(1)からのつづき

五、宮沢俊義の評価について

 次に、高見教授は「天皇の神格性が強調された明治憲法体制のもとで、上述の福沢・植木・中江に示された思想を憲法論に組み込み、一九四六年憲法の原理を先取りする立憲国家論を展開したのが、宮沢俊義であた」(279頁)と述べて、昭和3年刊行の『憲法大意』に依拠しながら、宮沢の学説を紹介している。言うまでもないことだが、宮沢俊義といえば、敗戦後の日本の憲法学界では大御所的な立場にあった人物である。その宮沢の戦前の学説について、高見氏解説しているわけだ。



 それによれば、宮沢は、社会関係を、テンニースのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの概念に依拠して、本来社会と目的社会とに類別した。そして、国家を目的社会に分類して、一定の目的・職能・組織を有する結合、事務的・地域的・属人的な限界をもった結合体であるとした。その上で、この国家の目的を「治安及び法の目的並びに文化の目的」に限定し、立憲主義を、国家組織に関する一定の原理を意味するものと解して、それには消極・積極の二つの面があるとした。消極的な側面とは、国民の自由は国家の目的を達成するために必要な限度においてのみ国家権力によって制限することができるということ、逆に言えば、国民は国家権力の支配の及ばない一定の領域を保持しているということであり、この考え方を自由主義と呼ぶ(279―84頁)。この宮沢の説を、高見教授は「戦前の天皇制国家につきまとう神話的色彩を払拭し去った国家観である」(281頁)と高く評価している。



 ここでは単に宮沢の学説だけを、それもある特定の時期だけに焦点をしぼって取り上げ、それを一方では福沢らの思想とつなげ、他方では日本国憲法の原理と関連させて、それを先取りしたものと位置づけている。私はこの論法に納得がいかない。



 学説の内容だけを問題にするのであれば、このような国家観は、宮沢を待つまでもなく、明治37年の段階で、当時穂積八束に反発していた上杉慎吉が『行政法原理』の中で既に述べている(拙著『近代政教関係の基礎的研究』、222―3頁)。ところが、ドイツ留学後に、上杉はそのような国家観を棄てて、プラトン的国家観、神勅主権論に転向してしまった。このような事例を見れば、研究者の苦悩や内外の情勢、倫理性や社会的影響力といったものを考慮しないで学説のみに感心をしぼり、それもある時期の著作だけを取り上げて研究者を評価するというやり方は一面的にすぎよう。



 事実、宮沢にしても、昭和3年に書いた『憲法大意』と昭和17年の『憲法略説』とでは、その主張に随分隔たりがある。やや長文になるが、『憲法略説』において宮沢が国家・天皇について述べている部分を引用してみよう。
「すべて国家が完全な意味における国家であるためには必ず固有な統治体制原理を有するを要する。それはその国家存在の根拠であり、その国家をしてその国家たらしめるところのものである。国家はそれによってその本質的性格を与えられ、独自の個性を身に着ける。かくの如き固有な統治体制原理を欠くときはそこに自主的な国家はあり得ず、ただ他国に従属する国家(非独立国)または単なる国家連合(非国家)があり得るにすぎぬ。
 国家の固有な統治体制原理は不変的なるものでなくてはならぬ。固有な統治体制原理の変更は国家の本質の変更であり、国家そのものの変更であるから、その原理は本質的に不変性をその特色とする。
 大日本帝国は万世一系の天皇永遠に統治し給ふ。これわが肇国以来の統治体制の根本原理であり、これをわが国家における固有且つ不変な統治体制原理とする。それは、いふまでもなく、宏遠なるわが肇国の伝統のうちにおいて発生したものであり、諸諸の古典に伝へられる皇孫降臨の神勅以来、天照大神の神孫この国に君臨し給ひ、長(とこしな)へにわが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が確立し、それがわが統治体制の不動の根底を形成してゐる。」(72-3頁)
「「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(第三条)。この規定はわが国は天皇が神の御裔として、現人神としてこれを統治し給ふとする民族的信念の法律的表現である。神皇正統記の著者が『大日本は神国なり』と書いた所以もここに存する。『憲法義解』はこれに『天皇は天縦惟神至聖にして臣民群類の表に在り。欽仰すべくして干犯すべからず』と註してゐる。その結果として、一方において天皇はその神聖を害する虞れある一切の法令の規定(とりわけ責任に関する規定)の適用の外に立ち給ひ、他方において天皇の神聖を干犯する所為は厳に禁止せられる(刑法73条・74条、出版法26条、新聞紙法42条)」(81頁)



