大日本帝国憲法とは何か 3-1
これだけは譲れない 歴史教科書10の争点
藤岡信勝+「新しい歴史教科書をつくる会」 徳間書店・1500円
第6章・大日本帝国憲法とは何か (p145~) 大月短期大学教授・小山常実
【第一部】
明治維新の意味
明治憲法をどう捉えるかという場合、これを三つに分けて考えてみたいと思います。
①まずは明治憲法の成立過程に関して。
②次は明治憲法自体の検討です。
③そして明治憲法ができて以降の政治について。
このなかでも二番目の部分が中心で、私自身の研究に基づいてお話しさせていただきます。
最初の「成立過程」に入る前に、明治維新の意味に関して簡単に触れて起きます。明治維新は革命か改革かという問題です。私自身は最近「公民国家革命」または「国民国家革命」と位置づけるのがいいのではないかと思いはじめています。なぜかというと、権威に関して、権力に関して、明らかに江戸時代までの体制から転換しているからです。
まず権威に関してですが、日本の最高権威は一貫して天皇であったと見ることができますが、しかしそれには少し留保がつく。たとえば江戸時代には天皇の権威の代わりが幾つかありました。関白があるし、院があった。院というのは天皇のお父上です。権威は、天皇、院、関白と三つあった。
それからもうひとつ大きいのは将軍です。将軍と天皇の関係はどうだったかというと、必ずしも天皇が上ではなかった。天皇の勅使が江戸城に向かったときの会い方にしても、将軍のほうが威張っているところがありました。また、対外的にも「日本の国王」は将軍でした。そうすると日本の権威に当たるものが四種類ぐらい考えられたわけです。明治維新はこれを天皇一本に統一した。これはものすごい転換です。
次に権力編成原理も変わりました。江戸時代は、政治家にしても官僚にしても軍人にしてもすべて武士でしたが、明治に入ると、これが全国民から選ばれるようになります。権威の面でも権力の面でも大いなる転換があった。これはひとつの革命と見ることができるだろうと思います。
さらに天皇に権威が集中してくると同時に、公議による政治という考え方が広がっていきます。もともとはペリーの来航を受け、幕府が武士を中心に「どうしたらいいか」と意見を聞いたことにはじまって、だんだんと政治に口を出す人間が増えていき、公議に基づいていろいろなことを決定していこうという規範が幕末維新期に広まっていったわけですが、この延長上にあるのが明治憲法だといえます。
明治政権と自由民権運動の憲法草案はほぼ同じだった
このあたりのことを踏まえて、明治憲法の成立過程を見ておきます。明治政権の正統性を支えたものはいったい何だったのか。これには二つあるのではないか。
ひとつは、明治政権は明治天皇によって信任されているということ。幕末以来、佐幕派も含めて明確に尊皇思想があったことが基盤になっています。もうひとつは下から迫られたことでもありますが、天皇を含めて公議による政治を拡大させないと正統性が疑われてしまうということです。だから自由民権運動も盛り上がった。①天皇の信任を得ているということ、②公議政治を拡大するということ、この二つを満たすことによって明治政権が支えられていくという構造がありました。
そこで明治政権はまず地方議会をつくって議会政治の練習をしました。そのうえで帝国議会をつくった。現実にもそういう流れになっています。いわば、自由民権運動とは関係なしに、明治政府は明治政府で帝国憲法を起草し、議会を開くことを考えたわけですが、そうした事実について中学校の教科書はいっさい記さずにきています。また、自由民権運動と明治政権の考え方はずいぶん違う、対立的であると強調してきたわけですが、ところが両者の草案を検討してみると、じつはすべてが立憲君主制の草案です。
両者、基本的には同じなのです。教科書がしばしば挙げる植木枝盛の草案や「五日市憲法」にしても、明らかに立憲君主制です。それにもかかわらず「対立的である」と書くのはデマゴギーです。教科書はそういうデマを昔から流し続けてきた。これは是非とも指摘しておかなければなりません。
実際は明治政権も自由民権運動も、尊皇思想と公議による政治を打ち立てようとしていたのです。「公議」は立憲制に行き、「尊皇思想」は君主制に行きました。明治政権も自由民権運動もほぼ共通性をもった草案を立てていたということになります。ところが教科書は「国民は内容も知らずに憲法を祝っている。何て馬鹿な国民だ」といった意味のドイツ人の医者ベルツの日記をしばしば紹介しています。
つねに三社ぐらいの教科書にこの日記が引かれています。というのも、当時の国民は憲法を歓迎したというのが現実だからです。自由民権運動の活動家もほぼ高い評価をしています。だから教科書を鵜呑みにすると間違ってしまう。教科書の明治憲法評価はほとんど嘘っぱちだといってもかまいません。
独立国を目指した明治憲法
