『いのちを救いたい! 医師、研究者、教育者として』
(2021.3号より)
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 Tさんは、中学生の時、死ぬのが怖くて生きている意味を考えた。
「人のためになることをすれば、自分は死んでも遺るものがある。医師になって、子どもたちの役に立ちたい」と思った。

 高校三年生のとき、父が胃がんを発病した。
 父は最後に、「後は頼んだぞ」と言い残した。母子家庭、収入はゼロとなった。卒業まで六年かかる医学部への進学は申し訳ないと迷った。「医学への道をあきらめてほしくない」と母は言った。世帯収入による学費免除制度があったN大学医学部に合格。「父の仇をとってやる、がんに関わっていきたい」との気持ちが芽生えた。

 ベッドサイドで、医師として「いのち」に向き合った。
 当時は、がん告知しない時代だった。「噓を言う、取り繕う自分がいました。辛かった。個人ではどうしようもない時代でした」「もし自分の子どもなら、どんな治療をするかを自分に問いかけるようにしました」「医学の限界もある。亡くなる子どももいます。やれることはやっても、いつも本当に申し訳ない気持ちでした…」

 米国に留学。米国国立衛生研究所にて「がん免疫」の研究を行った。
「今、治らない人を助けるためには研究が必要です。研究は、いばらの道。上手くいかないことばかりです。困難に進む覚悟が問われます」。
 帰国後、難治性急性白血病のCAR―T細胞療法、高リスク神経芽種の免疫療法などの研究にも取り組んだ。今、N大学教授、小児がんのがん免疫療法の第一人者となっている。

 医療への志、生きる思いを優しく語ってくれた。
「子どもにとって、病院は非日常なことです。治療した記憶も、副作用もない。すぅーといつの間にか消えて、いつもの生活になっていることがいい」「いのちを救う最後の砦、子どもたちの未来を守る―病院であり続けたいと胸に刻んでいます」

「人生には、いろいろなことがある。それを意味あるものにしていくことが、生きることではないでしょうか。父の死も無駄ではなかった。医師としての原点になってくれています」
「父は四十六歳、祖父は四十三歳で、がんで亡くなりました。自分が四十六歳になったとき、父を超えたと思いました」
「今を生き切る―。それが明日につながっていきます。今、自分が果たすべきことを思い、新しき道を全力で拓いていきます」

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