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今日は写真を専門に展示しているという、galleryMainに行って写真の展示を見てきました。

竹村知恵という方の個展で、タイトルは「朝に紅顔、夕に白骨」。舞台はお墓。全てモノクロの写真でした。

お墓の中では女性のモデル、パンクっぽい若い男が気ままに彷徨ったり佇んだり遊んだりしています。

死という、誰もが逃れられない運命を象徴しているお墓と、それを意に介さず気ままに徘徊する人という舞台設定です。

ギャラリーによる解説では…「生と死は同義であり、死は生きているものにとっての観念であり、生もまた生きているものにとっての観念であるのではないだろうか。

竹村は、墓は石にしか過ぎず、死は肉体の終焉でしかないと、写真の中で客観視を試みている。現に、写真のなかでは、墓そのものの持つ意味よりも先に、光に照らされて屹立したフォルマリスティックでグラフィカルな石塊と躍動する生命が先立って見える。観念と視覚の先で、生と死が同一のベクトルを持ちながらもやがて消失していく。」とあります。

先に読んでいたら、もしかして印象も違ったのか、わかりませんが、私は、この写真展を見るに付け、やはり自分は写真はよくわかってないのだな、と思いました。

というのは、馴染みのお墓が撮影されているのを見ることで、ぼくは何故か、ほのぼのとしたものを感じてしまったくらいだったのです。

生と死を客観視するのに、私にとってはお墓は余りに日常化されたイメージで、写真がどれだけ冷ややかなレンズを向けていたとしても、私の固定観念は、そこに同調できずに、奇妙な違和感を覚えてしまった、いうことでしょうか?

生と死をレンズを通して客観視する、というのであれば、例えば死んでゴミのようになったまま放置されている鳥の写真などの方がいいかも、などと思ってみたりして、、。

私にとってはやはりお墓を、ギャラリーの解説のように、写真ならではの客観視されたただの石のフォルムとして鑑賞することが、出来なかったのだと思います。

部屋の奥にひとつ、仏像の後ろ姿の写真があって、それがなんとなく孤独なような、さみしいような雰囲気で、お墓によく散歩に行くような呑気な私は、素直に、「これは好きだな」と思いました。

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galleryMainのDMより