2.生きている者だけの天国
現行憲法の柱のひとつである国民主権。「一切の制約を受けず、絶対誤らないもの」として無批判に“直輸入”されたこの怪物を、いま私たちは持て余しています。誰もこれをとめることはできません。なぜならこの怪物は、私たち自身だからです。唯一、この怪物に「待った」をかけることができるのは國體でしかありません。
国民主権とは
主権とは、国の最高の意思、国の政治のあり方を最終的に決める権力という意味です。要するに、国にとっていちばん重要なことを誰が決めるか-ということです。
昔、イギリスなどヨーロッパでは、国王(君主)がすべてを決めていました。つまり君主主権です。それは、法律をつくることから(立法権)、税金を取り立て、どう使うかということ(行政権)まで、国の政治全般に及んでいました。
もちろん国王が、税金を誰からいくら、どのように納めさせるか(課税権)を決めるのですが、それが厳しく、国民が生活にあえぐ時代もありました。
そして、そのようなきつい課税に不満を抱いた国民は、国王のもつ力を長い年月をかけて少しずつ制限し、主権を自分たちのものへと奪い取っていったという歴史があります。(抗議的概念)
君主から国民へ-。これが国民主権の始まりです。
君主が絶対的な力をもっていた時代は、国王の権力は神から授かったもの(王権神授説)として、その拠り所としていました。
ところが、時代を経るにしたがって、そのようなことは意織されず、単に「王権vs民権」といった図式になりました。
やがて、民権が王権にとって変わる時代が来るのですが、そのとき、王権神授説のように、民権にも「民権神授説」があってもおかしくなかったはずですが、ついにこのような考え方は現われませんでした。
人権については、ルソーなどの啓蒙思想家が「すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利を天から授かっている」(天賦人権説)と、主張をしています。
しかし、民権や国民主権は、「神をも恐れないもの」として登場したのです。
つまり、国民主権には一切の制約もなく(主権の絶対性)、どのような行使も絶対に誤りとされない(主権の無謬性)としてみられるようになりました。
王権対民権-。主権という考え方は、このように権力を中心に組み立てられたものでした。
しかしそれは、あくまでも西洋や中国でのことであって、民権による王権の制限や剥奪といったような歴史をもたないわが国には、当てはまらないものでした。また何よりも、日本には、抗議的概念が生まれるような歴史的背景はなかったのです。
ところが西洋コンプレックスというか、西高東低文化論というか、日本固有のものさしを認めようとしないエセ学者が、無批判にこの主権という考え方を‘‘直輸入”して、日本社会を解明しようとしたことが悲劇のはじまりです。
畏れを知らぬ国民主権
その‘‘直輸入”ではこうなっています。
法律学の世界で主権を担うものは、自然人(人間)か法人(たとえば国家や会社など)でなければ意味をもち得ません。ましてや民族とか言語、文化など、人でも法人でもないものには法律的価値が認められないのです。
つまり主権は、現にいま生きている人間か、あるいは、現にいまある法人を中心に考えなければならないのです。そこに、すでに亡くなってしまった祖先や、これから生まれて来る子どもは含まれません。
そのため「親は身を捨ててまで子を救う」といった道徳感や倫理観は、法律の世界では語られなくなってしまいました。
生きている者だけの天国をつくろうとしたのです。そしてそれには一切の制約もなく、絶対誤りとはされないのです。
これを具体的に言うとこうなります。
「死んだ者や、これから生まれてくる者に対して、何ら遠慮することはない。我々は国民主権を『何ものにも拘束されないもの』として勝ち得たのだ。神ですら排除したのだ。国民主権は絶対なのだ。
だから景気をよくするために、将来にツケをまわす赤字国債を発行できる。いまさえよかったらいいのだ。将来、子どもや孫が借金にあえぐことなど知ったことではない。
子孫のために我慢して借金を減らしたり、不自由な暮らしを訴えるような政治家は落選するし、そんな道徳めいたことを言って、いまを生きる我々に贅沢をさせないのは、人権侵害の危険思想だ。
我々の時代で散財し、借金を子孫に負担させることも親の権利として、また主権者として当然のことだ。祖先を冒涜することもできる。死人に口なしだ」
主権は絶対であり、誰も決して侵すことができない-。これを神聖不可侵といいます。天皇であろうが、国民であろうが、一度、この神聖不可侵な主権を認めてしまうと、もはや誰にもその乱用を止めることはできません。
しかし、生きている者だけで、あるいは選挙権のある者だけで、過去から現在、そして将来へと営々と営み、そしてこれからも営むであろう暮らしを勝手に変えたり、なくしたり、断絶したり、一方的に決めてしまったりできるものでしょうか。文化も言語も、生きている者だけの判断で取捨選択できるものでしょうか。莫大な借金をつくって、そのツケをすべて、子孫に負担させることを決めることが許されるのでしょうか。
ところが国民主権の立場であれば、いずれも一切の制限なしに、これらを肯定する権限を国民に与えることになってしまうのです。
こんなことは心ある人から言わせれば、‘‘人非人’’(ひとでなし)の考え方であり、このようなものに普遍性など見出すことはできません。
国民主権から國體主権へ
帝国憲法は天皇主権だという見解がありますが、これは誤っています。
なぜなら、帝国憲法には“主権’’という言葉は用いられてないからです。
それどころか告文には「朕力祖宗二承クルノ大権二依」とあり、また勅語にも「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ」とあるように、大御稜威(おおみいつ=天皇の権威)が皇祖皇宗に由来する旨が書かれてあり、主権者が明治天皇やその時々の天皇を言おうとしているわけではないことが窺い知れます。
これまで述べたように、主権は日本で用いる必要も可能性もありませんが、あえて主権という言葉を用いるなら「國體主権」というべきでしょう。
帝国憲法のもとでも主権の帰属についての論争がありました。そのひとつが天皇機関説です。(後述)
国家を法人とし、天皇を機関と位置づけたこの学説の根本的な誤りは、生きている人間、それも選挙権をもっている者だけの国家を考えたことです。
国家とは、いま構成している者のみならず、文化、伝統なども含めたすべてのものであることが認識されなければなりません。
天皇機関説は国家を法人と見なしますから、法人の最高決定機関ですべてが決められます。これが株式会社であれば、株主総会で決定するという論法は正しいかも知れませんが、これを国家に当てはめることに無理があります。
会社の場合であっても、創業の精神というものがあります。それが定款(憲法)に書かれていなくても、ほんとうはこれが会社の社会的使命にとって重要な意味を持っているのです。しかし現在の会社法の解釈では、この創業の精神は無視されます。
はたしてこれでいいのでしょうか。
他の例で言えば、学校であれば建学の精神であり、軍隊であれば建軍の精神です。
このような中心的指針を、最高規範と認識できず、これを定款の必要的記載事項としない現在の法律学には根本的な欠陥があるといえます。
ましてや国家の場合はなおさらです。
文化、伝統、それに祖先の意思などを無視し、生きている者だけで何でも決められるという倣慢さを追求する国民主権で、国を治めていくことはできるのでしょうか。
国民という“放蕩息子”のわがままで、赤ちやんからお年寄りまで全国民、ひとりあたりの借金が七百万円にものぼるなど、財政的に大きな矛盾に直面している現状からも、この放蕩息子が自分のわがままを自覚して、自制できるのか-という国民主権の本質的な問題にぶち当たっています。
一日でも早く、国民主権思想から脱却し、國體主権への進化が求められています。
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
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