2018年03月01日

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−34 紅渓石 荷葉硯 梅羊刻

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−34 紅渓石 荷葉硯 梅羊刻

紅渓石 荷葉硯 梅羊刻 (こうけいせき かようけん ばいようこく)
 硯材  大分 紅渓石
 作者  原口実五郎(梅羊)
 硯のサイズ:30.0×24.6×1.7cm  重量1833g


すずり天神です。
私の収蔵する硯の中から、和硯を紹介中です。
写真につきましては色合わせが困難で、若干実物と異なります。ご容赦ください。


目次(目録・Contents)はこちら。

全体が30cmの蓮の葉の形で、中央部分を墨堂とし、周囲を少し掘り下げて墨池とし、葉の上に蟹と蛙が乗っているデザインの硯です。蓮の葉は漢方では荷様と言うそうで、荷葉硯(かようけん)または蓮葉硯(れんようけん)と呼ばれます。
作者は紅渓石を明治中期に復興した原口梅羊で、出品人原口実五郎(号梅羊)の紙片が残っており、どこかへの出品作品になります。硯背に老梅羊とありますので、亡くなった昭和19年以前の昭和期のものと推測しています。
葉の表現など見事で力の入った作品とは思いますが、さすが蟹七匹、蛙二匹は多すぎではないでしょうか。大きい割りに和硯の部−32の荷葉硯より薄く軽く仕上がっています。またカニの甲羅の微妙なカーブの磨きは大変だったと予想します。

荷様硯-R8-2

以下は縮小画像です。
荷様硯-R9
荷様硯-R5
荷様硯-R6


荷様硯-R10
荷様硯-R14

蟹の甲羅の磨きが大変そうです。
荷様硯-R16

老梅羊の刻(拡大)
荷様硯-R7
荷様硯-R4
荷様硯-R1


原口梅羊
延岡観光協会の資料によると、「明治32年、地元(新小路)出身で、宮内庁御用師・内海羊石の門下であった原口梅羊(本名実五郎)が帰郷、紅渓石硯製作を開始し、昭和十九年没」とあります。  

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2015年05月19日

すずり天神 和硯雑考-16 紅渓石硯の歴史

目次(目録・Contents)はこちら。

紅渓石硯の歴史2回目は、名倉 鳳山著『日本の硯』の「北川村史(現北川町)」から、「延岡市行幸記念録」の一部献上品説明の中の「紅渓石硯の沿革」を紹介します。
内容はほぼ紅渓石硯の歴史,汎瑛佑任垢、明治期に再興した原口梅羊を特に賛美しています。

また名倉 鳳山著『日本の硯』では、記述は短いですが「宮崎の物産」(抜粋)を引用し、韓国の丹陽石を加工したことが書かれています。

「北川村史(現北川町)」抜粋
第五項 紅渓石の発展
「延岡市行幸記念録」中の「紅渓石硯の沿革」

「今より凡そ八十年前(安政の頃)甲州人にして徳蔵という修験者あり、偶々延岡藩北川村八戸通行の際渓流に露出せる此の石を拾い、仝地天神の社に籠りて硯を作りこれを延岡に〇ぐ、これ実に此の石の作硯に用よられた起源なり。
 其の頃、延岡藩の家老穂鷹亭々方に出入なす藩士川原新蔵なる器用の者あり此の石を以って硯を作り之を亭々に呈す、亭々之を見て硯材に適すべしとなし、藩航海方役所に命じて之を硯材として大阪に輸送せしめたるが、廃藩後は延岡にても川原新蔵その他の手に作硯され、之を「八戸石」又は「赤石」と唱えたり。
 かくて明治十年西南役後、鹿児島県人佐藤 暢(後の栃木県知事)延岡警察署長として来任するに及び、その慧眼は此の石をして延岡特産「紅渓石硯」の名をなさしむるに至れり。佐藤 暢此の石を見て、南町後藤庄作脾臓の唐硯端渓石にして頼山陽の遺愛品たりしという稀有のものに比して遜色なくものなるを認め、之を製硯若しくは硯材として京阪地方に輸送せば必ず世の好評を受け将来延岡の一特産たるに至るべし、時の豪商奈須助右衛門に勧奨するところあり、助右衛門大いに其の儀に賛し自ら此の意思の産地に実地踏査に赴き石材の契約をなし、石工を督して加工を施し硯材として之を東京及び京阪地方まで移出するの盛況を見るに至りしが、此の石材の産地一帯紅丹色の渓谷なるが故にかの唐硯端渓石に因みて之を「紅渓石」と称して世に出すこととなれり。
 然るに、その後帝都の硯工にありては紅渓石の特質たる堅質性に製硯の難渋を感じ作硯に適せずとして之を顧みず一時廃工の姿なりしが、明治三十二年、宮内省御用師内海羊石の門人にして延岡の生める梅羊原口実五郎その洗練された霊腕をもって帰郷硯師を開業するや、紅渓石の硯材として有することの特質の見出されず廃工と慣れるを慨し、つぶさに心騰を砕きで研鑽の結果、遂に其の特質を生かすことに成功して数多の傑作品を瀕発し、ここに「紅渓石硯」の声価は翕然として高まり、梅羊の盛名と共に延岡特産として世に喧伝せらるるに至れり。」

この沿革も大同小異であるが、要するにこの硯石の世に喧伝せらるるに至ったのには原口梅羊の生涯に亘る努力と功績を忘れることはできないであろう。梅羊については同書に次のような履歴を載せている。
「謹製者原口実五郎(梅羊ト号ス)ハ延岡市大字恒富字新小路ニ生レ、新小路小学五級修業ノ後鹿児島市ニ転住、十八歳ニシテ上京、宮内省御用師(彫刻家)内海羊石氏ノ門ニ入リ、作硯ヲ修業すること六ヶ年、二十四歳ノ時延岡ニ帰郷シテ開業、爾来専心斯業研鑽ニ精進シ、「紅渓石硯」ノ名ト共ニ斯界ニ其の声明ヲ知ラルルニ至レリ。
 嘗テ明治四十年十一月、大正天皇、皇太子ニ在ハス時、本県行啓ノ際内藤子爵家献上硯謹作下命ノ光栄ニ浴シタルニ始リ大正四年大正天皇御即位大典ニ際シ、聖上、皇后両陛下、皇太子殿下、県献上硯参面ヲ内海羊石師ト合作ニテ謹製下命ノ光栄ニ浴シ、大正九年秩父宮殿下本県御成リノ際東臼杵郡自治協会ヨリ献上硯「地竜旭日」謹製ヲ下命サレ、大正九年今生陛下皇太子に在ワス時本県行啓ノ際、県献上硯「蝠自来天」謹製を下命サレ、昭和三年十一月今生天皇陛下、御即位御大典ノ際聖上、皇后、皇太后三陛下県献上硯謹作下命ノ光栄ニ浴シタリ。
 其他、内国勧業博覧会ヲ始メ各地の共進会、品評会等ニ出品シテ宮内省御買上ノ光栄ニ浴シタル外、褒状、賞状十数ヲ受ク。」
またこの天皇陛下行幸の際は延岡市より献上の硯「松寿万年」長さ一尺、巾六寸を製作したのであった。こうして八戸(やと)の紅渓石はその名を全国に知られるに至ったのであった。


「宮崎の物産」(抜粋)
   発行 社団法人 宮崎県物産振興協会
   監修 宮崎県中小企業総合指導センター
 紅渓石硯
 本県の硯石は、県北、北川渓谷の紅渓石硯として全国に、その質の優秀さ、加工技術の芸術性で知られています。
 現在(「宮崎の物産」発行当時)、その加工技術を生かして、韓国忠清北道の丹陽郡に産出する緻密で整然とした節理を持ち、硯石として理想的な丹陽石も素材として製作しております。

以上で名倉 鳳山著『日本の硯』の引用を終わります。
韓国の丹陽石を加工したのは二代目羊堂の一時期と推定しますが、宮崎県物産振興協会が明記したように正式に販売していたようです。なお当代(三代目羊堂)の作品は、2011年3月京都の展示会で拝見しましたが、全ての石材は紅渓石を使用していました。

写真は二代目羊堂の、蓋付雲龍硯です。先に眼の出た硯を紹介しましたが、ほとんどに眼は出ないようです。
紅渓石雲龍硯-2
紅渓石雲龍硯-3
紅渓石雲龍硯-4
紅渓石雲龍硯-5
紅渓石雲龍硯-1