では明治憲法とはどういう特徴を持った憲法だったのか。憲法自体の話に移ります。ここが私としてはいちばんお話ししたい部分です。詳しくは拙著『天皇機関説と国民教育』(アカデミア出版会)、『「日本国憲法」無効論』(草思社)を参照していただければと思いますが、まず明治憲法は「独立国を目指す憲法だった」と位置づけることができます。
ご承知のように当時の日本は不平等条約によって半独立国の位置に立たされていました。それに由来する屈辱的な出来事はいくつかあります。あとえば「ノルマントン号事件」(1886年)です。イギリスの汽船が紀州沖で難破したとき、イギリス人の船員たちは日本人乗客をまったく助けようとしなかった。それで日本人乗客は二十五人全員が溺れ死んでしまった。
これはまさしく殺人罪に該当するわけですが、当時はイギリスが裁判権を持っていましたから船長は、最初は無罪でした。これに日本人は怒った。そこでもう一度裁判をやり直しますが、三ヶ月前後の罪でした。
そういう不平等条約を結んでいたから屈辱的なことはいっぱいありました。災難もいろい降りかかってきた。そういうなかで憲法を持たなければいけないという機運が高まった。憲法を持った国になることが独立国になる道である、というわけです。
軍事力の問題もあります。十九世紀後半は軍事力がものをいう時代でしたから、それなりに軍事力を持たないかぎり独立できない。ということで軍事力と憲法、その他の法律を整備することによって独立を達成しようとした。その意味で、明治憲法は独立国を目指す憲法だといえる。
それから自由主義・立憲主義の憲法である。これが明治憲法の二つ目の特徴だといえます。自由主義的であるという意味合いは「権力分立」ということです。もうひとつは国民代表の「議会を持つ」ということ。主にこの二点によって自由主義的な色彩が出ています。
明治憲法の正式名称は「大日本帝国憲法」ですが、なぜ「大日本帝国」なのか。当時、つまり明治十年代の国家のリーダーたちは、自由民権派も含めて、みな大国路線でした。もちろんどの国をモデルにするのか、ロシアなのかイギリスなのか、あるいはフランスなのかドイツなのか、そういう違いはありますが、みんなが大国路線を選択したことははっきりしています。
それが「大日本帝国」という名前に表れています。日本国は現実としては小国にすぎないけれども、念願としては将来的にイギリスやプロシア(ドイツ)並の大国になっていくのだという意志がここに込められている。注意すべきは、自由民権派も大国路線を選択したということです。大国でなければ独立を維持できない時代だったから、これは当然です。
それから、政権側の井上毅と中江兆民などが結構仲がよくて、いろいろ意見交換をしていることも面白い。国家権力に近い人と左翼及び反体制派の人たちが大逆事件あたりまでは話し合いをしていた。それも一応指摘しておきたいと思います。
ただし「大日本帝国」と称しながら、対外的には「日本国」としか称さなかったことも大事です。条約を見るとつねに「日本国」となっています。天皇と称さないで「皇帝」です。これを変えたのは昭和十一年です。昭和十年に天皇機関説事件がありましたが、その影響で大日本主義的な色彩が強まってきて、岡田(啓介)内閣が条約でも「天皇」と謳おう、「大日本帝国」と謳おうという閣議決定をした。それ以降は「大日本帝国天皇」です。
ついでにいっておきますと、日本がほんとうの意味で独立国になったのは昭和十七年です。それまでは外国人の旧居留地における特に不動産をめぐる特権が生き残っていた。日本はまあ、明治四十四年に独立国家になったといえないこともないけれども、じつは完全な独立国家だったのは世界を敵に回した三年間だけなのです。
国体・政体の二元構造
さて、この憲法は国体・政体の二元構造になっています。国体論と政体論は分けて考えるのが戦前の常識だったからです。国体は「和魂」の部分、政体は「洋才」の部分といえば分かりやすいかと思います。和魂洋才思想が国体・政体という二元構造をつくったと言い換えても同じです。
具体的にいうと、私は明治憲法の一条から四条前半までが国体論と考えています。一般的には、戦前の憲法学者は第一条から三条までが国体論の部分で、五条以下を政体論の部分と捉え、国体の部分は変えてはいけないと見ていたようですが、私は四条の前半までが国体論だと考えています。
国体論の部分を見ますと、天皇の意思で国家意思を決定していくと書いてあります。一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書いてあるし、四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ・・・・」とあります。政治の主体は明らかに天皇です。これは一応、歴史や伝統を保守する部分だと理解できます。そのいちばん端的な表現が「万世一系ノ天皇」という言い方です。
ついでにいっておきますと、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」という三条はのちに現人神に関係づけられますが、少なくともつくられたときはまったく関係はありません。これはあくまでも大臣責任論とのセットで、天皇は無答責であるという意味です。天皇は責任を問われない。ということは逆に、大臣が責任をもって政治を行うということです。そういう天皇無答責の規定として三条は読むべきだし、そういうつもりで明治政府もこの条項を入れたわけです。
五条以下が政体論になります。国家権力を行使する、あるいは国家の意思を形成するものとしての内閣、天皇、議会に関わる規定です(裁判所の問題は脇に置いておく)が、この三者のなかで誰(どこ)が力を持っていたのか、ということが重要な問題になります。
天皇機関説をめぐって
国体・政体の二元構造を押さえると、じつはなぜ美濃部達吉が二回にもわたって迫害されたのか、そして彼はなぜ敗れたのかということが分かってきます。結論からいえば、「天皇」のライバルとして「議会」を登場させてしまったことが美濃部の失策でした。天皇と権威を争う存在として議会を登場させてしまった------これが美濃部が迫害された大きな理由だと見ています。それは当時の学説を分類してみるとよく分かります。
当時の学説は五種類存在します。
①国体・政体二元論の天皇主権説。
ここには穂積八束、上杉慎吉、清水澄、佐藤丑次郎といった錚々たる憲法学者がいます。
②国体・政体二元論の天皇機関説。
これがじつはいちばん安定的な学説でした。私はこれがいちばんオーソドックスな学説だと思います。美濃部がこの学説を取っていたら、歴史は相当変わったのではないか。この国体・政体二元論の天皇機関説には、副島義一、佐々木惣一、市村光恵、金森徳次郎がいる。それから、論理的にいうと筧克彦さんも機関説です。
③そして国体・政体二元論を維持しており、国体論では天皇主権説を取るけれども、政体論の上では天皇機関説だというややこしい学説。
これは有名な国際法学者・有賀長雄さんです。有賀さんに関してはみなさんまったく間違って理解しておりまして、片一方だけ捉えて天皇機関説に入れたり、片一方だけ捉えて天皇主権説に入れたりしていますが、そうではなくて、国体論と政体論を分けて考えればすっきりとその学説を捉えられます。
④政体一元論の天皇主権説。
これは、井上密、末岡精一。
⑤そして政体一元論の天皇機関説。
これが一木喜徳郎。美濃部達吉のお師匠さんです。さらに美濃部達吉や野村淳治がここに入ります。これは政体一元論をとり、天皇を最高機関と捉えます。美濃部さんを例にしていうと、政体一元論では天皇を機関だとする。議会も機関です。国民と天皇を原始的直接機関という言葉で平等に扱い、議会を国民の代表機関とする。最高機関はどちらかといえば天皇だというわけですから明確に「国体違反」とはいえないけれども、「国体違反だ」と攻撃される可能性を持った学説です。
美濃部さんの説をさらに進めると北一輝になります。北一輝は、最高機関は天皇と議会だといいます。天皇プラス議会が日本の最高機関だという。北一輝は美濃部達吉の講義を受けた上で、自分の天皇機関説をつくっていますが、明治三十九年に『国体論及び純正社会主義』が発禁処分になる。
それがなぜ当局の逆鱗に触れたかといえば、最高機関を天皇と議会とすると、では天皇と議会とどちらが上だという問題が出てくるからです。前にも触れましたように、明治国家は天皇を最高権威として統一したはずなのに、議会が前面に出てきてしまう。そこが許せないというわけです。美濃部もそれに近いところが少しあります。
天皇機関説論争は、明治四十五年から大正二年にかけて行われますけれども、そのとき美濃部と上杉をたしなめて浮田和民さんは、「上杉は国体論に偏している、美濃部は政体論に偏している」といったわけです。そして美濃部に関して「国体・政体二元論を認めないのはおかしい」と批判しています。
一般的に、天皇機関説論争は美濃部の勝利に帰したといわれていますが、必ずしもそうではありません。天皇機関説か天皇主権説か、という問題では美濃部が勝った。しかし国体・政体二元論か政体一元論かの問題では国体・政体二元論が完全に勝ったわけです。
美濃部はこれと同じことを昭和十年にもう一回繰り返して、結局追放されます。だから私は、副島義一さんあたりが東大の憲法学を教えて、最高の権威者であったなら相当歴史が変わったのではないかと思っています。
なぜ二元構造なのか
ではなぜ国体・政体の二元構造なのか、なぜ天皇なのか、という問題に移ります。まず指摘しておきたいのは、明治政権がとったヨーロッパ化・文明化に対するスタンスです。これは「制限的欧化論」とでもいえるような立場でした。制限的欧化論といわれてもピンとこないかもしれませんが、一方には完全欧化論というものが論理的に考えられます。
完全欧化論とはどういうものかというと、日本が西洋諸国の親族になれば独立国に上昇できると考えるものです。宗教もキリスト教にしたらいいじゃないかという。あるいは白人種の「優秀」な血を入れて日本人を白人化する。また日本語で演説もなかなかうまくできないから英語にしてしまおうという議論もありました。
