3.命と人権を超えるもの
 
 現代人権論は、個人の命と人権を越える価値を認めません。人権は家族に優先し、国や社会、そして地球環境にも優先するのです。私たちはこれを認めません。ならば家族は誰が守り、国は誰が支え、地球は誰が救うのでしょうか。本末転倒の人権論の正体を暴きます。


国家は悪か
 現行憲法は、国民主権とともに、人権論と個人主義を柱に据えています。
 そしてこれを「国家権力と対立するもの」として位置づけています。
 つまり人権は“正義の味方”。そしてこの“正義の味方”の行く手を阻むのが国家という“悪者”なのです。
 現代人権論は、「国家論なき憲法学」の最たるものです。
 現代人権論が形づくられたのは、フランス革命以後のことです。
 ルイ十四世以降、フランスでは絶対王政のもと、農民は苦しめられ、商工業者も自由な活動を奪われ、人々の不満は高まっていきました。そこに財政難や啓蒙思想、アメリカ独立などさまざまな要因が重なり、市民による革命で絶対王政を倒し、自由、平等、博愛を唱えた近代市民社会を創り上げた-というものです。
 現代人権論は、おおむねこのフランス革命を肯定的に評価しています。
 しかし、その自由、平等、博愛(友愛)という理念は、実は相互に矛盾したものです。なぜなら、自由競争の果てに不平等(格差)が生まれ、また自由競争と博愛は対立するものなのですから。
 現実の社会では、自由と統制、平等と格差(差別)、博愛と闘争という二つの相反するものの中で、バランスをとって生きています。これらの調和点は、公正であり、和であり、そして太極(対立するすべてのものが、つり合いがとれてひとつとなること。本来はすべてのものの源、根元の意)といったものに求められなければなりません。
 ところが現代人権論では、この矛盾を矛盾として認めようとはしません。
 フランス革命は、限りない無意味な殺戮と抗争を繰り返し、王制打倒を目指したはずでしたが、皮肉にもナポレオンによる王制復活で終わりました。
 このことを踏まえて、その原因が何であったかをみれば、おそらくフランス革命に対して、そして人権論に対して、否定的な結論が導かれるはずです。
 私たちはフランス革命から、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という格言の神髄を学び取ることができます。
 また、王権対民権の主権論、国家対人民の人権論などにみるように、二極対立の一方だけを悪とし、もう一方を善とする考えを、極端なまでに突き進めた結果の悲劇をみることができます。
「国家は人権を侵害するもので、その存在自体が悪である」とする考え方を単純に捉えれば、そのうち「それなら政府なんていらない、国家なんて危険だ」といった無政府主義を認めることになってしまいます。
 現代人権論には、こんな単純な考え方が引き継がれているのです。


内在制約説の矛盾

 たとえばそれは、公共の福祉論に現われます。 
「区画整理をして、地震が起こっても安全な町を造りたい。だからあなたの家の庭の一部を使って、道路を広げるのに使いたい」
 自分の家の庭が少し狭くなることと、みんなが安全に暮らせるようになること。素朴に考えれば、公共の福祉とは個人を超えた価値を示すように思われます。
 しかし現代人権論はこのようには考えません。個人の人権や命を超える価値を認めようとしないからです。個人の人権を制約した上での社会の利益とか、国家の利益を認めません。
 もしそれを認めれば、「反人権」ということになってしまいます。
 現代人権論によると、「公共の福祉」とは、個人の人権と人権がぶつかったときの「調整原理」を意味するのだそうです。つまり、こちらの人権を重視すれば、別の人権を軽視するようになってしまうこともある。そこで、この矛盾するもの同士をうまく立てていこうとする考えです。これを内在的制約説といいます。
 どうして人権が自己規制されるのか-。
 この考えは、人権を超える価値を認めたくないからです。
 人権を制約できるのは、人権と人権がぶつかったときの相手方の人権。そして公共の福祉とはこの調整原理。
 しかし、これにはいろいろな疑問がわいてきます。どうして人権は他の人権によって制約されるのか。その根拠は何なのか。人権に優先順位を決めるようなことができるのだろうか。ある人の人権によって別の人の人権が制約されるのであれば、現代人権論がいう対立とは、「国は人権を阻害する」といった国家対人民という二極対立だけでなく、人権をもつ第三の人も含めた多極対立ということになるのではないか-。
 そしてこの説では解決できない重要なことが、次々とでてきます。


現代人権論の行き詰まり
 現代人権論では、個人の人権を侵すものとして国家を否定しますから、領土も国籍もなくなります。
 つまり、彼らにとって一番重要なことは、領土や国籍が奪われるような事態ではなく、「そこで暮らす人々の人権が侵害されるかどうか」です。
 しかし、ならば人権が侵害されたとき、誰がその人を守り、誰が救うのかという問いには答えられません。
 さらに説明できない決定的なことがあります。
 それは環境破壊に対する規制です。人の営みは、多かれ少なかれ自然環境を破壊して行われます。それは生産者であろうと、消費者であろうと同じことです。
 しかしその営みこそ、人権の行使というべきものです。したがって、人間には自然環境を破壊することが、ある程度、認められる権利をもっていると考えられます。
 たとえ話をしましょう。
 ここに十人の人がいて、その人たちの前に水の入ったコップが並んでいます。十人の人たちには、それぞれコップの中に、ほんの少しだけ、毒を入れる権利があります。ひとりひとりが入れる毒の量は致死量には至りませんが、十人分を一度に飲むと死んでしまう量です。そしてある人が、この水をすべて飲み干すことになりました。十人がそれぞれ毒を入れることは許されますが、これを飲み干した人は確実に死んでしまうのです。
 さて、もうおわかりでしょうか。ここでこの十杯の水を飲み干す人とは地球です。そして毒を入れた人々とは私たちのことです。
 これが、人権を超える価値を認めようとしない人権論が抱える矛盾です。
 環境保護団体はよく、環境権ということを主張します。しかし環境権を人権と同じように捉え、その運動が人権論に根ざしている限り、彼らはこの矛盾を超えることはできません。
 ほんとうに地球環境を考えるならば、現代人権論と対決し、新たな「人権制約原理」なるものを示さなければなりません。


ルソー批判
 フランス革命に大きな影響を与えたとされるルソーは、『社会的契約論』という本の中で、家族についてこう述べています。
 「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。ところが、子供たちが父親に結びつけられているのは、自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるやいなや、この自然の結びつきは解ける。子供たちは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子供たちの世話をする義務をまぬがれて、両者ひとしく、再び独立するようになる。もし、彼らが相変らず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志にもとづいてである。だから、家族そのものも約束によってのみ維持されている」(岩波文庫・社会的契約論)
 こんな家族観が果たして許されるでしょうか。否、絶対に許されません。
 どんな環境にあろうと、私たちがこの世に生を受けたということは、その父と母の情愛の下に生まれ、親は子を慈(いつく)しみ、その愛によって子は親を慕い、敬い、その繰り返しが幾重にも積み重ねられて、いまの自分があるのです。これは歴然たる事実です。
 自分が成長したら親の役目はもう終わり-という考えは、まるで獣のようです。否、獣でも親子の情愛はもっと凄まじいものです。
 スイスの時計職人の子どもとして生まれたルソーは、十歳のとき家庭が崩壊し、孤児同然の育ち方をしたといわれています。その後、十六歳でパリに出て社交界でのし上がっていき、愛人の庇護を受けて膨大な量の読書にふけりました。また下宿先のお手伝いと同棲し、五人の子どもをつくったものの、その子どもたち五人とも孤児院の戸口に捨て、ひとりとして自分で育てなかったといいます。
 ルソーの家族観は、このような彼の特異な生き方に由来しているものなのかとも思います。
 しかし、彼が語っていることの恐ろしさに、さしたる深い認識もなく、ルソーの著書が教育の場で当たり前のように読まれていることは、遺憾なことと言わざるを得ません。
 私たちは彼の家族観、個人主義に、断固敵対していかなければなりません。


家族と人権、どちらが普遍か
 ルソーのシンパ、フランス革命擁護者、すなわち現代人権論は、個人の人権と命を超える価値を認めません。そしてこの人権論を基本として、個人の尊厳を重視することを個人主義といいます。
 さて、人間の一生を考えてみると、人が完全な形で人権を使える時期は限られています。
 若く、心身ともに健康であった時期には、自由と権利の行使には何の制約もなかったけれど、保護を必要とする子どもや病気になったとき、あるいは年をとって介護を必要とするようになると、そこには自ずと制約と限界がでてきます。
 これは、限りある命と肉体をもつ人間の宿命です。
 このことは、個人の自由と人権が、法律によって語られるような性質のものではないことを意味しています。
 しかし人権論では、すべての人が、同じ人権をもっていなければなりません。そこに制約や優劣があったら説明がつかないからです。
 つまり現代人権論は、世の中には、すべての人が何の不自由もなく、自由と権利を行使できる人ばかりがいる-という架空の前提に立たなければならないことになります。
 そしてすべての人が等しく同じだけの権利をもつということは、子どもの養育も年老いた親の介護も、すべてが契約関係でもない限り、できなくなってしまいます。
 それだけでなく、人権については、親子や兄弟もなく、他人とまったく同じレベルで語られることになります。
 このようなものに絶対性も普遍性も見出すことはできません。
 一方、家族というものは、共同社会の中でもっとも安定したものです。
 人は普通、家族の中で生まれ育ち、ともに生活をしながら家族の中で死んでいくものです。そんな家族の営みは、古今東西、時代と通じて普遍性があります。
 家族のひとりひとりは、それぞれ能力は違っても、互いに補いながら協同して家族全体の利益と権利を守り、育児、扶養、教育、介護など連鎖的生活を営んでいきます。これが家族の自然な姿です。
 法律という学問が権利として認めるものは、このように人として普遍的な営みを肯定することから見出されなければなりませんし、また、その自然な姿を保護していくことが法律の使命でなければなりません。
 個人主義にすれば「家族関係などまったく不合理なものであって、直ちになくさなければならないもの」ということになってしまいます。この論理に対して、「それは利己主義であって個人主義ではない」と反論する人がいますが、やはりそれは詭弁です。
 個人主義は、家族主義に対決するものとして生まれた思想であり、さらに、個人主義を否定的に表現したものが利己主義という言葉です。
 個人の独立した権利を認めるというならば、その時点でやはり家族や親子、そして育児、扶養といった家族の営みは否定されることになります。いわば全人類を意図的に孤児にするように社会を壊し、混乱に導く邪悪、不条理な思想に他なりません。
 社会科学からみた法律学としての立場としては、自然に生まれ来る家族の普遍性から目を離すことなく、家族に自由と権利を訴えていくことが必要だと確信しています。
 また、其の家族のあり方を探し求め、普遍性のある姿へと戻していかなければなりません。

 これからは、個人主義に変わって家族主義が見直される時代が来るでしょう。そして國體論とは、この家族のあり方の本質を対象とし、それが國體を構成する重要な要素として捉えようとするものです。






國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの