(1)からのつづき
『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-2)
戦後の「疚しさ」(2)
「国家についての考察」
佐伯啓思著 飛鳥新社 1800+税
宮沢俊義の憲法観
さて、事態がベネディクトのいうように、「敗戦国としての名誉」を擁護するためにとられた意図的な恭順であればまだしもよかったかもしれない。いや、突然の国民的目的の喪失からくる虚脱感であればまだしもよかったであろう。だが、いずれ「敗戦国としての名誉」などというものは、たとえあるとしても不健全な転倒したものでしかないし、また戦後の、連合国への変節ともいうべき友好的迎合に意図と目的があったとすること自体が、西欧的解釈というべきものであろう。
だから事態がもっと深刻だったのは、この種の無気力、思考停止、その上での連合国への恭順、こうしたことが、ただ敗戦国の儀礼として執り行われたのではなく、戦後の「体制」を作りあげるための不可欠の作業だったということである。言い換えれば、この種の無気力は一時的な虚脱感や敗戦後の半ば無自覚な戦略だったのではなく、戦後体制の支柱そのものだといってよい。ベネディクトが見て取ったような、国民全体が入院患者にでもなってしまったかのような無気力の中でこそ、「戦後」が打ち立てられたのである。「倦怠」と「無気力」が戦後体制を支配している。これは敗戦がもたらした結果などではなく、戦後体制を打ち立てるまさにその作業の中で礎石にした、という種類のものであった。戦争に敗れ、無条件降伏という「不名誉な」降伏を余儀なくされたから「無気力」になったのではなく、戦後体制が「無気力」を礎石としてその上に打ち立てられざるをえなかったということなのである。
このことをもっとも象徴的に表しているものが、まさに戦後体制の中心ともいうべき憲法の成立にまつわるプロセスである。憲法成立に至るプロセスには多くの研究もあるし、今では、GHQ主導の憲法成立がどのように進行したのかははぼ明らかになっており、ここでそれを持ち出すことはしない。ただ、述べておきたいことは、この憲法成立に加わった日本の法学者の多くが(特に東大の美濃部達吉の弟子たち)、もともと明治憲法の若干の手直しで事足りると考えていたということである。その典型が、本来の日本案である松本(蒸治)案の作成の中心人物であった宮沢俊義(1889~1976。憲法学者)で、彼の考えでは、新憲法は基本的に明治憲法の多少の手直しですむはずであった。昭和二十年九月二十八日に外務省で行われた宮沢俊義の講演で、彼はポツダム宣言の受諾による憲法改正は、基本的にはわずかな手直しですむとの考えを披露している。ここでは、軍隊の解消の結果、統帥権を持たない天皇大権の維持が考えられており、要するに天皇主権と民主主義は決して矛盾するものではない、と理解されているのである。
この天皇主権制の維持という点は、宮沢の先生であった美濃部達吉(1873~1948。憲法学者)も同様であり、美濃部は憲法(明治憲法)の改正さえ不必要だと考えていた。「私は、民主主義の政治の実現は現在の憲法(明治憲法)の下において十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態の下において即時に実行せられねばならぬほどの窮迫した問題ではないと確信する」と彼は書いた(『朝日新聞』昭和二十年十月二十日)。この「天皇統治の本体」を維持しつつ民主主義を実現するという基本的な考えは、矢部貞次(1902~67。政治学者)や高木八尺(1889~1984。アメリカ史家)によっても述べられており、天皇統治という明治憲法の基本構造の維持は、松本委員会の提出した憲法改正案にまでつながる一貫した態度であった。
むろんこれはGHQの基本的態度とは異なるものであった。マッカーサーはすでに憲法改正を指示するに当たって幣原喜重郎首相に対して次のように述べていた。「『ポツダム宣言』の実現にあたりては日本国民が数世紀にわたり従属せしめられてきたる伝統的社会秩序の是正せらるるを要する。右は疑いもなく憲法の自由主義化を包含すべし」(江藤淳『占領史録』講談社学術文庫)。日本社会の天皇主権を含む伝統的(封建的)構造を是正することが新憲法の目的であったことはいうまでもない。
興味深いことに、このマッカーサー・幣原会談の中で、幣原は次のように述べている。「民主主義化と称し、自由主義化と称する意味はいかなるものなりや。民主主義自由主義の適応は各国それぞれ異なる所ありと考える。例えば米国の『デモクラシー』は英国の『デモクラシー』と異なれり。『ソビエト』が主張する『デモクラシー』は更に異なれり。従って、もし貴下が日本に対し米国と同様のデモクラシーを期待せらるるならばその実現の時期を期すること容易にあらずと認められる。しかるに一般大衆の意志を尊重し、これを反映する政治上の主義を意味せらるるならばこれは既に十数年前に萌芽をみせたることあるものにして、これが実現を見るは敢えて遠き将来にあらずと考える」(同前)。そして、デモクラシーの目的は民意の反映にあるが、その「形成は日本的『デモクラシー』となるものと考える」という。そしてマッカーサーもこれに対して「右はしごくもっともなり」と答えているのである。
