史上最悪宗教
            「利を権ることを尊べ!」


【原因】
・次世代への無効憲法の正当化

【現象】
・人権教「利を権ることを尊べ」を教える史上最悪宗教出現
・宣教師は公教育の教師
・利を権ること以上に尊いものを知らない


「仏教が救う日本の教育」    宮坂宥洪 著  角川書店 1500円

p157
 祖先崇拝と学校教育

 人類の歴史のなかで宗教がたえず大きな力を果たしてきたことは言うまでもないことであり、さまざまな学問や芸術の分野で宗教が重要な地位を占めているのもそれゆえのことである。
 だから宗教教育は大切だ、ということを、本章で言いたいわけではない。宗教教育の重要性については、これまでさまざまな角度から述べてきた。
 本章は視点を変えて、宗教を排除した学校教育で、どのような宗教教育がなされているか。この点を検証しておきたい。何を言っているのかと思われるかもしれない。
 どういうことかというと、宗教を度外視した教育はありえないと思うからである。いかなる理念もなく、ただ学べといい、食べて寝て太らせるだけの教育などあろうはずがない。宗教教育と銘打った教育がされていなくても、必ず何らかの理念をともなう宗教教育がなされていると思う。それはどのようなものか。それを検証してみたい。

 戦前の教育の根幹をなした修身の科目の中では、「祖先を尊べ」ということを繰り返し教えていた。どういうしきたりで、どのように尊ぶべきかということは各家庭にまかせていた。
 各家には仏壇や神棚が安置されていて、朝夕の礼拝や年中行事や年忌の法事がある。こうした古来の習慣は親から子へと伝えられてきたものであるり、とくに学校で教わることではない。学校ではその大切さを説くだけだが、それで十分だった。

 戦後、修身の科目はなくなり、学校で「祖先を尊べ」と教えることはなくなった。憲法による宗教教育の禁止のせいで、一言たりとも「祖先を尊べ」と教えることはなかった。核家族化が急速に進んだため、どの家にも仏壇があるということがなくなり、祖先を尊ぶ習慣を身につけないまま成長してしまう子供たちが増えた。


 祖先崇拝を否定するキリスト教

 そこで問題は次の点である。
 祖先を尊ぶことを教えるのが宗教教育になるというのなら、そのような伝統のあるわが国で、そのことを教えないのも、一種の宗教教育になるのではないか。なぜなら、それは祖先崇拝を否定するキリスト教をはじめとする一神教の教えにしたがうことになるからである。このことを、さしあたって指摘しておきたい。

 イギリスに住む古代アングロサクソン人は、日本人と同様に、木の家に住み、祖先をまつり、神木を崇め、死ぬと子孫に生まれ変わってくると信じていたという(渡部昇一著『アングロサクソンと日本人』新潮選書)。
 日本に仏教が伝来したのは六世紀の半ばである。ほぼ同時期に、ユーラシア大陸の反対側の島国のイギリスにキリスト教が伝わった。極東の日本には仏教が根づき、極西のイギリスにはキリスト教が根づいた。
 だが、その後の展開は対照的であった。イギリスでは古来の祖先崇拝は消滅し、日本では一層盛んになった。キリスト教が伝わった地域では、片っ端から祖先崇拝の習慣がなくなったのに対し、仏教が伝わった日本では祖先を敬う行事が「仏事」と言われるまでになった。
 祖先を大切に敬い尊ぶことは、人間の自然な感情であり、古代においてはどの民族にも共通した信仰形態であった。そうした古来の信仰をなくすには、よほど強引な力がはたらいたはずである。

 まさしく一神教の宣教とは、改宗させるか殲滅するかという強引なものであった。十五世紀から十八世紀の三百年間、ヨーロッパでは魔女狩りと称して民間の信仰を撲滅し、アメリカ大陸では推計一臆に達する原住民を鏖(みなごろし)にした(イスラム教もそれに劣らない残虐さを発揮した。インド仏教はイスラム教徒によって滅ぼされた)。
 キリスト教の教義の核心をなす「愛」の思想、「汝の隣人を愛せよ」はキリスト教徒に限られていて、隣人が異教徒ならば殺してもよかった(ローマ法王庁が異教徒の存在を認める公式見解を発表したのは、二十世紀の後半の一九六二年のことである)。