最初の文部大臣・森有礼は明治初期に「英語国語化論」を述べています。そして明六社のなかで福沢諭吉と論争しています。森有礼は、日本語は劣弱な言語だから、これでは文明化できないといった。それに対して福沢諭吉は見事に反論しています。福沢諭吉は、「いや、日本語でも演説できる」といって日本語で論理的な議論をきちんとやってみせます。私は、福沢諭吉は嫌いだったのですが、その話を知ってからある程度好きになりました。ともかく、そういう完全欧化論がありました。そうすれば、ヨーロッパのほうも自分の親戚と考えて独立国にしてくれるだろうという議論です。
それに対して井上毅は----------それではだめだ。法律をヨーロッパ風にすることでヨーロッパと対等な条約を結んで独立国になるのだといった。日本をどう変えるかというときに、保守すべきところは保守する。変えるべきところは変える。簡単にいっていまえば、制限的欧化論というのは和魂洋才論で、基本的にその立場を取ろうといったわけです。そこから二元構造が出てきます。
つまり一方では政体論のレベルで、政治の自由、思想の自由、信教の自由を認める。しかし国家がバラバラになってしまったら、いくらきれい事をいったって人権は奪われる。だからもう一方では、国家をきちんと統合しなければいけない。そのために国体論を利用する。これが第一のポイントです。
二番目のポイントは、「日本のキリスト教」としての国体論という意味合いがあります。ヨーロッパやアメリカを見ると、国王や大統領はキリスト教の神からの委任によって国民を支配している。国民主権国家になってもそこは変わらない。国民主権になろうが、その上にはつねに神がいる。これはいまでも完全には崩れていません。七割がたは生き延びています。欧米では国民のほとんどがキリスト教徒ですから、キリスト教が国民統合の役割を果たしている。それから国民の道徳教育の役割も果たしてきた。これが愛国心にもつながっていくと捉えた。そこで日本でも「キリスト教」に相当するものを探したわけです。
いちばん信徒が多いのは仏教ですが、しかし仏教にはそんな力はもはやない。そうやっていろいろ探した上で辿り着いたのが「万世一系ノ天皇」です。井上毅が森文部大臣のために代書した文書があります。これは両者の意見が一致している点ですが、次のようなことを書いています。「我国万世一王天地と与(とも)に限極なく、上古以来、威武の輝く所、未た曾て一たひも(いまだかつてひとたびも)外国の屈辱を受けたることあらす(中略)、為に無二の資本至大の宝源にして・・・・・」。万世一系の天皇が続いてきているから外国に侵略されたことが一度もない。これは無二の資本であると捉えたわけです。こういった考えが国体論を生み出し、さらに明治憲法のなかにも入ってきます。
そして三番目に、これはある意味でいちばん本質的な点だと思いますが、文明化学習の主体形成の根拠としてどうしても天皇が必要だったということがある。当時、明治四年から六年にかけて岩倉遣欧使節団がヨーロッパとアメリカに行っています。そこで日本が後れていることを痛感する。そんな感覚が明治一桁から十年代の日本人一般を支配していた。ある種の劣等感ですが、それを克服していくとき「万世一系ノ天皇」という観念はかなり強力に作用したわけです。われらは道徳的な国民だから王を殺してこなかった。だから天皇家も連綿と続いている。それは日本人が忠義という道徳を守ってきた証明だと考えられていくわけです。
先生と生徒の関係を思い浮かべていただいたら分かると思います。生徒が先生に対して「先生に比べたら何をしても負けるよな」と、そう思っているようではだめです。それでは結局、あまり成長しない。やはりどこかで「この点は先生より勝っているよな」というふうに思えなければいけない。基本的に尊敬していても、どこかで自分のほうが上だというところを一点でも二点でも持っていないと学習は成立しない。同じことが日本とヨーロッパとの関係でもいえるわけです。日本という弟子が文明化に成功するためには、どこかの一点でヨーロッパに勝っているというプライドが必要だ。それが文明化を進めていく根源になる。それが「万世一系ノ天皇」という国体論だったのではないか。私自身は、この三点目が二元構造の背景としては大きいのではないかと思っています。
結局、国体論はある種の欧化論なのです。欧化学習を進めていくためには、どうしてもこういう学習主体形成の根拠としての国体論が必要であったということです。じっさい、ヨーロッパの人も、もう少し日本的なものを残さないと大変じゃないのかという感想を持っていたようです。そこで、明治政権も、やはり日本的なものを残していかないとだめだというふうに思って残していった。それが憲法論では国体論というかたちで表れているわけです。
大日本帝国憲法とは何か 3-2 へつづく
これだけは譲れない 歴史教科書10の争点
