1.何が私たちを決めるのか
 私たちには、命に代えても守らなければならないものがあります。それは私たちの祖先から子孫へ、営々と築かれてきた絆ともいうべきものです。そしてこれこそが、私たちがどこから来て、どこへいくのか、そして私たちとはいったい何なのか-という答えを導き出すものです。これを國體と呼びます
 
教育勅語
 親を敬い、大切にし、兄弟は仲良くしましょう。
 夫婦は仲むつまじく、友は互いに信じ合いましょう。
 謙虚に、つつましさを忘れず、すべての人を等しく愛しましょう。
 よく学び、よく働き、そうして得た知識と人徳をさらに高め、才能を伸ばしましょう。そしてそれを広く、世の中の人々や社会のために尽くしていきましょう。
 常に憲法を重んじ、法律や規則を守り、私たちの国に危機が迫ったときは、正義にかなった勇気を奮い起こし、この国の永遠の繁栄ために力を尽くしましょう。
 これらのことは、単に善良な国民として生きる、ということだけでなく、祖先たちがこれまで営々として築き上げ、遺してきた美風を称え、さらに確かなものにしていくことに繋がることです。

 子どもへの虐待、家庭内暴力、相次ぐ殺人。汗を流し、泥にまみれて働くことを忌み嫌い、見栄に満ちた生活ばかりに人々の憧れが集まる。地球や自然の営みの中で、人は生かされていることを忘れ、法に触れなければ何をやってもいいという思い上がり。自分たちの住む国や社会に背を向ける無責任さ。
 いまの異常な世の中をすべて言い当てていることに気づきます。
 この教えは、いまから百十五年前の明治二十二年、時の天皇、明治天皇が「教育二関スル勅語」(教育の基本的な考えについての天皇のお青葉)として世に知らしめられたものです。
 その書き出しは、こうはじまっています。
「思うに、私たちの祖先が遠い昔、遠大な理想のもとに、人として理にかない、人として進むべき道の実現を目指して、この国をお造りになられました。また国民は、国を想い、家族を守り、心を一つにして、その理想に向けてよく努力し、わが国の伝統となる美風を築き上げてきました。今日ある日本の優れたお国柄は、この理想と努力の賜物であり、教育の根本もまた、ここにあります」
 そして最後に
「この美風は、明らかに私たちのご先祖がお遺しになり、受け継がれてきた教えであって、その子孫にあたる私たちも、ともに守って行かねばならないところです。
 この教えは、今も昔も、さらにこの先もずっと、いつの時代においても間違いのないものであり、世界に通じるものです。
 私もまた、国民とともにこの祖先の教えを胸に抱いて、立派な日本人となることを願っています」
と結ばれています。
では、これを原文で見てみましょう。(文中/は筆者による)
 
朕惟(ちんおも)フニ()皇祖皇宗國(こうそこうそうくに)(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)(とく)()ツルコト深厚(しんこう)ナリ/()臣民(しんみん)()(ちゅう)()(こう)億兆心(おくちょうこころ)(いつ)ニシテ世々厥(よよそ)()()セルハ()()國體(こくたい)精華(せいか)ニシテ教育(きょういく)淵源(えんげん)亦實(またじつ)()(そん)ス/爾臣民父母(なんじしんみんふぼ)(こう)兄弟(けいてい)(ゆう)夫婦相和(ふうふあいわ)朋友相信(ほうゆうあいしん)恭儉己(きょうけんおのれ)レヲ()(はく)愛衆(あいしゅう)(およ)ホシ(がく)(おさ)(ぎょう)(なら)(もっ)智能(ちのう)啓發(けいはつ)徳器(とっき)成就(じょうじゅ)(すすん)公益(こうえき)(ひろ)世務(せいむ)(ひら)(つね)國憲(こっけん)(おもん)國法(こくほう)(したが)一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公(ぎゆうこう)(ほう)(もっ)天壤無窮(てんじょうむきゅう)皇運(こううん)扶翼(ふよく)スヘシ/(かく)(ごと)キハ(ひと)(ちん)忠良(ちゅうりょう)臣民(しんみん)タルノミナラス/又以(またもっ)(なんじ)祖先(そせん)遺風(いふう)顯彰(けんしょう)スルニ()ラン
()(みち)(じつ)()皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)遺訓(いくん)ニシテ子孫(しそん)臣民(しんみん)(とも)遵守(じゅんしゅ)スヘキ(ところ)(これ)古今(ここん)(つう)シテ(あやま)ラス/(これ)中外(ちゅうがい)(ほどこ)シテ(もと)ラス/朕爾(ちんなんじ)臣民(しんみん)(とも)拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸其徳(みなそのとく)(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)
明治二十三年十月三十日 御名  御璽

命に代えても守るもの
 いま学校では、人権教育、平和教育の名のもと、「命より大切なものはありません」と教えています。
 しかしほんとうにそうなのでしょうか。
 平和や人権が叫ばれるわりには、学校の荒廃や教室の崩壊は着実に進み、殺人にまで至るいじめが後を絶たないのはなぜでしょう。
 それは「命の大切さ」だけを教え続けることに原因があります。
 つまり、個人がもつ命より大切なものがあることを教えないからです。
 かつて「人命は地球よりも重い」といって、テロに屈し、超法規的措置として刑務所にいる犯罪者を釈放したことがありました。この言葉の中で「重い」は「尊い」という意味で使われたはずです。しかし「人命は地球よりも尊い」となると、これは間違いです。なぜなら自分たちが住む場所が危機に瀕すれば、個々の人命どころではないからです。言い換えれば、個々がもつ命(私)は、全体の命(公)を超えることはありません。
 もし個々の命が絶対的な価値をもっているのなら、現に死刑制度が存在し、自殺未遂が罰せられないといった現実に、説明がつきません。
 動物の世界でも、親は子を救うために自らの身体や、命までも差し出すことがあるように、個々の命を滅ぼしてまで守るべき価値があります。
 いまこそ「命より大切なものはない」ではなく、「命より大切なものがある」と教えなければなりません。人はそれぞれ社会や国家、そして地球という星に属しています。ですから自分が身をゆだねているところに危機が迫れば、それを守るために誰かが犠牲になることがある。そしてそれは自分であるかも知れない-と。
 自分を育み、そしてこれから子孫を守り続ける家族や郷土、祖国や地球を守るために、必要とあれば自らの命も差し出す情念と誇りこそ、「真の命」であることを教えなければなりません。
 守るべきものは、自分が身を置く共同体のすべての命、つまり総命(すめらみこと)なのです。
「命は義によりて軽し」とか「命は鴻毛より軽し」といった言葉は、大義のために捨てられる命の尊さを教えたものです。
 教育勅語にある「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」は、まさにこのことを説いています。

神話が語る地球の創造
 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱(ふたり)の神が、天津神(アマツカミ)に「修理個成」(創り、固め、成せ=人間世界を完成させなさい)の命を受けました。
 二柱の神は天の浮橋に立って、天津神から授かった天の沼矛(アメノヌマホコ)を指し下ろし、掻き回して引き上げました。すると矛の先からしずくが滴り、それが固まって島となりました。これを淤能碁呂島(オノコロジマ)といいます。
 二柱の神がその島に降り立ってみると、天の御柱(アメノミハシラ=柱)と八尋殿(ヤヒロドノ=御殿)がありました。
 二柱の神は、その柱の周りを巡って国造りをしようと話し合い、以後、たくさんの国々が生まれていったのです。
 奈良時代に書かれた古事記の一節です。
 さて、この淤能碁呂島(オノコロジマ)ですが、実際のところ、どの島を指すのかわからないとされています。
 しかしこの島の名前は、どうも日本だけにとどまらず、壮大な地球や生命そのものをイメージさせる示唆に富んでいます。「オノ」は「ひとりでに」とか「自ずと」という意味の大和言葉です。また「コロ(ゴロ)」は物が転がるときの音。そして「シマ」は島宇宙、すなわち星のことです。
 おわかりでしょうか。このオノコロジマは、自ら回転している星=地球を言い表しています。そして地球という生命体の創造の中で、天の御柱を廻る二柱の姿は、DNAの二重螺旋(らせん)構造を暗示させます。つまり、惑星運動も原子運動も、大きさこそ違いますが、ともに何かの周りをぐるぐると廻っているという共通点があるように、宇宙のフラクタル構造やスパイラル(螺旋)構造を意味しています。
 そうして二柱の神が創った地球から生まれた国々。そしてその中の日本。
 これこそがわが国に伝統的に伝わる「雛形」のことです。
 私たち人間の身体を、ひとつのモノとしてみるとき、祖先から子や孫へと受け継いで行く“DNAを運ぶ船”にたとえることができます。つまり命の橋渡しをするための存在です。
 個々のハチやアリは、それぞれが受け継いだDNAをもっています。しかしそれだけではなく、女王バチや女王アリをも含めた彼らの社会全体にも、同じくDNAがあると考えなければ、その統一された行動にみる社会のありようは説明できません。
 これは人の社会や国家についても同じことが言えます。ハチやアリの社会は、人間であれば民族社会や民族国家にあたります。ひとりひとりが、それぞれ受け継いだDNAをもつということは、その人が生まれ育った社会や国家にも同じくDNAが存在するはずです。そしてそのDNAがなくなれば、もはやハチやアリはそれ自身として生きていけなくなります。
 このように、これを失えば人でなくなるもの、社会でなくなるもの、国家でなくなるもの、地球でなくなるもの。そういう社会や国家、そして地球のDNAが何であるかを探し求める学問-これが國體学です。