 大航海時代が始まり、キリスト教の宣教が世界規模に広がり、ヨーロッパ各地で魔女狩りが猛威をふるった時代に、その触手はたえず日本にも及んでいた。
 その時代、日本の古来の祖先崇拝の伝統は、檀家制度によって揺るぎないものになっていた。キリスト教が最大の目の敵にしてきたのが祖先崇拝である。
 ヨーロッパ各地でキリスト教は祖先崇拝の根絶に成功していた。

 祖先崇拝をやめさせることなくして、キリスト教を定着させることはできない。ところが、果たして日本だけがあまりにも勝手が違ったのだろう。江戸時代の宣教師ヴァリニャーノは、日本にキリスト教を広めることは不可能に近いほど困難だという内容の機密文書を、一五八三年にローマのイエスズ会総長に書き送っている(『日本巡察記』)。
 もし日本に仏教がなかったとせよ。もし檀家制度がつくられなかったとせよ。日本もアメリカ大陸のインカ帝国やアスティカ帝国と同じ滅亡の運命を辿っていたかもしれないのである。


 檀家制度が存続する意義

 それにしても檀家制度というこの日本独特のシステムは実にふしぎななたらきをしてきた。江戸時代にはキリシタンの陰謀から日本を守った。
 明治時代になって、維新政府は幕藩体制下のあらゆる制度を廃止したのに、檀家制度だけはそっくり温存した。神仏分離令を出し、皇室から仏教を排除し、全国に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたときに、もし檀家制度を廃止していたら、日本仏教の命運は完全に尽きていたであろう。その可能性は十分にありえたのであるが、そういうことにはならなかった。
 それから昭和の敗戦後、日本を占領したアメリカのGHQは絶大な権力をふるって日本のあらゆる制度を改革したが、このときも江戸封建社会の唯一最大の遺制である檀家制度だけは手をつけなかった。家制度を廃止しさえすれば自然消滅するだろうと思っていたのだろうか。その可能性はやはり十分にありえたのである。

 檀家制度は現在なお、何ら法的な根拠もないにもかかわらず存続している。将来にわたって永続するという保障はもちろんないが、戒名問題等が時折とり沙汰されることはあっても、檀家制度それ自体の是非を問う声はほとんどない。
 しかし、もし祖先を尊ぶ態度が薄らぎ、今以上に家の基盤が崩れていくようになったら、今度こそ檀家制度は消滅するかもしれない。
 それは日本仏教の危機というにとどまらず、日本民族が悠久の歴史的伝統から切り離され、別人種になってしまう事態の到来であろう。日本人が望んでその道を選ぶのなら仕方ないが、そのときはとりかえしのつかない文化破壊をしてしまったことに嘆き、後悔することにきっとなるだろう。


 猛威をふるう「人権教」宣教師は学校の教師

 確かにGHQは、檀家制度を残した。しかし、公教育において宗教教育を禁止するという条項を織り込んだ野蛮きわまる憲法を日本人に押しつけた。
 なぜ野蛮かというと、宗教なき人間は野生動物か家畜と同じだからである。同じ敗戦国でありながら、連合国に対して憲法だけは自前でつくることを押し通した西ドイツでは、その基本法(憲法)のなかで、宗教を学校の必修科目と規定した。宗教だけは教えてはいけないと定めた日本の憲法と正反対だ、ということはすでに述べた。
 そしてGHQは宗教教育を禁止した日本国憲法に巧みに恐るべき罠をしかけた。

