたものなのですが、
これが実はある言語で意味の通じる言葉となるのです。
その言語とは・・・

「シュメール語」。
そしてその意味は
「私の愛した夫よ、宮中の僧侶は(あなたが)病気だから祈祷すると、布施をせがみます。
私の大君よ、もっとたび重ねて消息を聞かせてください。手紙をいただくのを、心待ちにいたしております。」
となるのです。

シュメール語から日本語への訳は少し改善すべき点もありますが、
それよりもなぜこのようなことが起こるのか?
シュメール語訳のほうがよっぽど意味らしい意味を持っていますし。
ある発見においては、日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、
古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定しているようです。

つまり全ての文明の始まりであり、突如現れた高度な文明、シュメール文明が
何らかの手段によって(彼らの航海術は優れていたという。よって船で?)日本へアプローチしたのでしょうかね?
これに関する詳しい言及はめんどいのでしませーん。
「あてつけ」だったら面白いね。

このように、言語は状況や解釈の仕方によって全く異なる意味を持つことがあります。
これはヴィドゲンシュタインの言う言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)においても
深く追求されてます。
内容主義的意味概念から機能主義的意味概念への転換を本質とした論理ですね。

愛の告白もよーく考えてしてみるのもいいかもしれないですね。


私の言語が私の世界の限界を意味する。
私の思考の向こう側、語りえない世界、
宇宙である。
これを神と呼ぶのでしょうか?

「地に駆逐なく意味道身らの血」
自らが自らに一番疑問視する問題。
なんてね。

最近あまりシュールなことを言わなくなったしゅーとでした。

P.S ついでに古事記の真似?して
メタメッセージを入れてみました。
文章と言う名の森に、既成概念でカモフラージュされた
異なる言の葉。
いくつかありますが、あなたはわかりますか?

途中でめんどくなったので手抜きですが。。。
すいません。

しゅーと  

Posted by innocent_idea at 19:38Comments(1)TrackBack(0)

2005年12月13日

拝啓 天才博士と馬鹿氏 〜恋愛ver〜

こんにちは!
こたつで熱燗、そんな季節ですね。
こたつに入ると2秒で眠くなるしゅーとです。

さて、このようにBLOGを書かせていただくようになって今回で何度目でしょうか。
雨の日も、風の日も、くじけず頑張ってきました。
あまりの辛さが故に挫折しそうになったときもありました。
嘘です。


で、このBLOGを始めるずっと前から抱いている一つの問い、
今年ももうすぐ終わりということもあり、
これに関して少しばかり書いてみようかと思います。
クリスマス前ということもあり、ちょっと恋愛verで行きます。

「天才博士と馬鹿氏」
とタイトルにもありますが、
「天才」と「馬鹿」

これについてのことであります。

「天才」と「馬鹿」が完全に反対の概念であるかどうかに関しては
諸所考察すべき点はありますが
ここでは、対極の概念として書かせていただきたいと思います。


「天才が幸せか、馬鹿が幸せか」

問うべきはこれです。

そもそも
天才とは何か
馬鹿とは何か

この定義を確立せねばこの問題はどーにもなりません。

が、ここではもっと簡単に考えましょう。

この二つを以下のように置き換えるのはいかがでしょうか?
よく考える人
考え事をしない人

これなら少しわかりやすいですよね。

「よく考える人」はそれが故に、
納得の行く道を自ら探せる
アカウンタビリティーを果たせる
人より前に行くことを意図的に狙える

等のクオリティの高さを追求していくことができます。

が、その反面
疑う
落ち込む

等のマイナス面も現れることが少なくないでしょう。


例えばみなさんご興味がお有りであろう
「恋愛」
においては、

相手のことや自分の立場を考えるが故に
アクションが起こせない。

ということが起こりえるのではないでしょうか。
極論ですが。


ここで逆の立場である
「考え事をしない人」
の場合は
「好きだ!いっちゃえー!」
で、済むわけです。
これも極論ですが。


みなさんはどちらのタイプに属し、どちらのタイプでありたいでしょう?

大半の人はこういうでしょう。

「私は前者だが、後者のタイプが羨ましい。そうなれる人はいいな」


前者の人にとって、自分の思うままを相手にぶつけるという行為は
自己のみのことならず、他者を巻き込んでの自己表現であるが故
それが一方的かつ相手にとって有益でないものであった場合
自分のとった行動が社会的にそして自分的に
恥ずべき、無益な行動であったと考えてしまうこともあるものである。

長々とあえて一文で書きましたが簡単に言うとこういった感じでしょうか。


私の主観を書きます。
その考えは間違ったものではないと思います。
人間が社会的動物である限り
社会という一つのルールの上に生きていく限り
エゴが全てではないと思います。
そういった相対的価値判断は
「思いやり」
へと繋がっていくものでしょう。
しかしそれが周囲に理解されないときも少なくないでしょうが。


ここで私がこのようなまとめをしてもなーにも意味ありませーん!
フォローする気もありませーん!

本当に言いたいことは
優等生になってもしょうがないじゃん!
馬鹿ができる天才になればいいんじゃない?
馬鹿なことができて、頭で他者とのバランスや自己の位置などを
調整すればいいんじゃない?


思いやりのある馬鹿になりましょう!
そして本当はできる子でいましょう!

天才博士と馬鹿氏は二重人格である必要は無い。
それぞれのいいところをそれぞれがあるが故に高められる人であればいい。

どうもこの世の中は1か0か、という極端な答えばかり求められて困ります。
数字の上で1+1=2に決まってます。
が、これが2じゃなくて・・・とかそんなくだらん事に振り回されるのではなく
そもそも別にそんな表現をする必要がないだけだということに気づきましょう!


今日もあまりシュールじゃないですが、
クリスマス前に悩む老若男女に向けて
少子化に歯止めをかけるべく提言させていただきました。

しゅーと

  
Posted by innocent_idea at 05:25Comments(1)TrackBack(1)