再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 
天皇制廃止のもくろみをうち砕くために何をなすべきか    大月短大教授 小山常実 

<正論 平成18年9月号>

 小泉首相の五年余の政権が間もなく終わろうとしている。この二月初旬には、首相の勢いからして女系天皇を認める「皇室典範」改正は必至かと思われた。だが、天佑かと思われた秋篠宮妃殿下御懐妊のニュースにより状況は一変し、「皇室典範」改正への動きは一応収まった。しかし、男子ご誕生でなかった場合には、再び「典範」改正の動きは強まるであろう。

 昨年来、「皇室典範」改正問題を論ずる著書や論文がおびただしく出されている。それらの論稿では、女系天皇を認めるべきか否かという点にもっぱら焦点が当てられている。だが、天皇の存在意義とは何か、という点にまで遡って議論することは余り行われていない。天皇という存在の本質論から「皇室典範」改正問題を論ずれば、論ずべき問題が少なくとも五点存在する。 

●守べき国体の四つのポイント
 

 そもそも、日本国が建国以来、千五百年から二千年にわたって国家として継続性を保ってきたのは何ゆえか。また、戦後六十年間こそ怪しいけれども、一貫して独立国であり続けたのは何ゆえか。島国のため外からの侵略が難しいという地理的要因もあろう。しかし、最大の要因は、天皇を最高の政治的権威とする国体というものを維持し続けてきたことである。

 例えば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による全国統一は、三英雄の実力とともに、天皇という政治的権威の力によって成し遂げられたものである。十六世紀末期から十七世紀初頭に日本全国を統一する政権がなければ、スペインの植民地になっていたかも知れない。また、明治維新は、薩長土肥四藩の実力以上に、天皇という政治的権威の力によって成し遂げられたものである。幕府政権から維新政権への転換が一八七〇年代以降にずれこんでいたならば、確実に日本は西欧か米国の保護国または植民地になっていただろう。日本人は、歴史を学びなおす中で、いかに天皇または国体というものが、日本国家の継続性、独立性を保障してきたか、再認識すべきである。 

 それでは、日本の国体とは何か。国体とは、<日本国家の歴史上、万世一系の天皇が国家最高の地位にあり続け、国家権力の正当性・正統性を保障する最高の権威であり続けたこと>を意味する。その最も重要な第一のポイントは、天皇が国家最高の政治的権威であり続けたことである。最高の政治的権威とは、日本国家の政治権力の正統性・正当性を究極において保障する、あるいは権威付けるものである。 

 すぐれた政治的権威が生まれるためには、さらには政治的権威が幾久しく生き続けるためには、自ら政治権力を行使することはせず、いわば「天意」を受けたと思われる時々の実力者に政治権力を任してしまう方がよい。歴史上、日本の天皇は、「宗教王」から出発したその出自からして、基本的に政治権力を握らず、政治的権威として純化することによって、<天皇を政治に巻き込んではいけない>という国体上の規範が成立してきたのである。

 ついでに言えば、政治的権威と政治的権力の分離とは、西欧流近代民主主義の大きな構成要素である。この分離という点では、日本の天皇制は、世界の最先端を歩んできたことを忘れてはならない。 

 幾久しく生き残ってきたということは、それだけで、政治的権威として優れたものとなる。政治的権威は、古くて揺るぎが無いほど、その機能をより果たすことができるからである。政治的権威が古くて揺るぎが無い存在であるためには、中国のような易姓革命や諸外国のような王朝の交代を否定することが必要であり、易姓革命や王朝交代の否定のためには、万世一系の観念が必要である。 

 戦後の左翼は、平民が皇帝に上りつめることもある中国の易姓革命と易姓革命を理論家した孟子の思想に魅力を感じてきたが、易姓革命の思想がいかに中国の歴史を戦乱の歴史にしてきたか、というマイナス点を見ようとしない。江戸時代までの日本の知識人は、圧倒的な中国思想の影響下にあったわけであるが、易姓革命の思想を否定するという思想的独創性を発揮する。そして、基本的に万世一系が続いたという史実が存在し、その史実を基に万世一系の観念が生まれ且つ生き続けてきたからこそ、日本の歴史は、戦国時代を除けば、概して平和的な様相を呈してきたのである。さらに言えば、万世一系の観念が生き続けていたからこそ天皇という政治的権威が大きく作用し、比較的わずかな犠牲で明治維新をやり遂げることができたのである。

 それゆえ、第二のポイントは、万世一系ということである。当然に、皇位の男系継承は絶対に守らなければならないものとなる。男系か女系かは、本質的な問題ではない。これまで男系でもって万世一系が維持されてきたからこそ、男系継承の維持が絶対命題となるのである。 