 今の日本の学校で、あからさまに「祖先を敬ってはいけない」などと教えてはいないだろう。だが祖先を敬い尊ぶという伝統を生徒に教えないということは、結果としてキリスト教の教義にしたがっていることになるのだ。
 では、何を尊べと教えているか。
 人間には必ず何か尊ぶべきものがある。何か尊ぶべき価値があるはずである。それを教えるのが教育の使命である。少なくとも文明国の人間ならば、欲望のままに生きてよい、などとは教えないはずである。だが、果たしてそうか。
 かつての日本人は何であれ「利」を追求することには、控え目であろうとした。
 功利、名利、営利、あるいは利息、利潤など、さまざまな「利」がある。総じて、利とは「欲望」の別名である。あくなき欲望を追及した人もなかにはいたし、今もいるが、それを何よりも尊いと考えた人はいなかった。エゴイズムを恥とする文化があった。たとえ欲望のままに生きることを肯定的に考えても、それを決して最高とは思わず、それ以上に大切なものがあることを多くの日本人は知っていた。
 たとえばラフカディオ・ハーンは、『神国日本』のなかで、次のように書いている。


  個人が好きなようにする(たとえば英米の社会が個人の行動にゆるしているよう
  な範囲内で)という、単にそれだけの個人の権利観さえ、日本人の心にははいり
  込めないのである。そんな自由を、日本人に説いてみたところで、日本人は多分
  それを道徳的には禽獣にひとしい状態と考えるだろう。


 ところが、このような日本の精神風土では考えられなかったことが、いつのまにか学校で堂々と教えられるようになった。
 いみじくもハーンが明治の日本人ならば道徳的には禽獣に等しい状態と考えるであろうとした、まさしくその「権利」という「利」である。
 とりわけ「人権」、すなわち「人間の権利」という「利」。

 現代の学校では、「利を権ること」を尊べと教えている。祖先を尊べとは教えない。神仏を尊べとも教えない。なによりも「人権を尊べ」と教えている。
 これは宗教教育である。しかも、史上最低の宗教教育である。何であれ「利」を「権ること」を至高と崇めるような愚劣な宗教がかつて地上にあったろうか。それが戦後の日本に誕生した。かくして現代日本人は「人権」よりほかに尊ぶものを知らない。

 これを「人権教」と呼んで差し支えない。今の日本には「人権教」という新宗教が猛威をふるっている。憲法で思想信情の自由が保障されているはずの日本で、少しでも人権に疑義を差し挟むような人は「異端審問」で「糾弾」されるのだ。
 これではまったく理不尽な、あたかも邪教と呼ぶべき様相を呈しているのではなかろうか。
 その宣教師は全国の公立学校の教師である。
 人権教のバイブルは日本国憲法である。憲法第十一条に、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」とある。この条文は、今の日本ではこのうえなく神聖なものとして崇められている。学校の先生方はこの条文を頭から信じ、寸分も疑いを抱かず、宣教師の役割を忠実に果たしている。今の日本で宗教教育が行われていないとは言わせない。


 日本国憲法に顔を出す全能の唯一神

 今の日本で「人権」を否定するような発言をしたら袋だたきにあうぞと忠告してくれる人もいる。これが批判を許さない、邪教たるゆえんであると言っても、まだ信じられない人もいるかもしれない。また、憲法を遵守することは国民の当然の務めであり、その条文を尊ぶことがどうして宗教教育になるのか、と反論する人もいるだろう。
 もっともな質問である。
 憲法第十一条が宗教的聖句であることの明白な証拠をお目にかけよう。

 憲法第十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」となっている。
 この条文をよく読むと、日本人には不可解な表現がある。お気づきだろうか。それは最後の「与えられる」という言葉である。
 つまり、基本的人権なるものは、誰かから日本国民に与えられたものという表現になっているのである。では、誰が与えたのか。

 主語があいまいでも通じる日本語の落とし穴のような感じだが、マッカーサー草案並びに英訳では「コンファー」という動詞が使われている。これは贈り物や爵位などを授けるといった場合に用いられる語である。どこか高いところから授けられる、というニュアンスの語である。
 条文には「誰によって」ということはどこにも記されていない。「一体誰から与えられるのだろう」と、素朴かつ賢明に考える日本人がいたら、不可解に思えて当然でしょう。
 それは誰か。いくらマッカーサーが憲法草案をつくったとはいえ、基本的人権なるものまでマッカーサーから与えてもらったと考える日本人はいないだろう。

 答えは歴然としている。それは神(ゴット)である。

 日本国憲法には神の名こそ記されていないものの、「与えられる」という表現のなかに、キリスト教の全能の唯一神がしっかり顔を出しているのだ。
 これが宗教的聖句でなくて何であろう。そして、それを尊べと教えることが宗教教育でなくて何であろう。
 欧米人にとっては自明のことであるから、マッカーサーは草案をつくる際に、あえて記さなかったとも考えられるが、もしかすると意図的に神の名を隠したのかもしれない。そうである可能性のほうが高い。巧みな罠はこうして仕掛けられ、前代未聞の欲望肯定の宗教が誕生した。それが人権教である。

 本来なら日本の精神風土に存在するはずがなく、最も馴染みの薄い唯一神から、「人権」なる「高尚」なものが与えられたなどと、日本人は夢にも思っていない。戦後の日本人は、「人権」は、どこからともなく無条件に与えられ、すべての人間に生得的にそなわっているものだと考えてきた。だから、「人権」の由来と根拠を知っている欧米人と違って、人権教の信徒たちには、祈りも感謝もない。空気のように当然あるべきもだと思っている。だからほんのわずかでも、それを批判し、行く手を遮るものにはヒステリックに抵抗する。しかし、「利=欲望」の追求(要求)を空気のようにあたり前に感じる社会とは、果たしてまともな健全な社会といえるのであろうか。

 かくもおぞましい新宗教が出現したことは由々しきことであるが、それを今や公教育あげて宣教しているのである。国歌を歌わせることは生徒の人権を侵害することになるという学校教師や、それを支持するマスコミ連中は度しがたい狂信の徒である。



日本の歴史とまったく命脈のない史上最悪宗教「人権教」。
憲法改正論、新憲法制定論で全知全能の神(ゴッド)がみえかくれする「人権教」の宣教をやめさせられますか?


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もくじ

新無効論概略
新無効論概説・問答編
新無効論の目的・論理概略・現実対処法
新無効論と旧無効論
憲法違反と条約違反 ―― 新無効論と旧無効論
改正?破棄?廃止?無効確認?

大日本帝国憲法75条違反
法律論議以前!事実関係からの無効
日本国憲法の死亡 ―― 有効論への即効解毒剤
日本国憲法の誕生 ―― 日本国憲法は講和条約の限度で有効

日本国憲法改正論の欺瞞
憲法業者のペテンにひっかかるな!
法定追認有効説の論理破綻
追認有効説の変形――事実の規範力
保守の思想と保身の欲望
追認有効説の破綻と自画自賛
改憲派は「保守」派ではない!小山常実 

4月28日問題!大東亜戦争はどうやって戦争終結できたの?
護憲派改正論者に告ぐ!

護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
憲法改正とは祖先との協同作業のことである

憲法学者の騙しテクニック
元凶は東大法学部
(1)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
(2)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
大日本帝国憲法に殉死・清水澄博士

「祓庭復憲」現行憲法無効宣言
「憲法無効宣言」南出喜久治講演録

橿原の宮のおきて
神聖をもとめる心 ──祭祀の統治への影響──
神の差し替え工作(2-1) 神道神学論考
神の差し替え工作(2-2) 神道神学論考
史上最悪宗教「利を権ることを尊べ!」
「生きていく」と「生かされている」
欽定憲法とは76箇条の御誓文

(動画)大日本帝国憲法とは?
大日本帝国憲法とは何か 3-1 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-2 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-3 小山常実

國體の下に 序章
國體の下に 1-1 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 2 生きている者だけの天国
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの
國體の下に 5 すべては國體の下に

戦後の「疚しさ」(1)
戦後の「疚しさ」(2)

再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-1) 小山常実
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-2) 小山常実

チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-1)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-2)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-3)

日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案
日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案
日本国憲法の誕生-3/GHQ案押付プロセス
日本国憲法の誕生-4/ポツダム宣言違反
日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会

日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」
日本国憲法の誕生-7/皇室自治・職能代表制
日本国憲法の誕生-8/第9条修正ドタバタ劇
日本国憲法の誕生-9/占領軍制定無効憲法