こうしたやりとりを、つい、「日本には真のデモクラシーがない」という近年のアメリカの強硬な言い方と比べてみたくもなるのだが、それはここでのテーマではない。本論に戻れば、明らかに、日本側は、明治憲法の基本構造である天皇統治を保持しつつ、民主主義化をはかることを考えていた。そして周知のように、『毎日新聞』が明治憲法の修正である松本委員会案をスクープしたのをきっかけに、日本案の保守性に危機感を抱いたマッカーサーは、GHQ民生局に新憲法案の作成を命じるのである。『毎日新聞』がスクープした草案は、宮沢案とほぼ同一であり、そこでは(1)日本国は君主国である、(2)天皇は君主であり統治を行う、と述べられていた。マッカーサーがこの日本案を到底受け入れられるものではないと考えたのは、GHQの立場からすれば当然であろう。
ところで宮沢は新憲法の草案の提示後に次のように語ったという。「憲法全体が自発的にできているものではない。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得るところなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」(西修『日本国憲法を考える』文春新書)。「重要なこと」とはいうまでもなく、天皇君主制であろう。したがって宮沢はこの時点で、天皇主権の維持こそが最も重要な課題だと考えていたのである。ところがGHQ案を受け入れ、しかもそれを日本国民の総意であるかのように擬装して公布する、このことは自己欺瞞にすぎないという。だがその意味は、ただ、GHQの「押しつけ」憲法を自主制定のように装ったというだけのことではない。天皇主権の廃止を国民の総意であるかのように装ったということである。言い換えれば宮沢はこのとき、天皇主権の維持は国民の願望であると見なしていた。ところが、その国民の名において天皇主権を廃止するのが新憲法だったのである。そして、いうまでもなくその後、宮沢は新憲法の最も啓蒙的な擁護者となる。いわば戦後の護憲主義の元祖となるのである。
「無垢な民衆」という擬装
その後の護憲派はこの「押しつけ」について、例えば次のように述べる。家永三郎(1913~。歴史学者)は、憲法を「押しつけられた」のは国民ではなく支配層であるという。そもそもの戦争終結が国民の自発的な意志ではなく、「戦争勢力」の戦術転換によってなされたものであり、したがって「国体護持、いいかえれば帝國憲法的支配体制の維持のために降伏の道を選んだ権力者たちが、降伏後も帝國憲法的支配体制の温存のために全力を傾倒し」て、憲法の改正に反対したという(『憲法読本』岩波新書)。だから、新憲法を押しつけられたのは一部の支配層だというのだ。言い換えれば、国民は新憲法を待望していたということになる。そして、この背景には次のような考えがあった。務台理作(1890~1974。哲学者)は書いている。「現代においては国民自身が相手国に戦争を仕掛けることは絶対ない。戦争は常に政府の行為として始められる。どのような名において始められようと、戦争の行為は国民のものではない。なぜかというと、戦争の惨禍とその犠牲とはまちがいなく国民におわされるからである」(同前)
ここにあるあまりに素朴な政治論や安易なヒューマニズムの浅薄を指摘しても仕方がない。いかに浅薄であろうと、このような欺瞞が必要とされたということこそが重要なことである。この必要な欺瞞にイデオロギー的な同調を持ちえたからこそ、家永のような教条的な左翼主義が戦後の歴史観をリードできたのであった。そして、「戦後」を成り立たせるためには、この欺瞞が不可欠であることに気づいたために、宮沢は態度を一変させて、新憲法護持にまわったのであった。
その欺瞞の根底にあるものは、「戦後」を民主主義としてスタートさせるとするならば、「無垢な民衆」が存在しなければならない、ということである。「戦後」を画する新憲法が成立しうるためには、この憲法が謳い上げ、この憲法を支持する大衆(国民)がいなければならない。この国民大衆が、昨日まで熱狂的に天皇を崇拝し戦争を支持していたということでは困るのである。だから、国民はいやいやながら戦争を強制されたのであって、喜んで戦場に行ったかに見える場合にも、天皇イデオロギーに「騙されて」いたというのである。「国民はいつでも戦争を避けようと念願している」(務台理作)というわけである。宮沢は、国民が実際に天皇を支持していたことを知っていた。だから、国民は天皇君主制を望んでいると考えていたのである。しかし、それでは「戦後体制」はありえない。国民は、天皇主義者ではなく民主主義者でなければならなかった。そうでなければ「戦後」という時代が開始されないのである。
そして、その結果、ここにひとつの矛盾を抱き込むことになる。「本当は」平和愛好的だが、権力に脅かされて好戦的となったか、あるいは権力に騙されて好戦的となったか、いずれにせよこの二つの可能性を取るしか、「無垢な民衆」という神話を保持する方法はないのである。ここに描き出された民衆像はあまりにお粗末なものである。あるいは「無気力」なものといってもよいかもしれない。少なくとも西欧の歴史の中で民主主義を勝ち取ったと宣伝される「市民」なるものに比べれば、あまりにお粗末である。だが、そのお粗末な大衆をこそおだて上げ、ヒューマニズムの砂糖をまぶし、進歩主義のイデオロギーで装飾したもの、このこしらえものの世界こそが「戦後」の体制となってしまったのである。いうまでもなく、これは欺瞞であった。大多数の大衆は内心はいやいやながらであれ、一度戦争となれば恐怖をおし殺して戦場へ向かい、戦果を上げれば名誉を得られたと喜んだであろう。これはごく当然のことで、このことこそ、わたしにはむしろ、日本だけではなく、普遍的に見られる大衆と戦争の関係だと思われる。しかし、欺瞞は、まずそのことを罪とし、次に大衆にはその罪はないとし、「国民大衆は決して戦争を望まない」として「無垢な民衆」の主人公に仕立て上げようとしたことにある。