  
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すずり天神 和硯雑考-16 紅渓石硯の歴史

目次(目録・Contents)はこちら。

紅渓石硯の歴史2回目は、名倉 鳳山著『日本の硯』の「北川村史(現北川町)」から、「延岡市行幸記念録」の一部献上品説明の中の「紅渓石硯の沿革」を紹介します。
内容はほぼ紅渓石硯の歴史,汎瑛佑任垢、明治期に再興した原口梅羊を特に賛美しています。

また名倉 鳳山著『日本の硯』では、記述は短いですが「宮崎の物産」(抜粋)を引用し、韓国の丹陽石を加工したことが書かれています。

「北川村史(現北川町)」抜粋
第五項 紅渓石の発展
「延岡市行幸記念録」中の「紅渓石硯の沿革」

「今より凡そ八十年前(安政の頃)甲州人にして徳蔵という修験者あり、偶々延岡藩北川村八戸通行の際渓流に露出せる此の石を拾い、仝地天神の社に籠りて硯を作りこれを延岡に〇ぐ、これ実に此の石の作硯に用よられた起源なり。
 其の頃、延岡藩の家老穂鷹亭々方に出入なす藩士川原新蔵なる器用の者あり此の石を以って硯を作り之を亭々に呈す、亭々之を見て硯材に適すべしとなし、藩航海方役所に命じて之を硯材として大阪に輸送せしめたるが、廃藩後は延岡にても川原新蔵その他の手に作硯され、之を「八戸石」又は「赤石」と唱えたり。
 かくて明治十年西南役後、鹿児島県人佐藤 暢(後の栃木県知事)延岡警察署長として来任するに及び、その慧眼は此の石をして延岡特産「紅渓石硯」の名をなさしむるに至れり。佐藤 暢此の石を見て、南町後藤庄作脾臓の唐硯端渓石にして頼山陽の遺愛品たりしという稀有のものに比して遜色なくものなるを認め、之を製硯若しくは硯材として京阪地方に輸送せば必ず世の好評を受け将来延岡の一特産たるに至るべし、時の豪商奈須助右衛門に勧奨するところあり、助右衛門大いに其の儀に賛し自ら此の意思の産地に実地踏査に赴き石材の契約をなし、石工を督して加工を施し硯材として之を東京及び京阪地方まで移出するの盛況を見るに至りしが、此の石材の産地一帯紅丹色の渓谷なるが故にかの唐硯端渓石に因みて之を「紅渓石」と称して世に出すこととなれり。
 然るに、その後帝都の硯工にありては紅渓石の特質たる堅質性に製硯の難渋を感じ作硯に適せずとして之を顧みず一時廃工の姿なりしが、明治三十二年、宮内省御用師内海羊石の門人にして延岡の生める梅羊原口実五郎その洗練された霊腕をもって帰郷硯師を開業するや、紅渓石の硯材として有することの特質の見出されず廃工と慣れるを慨し、つぶさに心騰を砕きで研鑽の結果、遂に其の特質を生かすことに成功して数多の傑作品を瀕発し、ここに「紅渓石硯」の声価は翕然として高まり、梅羊の盛名と共に延岡特産として世に喧伝せらるるに至れり。」

この沿革も大同小異であるが、要するにこの硯石の世に喧伝せらるるに至ったのには原口梅羊の生涯に亘る努力と功績を忘れることはできないであろう。梅羊については同書に次のような履歴を載せている。
「謹製者原口実五郎(梅羊ト号ス)ハ延岡市大字恒富字新小路ニ生レ、新小路小学五級修業ノ後鹿児島市ニ転住、十八歳ニシテ上京、宮内省御用師(彫刻家)内海羊石氏ノ門ニ入リ、作硯ヲ修業すること六ヶ年、二十四歳ノ時延岡ニ帰郷シテ開業、爾来専心斯業研鑽ニ精進シ、「紅渓石硯」ノ名ト共ニ斯界ニ其の声明ヲ知ラルルニ至レリ。
 嘗テ明治四十年十一月、大正天皇、皇太子ニ在ハス時、本県行啓ノ際内藤子爵家献上硯謹作下命ノ光栄ニ浴シタルニ始リ大正四年大正天皇御即位大典ニ際シ、聖上、皇后両陛下、皇太子殿下、県献上硯参面ヲ内海羊石師ト合作ニテ謹製下命ノ光栄ニ浴シ、大正九年秩父宮殿下本県御成リノ際東臼杵郡自治協会ヨリ献上硯「地竜旭日」謹製ヲ下命サレ、大正九年今生陛下皇太子に在ワス時本県行啓ノ際、県献上硯「蝠自来天」謹製を下命サレ、昭和三年十一月今生天皇陛下、御即位御大典ノ際聖上、皇后、皇太后三陛下県献上硯謹作下命ノ光栄ニ浴シタリ。
 其他、内国勧業博覧会ヲ始メ各地の共進会、品評会等ニ出品シテ宮内省御買上ノ光栄ニ浴シタル外、褒状、賞状十数ヲ受ク。」
またこの天皇陛下行幸の際は延岡市より献上の硯「松寿万年」長さ一尺、巾六寸を製作したのであった。こうして八戸(やと)の紅渓石はその名を全国に知られるに至ったのであった。