國體のはじまり
 さて、これから國體という言葉について説明していきます。
 國體とは「国の体質」、つまり文字通り「お国柄」を意味しています。
 はじまりは、江戸時代前期、契沖(けいちゅう)という学者による萬葉集の研究でした。
 萬葉集は、それまでの大和言葉(やまとことのは)が、漢字ばかりで綴られていた(宣命書き)のに対し、いま使われている日本独自の「かな文字」の元となる「万葉かな」で書かれたものとして、大きな意義をもっています。
 また、その歌集には、天皇から防人、農民まで広い範囲の人々が作品を寄せ、身分にかかわらず、作品自身の良し悪しで評価したものということでも画期的なことでした。
 この研究は、後に荷田春満(かだのあずままろ)や賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)といった国学四大人と称される国学者たちに大きな影響を与えました。
 賀茂真淵はその研究から「明るく清く直き」古代の精神に帰ろうと訴え、また平田篤胤は明治維新、尊皇攘夷(外国の勢力を撃ち払い、天皇を中心とした国を造る)という考え方の支柱となった人です。
 このように、国学は単に古典の研究にとどまらず、そこから日本固有の古代精神と文化、伝統への研究と広がりました。
 そしてさらに、「先人が遺してくれた伝統からみて、いまを生きる者はこうあるべきだ」という実践の学問へと移り変わっていきました。
 國體は、その間、明治維新を経て今日までずっと「日本固有の古代精神と歴史的文化伝統から生み出され、変わることのない真理」として、国学の中心的な考え方となったものです。

國體の悲劇
 しかし國體は、明治以降、近代史の中で、政治的に利用されたり、ゆがめられたりして、多くの人に誤解されたまま今日に至る-といった不幸な運命をたどりました。
 その原因は、さきほど述べた「先人が遺してくれた伝統」と「だからいま生きる者はこうあるべき」という二者のバランスが壊されたことにありました。
 つまり、もともと存在しなかった伝統をもち出したり、伝統から導き出される「あるべき姿」に無理があったのです。
 その典型的な例が、戦前、強い権力をつくり上げた軍部と内務省でした。
 二千六百年を超える日本の歴史の中で、天皇自ら、直接、権力をもって政治に携わることはごく稀なことでした。つまり「君臨すれども統治せず」の伝統です。
 しかし軍部や内務省は、自分たちの権力をより強いものとするために、「天皇が直接政治に携わる」(天皇親政)といった、これまで日本の伝統にはあまりなかったものをもち出し、これを國體にすり替えようとしたのです。
 さらに天皇親政の名のもとに、天皇を排除し、自分たちの権力をほしいままにしたのでした。
 戦後においても、この禍は続きます。占領政策の中で、「國體=天皇制=日本を戦争に導いた悪い存在」という誤解から、長い間、抜け出ることはできませんでした。
 こうして國體の研究は不幸な時代を過ごすことになりました。









國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか