4.憲法の向こうにあるもの
憲法にすべてを語ることはできません。また法律がすべてを知っているわけでもありません。ここでは法実証主義の怖さと愚かしさを通して、いまある憲法だけを最高規範とする考えを捨て、もっと根本的なもの、そしてほんとうの意味での憲法とはなにか-、ということを探ります。
憲法の分類
憲法という言葉は、古くは日本書紀に聖徳太子の「憲法十七條」として登場し、また、江戸時代や明治時代の初期にも、「人々に広く知らせる重要な法」という意味で用いられました。
憲法が現在の意味で使われはじめたのは、明治十四年でした。
後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文が、明治天皇の意(勅命)を受けて、憲法調査のためにヨーロッパに赴く前年のことで、勅書(天皇の命令書)とともに渡された訓条三十一項(伊藤に何を調べてこさせるかを書き記したもの)の中で、憲法は英語のCONSTITUTIONを意味する言葉として使われはじめ、以後、その訳語としても定着したのでした。
憲法の定義は一般に、「国家の社会的な組織と構造に関する基本法」とされています。要するに、世界中どこでも、そして太古の昔からいままで、人類すべての社会に普遍的にある社会規範(行動の基準となるもの)のうち、より基本的、根本的となるものです。
これにはいろんな分類の仕方があります。
憲法が国家統治の基本を定めたもの(固有の意味における憲法)か、国王の力を制限する思想に基づいてできているか(近代的意味・立憲主義的意味の憲法)か。文字で書かれているかどうか。(成文法か不成文法か)、また、文字で書かれていて、憲法という名前で呼ばれるもの(形式的意味の憲法)か、あるいは文字によって書かれているかどうかは別として、ある特定の内容をもった法(実質的意味の憲法)か。
また、誰がつくったかによって、君主による欽定憲法か、国民による民定憲法か、はたまた両者が話し合ってつくった協定憲法か、といった分類もあります。
さらには改正するときの手続きについて、法律をつくったときと同じ条件で変えることができる軟性憲法か、法律をつくったときより改正する方が難しい硬性憲法か、という分け方もあります。
これらの分け方は、憲法の具体的な意味や内容と、本質的な特徴をより明確にしようとするためのものです。
文字にする以前からあったもの
この他、従来の憲法学の分類では「実定法上の憲法」と、「慣習法上の憲法」という区分があります。
実定法とは、立法機関(国会)や裁判所の判例、慣習などによってつくり出され、一定の時代、一定の社会において実効性をもっている法のことです。
一方、慣習法は、国家による強制がなくても、人々に法として意織され守られているもの、という意味です。
これは、法を文字で表現したもの、つまり「成文法」か、文字によらなくとも、昔から人の頭の中にあるもの、と認められた「不文法」か、という区分からはじまったものです。
憲法は国家単位でとらえますから、人類誕生後、国家の形成とともに成立した憲法は、決して国家成立以前からあったものではありません。
ですから国家の概念は、いまある考え方だけで過去から現在までをとらえることはできません。現に、古代において秩序ある営みがなされていた共同社会も、まさに国家の原形と考えられます。
つまり、法律があろうとなかろうと、生きていく上で必要とされた規範(人の行動の基準を決めるもの)は、決め事や掟として立派に存在し、秩序ある社会が築かれていたのです。
はじめは毎日の生活を営む中で、生きていく知恵として親から子へと、自然に人の頭に叩き込まれていきました。
後に、それが文字によって表現されたとしても、その法の意図するところは、決して文字や文章を使った形式的、固定的な内容を意味しませんでした。それは文字の表現には一定の限界があって、その表現の仕方によって誤解が生じたりすることを知っていたからです。
ところが社会が複雑になり、人口が増えてくれば、文字にしなければ社会全体に規範が知れ渡りません。文字にした法律(成文法)が求められる原因はここにあります。
つまり文字にされた規範は、それまで人の頭の中にあった規範(不文規範)を言葉で表現し、まとめたものであって、新たにつくられたものではなく、これまであった決り事や掟を確認する意味合いをもっています。
日本は欧米に比べて歴史的に豊かな文化をもっていますが、これとは対照的に、整備された成文法をあまりつくってきませんでした。
帝國憲法も、大政奉還から二十二年後に公布され、それまで国が治められてきた形を追認し、継続していく趣旨で制定された確認的なものとしてとらえることができます。
これは中央や地方の区別なく、歴史から見たわが国の特徴で「規範や人との約束事(契約)を文章にすることなど、高度な文化ではない」という考えをもっていたからです。確かに人との信頼が保たれていれば、わざわざ文字にする必要はありません。
国家に限らず、社会の約束事において、あまりにも当たり前で当然なことは、あえて文字にしないことの方が多いのです。
これは、文字によって表現されていても、その奥にある精神こそ重要なものであるということを忘れてはならない-ということを教えています。
このように、紙に書かれた憲法(成文憲法、憲法典)の歴史は浅く、これだけを最高規範、根本規範とする今の憲法学の考え方は間違っています。
法実証主義で語れないこと
法律に書かれていなければ法律とは認めない-という考え方を、法実証主義と呼びます。これは実証法学とも呼ばれています。
これに対して自然法学というのは、自然や理性など、普遍性があって根源的と考えられるものを基礎とする法の存在を認め、それによっていまある法を基礎付け、解釈や価値を見出そうとする立場のことです。
法実証学は自然法を否定しますし、また法社会学のように、法を社会学的に考えようとすることも否定します。
これまでの法学は、この実証法学と自然法学という両極端にある考え方の対立の歴史といっても過言ではありません。
現在の学説は、極端な実証法学に基づくものではなく、多かれ少なかれ、自然法学の影響を受けており、どちらかといえば実証法学的頗向と自然法学的傾向からそれぞれのよいところをとってひとつにあわせる-といった考え方であり、そのいずれをより強調するかによって、学説の特徴が決まってきます。
さて、これまで憲法という枠組みの中には、文章になった今の現行憲法のような憲法典(文字で書かれた憲法)だけでなく、その奥にある精神こそ重要だ-ということを説明しました。
ところが現在の憲法学では、「現行憲法だけを憲法典としてとらえ、それ以外のものは一切、憲法とはみなさない」とする立場をとっています。
そして後の章で述べるように、現行憲法が制定されたいきさつなどは、たとえ問題があるにしても根本的な問題としないばかりか、現行憲法は無効だとする主張に論理的な反論ができず、「すべて有効である」と仮定して、法の解釈だけに徹しようとする傾向があります。
しかも自然法学からみれば、現行憲法が有効であるかどうかとは別に、その制定には、まずマッカーサーが草案をつくり、それを翻訳して政府案とし、わずかの審議でつくられたものを再び翻訳してGHQの承認を得た-というプロセスが、憲法の各条文の解釈に影響を及ぼすはずなのに、そのようなことをほとんど省みないといった、極端な実証法学の立場に立ち、自然法学的立場は否定されています。
その結果、憲法学を、社会科学(社会現象を事実によって分析し、その客観的法則を明らかにしようとする学問)にまで高めることは、まったくできない状況にあります。
日本語の危機
たとえば、ある憲法が特定の言葉で書かれていれば、自然に「その言葉がその国の国語だな」と思います。
ところが現行憲法が制定されたプロセスを見ると、まず英語で書かれたマッカーサー草案を日本語に訳したところからはじまっています。
そしてその文章は、日本古来の伝統にのっとった正統仮名遣いともいうべき歴史的仮名遣い(神無月は「かむなづき」、声は「こゑ」、価格は「くわかく」、
神戸は「かうべ」など)の日本語(大和言葉=やまとことのは)で書かれています。
ところが現在の法文や公式文書、そして日常では現代仮名遣いが一般的です。
英語、歴史的仮名遣い、そして現代仮名遣い-。いったいどれがほんとうの国語かということになります。
現行憲法が英語の訳文からはじまったという事実は、そのことにおいてすでにこの憲法は、私たちにとって致命的だといわざるを得ません。
最初にも述べたように、「万葉かな」にみる大和言葉によって綴られた萬葉集は、身分に関係なく「価値の創造に貴賎の区別がない」という、私たち民族固有の意識を生みました。そしてその言葉には魂が宿り、その魂から醸し出される情感豊かな表現を感じとることができるのは、日本人だけが生来的に得ているものである-といった主張もあるほどです。
ゆえに、現行憲法が単に邦訳されたからといって、それが私たち日本人の心に響くものにはとうていなり得ません。
大和言葉は國體なのです。國體を語るには大和言葉以外にはなく、大和言葉を知る日本人以外には、國體は語り尽くせぬものです。すなわち現行憲法では國體=法=正義は語り得ないのです。
さて、法実証主義について話を続けます。
憲法では、日本語を国語とすると決めている条文はありません。したがって、法実証主義によると、日本語以外の言葉を国語とすることは憲法に触れないことから、国会の多数決によって国語を定めることができます。
この中では、日本語よりもむしろ、英語などを国語や公用語(私たちが役所に出す書類や役所同士で使用される言語)にする方が「これからの国際間の取引や外交上、有利だ」といった意見もあるでしょう。また、日本語が「国語である」と認められていない以上、義務教育で教える「国語」の表記を、外国人子女の存在にも配慮して「日本語」と表記するべきといった主張も出てくるでしょう。
しかしこれに対して、次のような素朴な疑問と不安が出てくるはずです。
文化の中核である言葉や文字を、憲法で規定していないからといって変えていいのか。憲法やさらにそれを超える大切なもの、根本的な何かに触れるのではないか-と。
この問題は、それ自体重大事であり、しかも憲法とは何かを考える上で重要なことを含んでいます。
それは、法実証主義の怖さです。
つまり法実証主義から見れば、日本語=国語といった、ごく当たり前と思われていることを認めていないということがわかります。
平成十二年、故小渕恵三首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想懇談会」が、英語を第二公用語にする提言を行ったことがありました。これを受けて文部科学省では「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を策定し、現在、具体的な施策を進めています。つまり日本語を第一公用語、そして英語を第二公用語として認めようという動きです。
法実証主義は書かれていることがすべてです。これによると「法律で決めるということは、法律で変えられる」ということになってしまい、さらに言えば、「法律に書かれてしまえば何でもできる」ということになります。
公用語の例でいえば、「第二を認める」ということは、「第一と第二を逆転させる」可能性もあるということです。また、「第一を廃止して、第二だけとする」ということもあり得るわけです。
国語だけでなく、国旗や国歌についても同様のことが言えます。
平成十一年に施行された国旗及び国歌に関する法律では、「国旗は日章旗とする」「国歌は君が代とする」とあります。「国旗は日章旗である」「国歌は君が代である」とするなら、まだ、かろうじて理解もできます。
しかしここでも法実証主義の危うさが垣間見えます。
これについて、いまの憲法学者は答えることができません。これが文章によって目に見えるものだけの解釈に躍起となっている現代憲法学の“虚学”の正体であり、限界です。
では、このような状況から抜け出すためには、何が必要なのでしょうか。
それは「憲法とは何か」ということについて、現実に存在している法律に縛られることなく、柔軟な頭で探し求めるという姿勢が必要です。
つまりこのことは、「憲法がほんとうに狙いとするところのもの(実質的意味)は何のか」を探し求めるということに他なりません。
國體の下に 5 すべては國體の下に
つまりこのことは、「憲法がほんとうに狙いとするところのもの(実質的意味)は何のか」を探し求めるということに他なりません。
國體の下に 5 すべては國體の下に

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