大日本帝国憲法とは何か 3-2
明治憲法における国体法
次は、国体法それ自体を見ておきたいと思います。明治国家においては「国体法」というものが明確にありました。これは矛盾的なのですが、国体法には二つの側面があります。ひとつは「天皇親政」の建前、もうひとつは「天皇を政治に巻き込んではいけない」という規範です。天皇のご親政なのだけれども、しかし天皇を政治に利用してはいけない。そういう両面がありました。
天皇親政という建前は、それまでの摂関政治、幕府政治、そして院政を一掃したわけですから、この建前はずっと生き続けます。これは消すわけにはいかない。戦前だけではなく、日本の歴史を通した国体とは何だろうかと、私自身よく考えるわけですけれども、するとやはり「天皇が国家のなかで最高の存在であった」ということの行き着きます。きわめて曖昧で、ある意味でどうにでも解釈できるものしか残らないのではないか。ただし、これを破るのは大変なことであろうと思います。
そうした天皇親政の建前を一方で持ちながらも、天皇を政治に利用してはいけない、天皇を政治に巻き込んではいけないという規範があった。それは当時の人たちの常識だったという側面があるわけです。
ひとつだけ例を挙げて置きます。昭和三年の五月、水野錬太郎文相優諚問題が起きています。「優諚」というのは「天皇の思し召し」です。田中義一内閣のときの出来事ですが、久原房之助が入閣した。それに水野文相が怒って辞表を提出した。すると田中首相は天皇から水野に対して「国務のために尽瘁せよ」という言葉を引き出したわけですが、これが大問題になったわけです。天皇を政治に利用したというわけです。
それはけしからんと、轟々たる非難に晒された。このとき面白いのは、先に触れた上杉慎吉と美濃部達吉、明治四十五年に論争し合った二人が三宅雪嶺、高柳賢三、新渡戸稲造といった錚々たる学者たちとともに声明を出していることです。田中義一首相を批判する声明です。この声明は、上杉と美濃部が共同起草しています。昭和期というのは上杉と美濃部がいっしょに行動する局面も相当あったのです。
ともかく国体法はそうした矛盾的な側面を持っていました。ただし憲法学では、この二つの側面を常識として持ちながら、うまくそれを統合した論理をつくった人はいません。昔の憲法学も戦後の社会科学系の学問もやはりヨーロッパのモノマネから抜けられないから、日本独自の現実をどう理論化するかというときに失敗してしまうのです。
ここで天皇の位置づけに関していっておけば、「統治権の総攬者」という規定が妥当かなと思います。あるいは単に「元首」でもいいでしょう。天皇機関説が多数派で、天皇主権説はあくまでも少数派です。ところが戦後の教科書は、この少数派の学説に基づいて戦前の天皇を位置づける。憲法学者もそうです。そういう変なところがあります。ただし、明治憲法が、権威は天皇だけである、日本国家の権威は天皇だけなんだという考え方に基づいてつくられていることはたしかです。
明治憲法における政体法
次に政体法について説明したいと思います。まずは戦前においても三権分立であったことを指摘しておきたいと思います。
司法権に関しては五十七条で「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とありまして、裁判に関しては裁判所に完全委任しています。一応天皇の権限だけれども完全に裁判所に委任していて天皇の知るところではない。
立法権は、五条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」、三十七条に「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」とあって、議会は天皇(実際には内閣)とともに立法権を担うということになります。ただし、実際をいえば天皇が法律を裁可しない例はありません。不裁可権は一応持っていると考えられるわけですが、裁可しなかったら今度は国体に違反してしまうわけです。したがって不裁可という例は結局生じませんでした。つまり法律を制定する権限に関しては完全に議会に一任していました。
そういうかたちで、天皇の権限とされたものはどんどん他のところに持っていかれたのが実際です。軍事に関してもそうです。軍事は天皇が直接やったのだというイメージを持たれておりますけれども、けっしてそうではない。最近の研究では、軍事に関してもじつはやはり下に降りてしまっているといわれています。十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるけれども、実際は陸軍の場合は参謀総長、海軍の場合は軍令部長に完全に任されている。
行政権も、実際上は国務大臣に任されていた。したがって「大臣責任論」の問題になります。大臣責任論に関しましては五十五条に「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と書かれています。これは「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という三条とセットになっています。天皇に責任が及ばないように、大臣が責任を取るということです。そして責任を取る代わりに、責任を持って政治をやる。天皇が政治の主体ではなく、大臣が政治の主体としてやっていくのだということです。
そういうかたちで、立法・行政・司法に関しては下の機関に任せるという構造ができ上がっていたわけです。そしてこの大臣責任論を根拠にして政党内閣がでてくる。
一般的には、大臣責任は天皇に対する責任であると説明する憲法学者もいるし、教科書もそう書いています。しかし伊藤博文の『帝国憲法義解』を見てください。大臣は「君主に対して直接に責任を負ひ又人民に対し間接に責任を負ふ」と書かれています。この「人民に対し間接に責任を負ふ」というときの「人民」とは何か。これは「議会」と読み替えられます。人民の代表としての議会、です。そして「人民に対し間接に責任を負ふ」というところから超然内閣、挙国一致内閣、政党内閣のすべてを認めるのが明治憲法の立場であるというのが私の理解です。最近この理解はある程度広がってきているようです。
その上で、副署の拒否は可能であるということになります。法律でも勅令でもいいですが、何かを出すときに大臣はそこに副署しないといけない。その副署がないと有効な国家行為にならない。したがって大臣が拒否すれば、法律でも何でも出せません。そこに大臣の主体性が生まれてくる。大臣がこの政治行為には反対だというときは副署を拒否できるということです。
副署の拒否の仕方ですが、例えば副島義一さんの場合は、違憲違法の国家行為に対しては、在職したまま拒否できると考え、違法ではないが政治的に同意できない行為に対しては、辞任によって拒否できると考えています。これに対して、例えば森口繁治さんの場合は、辞職を通じて副署を拒否する自由はあるとしています。辞職する必要があるかないかは別として、副署拒否可能論は、美濃部や有賀、一木等多数の学者の支持する所でした。この多数派学説においては、大臣は主体性をもって、かつ大臣が責任をもって政治を行う。したがって無責任領域は発生してこないというわけです。
井上密さんの意見はちょっと微妙で、本来はこの立場に立ちたいのだけれども、条文上それはむずかしいといって副署拒否不可論を唱えており、辞職の自由も認めていません。ただし、いやいや副署をしたとしても大臣責任は発生するといって無責任領域をなくしています。ところが穂積八束さんの副署拒否不可論は、副署拒否はできないけれども、いやいや副署したものに関しては大臣が責任を取る必要がないという。この場合は誰も責任を取らない無責任領域が発生します。
こんなふうに分かれていますが、先に申し上げたように「辞任せずに又は辞任することによって副署を拒否できる」というのが多数派の見解でした。ですから、前に述べた〈天皇を政治に巻き込んではいけない〉という国体上の規範と、さらに今述べてきた多数派の大臣責任論によって、二重に天皇は政治権力から遠ざけられていたのです。
さて、三権分立、大臣責任論に続く政体論の三番目の特徴は、代議制-間接民主主義です。これは参政権が規定されていることによって広がってきます。
以上を踏まえて、政治の総体的なあり方について見ると、政党内閣が発生してくるわけですから、内閣中心政治であってもいいし、議会中心政治でもあっていいということになります。明治憲法をつくったときはこの二つぐらいしか考えていませんでした。だんだん内閣中心政治から議会中心政治に移っていくだろうと捉えていたわけです。この流れを見事に体現しているのは上杉慎吉です。
ほとんどの学者は上杉慎吉と穂積八束を同列に論じていますけれども、それはじつは無茶苦茶です。この二人はまったく違います。初期の上杉慎吉は内閣中心政治です。そこから出発して昭和初期に至って政党内閣制を承認するようになる。だからこそ、先ほどいったような美濃部との共同行動も出てくるわけです。どうしてそうなるかというと、上杉は大臣責任を「すべての人に対する責任」といい出します。それを踏まえて、政党内閣制を承認するというステップを踏んでいく。でも天皇主権説は変わらない。
ここは間違えないでください。国体・政体の二元論に立った天皇主権説は維持する。しかも「天皇は現人神だ」というわけです。天皇=現人神説だから立憲政治ではない、ということではありません。間違えないようにしてください。天皇主権説でも立憲政治論は出てくるし、逆に天皇機関説でも極めて専制的な解釈は出てくる。ところが、世の学者たちはこの点をまったく無視している。ここが私自身いちばんなさけなくなる所です。
これに対して穂積は「天皇親政」「大権政治」といいます。簡単にいえば、天皇は臣下たちに邪魔されないで自由意志で行動できる領域があるという説です。しかしこの議論は、三条(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)と五十五条(国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス)の趣旨からすると完全に成り立たない。それにもかかわらず戦後の歴史学者と憲法学者は、穂積八束の学説に基づいて戦前の体制を規定しているわけです。明らかに間違っています。
次に、権利・義務について見ておきます。これは「法律の範囲内での自由権」とされています。これに対して現行の「日本国憲法」は、法律による制限を明確化していません。しかも「人権」の上に神がいない。ヨーロッパでは人権の上に神がいます。だから無軌道になることをなんとか抑制できるわけです。現実にそういう事態が生じたのが戦後五十年、といったらいいすぎでしょうが、少なくとも一九八〇年代以降ではないかと思います。
ヨーロッパの場合はさらに「人権宣言」を見ても法律による制限はたくさん出てきます。人権を制限する言葉が出てくることはたしかです。その意味で現在の憲法学者も現行「憲法」に関して、人権は法律によって制限できるとしています。これが通説です。だから「法律の範囲内における人権とか権利というのは、非人権的であるとか権利無視的である」という非難の仕方はちょっとおかしいというべきです。
このようにして、明治憲法の政体論における権利には自由権と参政権、裁判を受ける権利がありました。時代的な制約がありますから、生存権・教育を受ける権利といった社会権は存在しない。これはまあ当然でしょう。
大正・昭和初期の憲法体制
最後に、大正・昭和初期の憲法体制に関して見解を述べておきたいと思います。大正七年に原敬内閣ができて、大正十三年以降、政党内閣制が「憲政の常道」であるという規範が成立する。自由主義・立憲主義という立場からすれば、これは米騒動や普通選挙法、あるいは治安維持法よりもはるかに重要な出来事であろうと思います。ところが教科書を見ると、重要度の捉え方が逆転してしまっている。米騒動こそが重要なんだということで米騒動の見出しが躍っている。
それから政党内閣制、すなわち憲政の常道という見方は、いままで解釈改憲だといわれてきたわけですが、前述の『憲法義解』の文言から知られるように、これは解釈改憲ではないと私は思います。そして治安維持法ですけれども、ソ連が崩壊してみると改めて、治安維持法をつくったときの日本の位置が少し見えてくる。
ソ連の間接侵略に日本は最前線で晒されていたわけです。日本はソ連の共産主義という史上最悪の体制と戦う最前線に位置していた。そのなかでつくられたのが治安維持法です。そうだとすれば、それ自体は悪法かもしれないけれども、そうした背景を踏まえて治安維持法の評価をしなければいけないのではないでしょうか。
それから何よりも腹が立つのは、治安維持法を招き寄せた系譜の人たちが治安維持法批判の歴史学を築いたことです。治安維持法は明らかにコミンテルン日本支部としてつくられた日本共産党をいちばんの敵として設定しているわけですが、その系譜の人たちが戦後歴史学会で多数派だったから、そうなってしまったのです。
それから四番目のポイントとしては、明治憲法の体制が昭和十年から十三年の過程で崩壊していったということを指摘しておかなくてはなりません。直接のきっかけとなったのは天皇機関説事件です。この事件によって立憲主義の憲法論がすべて放逐された。そして昭和十三年には国家総動員法が布かれた。政府に対して広範な委任をしてしまい、議会の意味合いがほんとうになくなってしまった。
この指摘は一九八九年に書いた私の論考が最初ではないかと思います。それ以前は、昭和六年以降の「ファシズム」体制は明治憲法の当然の帰結だとされていたのです。それが私の論考の影響ではありませんが、一九九〇年代以降まったく変わりました。明治憲法が実質をなくしていくことによって全体主義的な体制ができ上がったのだというふうに変わってきました。
大日本帝国憲法とは何か 3-3 へつづく
明治憲法における国体法
次は、国体法それ自体を見ておきたいと思います。明治国家においては「国体法」というものが明確にありました。これは矛盾的なのですが、国体法には二つの側面があります。ひとつは「天皇親政」の建前、もうひとつは「天皇を政治に巻き込んではいけない」という規範です。天皇のご親政なのだけれども、しかし天皇を政治に利用してはいけない。そういう両面がありました。
天皇親政という建前は、それまでの摂関政治、幕府政治、そして院政を一掃したわけですから、この建前はずっと生き続けます。これは消すわけにはいかない。戦前だけではなく、日本の歴史を通した国体とは何だろうかと、私自身よく考えるわけですけれども、するとやはり「天皇が国家のなかで最高の存在であった」ということの行き着きます。きわめて曖昧で、ある意味でどうにでも解釈できるものしか残らないのではないか。ただし、これを破るのは大変なことであろうと思います。
そうした天皇親政の建前を一方で持ちながらも、天皇を政治に利用してはいけない、天皇を政治に巻き込んではいけないという規範があった。それは当時の人たちの常識だったという側面があるわけです。
ひとつだけ例を挙げて置きます。昭和三年の五月、水野錬太郎文相優諚問題が起きています。「優諚」というのは「天皇の思し召し」です。田中義一内閣のときの出来事ですが、久原房之助が入閣した。それに水野文相が怒って辞表を提出した。すると田中首相は天皇から水野に対して「国務のために尽瘁せよ」という言葉を引き出したわけですが、これが大問題になったわけです。天皇を政治に利用したというわけです。
それはけしからんと、轟々たる非難に晒された。このとき面白いのは、先に触れた上杉慎吉と美濃部達吉、明治四十五年に論争し合った二人が三宅雪嶺、高柳賢三、新渡戸稲造といった錚々たる学者たちとともに声明を出していることです。田中義一首相を批判する声明です。この声明は、上杉と美濃部が共同起草しています。昭和期というのは上杉と美濃部がいっしょに行動する局面も相当あったのです。
ともかく国体法はそうした矛盾的な側面を持っていました。ただし憲法学では、この二つの側面を常識として持ちながら、うまくそれを統合した論理をつくった人はいません。昔の憲法学も戦後の社会科学系の学問もやはりヨーロッパのモノマネから抜けられないから、日本独自の現実をどう理論化するかというときに失敗してしまうのです。
ここで天皇の位置づけに関していっておけば、「統治権の総攬者」という規定が妥当かなと思います。あるいは単に「元首」でもいいでしょう。天皇機関説が多数派で、天皇主権説はあくまでも少数派です。ところが戦後の教科書は、この少数派の学説に基づいて戦前の天皇を位置づける。憲法学者もそうです。そういう変なところがあります。ただし、明治憲法が、権威は天皇だけである、日本国家の権威は天皇だけなんだという考え方に基づいてつくられていることはたしかです。
明治憲法における政体法
次に政体法について説明したいと思います。まずは戦前においても三権分立であったことを指摘しておきたいと思います。
司法権に関しては五十七条で「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とありまして、裁判に関しては裁判所に完全委任しています。一応天皇の権限だけれども完全に裁判所に委任していて天皇の知るところではない。
立法権は、五条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」、三十七条に「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」とあって、議会は天皇(実際には内閣)とともに立法権を担うということになります。ただし、実際をいえば天皇が法律を裁可しない例はありません。不裁可権は一応持っていると考えられるわけですが、裁可しなかったら今度は国体に違反してしまうわけです。したがって不裁可という例は結局生じませんでした。つまり法律を制定する権限に関しては完全に議会に一任していました。
そういうかたちで、天皇の権限とされたものはどんどん他のところに持っていかれたのが実際です。軍事に関してもそうです。軍事は天皇が直接やったのだというイメージを持たれておりますけれども、けっしてそうではない。最近の研究では、軍事に関してもじつはやはり下に降りてしまっているといわれています。十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるけれども、実際は陸軍の場合は参謀総長、海軍の場合は軍令部長に完全に任されている。
行政権も、実際上は国務大臣に任されていた。したがって「大臣責任論」の問題になります。大臣責任論に関しましては五十五条に「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と書かれています。これは「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という三条とセットになっています。天皇に責任が及ばないように、大臣が責任を取るということです。そして責任を取る代わりに、責任を持って政治をやる。天皇が政治の主体ではなく、大臣が政治の主体としてやっていくのだということです。
そういうかたちで、立法・行政・司法に関しては下の機関に任せるという構造ができ上がっていたわけです。そしてこの大臣責任論を根拠にして政党内閣がでてくる。
一般的には、大臣責任は天皇に対する責任であると説明する憲法学者もいるし、教科書もそう書いています。しかし伊藤博文の『帝国憲法義解』を見てください。大臣は「君主に対して直接に責任を負ひ又人民に対し間接に責任を負ふ」と書かれています。この「人民に対し間接に責任を負ふ」というときの「人民」とは何か。これは「議会」と読み替えられます。人民の代表としての議会、です。そして「人民に対し間接に責任を負ふ」というところから超然内閣、挙国一致内閣、政党内閣のすべてを認めるのが明治憲法の立場であるというのが私の理解です。最近この理解はある程度広がってきているようです。
その上で、副署の拒否は可能であるということになります。法律でも勅令でもいいですが、何かを出すときに大臣はそこに副署しないといけない。その副署がないと有効な国家行為にならない。したがって大臣が拒否すれば、法律でも何でも出せません。そこに大臣の主体性が生まれてくる。大臣がこの政治行為には反対だというときは副署を拒否できるということです。
副署の拒否の仕方ですが、例えば副島義一さんの場合は、違憲違法の国家行為に対しては、在職したまま拒否できると考え、違法ではないが政治的に同意できない行為に対しては、辞任によって拒否できると考えています。これに対して、例えば森口繁治さんの場合は、辞職を通じて副署を拒否する自由はあるとしています。辞職する必要があるかないかは別として、副署拒否可能論は、美濃部や有賀、一木等多数の学者の支持する所でした。この多数派学説においては、大臣は主体性をもって、かつ大臣が責任をもって政治を行う。したがって無責任領域は発生してこないというわけです。
井上密さんの意見はちょっと微妙で、本来はこの立場に立ちたいのだけれども、条文上それはむずかしいといって副署拒否不可論を唱えており、辞職の自由も認めていません。ただし、いやいや副署をしたとしても大臣責任は発生するといって無責任領域をなくしています。ところが穂積八束さんの副署拒否不可論は、副署拒否はできないけれども、いやいや副署したものに関しては大臣が責任を取る必要がないという。この場合は誰も責任を取らない無責任領域が発生します。
こんなふうに分かれていますが、先に申し上げたように「辞任せずに又は辞任することによって副署を拒否できる」というのが多数派の見解でした。ですから、前に述べた〈天皇を政治に巻き込んではいけない〉という国体上の規範と、さらに今述べてきた多数派の大臣責任論によって、二重に天皇は政治権力から遠ざけられていたのです。
さて、三権分立、大臣責任論に続く政体論の三番目の特徴は、代議制-間接民主主義です。これは参政権が規定されていることによって広がってきます。
以上を踏まえて、政治の総体的なあり方について見ると、政党内閣が発生してくるわけですから、内閣中心政治であってもいいし、議会中心政治でもあっていいということになります。明治憲法をつくったときはこの二つぐらいしか考えていませんでした。だんだん内閣中心政治から議会中心政治に移っていくだろうと捉えていたわけです。この流れを見事に体現しているのは上杉慎吉です。
ほとんどの学者は上杉慎吉と穂積八束を同列に論じていますけれども、それはじつは無茶苦茶です。この二人はまったく違います。初期の上杉慎吉は内閣中心政治です。そこから出発して昭和初期に至って政党内閣制を承認するようになる。だからこそ、先ほどいったような美濃部との共同行動も出てくるわけです。どうしてそうなるかというと、上杉は大臣責任を「すべての人に対する責任」といい出します。それを踏まえて、政党内閣制を承認するというステップを踏んでいく。でも天皇主権説は変わらない。