藤岡信勝+「新しい歴史教科書をつくる会」 徳間書店・1500円
第6章・大日本帝国憲法とは何か (p145~) 大月短期大学教授・小山常実
【第一部】
明治維新の意味
明治憲法をどう捉えるかという場合、これを三つに分けて考えてみたいと思います。
①まずは明治憲法の成立過程に関して。
②次は明治憲法自体の検討です。
③そして明治憲法ができて以降の政治について。
このなかでも二番目の部分が中心で、私自身の研究に基づいてお話しさせていただきます。
最初の「成立過程」に入る前に、明治維新の意味に関して簡単に触れて起きます。明治維新は革命か改革かという問題です。私自身は最近「公民国家革命」または「国民国家革命」と位置づけるのがいいのではないかと思いはじめています。なぜかというと、権威に関して、権力に関して、明らかに江戸時代までの体制から転換しているからです。
まず権威に関してですが、日本の最高権威は一貫して天皇であったと見ることができますが、しかしそれには少し留保がつく。たとえば江戸時代には天皇の権威の代わりが幾つかありました。関白があるし、院があった。院というのは天皇のお父上です。権威は、天皇、院、関白と三つあった。
それからもうひとつ大きいのは将軍です。将軍と天皇の関係はどうだったかというと、必ずしも天皇が上ではなかった。天皇の勅使が江戸城に向かったときの会い方にしても、将軍のほうが威張っているところがありました。また、対外的にも「日本の国王」は将軍でした。そうすると日本の権威に当たるものが四種類ぐらい考えられたわけです。明治維新はこれを天皇一本に統一した。これはものすごい転換です。
次に権力編成原理も変わりました。江戸時代は、政治家にしても官僚にしても軍人にしてもすべて武士でしたが、明治に入ると、これが全国民から選ばれるようになります。権威の面でも権力の面でも大いなる転換があった。これはひとつの革命と見ることができるだろうと思います。
さらに天皇に権威が集中してくると同時に、公議による政治という考え方が広がっていきます。もともとはペリーの来航を受け、幕府が武士を中心に「どうしたらいいか」と意見を聞いたことにはじまって、だんだんと政治に口を出す人間が増えていき、公議に基づいていろいろなことを決定していこうという規範が幕末維新期に広まっていったわけですが、この延長上にあるのが明治憲法だといえます。
明治政権と自由民権運動の憲法草案はほぼ同じだった
このあたりのことを踏まえて、明治憲法の成立過程を見ておきます。明治政権の正統性を支えたものはいったい何だったのか。これには二つあるのではないか。
ひとつは、明治政権は明治天皇によって信任されているということ。幕末以来、佐幕派も含めて明確に尊皇思想があったことが基盤になっています。もうひとつは下から迫られたことでもありますが、天皇を含めて公議による政治を拡大させないと正統性が疑われてしまうということです。だから自由民権運動も盛り上がった。①天皇の信任を得ているということ、②公議政治を拡大するということ、この二つを満たすことによって明治政権が支えられていくという構造がありました。
そこで明治政権はまず地方議会をつくって議会政治の練習をしました。そのうえで帝国議会をつくった。現実にもそういう流れになっています。いわば、自由民権運動とは関係なしに、明治政府は明治政府で帝国憲法を起草し、議会を開くことを考えたわけですが、そうした事実について中学校の教科書はいっさい記さずにきています。また、自由民権運動と明治政権の考え方はずいぶん違う、対立的であると強調してきたわけですが、ところが両者の草案を検討してみると、じつはすべてが立憲君主制の草案です。
両者、基本的には同じなのです。教科書がしばしば挙げる植木枝盛の草案や「五日市憲法」にしても、明らかに立憲君主制です。それにもかかわらず「対立的である」と書くのはデマゴギーです。教科書はそういうデマを昔から流し続けてきた。これは是非とも指摘しておかなければなりません。
実際は明治政権も自由民権運動も、尊皇思想と公議による政治を打ち立てようとしていたのです。「公議」は立憲制に行き、「尊皇思想」は君主制に行きました。明治政権も自由民権運動もほぼ共通性をもった草案を立てていたということになります。ところが教科書は「国民は内容も知らずに憲法を祝っている。何て馬鹿な国民だ」といった意味のドイツ人の医者ベルツの日記をしばしば紹介しています。
つねに三社ぐらいの教科書にこの日記が引かれています。というのも、当時の国民は憲法を歓迎したというのが現実だからです。自由民権運動の活動家もほぼ高い評価をしています。だから教科書を鵜呑みにすると間違ってしまう。教科書の明治憲法評価はほとんど嘘っぱちだといってもかまいません。
独立国を目指した明治憲法
では明治憲法とはどういう特徴を持った憲法だったのか。憲法自体の話に移ります。ここが私としてはいちばんお話ししたい部分です。詳しくは拙著『天皇機関説と国民教育』(アカデミア出版会)、『「日本国憲法」無効論』(草思社)を参照していただければと思いますが、まず明治憲法は「独立国を目指す憲法だった」と位置づけることができます。
ご承知のように当時の日本は不平等条約によって半独立国の位置に立たされていました。それに由来する屈辱的な出来事はいくつかあります。あとえば「ノルマントン号事件」(1886年)です。イギリスの汽船が紀州沖で難破したとき、イギリス人の船員たちは日本人乗客をまったく助けようとしなかった。それで日本人乗客は二十五人全員が溺れ死んでしまった。
これはまさしく殺人罪に該当するわけですが、当時はイギリスが裁判権を持っていましたから船長は、最初は無罪でした。これに日本人は怒った。そこでもう一度裁判をやり直しますが、三ヶ月前後の罪でした。
そういう不平等条約を結んでいたから屈辱的なことはいっぱいありました。災難もいろい降りかかってきた。そういうなかで憲法を持たなければいけないという機運が高まった。憲法を持った国になることが独立国になる道である、というわけです。
軍事力の問題もあります。十九世紀後半は軍事力がものをいう時代でしたから、それなりに軍事力を持たないかぎり独立できない。ということで軍事力と憲法、その他の法律を整備することによって独立を達成しようとした。その意味で、明治憲法は独立国を目指す憲法だといえる。
それから自由主義・立憲主義の憲法である。これが明治憲法の二つ目の特徴だといえます。自由主義的であるという意味合いは「権力分立」ということです。もうひとつは国民代表の「議会を持つ」ということ。主にこの二点によって自由主義的な色彩が出ています。
明治憲法の正式名称は「大日本帝国憲法」ですが、なぜ「大日本帝国」なのか。当時、つまり明治十年代の国家のリーダーたちは、自由民権派も含めて、みな大国路線でした。もちろんどの国をモデルにするのか、ロシアなのかイギリスなのか、あるいはフランスなのかドイツなのか、そういう違いはありますが、みんなが大国路線を選択したことははっきりしています。
それが「大日本帝国」という名前に表れています。日本国は現実としては小国にすぎないけれども、念願としては将来的にイギリスやプロシア(ドイツ)並の大国になっていくのだという意志がここに込められている。注意すべきは、自由民権派も大国路線を選択したということです。大国でなければ独立を維持できない時代だったから、これは当然です。
それから、政権側の井上毅と中江兆民などが結構仲がよくて、いろいろ意見交換をしていることも面白い。国家権力に近い人と左翼及び反体制派の人たちが大逆事件あたりまでは話し合いをしていた。それも一応指摘しておきたいと思います。
ただし「大日本帝国」と称しながら、対外的には「日本国」としか称さなかったことも大事です。条約を見るとつねに「日本国」となっています。天皇と称さないで「皇帝」です。これを変えたのは昭和十一年です。昭和十年に天皇機関説事件がありましたが、その影響で大日本主義的な色彩が強まってきて、岡田(啓介)内閣が条約でも「天皇」と謳おう、「大日本帝国」と謳おうという閣議決定をした。それ以降は「大日本帝国天皇」です。
ついでにいっておきますと、日本がほんとうの意味で独立国になったのは昭和十七年です。それまでは外国人の旧居留地における特に不動産をめぐる特権が生き残っていた。日本はまあ、明治四十四年に独立国家になったといえないこともないけれども、じつは完全な独立国家だったのは世界を敵に回した三年間だけなのです。
国体・政体の二元構造
さて、この憲法は国体・政体の二元構造になっています。国体論と政体論は分けて考えるのが戦前の常識だったからです。国体は「和魂」の部分、政体は「洋才」の部分といえば分かりやすいかと思います。和魂洋才思想が国体・政体という二元構造をつくったと言い換えても同じです。
具体的にいうと、私は明治憲法の一条から四条前半までが国体論と考えています。一般的には、戦前の憲法学者は第一条から三条までが国体論の部分で、五条以下を政体論の部分と捉え、国体の部分は変えてはいけないと見ていたようですが、私は四条の前半までが国体論だと考えています。
国体論の部分を見ますと、天皇の意思で国家意思を決定していくと書いてあります。一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書いてあるし、四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ・・・・」とあります。政治の主体は明らかに天皇です。これは一応、歴史や伝統を保守する部分だと理解できます。そのいちばん端的な表現が「万世一系ノ天皇」という言い方です。