「宮崎の物産」(抜粋)
   発行 社団法人 宮崎県物産振興協会
   監修 宮崎県中小企業総合指導センター
 紅渓石硯
 本県の硯石は、県北、北川渓谷の紅渓石硯として全国に、その質の優秀さ、加工技術の芸術性で知られています。
 現在(「宮崎の物産」発行当時)、その加工技術を生かして、韓国忠清北道の丹陽郡に産出する緻密で整然とした節理を持ち、硯石として理想的な丹陽石も素材として製作しております。

以上で名倉 鳳山著『日本の硯』の引用を終わります。
韓国の丹陽石を加工したのは二代目羊堂の一時期と推定しますが、宮崎県物産振興協会が明記したように正式に販売していたようです。なお当代(三代目羊堂)の作品は、2011年3月京都の展示会で拝見しましたが、全ての石材は紅渓石を使用していました。

写真は二代目羊堂の、蓋付雲龍硯です。先に眼の出た硯を紹介しましたが、ほとんどに眼は出ないようです。
紅渓石雲龍硯-2
紅渓石雲龍硯-3
紅渓石雲龍硯-4
紅渓石雲龍硯-5
紅渓石雲龍硯-1


  
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2015年05月04日

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−11 紅渓石硯

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−11 紅渓石硯

宮崎県延岡 紅渓石硯 有眼鶴寿硯 二代目羊堂作
 硯のサイズ(蓋付):13.0×9.0×3.0 799g

すずり天神です。
私の収蔵する硯の中から、和硯を紹介中です。
写真につきましては色合わせが困難で、若干実物と異なります。ご容赦ください。


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紅渓石有眼鶴寿硯-2
紅渓石有眼鶴寿硯-3
紅渓石有眼鶴寿硯-4
紅渓石有眼鶴寿硯-5
紅渓石有眼鶴寿硯-6


この作品は相馬羊堂(二代目羊堂)作の、紅渓石の共蓋がついた卵形の硯です。
墨堂は大きな楕円を残して漆をかけ、紅渓石の色は楕円部分のみに現れています。
蓋には鶴を彫っており、長命長寿を表します。
鶴の目には層になった石眼を利用しています。端渓硯の良材の眼ほど見事ではありませんが、
紅渓石にも眼が僅かに出るようで、玉眼入り鶴寿硯として作品例があります。


相馬羊堂氏(二代目羊堂)は原口梅羊の孫弟子にあたります。
まず赤間硯で紹介した崎川羊堂が、大正5年原口梅羊に師事、その後赤間硯から紅渓石硯に移っています。
相馬羊堂氏(相馬展夫氏)は崎川羊堂(初代羊堂)に昭和25年師事、昭和39年崎川羊堂氏没後
二代目羊堂(相馬羊堂)を襲名。現在はご子息の周二氏(三代目羊堂)が継いでいます。
三代目にも原口梅羊を祖とする本格的な製硯技術が伝わっており、飾りの無い実用硯は少なく、
腕が冴える彫刻硯主体の高級品を揃えています。
彼の作品を関西で見る機会はほとんど無いのですが、2011年3月に京都で個展が開かれました。
原口梅羊の雲龍硯と同じ石質で、彫刻の見事な高額な硯が並んでおりました。
近年硯材の確保が困難という情報を流れ聞いております。  
Posted by inomatte at 21:41Comments(0)