戦前に大衆の名を騙ったのは軍部だとすれば、戦後に大衆の名を騙ったのは進歩派知識人であった。しかし大衆とは一体何であったのだろうか?戦後体制の礎石に据えられた大衆(国民)とは、権力に弱く、すぐに騙される存在である。そう戦後民主主義者は考えたわけである。いかに彼らが「主体的市民」とやらを待望したとしても、彼らが想定したのは、右のような国民大衆であった。これは彼らの意図というより論理の問題である。ただしここでいう戦後民主主義者とは、左翼進歩派だけではなく、保守的な現実主義や穏健な現状肯定派も含めて戦後体制信奉者である。そして奇妙なことに、この、権力に弱く、すぐに騙される(と彼らが見なしている)大衆なるものに民主主義を託すことになったのであった。ここに戦後の「無気力」の基本的な原因があった。
だが問題は、この「欺瞞」の下で、大衆も含めて戦後日本が、ことごとくこの擬装の無謬を問うことをやめてしまった点にある。民主主義のためにアメリカによって免責された大衆も、この擬装をかつぐこととなった。この擬装の上に民主主義の担い手としての「大衆」という神話が作り出された。そこに「欺瞞」がある。そしてこの「欺瞞」を暴き出すことをタブーとすることによって戦後の「公式的な言説」が成立したのであった。
戦後の「疚しさ」
この「欺瞞」は心理的にいえば、一種の「疚しさ」の感覚を植えつけるものだといえるであろう。民主主義を唱える知識人にせよ、民主主義の担い手であるはずの大衆にせよ、ここにある種の「疚しさ」を覚えるほかない。それは決して明白に意識されたものでもなく、また論理的に説明できるものでもないだろう。しかし意識の下を絶えず流れ、音にならない音を奏して、戦後という時間の暗底に滞っているものである。それは時に聞き取れないぐらいの不協和音を響かせ、われわれの無意識にえもいえぬ不安をさざめかせる。その結果、どこまでいってもわれわれは戦後思想を、戦後民主主義を確信することができない。それを確信できるような「主体」が存在しないのである。
この「疚しさ」をもたらすものは何か?それはフロイト的な用語を借りて来て説明するのがわかりやすいと思われる。
いうまでもなく、この「疚しさ」を引き起こしたもの、それは、フロイト的にいえば「父殺し」にアナロジーできるものである。戦後民主主義へとなだれをうった知識人、大衆は、かつての自分たちの支配者もしくは指導者に侵略戦争の罪を帰し、いわば彼らを見捨てたといってよいだろう。戦犯として処刑された者たちは、その後ほとんど犯罪者扱いを受け、ほとんど弔われることさえなくなってしまった。それは必ずしもA級戦犯だけではない。特攻を初め戦死した兵士たちも侵略戦争という誤った戦争の実行者であった。こうして戦後という時代は、戦死者たちを丁重に弔うことすら忘却しようとしたのである。戦争を戦った次の世代の者にとり、そして戦後民主主義の中で育った世代にとってはこれはほとんど「父殺し」もしくは「父の見殺し」といってもよい。彼らはむろん直接の下手人ではないものの、心理的な「疚しさ」という点から見れば、彼らの内心で「父殺し」に手を貸していることになる。この「父殺し」あるいは殺された「父」を放置し死者をほとんど野晒しにするという仕打ちは、戦争世代に続く民主主義世代にある「疚しさ」あるいは「不安」心理を植えつけることとなった。
その結果として何が生じたのか?それを次に述べてみたい。
戦争を指導し、もしくは戦場で戦った「父」を殺した後、われわれは新たな「父」を持ちえたのか、というとそうではない。むしろ「父」を持たないことこそが戦後の決意であった。あらゆる「父」的なものを脱色化し脱力化しようとしたのである。民主主義とは「父」(強力な権力)を持たない政治体制であり、平和主義によって軍事力という「父」を追放した。国家にあっては天皇という「父」は脱権力化され象徴の地位へと「切り下げられ」、家族にあっては家父長的な意味での「父」の権威は失墜し、政治の場では「父」の役割を果たす強力な権力者は出現しえない。こうして、戦後の経験とは「父」を追放し「父」を「公式」の世界から排除したといってよい。あらゆる場所で「父」なるものを追放していったのが戦後であった。「父」を排除すれば、自由な個人による民主的で平和主義的な社会が実現できるというのが戦後の希望であり楽観であった。だがしかし、それはそもそも矛盾をはらんだ実験であったというべきである。
なぜなら「父」が存在しなければ確固たる自我も形成されないからである。強力な父を殺すというフロイトのいうエディプス・コンプレックスは、自我形成において重要な役割を果たす。象徴的に「父を殺す」ことによって子供はその自我を確立してゆく。この場合、「父」が強すぎてもまた弱すぎても自我は適切には構成されえない。エディプス・コンプレックスは強すぎても困るが、またそれがなくても自我は形成されない。では「父」が存在しない場合にはどうなるのか?「父」とは、まずは外的な力として子供の前に立ち現れる。言い換えれば、この外的な力に自分をぶつけ、また自分をそのような力に投影することによって、われわれが自己というものを知るようになる。この「父」をもう少し一般化していえば、子供が直面する現実の世界そのものといってよい。だから「父」に直面し、「父」と確執を持つことは、現実社会において自我を形成する基本となっているのである。
ところが「父」が存在しなければ、この意味での自我を形成することができない。現実社会に直面することができない。あるいは、現実に対してリアリティ(現実感)を持つことができない。その結果、彼は自閉的な自己のみの空想的世界にとどまるか、あるいは現実の中で、そのつどそのつどの「自我」の代理を求めて分裂症的に行動するだろう。いずれにせよ、ここには確かな自我が存在しないのであり、この行動にはリアリティがないのである。
これがおおよそ戦後日本に生じた心理的傾向ではなかったろうか?民主主義という制度は作り出したものの、その「主体」を作り出すことができない。「主体」つまり「自我」(セルフ・アイデンティティ)は、ただ自由で脱権力化すれば作り出されるのではない、一切の拘束を逃れれば主体が成立するのではない。過度な拘束が主体を破損するのは事実だとしても、だからといって拘束を除去すれば主体が成立するわけではない。主体(セルフ・アイデンティティ)は、ある程度の権力、権威、拘束、規律といった「父」なるものを必要とするのである。
「父」を追放した戦後日本で、実際に「父」の代理を行ったのはアメリカである。それは一種の「父」なるものではあった。だが、その支配は、占領期においてさえ決して目に見えて直接的なものではなく、アメリカは常に日本という国家の背後に控える大きな「影」と意識された。それは日本という国家の上に覆いかぶさる何か大きなものの「影」であって、それが明確に姿を現して、日本という国土の中にいるわれわれに働きかけてくることはない。
その結果、二重に不幸なことが生じた。一方では、日本という「国家」がこの影に覆われてしまい、国家としての姿を見極めることが困難となったのであり、他方で、アメリカの「父性」が決して明瞭に意識されるには至らなかったことである。こうして、日本の「国民」という立場でいえば、それは「日本国家」という「父」も、たま「アメリカ」という「父」も事実上、切迫した意識の表面に立ち現れることは全くなかったことになる。かくして日本という「国家」は、その自我形成をうまく果たすことに失敗した、つまり国家意識あるいはナショナル・アイデンティティを持つことができなかった。これが戦後生じたことである。
さらにいえば、ほとんど「父」なるものと直面することなく、自由な社会環境の中で育てられた戦後世代のされにその子供たちが、自我形成に大いに不安をもっていることも、国家意識の喪失ということと決して無関係ではない。エディプス期をうまく通過できなかった者が自我形成においてうまくいかなかったということは、したがって、ただ個々の問題ではなく、戦後日本そのものへの問いかけである。自我(セルフ・アイデンティティ)とはすでに述べたように、ただ、拘束から自由になれば自己完結的に成立するようなものではない。それは他者と、権威や社会的ルールと、言語や文化と、自己を切り結ぶことによって初めて可能となるのである。その意味での自我意識(セルフ・アイデンティティ)を持ちえないことが、今日の、とりわけ若者たちの問題となっている。そしてこれは、因果関係においてではないが、戦後日本の国家意識の崩壊と決して別のことではない。同じ事態の二つの現れというべきなのである。
(参考リンク)
八月革命は起こってません!宮沢俊義の大日本帝国憲法改正反対論
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/40249379.html
八月革命は起こりません ――― 現代日本文明史(5)法律史 中川善之助 宮澤俊義 昭和19年発行
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/40288066.html
アングロ・サクソン国家のたそがれ 宮沢俊義 42歳
http://jp.youtube.com/watch?v=7ATJc7QMsf0
売国奴かつ曲学阿世の宮沢俊義 → 毎日新聞スクープ
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/34950506.html
戦争犯罪「日本国憲法」を受け入れた宮澤俊義は戦争犯罪人
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/25277181.html
元凶は東大法学部
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/13749651.html
悠仁天皇と皇室典範 中川八洋 清流出版
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/23055279.html
「無血革命」と原爆投下理由の虚構
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/17137577.html
昭和38年芦部小林八月革命説破綻
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/34918568.html
清水澄博士 帝国憲法に殉死
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/21994426.html
宮沢俊義 校註 憲法義解
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/5612378.html
『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-2)
戦後の「疚しさ」(2)
「国家についての考察」
佐伯啓思著 飛鳥新社 1800+
宮沢俊義の憲法観
さて、事態がベネディクトのいうように、「敗戦国としての名誉」を擁護するためにとられた意図的な恭順であればまだしもよかったかもしれない。いや、突然の国民的目的の喪失からくる虚脱感であればまだしもよかったであろう。だが、いずれ「敗戦国としての名誉」などというものは、たとえあるとしても不健全な転倒したものでしかないし、また戦後の、連合国への変節ともいうべき友好的迎合に意図と目的があったとすること自体が、西欧的解釈というべきものであろう。
だから事態がもっと深刻だったのは、この種の無気力、思考停止、その上での連合国への恭順、こうしたことが、ただ敗戦国の儀礼として執り行われたのではなく、戦後の「体制」を作りあげるための不可欠の作業だったということである。言い換えれば、この種の無気力は一時的な虚脱感や敗戦後の半ば無自覚な戦略だったのではなく、戦後体制の支柱そのものだといってよい。ベネディクトが見て取ったような、国民全体が入院患者にでもなってしまったかのような無気力の中でこそ、「戦後」が打ち立てられたのである。「倦怠」と「無気力」が戦後体制を支配している。これは敗戦がもたらした結果などではなく、戦後体制を打ち立てるまさにその作業の中で礎石にした、という種類のものであった。戦争に敗れ、無条件降伏という「不名誉な」降伏を余儀なくされたから「無気力」になったのではなく、戦後体制が「無気力」を礎石としてその上に打ち立てられざるをえなかったということなのである。
このことをもっとも象徴的に表しているものが、まさに戦後体制の中心ともいうべき憲法の成立にまつわるプロセスである。憲法成立に至るプロセスには多くの研究もあるし、今では、GHQ主導の憲法成立がどのように進行したのかははぼ明らかになっており、ここでそれを持ち出すことはしない。ただ、述べておきたいことは、この憲法成立に加わった日本の法学者の多くが(特に東大の美濃部達吉の弟子たち)、もともと明治憲法の若干の手直しで事足りると考えていたということである。その典型が、本来の日本案である松本(蒸治)案の作成の中心人物であった宮沢俊義(1889~1976。憲法学者)で、彼の考えでは、新憲法は基本的に明治憲法の多少の手直しですむはずであった。昭和二十年九月二十八日に外務省で行われた宮沢俊義の講演で、彼はポツダム宣言の受諾による憲法改正は、基本的にはわずかな手直しですむとの考えを披露している。ここでは、軍隊の解消の結果、統帥権を持たない天皇大権の維持が考えられており、要するに天皇主権と民主主義は決して矛盾するものではない、と理解されているのである。
この天皇主権制の維持という点は、宮沢の先生であった美濃部達吉(1873~1948。憲法学者)も同様であり、美濃部は憲法(明治憲法)の改正さえ不必要だと考えていた。「私は、民主主義の政治の実現は現在の憲法(明治憲法)の下において十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態の下において即時に実行せられねばならぬほどの窮迫した問題ではないと確信する」と彼は書いた(『朝日新聞』昭和二十年十月二十日)。この「天皇統治の本体」を維持しつつ民主主義を実現するという基本的な考えは、矢部貞次(1902~67。政治学者)や高木八尺(1889~1984。アメリカ史家)によっても述べられており、天皇統治という明治憲法の基本構造の維持は、松本委員会の提出した憲法改正案にまでつながる一貫した態度であった。
むろんこれはGHQの基本的態度とは異なるものであった。マッカーサーはすでに憲法改正を指示するに当たって幣原喜重郎首相に対して次のように述べていた。「『ポツダム宣言』の実現にあたりては日本国民が数世紀にわたり従属せしめられてきたる伝統的社会秩序の是正せらるるを要する。右は疑いもなく憲法の自由主義化を包含すべし」(江藤淳『占領史録』講談社学術文庫)。日本社会の天皇主権を含む伝統的(封建的)構造を是正することが新憲法の目的であったことはいうまでもない。
興味深いことに、このマッカーサー・幣原会談の中で、幣原は次のように述べている。「民主主義化と称し、自由主義化と称する意味はいかなるものなりや。民主主義自由主義の適応は各国それぞれ異なる所ありと考える。例えば米国の『デモクラシー』は英国の『デモクラシー』と異なれり。『ソビエト』が主張する『デモクラシー』は更に異なれり。従って、もし貴下が日本に対し米国と同様のデモクラシーを期待せらるるならばその実現の時期を期すること容易にあらずと認められる。しかるに一般大衆の意志を尊重し、これを反映する政治上の主義を意味せらるるならばこれは既に十数年前に萌芽をみせたることあるものにして、これが実現を見るは敢えて遠き将来にあらずと考える」(同前)。そして、デモクラシーの目的は民意の反映にあるが、その「形成は日本的『デモクラシー』となるものと考える」という。そしてマッカーサーもこれに対して「右はしごくもっともなり」と答えているのである。