ついでにいっておきますと、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」という三条はのちに現人神に関係づけられますが、少なくともつくられたときはまったく関係はありません。これはあくまでも大臣責任論とのセットで、天皇は無答責であるという意味です。天皇は責任を問われない。ということは逆に、大臣が責任をもって政治を行うということです。そういう天皇無答責の規定として三条は読むべきだし、そういうつもりで明治政府もこの条項を入れたわけです。
五条以下が政体論になります。国家権力を行使する、あるいは国家の意思を形成するものとしての内閣、天皇、議会に関わる規定です(裁判所の問題は脇に置いておく)が、この三者のなかで誰(どこ)が力を持っていたのか、ということが重要な問題になります。
天皇機関説をめぐって
国体・政体の二元構造を押さえると、じつはなぜ美濃部達吉が二回にもわたって迫害されたのか、そして彼はなぜ敗れたのかということが分かってきます。結論からいえば、「天皇」のライバルとして「議会」を登場させてしまったことが美濃部の失策でした。天皇と権威を争う存在として議会を登場させてしまった------これが美濃部が迫害された大きな理由だと見ています。それは当時の学説を分類してみるとよく分かります。
当時の学説は五種類存在します。
①国体・政体二元論の天皇主権説。
ここには穂積八束、上杉慎吉、清水澄、佐藤丑次郎といった錚々たる憲法学者がいます。
②国体・政体二元論の天皇機関説。
これがじつはいちばん安定的な学説でした。私はこれがいちばんオーソドックスな学説だと思います。美濃部がこの学説を取っていたら、歴史は相当変わったのではないか。この国体・政体二元論の天皇機関説には、副島義一、佐々木惣一、市村光恵、金森徳次郎がいる。それから、論理的にいうと筧克彦さんも機関説です。
③そして国体・政体二元論を維持しており、国体論では天皇主権説を取るけれども、政体論の上では天皇機関説だというややこしい学説。
これは有名な国際法学者・有賀長雄さんです。有賀さんに関してはみなさんまったく間違って理解しておりまして、片一方だけ捉えて天皇機関説に入れたり、片一方だけ捉えて天皇主権説に入れたりしていますが、そうではなくて、国体論と政体論を分けて考えればすっきりとその学説を捉えられます。
④政体一元論の天皇主権説。
これは、井上密、末岡精一。
⑤そして政体一元論の天皇機関説。
これが一木喜徳郎。美濃部達吉のお師匠さんです。さらに美濃部達吉や野村淳治がここに入ります。これは政体一元論をとり、天皇を最高機関と捉えます。美濃部さんを例にしていうと、政体一元論では天皇を機関だとする。議会も機関です。国民と天皇を原始的直接機関という言葉で平等に扱い、議会を国民の代表機関とする。最高機関はどちらかといえば天皇だというわけですから明確に「国体違反」とはいえないけれども、「国体違反だ」と攻撃される可能性を持った学説です。
美濃部さんの説をさらに進めると北一輝になります。北一輝は、最高機関は天皇と議会だといいます。天皇プラス議会が日本の最高機関だという。北一輝は美濃部達吉の講義を受けた上で、自分の天皇機関説をつくっていますが、明治三十九年に『国体論及び純正社会主義』が発禁処分になる。
それがなぜ当局の逆鱗に触れたかといえば、最高機関を天皇と議会とすると、では天皇と議会とどちらが上だという問題が出てくるからです。前にも触れましたように、明治国家は天皇を最高権威として統一したはずなのに、議会が前面に出てきてしまう。そこが許せないというわけです。美濃部もそれに近いところが少しあります。
天皇機関説論争は、明治四十五年から大正二年にかけて行われますけれども、そのとき美濃部と上杉をたしなめて浮田和民さんは、「上杉は国体論に偏している、美濃部は政体論に偏している」といったわけです。そして美濃部に関して「国体・政体二元論を認めないのはおかしい」と批判しています。
一般的に、天皇機関説論争は美濃部の勝利に帰したといわれていますが、必ずしもそうではありません。天皇機関説か天皇主権説か、という問題では美濃部が勝った。しかし国体・政体二元論か政体一元論かの問題では国体・政体二元論が完全に勝ったわけです。
美濃部はこれと同じことを昭和十年にもう一回繰り返して、結局追放されます。だから私は、副島義一さんあたりが東大の憲法学を教えて、最高の権威者であったなら相当歴史が変わったのではないかと思っています。
なぜ二元構造なのか
ではなぜ国体・政体の二元構造なのか、なぜ天皇なのか、という問題に移ります。まず指摘しておきたいのは、明治政権がとったヨーロッパ化・文明化に対するスタンスです。これは「制限的欧化論」とでもいえるような立場でした。制限的欧化論といわれてもピンとこないかもしれませんが、一方には完全欧化論というものが論理的に考えられます。
完全欧化論とはどういうものかというと、日本が西洋諸国の親族になれば独立国に上昇できると考えるものです。宗教もキリスト教にしたらいいじゃないかという。あるいは白人種の「優秀」な血を入れて日本人を白人化する。また日本語で演説もなかなかうまくできないから英語にしてしまおうという議論もありました。