 さらに第三のポイントとして、皇室自治主義ということを挙げなければならない。すぐれた政治的権威が成立するためには、政治権力を自ら行使しないというだけでは足りない。政治的権威は、時々の政治権力によってその地位を左右されては、現在及び将来の国民にとって「有り難味のない」、権威を感じられないものになってしまう。また、時々の政治権力は、時に、古来の伝統に対する浅薄な理解から、皇室の在り方を無茶苦茶にする危険性がある。

 それゆえ、最低限、皇位継承のことは、日本歴史に基づきおのずから定められた皇位継承法に基づき、基本的に皇室の定めるところに任せなければならない。そして、時々の政治権力者による皇室に対する圧迫を防ぐために、諸外国のように、或る程度豊かな皇室の世襲私有財産を保障しなければならない。 

 天皇が最高の政治的権威たること、万世一系ということ、皇室自治主義ということ、以上の三点は、日本歴史上戦前まで基本的に守られてきた伝統であり、日本及び日本人が守り続けるべき国体の枢要点である。これは、政治学的観点から、最も優れた政治的権威をどのように成立させるかという観点から考察を続ければ自明の要点である。 

 さらに言えば、天皇は、「宗教王」として出発し、神道の最高祭主、あるいは神道におけるキリスト教のローマ法王と同じような性格を持ち続けてきた。天皇を国家最高の政治的権威として成立させた根源は、神道の最高祭主という性格にある。皇室の祭事を伝承していくこと、何らかの形でその祭事に国家的性格を持たせ続けることは、やはり日本の国体が求めるものといえよう。 

●四つのポイントを規定していた明治憲法・旧皇室典範 

 右に見た四つのポイントは、戦前期には明確に守られていた。「大日本帝国憲法」は、第一条で「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第四条で「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と規定していた。すなわち、戦前においては第一に、天皇が国家最高の政治的権威として、元首として位置づけられていたのである。 

 第一条や第四条の規定を見ると、天皇は自ら政治権力を行使する存在のように見えるが、実は、立法は帝国議会に(第五条)、行政は国務大臣に(第五十五条)、司法は裁判所に(第五十七条)任せていた。しかも、明治憲法に規定されようがされまいが、戦前期には、国体という観念が強力に生き続けており、先ほど述べた<天皇を政治に巻き込んではいけない>という規範が生きていた。したがって、戦前期の天皇も、政治的権威としての性格を基本とし、基本的には政治権力を行使しない存在であった。 

 戦前期においては、第二に、第一条に見られるように、万世一系という規範が明確に存在した。それゆえ、明治憲法第二条は、「皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す」と、男系継承を定めていた。明治憲法からの委任をうけて、旧皇室典範第一条は、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」と規定している。皇室典範では、皇位継承者を男系ばかりか男子に限定していることが注目される。だが、男系継承は憲法と典範の双方で規定され、男子による継承は典範でしか規定されていないことに注目すべきである。つまり、明治国家は、男系継承のことを、男子継承と違って、何としても守らなければならない国体上の規範として捉えていたのである。 

 第三に、戦前期においては皇室自治主義が守られていた。そもそも皇室典範とは、国法であると同時に皇室の家法の性格も有するものである。それゆえ明治憲法は、第二条により、国体上の規範たる男系継承ということを定めたけれども、皇位継承の詳細については皇室典範に委任していた。また、第十七条①では、「摂政を置くは皇室典範の定むる所に依る」として、摂政に関する規定も皇室典範に委任していた。 

 そして、第七十四条①は「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」と規定し、典範改正に、時々の区々たる政治情勢に左右されがちな議会が関与することをしりぞけていた。皇室典範は、明らかに法律より上位の規範であり、明治憲法と同格か否かについては憲法学上の争いがあったが、ともかく明治憲法と一体のものとして、共に日本の憲法の一部を成していた。また、皇位継承を含めて皇室に関する法については皇室が基本的に決定する、という皇室自治主義の建前についても、憲法学説上争いが無かった。 

 この皇室自治主義の考え方から、戦前期には、宮内省は一応国家の機関から分離され、皇室の機関として観念されていた。また皇室自治主義の精神から、皇室典範の改正については、皇族会議と枢密院の議論によって行われることになっていた。旧典範第六十二条は、「将来此の典範の条項を改正し又は増補すべきの必要あるに当ては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」と規定していた。 

 右の皇族会議は、天皇が主宰し、皇族の成年男子にメンバーとして表決権を与えていた。枢密院議長等五名も参加したが、表決権を有していなかった。明らかに、皇族会議は皇室、それも天皇中心の機関であったことに注目されたい。皇族会議は皇位継承以外にも、摂政設置などの事柄を(旧典範十九条)、枢密院とともに議論した。また、皇族の懲戒については皇族会議だけで議論されていた(旧典範五十四条)。さらには、皇室の自立性を保障するために、「世伝御料」等の形で皇室の世襲財産が保障されていた(旧典範第四十五条)。 

 第四に、明確に、旧典範下の天皇は、神道の最高祭主として祭祀大権を有していた。そして、
践祚の際における神器継承や「即位の礼」に続く大嘗祭はもとより(旧典範十、十一条)、皇室祭祀令によって定められた大祭や小祭には、公的意味が付与されていた。 

●国体を毀損した神道指令と「日本国憲法」 

 このように、戦前期までは、日本の国体は維持されてきた。ところが、敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって、国体は大きく毀損することになった。まず、昭和二十年十二月十五日、GHQは神道指令(「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」)を発表し、神道と国家の分離を命令した。その結果、戦後体制の下では、天皇は国家最高の祭主の地位と祭祀大権を失い、皇室が行う祭事は皇室御一家の私事にとどまることになった。 

 もともと天皇という存在は、諸外国のように「軍事王」ではなく、「宗教王」から出発した。それゆえ祭祀大権は、天皇の政治的権威を大きく根拠付けるものであった。GHQは、祭祀大権を奪うことによって天皇の政治的権威を大きく毀損させた上で、翌二十一年二月十三日、自ら憲法改正草案を作成し、日本政府に押し付けた。GHQ案第二条は、「皇位は、世襲のものであり、国会の制定する皇室典範に従って継承される」と規定していた。 

 GHQ案は、皇室典範を単なる普通の法律の地位におとしこめ、戦前の皇室自治主義を真っ向から否定するものであった。日本政府側は、GHQ案を元に「日本国憲法」初案を作成し、いろいろとGHQ案に修正を施そうとする。皇室関係に関してはできるだけ皇室自治主義を形だけでも残そうと考え、GHQ案第二条の「国会の制定する皇室典範」から「国会の制定する」を削った上で、第百六条①で「皇室典範の改正は天皇・・・・議案を国会に提出し法律案と同一の規定に依り其の議決を経べし」と規定する。すなわち、皇室典範は一般の法律と異なり、議員立法は許されず、あくまで天皇が内閣の輔弼により作成した原案に基づき改正しなければならないとしたのである。 

 「日本国憲法」初案をめぐっては、三月四日から五日にかけて、日本政府を代表する者としては佐藤達夫法制局部長ただ一人が、多いときにはGHQ側二十人と徹夜で法律論争をしながら修正案を決めていく。結局、日本側が施していた修正はほとんど否定され、元のGHQ案の内容に戻されてしまう。皇室典範に関しても、初案の第百六条は削除され、第二条に「国会の議決を経たる皇室典範」と明記されることになる。すなわち、皇室典範は、議会が自由に制定・改正できる法律と位置づけられたのである。 

 その後、六月下旬から十月まで帝国議会で憲法改正が審議されるが、議会の審議過程も、政府案作成過程と同じく、GHQによって完全統制されていた。極東委員会とGHQの強制により、七月から八月にかけて、帝国議会は、「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」(「日本国憲法」第八十八条)という規定を決定する。つまり、世襲財産を含めた皇室財産の国有規定が設けられ、財政に関する皇室自治主義も完全に否定されたのである。 

 さらに帝国議会は、極東委員会とGHQの強制によって、「日本国憲法」前文と第一条に「国民主権」を明記することを決定する。すなわち、「日本国憲法」は第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、第二条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定することになる。 

 その結果、「日本国憲法」下では、国民が主権者と規定され、天皇ではなく、国民というものが国家権力の正当性・正統性を保障する存在となった。天皇は、これまでの政治的権威から象徴に性格を一変させることになった。また、「大日本帝国憲法」では、第一条で「万世一系」が、第二条で皇位の男系継承が規定されていたが、「日本国憲法」上では、「万世一系」も皇位の男系継承も記されていないことに注目されたい。「日本国憲法」は、新「皇室典範」という名の法律に、女系を認める自由を認めているのである。 

 右に見てきたように、神道指令と「日本国憲法」は、国体の四ポイントのうち、天皇が最高の政治的権威たること、皇室自治主義、神道の最高祭主たること、という三点を完全に否定し、残る「万世一系」及び男系継承についても、日本国が絶対に維持していかなければならない規範としては認めなかったのである。 


(2-2)へつづく