こうしたやりとりを、つい、「日本には真のデモクラシーがない」という近年のアメリカの強硬な言い方と比べてみたくもなるのだが、それはここでのテーマではない。本論に戻れば、明らかに、日本側は、明治憲法の基本構造である天皇統治を保持しつつ、民主主義化をはかることを考えていた。そして周知のように、『毎日新聞』が明治憲法の修正である松本委員会案をスクープしたのをきっかけに、日本案の保守性に危機感を抱いたマッカーサーは、GHQ民生局に新憲法案の作成を命じるのである。『毎日新聞』がスクープした草案は、宮沢案とほぼ同一であり、そこでは(1)日本国は君主国である、(2)天皇は君主であり統治を行う、と述べられていた。マッカーサーがこの日本案を到底受け入れられるものではないと考えたのは、GHQの立場からすれば当然であろう。
ところで宮沢は新憲法の草案の提示後に次のように語ったという。「憲法全体が自発的にできているものではない。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得るところなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」(西修『日本国憲法を考える』文春新書)。「重要なこと」とはいうまでもなく、天皇君主制であろう。したがって宮沢はこの時点で、天皇主権の維持こそが最も重要な課題だと考えていたのである。ところがGHQ案を受け入れ、しかもそれを日本国民の総意であるかのように擬装して公布する、このことは自己欺瞞にすぎないという。だがその意味は、ただ、GHQの「押しつけ」憲法を自主制定のように装ったというだけのことではない。天皇主権の廃止を国民の総意であるかのように装ったということである。言い換えれば宮沢はこのとき、天皇主権の維持は国民の願望であると見なしていた。ところが、その国民の名において天皇主権を廃止するのが新憲法だったのである。そして、いうまでもなくその後、宮沢は新憲法の最も啓蒙的な擁護者となる。いわば戦後の護憲主義の元祖となるのである。
「無垢な民衆」という擬装
その後の護憲派はこの「押しつけ」について、例えば次のように述べる。家永三郎(1913~。歴史学者)は、憲法を「押しつけられた」のは国民ではなく支配層であるという。そもそもの戦争終結が国民の自発的な意志ではなく、「戦争勢力」の戦術転換によってなされたものであり、したがって「国体護持、いいかえれば帝國憲法的支配体制の維持のために降伏の道を選んだ権力者たちが、降伏後も帝國憲法的支配体制の温存のために全力を傾倒し」て、憲法の改正に反対したという(『憲法読本』岩波新書)。だから、新憲法を押しつけられたのは一部の支配層だというのだ。言い換えれば、国民は新憲法を待望していたということになる。そして、この背景には次のような考えがあった。務台理作(1890~1974。哲学者)は書いている。「現代においては国民自身が相手国に戦争を仕掛けることは絶対ない。戦争は常に政府の行為として始められる。どのような名において始められようと、戦争の行為は国民のものではない。なぜかというと、戦争の惨禍とその犠牲とはまちがいなく国民におわされるからである」(同前)
ここにあるあまりに素朴な政治論や安易なヒューマニズムの浅薄を指摘しても仕方がない。いかに浅薄であろうと、このような欺瞞が必要とされたということこそが重要なことである。この必要な欺瞞にイデオロギー的な同調を持ちえたからこそ、家永のような教条的な左翼主義が戦後の歴史観をリードできたのであった。そして、「戦後」を成り立たせるためには、この欺瞞が不可欠であることに気づいたために、宮沢は態度を一変させて、新憲法護持にまわったのであった。
その欺瞞の根底にあるものは、「戦後」を民主主義としてスタートさせるとするならば、「無垢な民衆」が存在しなければならない、ということである。「戦後」を画する新憲法が成立しうるためには、この憲法が謳い上げ、この憲法を支持する大衆(国民)がいなければならない。この国民大衆が、昨日まで熱狂的に天皇を崇拝し戦争を支持していたということでは困るのである。だから、国民はいやいやながら戦争を強制されたのであって、喜んで戦場に行ったかに見える場合にも、天皇イデオロギーに「騙されて」いたというのである。「国民はいつでも戦争を避けようと念願している」(務台理作)というわけである。宮沢は、国民が実際に天皇を支持していたことを知っていた。だから、国民は天皇君主制を望んでいると考えていたのである。しかし、それでは「戦後体制」はありえない。国民は、天皇主義者ではなく民主主義者でなければならなかった。そうでなければ「戦後」という時代が開始されないのである。
そして、その結果、ここにひとつの矛盾を抱き込むことになる。「本当は」平和愛好的だが、権力に脅かされて好戦的となったか、あるいは権力に騙されて好戦的となったか、いずれにせよこの二つの可能性を取るしか、「無垢な民衆」という神話を保持する方法はないのである。ここに描き出された民衆像はあまりにお粗末なものである。あるいは「無気力」なものといってもよいかもしれない。少なくとも西欧の歴史の中で民主主義を勝ち取ったと宣伝される「市民」なるものに比べれば、あまりにお粗末である。だが、そのお粗末な大衆をこそおだて上げ、ヒューマニズムの砂糖をまぶし、進歩主義のイデオロギーで装飾したもの、このこしらえものの世界こそが「戦後」の体制となってしまったのである。いうまでもなく、これは欺瞞であった。大多数の大衆は内心はいやいやながらであれ、一度戦争となれば恐怖をおし殺して戦場へ向かい、戦果を上げれば名誉を得られたと喜んだであろう。これはごく当然のことで、このことこそ、わたしにはむしろ、日本だけではなく、普遍的に見られる大衆と戦争の関係だと思われる。しかし、欺瞞は、まずそのことを罪とし、次に大衆にはその罪はないとし、「国民大衆は決して戦争を望まない」として「無垢な民衆」の主人公に仕立て上げようとしたことにある。
戦前に大衆の名を騙ったのは軍部だとすれば、戦後に大衆の名を騙ったのは進歩派知識人であった。しかし大衆とは一体何であったのだろうか?戦後体制の礎石に据えられた大衆(国民)とは、権力に弱く、すぐに騙される存在である。そう戦後民主主義者は考えたわけである。いかに彼らが「主体的市民」とやらを待望したとしても、彼らが想定したのは、右のような国民大衆であった。これは彼らの意図というより論理の問題である。ただしここでいう戦後民主主義者とは、左翼進歩派だけではなく、保守的な現実主義や穏健な現状肯定派も含めて戦後体制信奉者である。そして奇妙なことに、この、権力に弱く、すぐに騙される(と彼らが見なしている)大衆なるものに民主主義を託すことになったのであった。ここに戦後の「無気力」の基本的な原因があった。
だが問題は、この「欺瞞」の下で、大衆も含めて戦後日本が、ことごとくこの擬装の無謬を問うことをやめてしまった点にある。民主主義のためにアメリカによって免責された大衆も、この擬装をかつぐこととなった。この擬装の上に民主主義の担い手としての「大衆」という神話が作り出された。そこに「欺瞞」がある。そしてこの「欺瞞」を暴き出すことをタブーとすることによって戦後の「公式的な言説」が成立したのであった。
戦後の「疚しさ」
この「欺瞞」は心理的にいえば、一種の「疚しさ」の感覚を植えつけるものだといえるであろう。民主主義を唱える知識人にせよ、民主主義の担い手であるはずの大衆にせよ、ここにある種の「疚しさ」を覚えるほかない。それは決して明白に意識されたものでもなく、また論理的に説明できるものでもないだろう。しかし意識の下を絶えず流れ、音にならない音を奏して、戦後という時間の暗底に滞っているものである。それは時に聞き取れないぐらいの不協和音を響かせ、われわれの無意識にえもいえぬ不安をさざめかせる。その結果、どこまでいってもわれわれは戦後思想を、戦後民主主義を確信することができない。それを確信できるような「主体」が存在しないのである。
この「疚しさ」をもたらすものは何か?それはフロイト的な用語を借りて来て説明するのがわかりやすいと思われる。
いうまでもなく、この「疚しさ」を引き起こしたもの、それは、フロイト的にいえば「父殺し」にアナロジーできるものである。戦後民主主義へとなだれをうった知識人、大衆は、かつての自分たちの支配者もしくは指導者に侵略戦争の罪を帰し、いわば彼らを見捨てたといってよいだろう。戦犯として処刑された者たちは、その後ほとんど犯罪者扱いを受け、ほとんど弔われることさえなくなってしまった。それは必ずしもA級戦犯だけではない。特攻を初め戦死した兵士たちも侵略戦争という誤った戦争の実行者であった。こうして戦後という時代は、戦死者たちを丁重に弔うことすら忘却しようとしたのである。戦争を戦った次の世代の者にとり、そして戦後民主主義の中で育った世代にとってはこれはほとんど「父殺し」もしくは「父の見殺し」といってもよい。彼らはむろん直接の下手人ではないものの、心理的な「疚しさ」という点から見れば、彼らの内心で「父殺し」に手を貸していることになる。この「父殺し」あるいは殺された「父」を放置し死者をほとんど野晒しにするという仕打ちは、戦争世代に続く民主主義世代にある「疚しさ」あるいは「不安」心理を植えつけることとなった。
その結果として何が生じたのか?それを次に述べてみたい。
戦争を指導し、もしくは戦場で戦った「父」を殺した後、われわれは新たな「父」を持ちえたのか、というとそうではない。むしろ「父」を持たないことこそが戦後の決意であった。あらゆる「父」的なものを脱色化し脱力化しようとしたのである。民主主義とは「父」(強力な権力)を持たない政治体制であり、平和主義によって軍事力という「父」を追放した。国家にあっては天皇という「父」は脱権力化され象徴の地位へと「切り下げられ」、家族にあっては家父長的な意味での「父」の権威は失墜し、政治の場では「父」の役割を果たす強力な権力者は出現しえない。こうして、戦後の経験とは「父」を追放し「父」を「公式」の世界から排除したといってよい。あらゆる場所で「父」なるものを追放していったのが戦後であった。「父」を排除すれば、自由な個人による民主的で平和主義的な社会が実現できるというのが戦後の希望であり楽観であった。だがしかし、それはそもそも矛盾をはらんだ実験であったというべきである。
なぜなら「父」が存在しなければ確固たる自我も形成されないからである。強力な父を殺すというフロイトのいうエディプス・コンプレックスは、自我形成において重要な役割を果たす。象徴的に「父を殺す」ことによって子供はその自我を確立してゆく。この場合、「父」が強すぎてもまた弱すぎても自我は適切には構成されえない。エディプス・コンプレックスは強すぎても困るが、またそれがなくても自我は形成されない。では「父」が存在しない場合にはどうなるのか?「父」とは、まずは外的な力として子供の前に立ち現れる。言い換えれば、この外的な力に自分をぶつけ、また自分をそのような力に投影することによって、われわれが自己というものを知るようになる。この「父」をもう少し一般化していえば、子供が直面する現実の世界そのものといってよい。だから「父」に直面し、「父」と確執を持つことは、現実社会において自我を形成する基本となっているのである。