2015年04月11日

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−10 紅渓石硯

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−10 紅渓石硯

宮崎県延岡 紅渓石硯 雲龍硯 梅羊刀
 硯のサイズ:20.5×15.3×2.8 1617g

すずり天神です。
私の収蔵する硯の中から、和硯を紹介中です。
写真につきましては色合わせが困難で、若干実物と異なります。ご容赦ください。


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baiyou-1

baiyou-2

baiyou-3
baiyou-4


九州宮崎県延岡の紅渓石の硯です。

卵形変形の硯材の、上部に、端渓硯によく見られる雲龍(今回は雲と二匹の龍)を彫刻しています。
雲というか龍の気の流れというか、一部墨池に掛けて彫刻し、少し手が込んでいます。
墨堂は小さな楕円を残して漆をかけ、紅渓石の色は小さな楕円部分のみに現れています。
硯側は全て石肌を磨いて漆仕上げ、硯背も同様で、外周だけで接するように、
中央にかけて緩やかに彫り下げています。左下に梅羊刀 原印(篆書)の角印。
彫刻は手馴れた感じで、龍の髭の細い線がきりっとしてとても上手ですが、
赤間の雲龍古硯の躍動を見たせいでしょうか、あまり感動はありません。

作者は原口梅羊(本名実五郎)。彼は明治26年上京、宮内省御用師内海羊石に師事、
明治32年延岡に帰郷し、明治前半に途絶えていた紅渓石硯を再興し、初めて本格的な
製硯技術をもたらしました。
彼の名手ぶりは「すずり天神 和硯雑考-7 赤間の硯工」で書いています。

原口梅羊の作品の少しは、ウェブサイトで見ることができます。
  ともさんの焼き物・骨董紀行  下の追記の部分に、長方硯に扇形の墨池と蜘龍が彫ってあります。
  toyopikaのブログ  鳥の形の硯です。

  
Posted by inomatte at 23:08Comments(0)

2015年03月17日

すずり天神 和硯雑考-15 紅渓石硯の歴史

目次(目録・Contents)はこちら。

紅渓石硯の歴史については、名倉 鳳山著『日本の硯』において「北川村史(現北川町)」を引用し、
これが一番詳しい記述になります。
北川村史では「延岡案内」「小林又二郎覚書」「延岡市行幸記念録」の資料が紹介されており、
今回は「延岡案内」「小林又二郎覚書」を紹介します。
なお、北川村は明治22年(1889年)発足、1972年単独町制施行し北川町、2007年延岡市に編入されました。

簡単にまとめると、19世紀中旬に紅渓石の硯材が発見され、明治初期に途切れ、その後明治三十年過ぎに原口梅羊などが復活、現在に続いています。


「北川村史(現北川町)」抜粋

第五項 紅渓石の発展
 本村の八戸(やと)に産する硯石材については、江戸時代に発見されたことを前に述べたが、明治時代以降この硯石は次第に有名となり遂にこの地方の名産となった。その経過について「延岡案内」には次のように記している。
「紅渓硯石、北川村八戸の東北、河原が内の山腹に産出する丹褐色の石を以って製せられてある。七十年前信濃国人徳造なるものの通行の際発見され当時の御役所から硯材として大阪に輸出され後廃藩後、堀秀実、山崎文次郎其他の手により硯に製作せられて八戸赤石と称えられた。明治十年後奈須助右衛門二三の硯師及数名の職工を督し製硯または硯材として京阪地方に輸出し其販路漸く拡まらんとする際偶々明治十五年の大火に助右衛門氏其災に遇い廃業の已むなきに至り其後は同氏督下の硯師の手によって僅に製出されつつあった。今は堀可亭山、原口梅羊、崎川昌政の諸氏、傑出の作が鐘重されて居るが近来延岡分監に於いて盛んに製作し聊か産額を増し其の声価を挙げつつある石質は対馬若田石と甲乙なき良材で今日では寧ろ紫雲石=赤間ヶ石=を凌ぐとまで称えられて居る先に内藤家から今上陛下に献納し御嘉納を賜るの光栄に浴したり。」