 ここで述べられている議論は、まさしく、戦後、宮沢が言ったところの「神権天皇制」そのものである。昭和3年当時における宮沢の立場が高見氏が述べているようなものだったとすれば、いくら戦争中の昭和17年とはいえ、よくもここまで「変説」できるものだ、それがたとえ強いられたものであったにしても、せめて黙っているくらいのことはできただろう、と言うのが私の率直な感想である。ただし、私は一概に「変説」を否定するものではない。ただし、それが「変節」と区別されるためには、変説の理由とそれに対する本人の倫理的判断とが明確に説明されなければならないと思う。

 今の私には、宮沢の生涯全体を視野に入れた上で彼についての総合的な評価を下す用意はないが、幾つかの点から相当に問題のあった人物ではないかと思っている。

 まず、私の専門である近代政教関係の領域で言えば、宮沢は同じ『憲法略説』の中で、「信教の自由」をきわめて狭く解釈している。
「神社(惟神道)は従来法制上は宗教と区別せられ、宗教団体法(昭和14年法律七十七号)にいわゆる宗教も神社を除いてゐる。しかし、神社も国法上宗教の性質を有すると見るを正当とする。それは古来わが国において国教的地位を占めるものであり、憲法の定める信教の自由の原則もこの伝統の基礎の上に、それと両立する限度においてのみみとめられると解すべきである」(63頁)

 このような“神社は国教であり、それと両立する範囲でしか信教の自由は認められない”などという説は、上杉慎吉でさえ明言しなかったことで、昭和10年以前には決して通説と言えるようなものではなかった(この点については、拙著『近代政教関係の基礎的研究』第三部「天皇主権論者の政教関係論」を参照されたい)。



 ところが、宮沢は、戦後になると、『憲法略説』で述べた自らの説が、あたかも戦前の通説ででもあったかのように、「明治憲法では、天皇が神の子孫として自身神格を有するとされた結果、天皇の祖先を神としてあがめる宗教―すなわち、神社(神ながらの道)―は、単に天皇一家の宗教であるにとどまらず、国の宗教だとされ、ひろく国民にその礼拝が強制された」(宮沢俊義著・芦部信補訂『全訂日本国憲法』日本評論社、44頁)などと書いている。



 近代日本において、必ずしも通説と言えないような学説をあたかも通説であったかのように宣伝したといえば、「神勅主権論」もその一つである。
宮沢は、戦後の著作の中でしばしば、明治憲法は「神権天皇制を根本義」(『憲法Ⅱ』有斐閣、348頁)としたとか、「天皇主権ないし神勅主権が根本建前」(『全訂日本国憲法』44頁)であったとか書いている。しかし、昭和10年以前、すなわち天皇機関説事件以前にはそのような解釈が主流ではなかったことを彼は十分知っていたはずである。それにも関わらず、何故、戦後、帝国憲法について、あのような極論を展開したのだろうか。



 この疑問について考えていた時に、『大日本帝国憲法制定史』の中の次のような一節が頭に浮かんできた。「徳川時代において京都の天朝が、俗権を行使されないでも、精神的文化的には絶大な影響力のあった歴史的事実が、維新後における通俗常識者に知られなくなつたのはなぜか。その一つは維新の功臣を顕彰するために明治以降の史家が、小数の前衛的忠臣が『江戸の将軍あるを知つて天子あるを知らざるが如き時代に卓然として孤忠にはげんだ』といふやうな文学的表現を流行させたことが一つの基礎となつてゐる。その基礎の上に戦後の東京裁判いらい、明治維新後の天皇制に反対する風潮が流行したので、(徳川期の史料に暗く明治以降の史料のみを知る)専門の近代史家のなかに、戦前の忠臣列伝などを逆用して、維新前の天皇の精神的権威を否定する者が続出した」40頁)



 多くの人々が過去の歴史に疎いことにつけ込んで、近代の歴史家が明治の高官たちに阿るために歴史を歪曲し、それをさらに戦後の歴史家が鵜呑みにした結果、誤った歴史理解が継続したと言うのである。近世史研究の深化によって、近世の天皇は無きに等しい存在であったというような歴史観はすでに過去のものとなったが、このような記述に刺激されて、私は今のところ次のように推測している。



 宮沢が戦後に「帝国憲法は神勅主権の憲法であり、神社は国教とされ、信教の自由はそれと両立する範囲でしか認められなかった」との解釈の普及に努めたのは、それを戦前の通説に見せかけることによって、実は『憲法略説』において自らが展開した極論をカモフラージュするためではなかったか。さらに言えば、彼が唱えた「八月革命説」も、帝国憲法から日本国憲法への転換を合理的に説明するためというよりも、『憲法略説』における自らの主張を放棄する理由を「合理的(合利的?)」に説明するためのものではなかったか、と。



 以上のような私の考えについて、「天皇機関説問題」の渦中で美濃部が命まで狙われたことを考えれば、昭和17年当時の著作を取り上げて非難するのは、宮沢に対して酷にすぎると思われる読者もおられるかもしれない。私自身、そのような躊躇がないわけではないが、しかし、やはり、国家危急の時には学者といえども体をはって正義を貫く覚悟が必要で、そうでなければ、いくら平時にりっぱな学説を展開しても意味がない、と思う。そして、何よりも、そのような戦前の学者に対する厳しい見方は、宮沢自身が書いている事なのである。



 宮沢は自身の『天皇機関説問題(下)』(有斐閣、昭和45年)において、「天皇機関説問題」を論じ終えた後に、「今、この事件をふり返る人は、そこで表明された気ちがいじみた機関説排撃ぶりと、政府や政党の指導者たちのいくじのなさにおどろくに違いない。さらに、学界や言論界の抵抗があまりに弱かったのをふしぎに思うかもしれない」と述べている。そして、その原因について、次のような批判を書いているのである
「これは、一方において、軍という『実力』の支配者が推進するファシズム勢力が、反対論はもちろん、いっさいの批判を沈黙させるほど強力だったことを意味すると同時に、他方において、『自由』への愛着が、当時の日本社会ではそれほど根強いものではなかったことを意味するのであろうか」



 まるで、他人事のようなこの書きぶりには違和感を覚えざるをえないが、それはともかく、宮沢自身が、「自由」への愛着が足りなかったと批判している当時の日本社会の一員だったのであり、しかも、その「自由」を守るべき主要な立場にいた人物だったことだけは間違いない。

六、若干のプロパガンダについて

 高見教授は、現在でも「天皇ないし天皇制に対する批判が『完全に自由』でない」(286頁)と述べ、その根拠を二つ挙げている。その一つは「天皇裕仁の戦争責任について公言した長崎市長が右翼に狙撃され重傷を負った一事」(286頁)である。このような自分の意に添わない考え方を極端な出来事と結びつけて貶めるというやり方は、プロパガンダにおける常套手段ではある。しかし、それを、学術論文において採用するというのはいかがなものか。



 さらに、「そのことは、ほかならぬ樋口が書いた天皇制論の抜粋等を1994年の入学試験問題に使用した島根大学が、右翼・神社関係者・自民党代議士の一部から、受験生を『反天皇制へと誘導する偏向問題』であるとして攻撃されたことからも明らかである」(286頁)という第二の根拠にいたっては、唖然とせざるを得ない。まさか、「右翼・神社関係者・自民党代議士の一部」には他人の言論を批判する自由はない、との主張ではなかろうから、ここで言いたいのは、天皇制度に対する批判を「批判したこと」が問題だということだろう。これは「天皇ないし天皇制に対する批判は完全に自由であるべき」だが、「天皇制を批判する人々が批判されてはならない」との主張と見る他はない。ここから私は、かつてソ連憲法に盛られ、当局による宗教弾圧を正当化した「反宗教宣伝の自由」なる条文を思い出した。

(略)