ところが「父」が存在しなければ、この意味での自我を形成することができない。現実社会に直面することができない。あるいは、現実に対してリアリティ(現実感)を持つことができない。その結果、彼は自閉的な自己のみの空想的世界にとどまるか、あるいは現実の中で、そのつどそのつどの「自我」の代理を求めて分裂症的に行動するだろう。いずれにせよ、ここには確かな自我が存在しないのであり、この行動にはリアリティがないのである。
これがおおよそ戦後日本に生じた心理的傾向ではなかったろうか?民主主義という制度は作り出したものの、その「主体」を作り出すことができない。「主体」つまり「自我」(セルフ・アイデンティティ)は、ただ自由で脱権力化すれば作り出されるのではない、一切の拘束を逃れれば主体が成立するのではない。過度な拘束が主体を破損するのは事実だとしても、だからといって拘束を除去すれば主体が成立するわけではない。主体(セルフ・アイデンティティ)は、ある程度の権力、権威、拘束、規律といった「父」なるものを必要とするのである。
「父」を追放した戦後日本で、実際に「父」の代理を行ったのはアメリカである。それは一種の「父」なるものではあった。だが、その支配は、占領期においてさえ決して目に見えて直接的なものではなく、アメリカは常に日本という国家の背後に控える大きな「影」と意識された。それは日本という国家の上に覆いかぶさる何か大きなものの「影」であって、それが明確に姿を現して、日本という国土の中にいるわれわれに働きかけてくることはない。
その結果、二重に不幸なことが生じた。一方では、日本という「国家」がこの影に覆われてしまい、国家としての姿を見極めることが困難となったのであり、他方で、アメリカの「父性」が決して明瞭に意識されるには至らなかったことである。こうして、日本の「国民」という立場でいえば、それは「日本国家」という「父」も、たま「アメリカ」という「父」も事実上、切迫した意識の表面に立ち現れることは全くなかったことになる。かくして日本という「国家」は、その自我形成をうまく果たすことに失敗した、つまり国家意識あるいはナショナル・アイデンティティを持つことができなかった。これが戦後生じたことである。
さらにいえば、ほとんど「父」なるものと直面することなく、自由な社会環境の中で育てられた戦後世代のされにその子供たちが、自我形成に大いに不安をもっていることも、国家意識の喪失ということと決して無関係ではない。エディプス期をうまく通過できなかった者が自我形成においてうまくいかなかったということは、したがって、ただ個々の問題ではなく、戦後日本そのものへの問いかけである。自我(セルフ・アイデンティティ)とはすでに述べたように、ただ、拘束から自由になれば自己完結的に成立するようなものではない。それは他者と、権威や社会的ルールと、言語や文化と、自己を切り結ぶことによって初めて可能となるのである。その意味での自我意識(セルフ・アイデンティティ)を持ちえないことが、今日の、とりわけ若者たちの問題となっている。そしてこれは、因果関係においてではないが、戦後日本の国家意識の崩壊と決して別のことではない。同じ事態の二つの現れというべきなのである。
(参考リンク)
八月革命は起こってません!宮沢俊義の大日本帝国憲法改正反対論
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/40249379.html
八月革命は起こりません ――― 現代日本文明史(5)法律史 中川善之助 宮澤俊義 昭和19年発行
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/40288066.html
アングロ・サクソン国家のたそがれ 宮沢俊義 42歳
http://jp.youtube.com/watch?v=7ATJc7QMsf0
売国奴かつ曲学阿世の宮沢俊義 → 毎日新聞スクープ
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/34950506.html
戦争犯罪「日本国憲法」を受け入れた宮澤俊義は戦争犯罪人
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/25277181.html
元凶は東大法学部
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/13749651.html
悠仁天皇と皇室典範 中川八洋 清流出版
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/23055279.html
「無血革命」と原爆投下理由の虚構
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/17137577.html
昭和38年芦部小林八月革命説破綻
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/34918568.html
清水澄博士 帝国憲法に殉死
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/21994426.html
宮沢俊義 校註 憲法義解
http://blogs.yahoo.co.jp/inosisi650/5612378.html

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