 これによると、最初に発見した者は信濃国の人で徳造なる者であり、その後堀秀実、山崎文次郎その他の人々が硯に製し始めたが、明治十年の後は延岡の松屋奈須助右衛門が硯師や職工を入れて硯に製し又は硯材として京阪地方に売り出し、その後堀可亭山、原口梅羊、崎川昌文などが盛んに作り出したというわけである。

また小林又二郎の覚書によれば、
「八戸石硯材に適す。日向国東臼杵郡北川村大字川内名村字八戸門ゲンサイキ山ベンジが谷に産す仝所は熊田駅を距る二里十町余小瀑布あり。該石渓間に露出す渓谷数百間処として此石あらさるなし。其来歴馮拠すべき記録なし。天保十年頃延岡藩士河原新蔵なるものの初めて此石を以て硯を彫り名して紅渓石と云う。其沢色に法り謂うか或は曰く信濃人徳造なるもの此石の渓間に露出するを見て硯に適材なる事を認む。之れ天保八九年の頃なりという。其の後藩にて採掘したる事もあり。又鹿児島属白野夏雲(著者注=『地質要報二号』「硯材誌」の著者)をして来採らしむ。今や世に好評を博するに至りて倍々此の業に十時するを見るに至れり。」
とある。すなわちこれによれば、信濃の人徳造が石を発見したのが天保八九年ごろで、天保十年に延岡藩士河原新蔵がこの石で初めて硯を作ったことになる。前に引用した諸書にこの石の出る所を「河原ヶ谷」とか「河原ヶ谷」などと呼んでいるのは、河原新蔵より出たものと思われる。このことは附近に清蔵ヶ谷などという地名があるのと対照すべきである。


写真は二代目 羊堂作(相馬 羊堂の初代) 瓜型硯 長さ19cm
紅渓石-瓜型硯
紅渓石-瓜型硯-2



  
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2015年02月17日

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−9 紅渓石硯

すずり天神蔵硯録(硯譜) 和硯の部−9 紅渓石硯

宮崎県延岡 紅渓石硯 荷様硯 日州紅渓石銘
 硯のサイズ:13.9×9.7×1.8cm 641g

すずり天神です。
私の収蔵する硯の中から、和硯を紹介中です。
写真につきましては色合わせが困難で、若干実物と異なります。ご容赦ください。


目次(目録・Contents)はこちら。

Koukei-Kyou-1

Koukei-Kyou-2

Koukei-Kyou-3

Koukei-Kyou-4


九州宮崎県延岡の紅渓石の古硯です。

長方形の硯材に、中央に卵形の墨堂墨池を彫刻し、墨池には傷や剥離があります。
墨池の周囲には蓮の葉や実と蛙を、墨堂の周囲に花と蔓を薄彫りしています。
彫刻は窮屈な彫りですが、うまいですね。
硯背硯側には墨汚れ、硯背は一段彫り下げて、左下に「日州紅渓石」の彫があります。

紅渓石の歴史は、四代目名倉 鳳山の名著「日本の硯」で北川村史を引用しており、一番詳しい情報です。
この内容は次の稿で引用させていただくとして、簡単にまとめると次のとおりです。

「紅渓石は江戸後期の天保八-九年に信濃の人徳造により発見され、天保十年延岡藩士
河原新蔵が硯を作ったそうです。硯材として大阪に輸出され、後廃藩後堀秀実、山崎文次郎
其他が製作。明治十年からは奈須助右衛門が二三の硯師及び数名の職工を督し製硯または
硯材として京阪に売り出したものの、明治十五年の大火で廃業、廃れていったそうです。
その後宮内省御用師内海羊石の門人、延岡出身の原口梅羊が明治三十二年開業しました。
崎川羊堂、相馬羊堂、二代目相馬羊堂と現在に続いています。
なお原口梅羊の時代には堀可亭山と言う方の名前がでていました。若干名の硯師が居たようです。」

原口梅羊、崎川羊堂、相馬羊堂、二代目相馬羊堂の各氏は硯背に名前を彫っているので、
今回の荷様硯は、原口梅羊の世代(明治後期大正昭和初期)の硯師と推定しています。
なお、「日州紅渓石」と彫った硯は他に見たことがあります。

原口梅羊と崎川羊堂についてはすずり天神 和硯雑考-7 赤間の硯工 (赤間関硯、赤間石硯)で紹介済です。


  
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