ここは間違えないでください。国体・政体の二元論に立った天皇主権説は維持する。しかも「天皇は現人神だ」というわけです。天皇=現人神説だから立憲政治ではない、ということではありません。間違えないようにしてください。天皇主権説でも立憲政治論は出てくるし、逆に天皇機関説でも極めて専制的な解釈は出てくる。ところが、世の学者たちはこの点をまったく無視している。ここが私自身いちばんなさけなくなる所です。
これに対して穂積は「天皇親政」「大権政治」といいます。簡単にいえば、天皇は臣下たちに邪魔されないで自由意志で行動できる領域があるという説です。しかしこの議論は、三条(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)と五十五条(国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス)の趣旨からすると完全に成り立たない。それにもかかわらず戦後の歴史学者と憲法学者は、穂積八束の学説に基づいて戦前の体制を規定しているわけです。明らかに間違っています。
次に、権利・義務について見ておきます。これは「法律の範囲内での自由権」とされています。これに対して現行の「日本国憲法」は、法律による制限を明確化していません。しかも「人権」の上に神がいない。ヨーロッパでは人権の上に神がいます。だから無軌道になることをなんとか抑制できるわけです。現実にそういう事態が生じたのが戦後五十年、といったらいいすぎでしょうが、少なくとも一九八〇年代以降ではないかと思います。
ヨーロッパの場合はさらに「人権宣言」を見ても法律による制限はたくさん出てきます。人権を制限する言葉が出てくることはたしかです。その意味で現在の憲法学者も現行「憲法」に関して、人権は法律によって制限できるとしています。これが通説です。だから「法律の範囲内における人権とか権利というのは、非人権的であるとか権利無視的である」という非難の仕方はちょっとおかしいというべきです。
このようにして、明治憲法の政体論における権利には自由権と参政権、裁判を受ける権利がありました。時代的な制約がありますから、生存権・教育を受ける権利といった社会権は存在しない。これはまあ当然でしょう。
大正・昭和初期の憲法体制
最後に、大正・昭和初期の憲法体制に関して見解を述べておきたいと思います。大正七年に原敬内閣ができて、大正十三年以降、政党内閣制が「憲政の常道」であるという規範が成立する。自由主義・立憲主義という立場からすれば、これは米騒動や普通選挙法、あるいは治安維持法よりもはるかに重要な出来事であろうと思います。ところが教科書を見ると、重要度の捉え方が逆転してしまっている。米騒動こそが重要なんだということで米騒動の見出しが躍っている。
それから政党内閣制、すなわち憲政の常道という見方は、いままで解釈改憲だといわれてきたわけですが、前述の『憲法義解』の文言から知られるように、これは解釈改憲ではないと私は思います。そして治安維持法ですけれども、ソ連が崩壊してみると改めて、治安維持法をつくったときの日本の位置が少し見えてくる。
ソ連の間接侵略に日本は最前線で晒されていたわけです。日本はソ連の共産主義という史上最悪の体制と戦う最前線に位置していた。そのなかでつくられたのが治安維持法です。そうだとすれば、それ自体は悪法かもしれないけれども、そうした背景を踏まえて治安維持法の評価をしなければいけないのではないでしょうか。
それから何よりも腹が立つのは、治安維持法を招き寄せた系譜の人たちが治安維持法批判の歴史学を築いたことです。治安維持法は明らかにコミンテルン日本支部としてつくられた日本共産党をいちばんの敵として設定しているわけですが、その系譜の人たちが戦後歴史学会で多数派だったから、そうなってしまったのです。
それから四番目のポイントとしては、明治憲法の体制が昭和十年から十三年の過程で崩壊していったということを指摘しておかなくてはなりません。直接のきっかけとなったのは天皇機関説事件です。この事件によって立憲主義の憲法論がすべて放逐された。そして昭和十三年には国家総動員法が布かれた。政府に対して広範な委任をしてしまい、議会の意味合いがほんとうになくなってしまった。
この指摘は一九八九年に書いた私の論考が最初ではないかと思います。それ以前は、昭和六年以降の「ファシズム」体制は明治憲法の当然の帰結だとされていたのです。それが私の論考の影響ではありませんが、一九九〇年代以降まったく変わりました。明治憲法が実質をなくしていくことによって全体主義的な体制ができ上がったのだというふうに変わってきました。
大日本帝国憲法とは何か 3-3 へつづく

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