最初の文部大臣・森有礼は明治初期に「英語国語化論」を述べています。そして明六社のなかで福沢諭吉と論争しています。森有礼は、日本語は劣弱な言語だから、これでは文明化できないといった。それに対して福沢諭吉は見事に反論しています。福沢諭吉は、「いや、日本語でも演説できる」といって日本語で論理的な議論をきちんとやってみせます。私は、福沢諭吉は嫌いだったのですが、その話を知ってからある程度好きになりました。ともかく、そういう完全欧化論がありました。そうすれば、ヨーロッパのほうも自分の親戚と考えて独立国にしてくれるだろうという議論です。
それに対して井上毅は----------それではだめだ。法律をヨーロッパ風にすることでヨーロッパと対等な条約を結んで独立国になるのだといった。日本をどう変えるかというときに、保守すべきところは保守する。変えるべきところは変える。簡単にいっていまえば、制限的欧化論というのは和魂洋才論で、基本的にその立場を取ろうといったわけです。そこから二元構造が出てきます。
つまり一方では政体論のレベルで、政治の自由、思想の自由、信教の自由を認める。しかし国家がバラバラになってしまったら、いくらきれい事をいったって人権は奪われる。だからもう一方では、国家をきちんと統合しなければいけない。そのために国体論を利用する。これが第一のポイントです。
二番目のポイントは、「日本のキリスト教」としての国体論という意味合いがあります。ヨーロッパやアメリカを見ると、国王や大統領はキリスト教の神からの委任によって国民を支配している。国民主権国家になってもそこは変わらない。国民主権になろうが、その上にはつねに神がいる。これはいまでも完全には崩れていません。七割がたは生き延びています。欧米では国民のほとんどがキリスト教徒ですから、キリスト教が国民統合の役割を果たしている。それから国民の道徳教育の役割も果たしてきた。これが愛国心にもつながっていくと捉えた。そこで日本でも「キリスト教」に相当するものを探したわけです。
いちばん信徒が多いのは仏教ですが、しかし仏教にはそんな力はもはやない。そうやっていろいろ探した上で辿り着いたのが「万世一系ノ天皇」です。井上毅が森文部大臣のために代書した文書があります。これは両者の意見が一致している点ですが、次のようなことを書いています。「我国万世一王天地と与(とも)に限極なく、上古以来、威武の輝く所、未た曾て一たひも(いまだかつてひとたびも)外国の屈辱を受けたることあらす(中略)、為に無二の資本至大の宝源にして・・・・・」。万世一系の天皇が続いてきているから外国に侵略されたことが一度もない。これは無二の資本であると捉えたわけです。こういった考えが国体論を生み出し、さらに明治憲法のなかにも入ってきます。
そして三番目に、これはある意味でいちばん本質的な点だと思いますが、文明化学習の主体形成の根拠としてどうしても天皇が必要だったということがある。当時、明治四年から六年にかけて岩倉遣欧使節団がヨーロッパとアメリカに行っています。そこで日本が後れていることを痛感する。そんな感覚が明治一桁から十年代の日本人一般を支配していた。ある種の劣等感ですが、それを克服していくとき「万世一系ノ天皇」という観念はかなり強力に作用したわけです。われらは道徳的な国民だから王を殺してこなかった。だから天皇家も連綿と続いている。それは日本人が忠義という道徳を守ってきた証明だと考えられていくわけです。
先生と生徒の関係を思い浮かべていただいたら分かると思います。生徒が先生に対して「先生に比べたら何をしても負けるよな」と、そう思っているようではだめです。それでは結局、あまり成長しない。やはりどこかで「この点は先生より勝っているよな」というふうに思えなければいけない。基本的に尊敬していても、どこかで自分のほうが上だというところを一点でも二点でも持っていないと学習は成立しない。同じことが日本とヨーロッパとの関係でもいえるわけです。日本という弟子が文明化に成功するためには、どこかの一点でヨーロッパに勝っているというプライドが必要だ。それが文明化を進めていく根源になる。それが「万世一系ノ天皇」という国体論だったのではないか。私自身は、この三点目が二元構造の背景としては大きいのではないかと思っています。
結局、国体論はある種の欧化論なのです。欧化学習を進めていくためには、どうしてもこういう学習主体形成の根拠としての国体論が必要であったということです。じっさい、ヨーロッパの人も、もう少し日本的なものを残さないと大変じゃないのかという感想を持っていたようです。そこで、明治政権も、やはり日本的なものを残していかないとだめだというふうに思って残していった。それが憲法論では国体論というかたちで表れているわけです。
大日本帝国憲法とは何か 3-2 へつづく

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