大日本帝国憲法とは何か 3-3

【第二部】 

教科書の問題点はどこにあるか 

藤岡■大変中身の濃いお話で、会場のみなさんも久しぶりに大学の講義を拝聴したという気分ではないかと思います。私自身も目から鱗が落ちるような思いでうかがいました。さて次は、いまのお話を踏まえて教科書の現状を分析していただきたいと思います。 


小山■教科書の方も明治憲法の制定過程、明治憲法それ自体、それから憲法体制と、三つに分けて見ていきたいと思います。明治憲法の制定過程に関しては、これは昭和二十年代から一貫して変わりません。多くは、政府は自由民権運動に迫られて仕方なしに憲法をつくったと位置づけています。したがって、政府と民権派との思想を対立的に捉える。これは一貫しています。自由民権運動は素晴らしく、明治政府は憲法さえ考えていなかったという。しかし、そう書くのは明らかに歴史の偽造です。 


それから、当時の世の中に知られていなかった五日市憲法案を重視するものが多い。先ほど挙げました植木枝盛の案にしても、じつはこれは未発表に終わっているわけです。未発表に終わったものと一地方のほとんど知られなかった憲法案で自由民権運動の憲法草案を代表させてしまう。これはとんでもない話です。 


また、先ほどもいいましたように、「憲法制定の祝い方」ではベルツの日記を引く。ベルツの日記そのものは事実ですが、わざわざ外国人の目の借りて自国の憲法と自国民を揶揄している。そんな教科書は普通どこの国でも考えられません。 



次に明治憲法に関してですが、単に教科書だけではなく戦後の学説全体の問題があります。国体・政体二元論だったことは百も承知なのに、それをまったく無視する。そして少数派だった美濃部らの「政体一元論」を採用する。


なぜそうなったのかというと、ひとつには国体・政体二元論を唱えていた人たちが戦後不遇になったということがあります。戦後は美濃部達吉の弟子たちが圧倒的だった。つまり、宮沢俊義さんの系統が憲法学の世界において大きな力を持ったから、政体一元論になっていった。 


それより大きい理由としては、国体・政体二元論だと「日本国憲法」無効論になってしまうことがあります。政体一元論であれば何でも変えてしまえばいいじゃないかといえるわけですが、国体と政体を分けて考えると、不変の部分である国体は変えるのはむずかしいということになる。

そこから、国体までも変えてしまった「日本国憲法」は無効じゃないかという議論が出てきてしまうわけです。だから「日本国憲法」無効論を防ぐためにも政体一元論しかなかったのだという側面があるわけです。これはまあ私がずいぶん前から、十二、三年ぐらい前からいっているのですが、ほとんど省みられることがありません。 


結局、「日本国憲法」および戦後の言語空間というのは、明治国家が苦労した点、それから近代化に成功したポイントを全部無視するわけです。なぜ日本が近代化に成功したかといえば、和魂洋才論があったからです。つまりは国体・政体を分ける考え方です。和魂洋才論こそが近代化の成功のポイントだったわけですけれども、その苦労のポイントをまったく切り捨ててしまうわけです。 


今回、歴史教科書を見て以外だったのは、天皇=主権者という歪曲が思ったより少なかったことです。これが公民教科書になると全部、天皇=主権者と書いてあります。じっさい、戦前で主権者といえばむしろ国家です。国家が主権者であるというのが多数説でした。学説からいうと、天皇は最高機関である。 


次に政体法に移りますが、「アジア初の立憲国家」と書いているのが完全に多数派です。ところが、その実体についてはどう書いているかというと、天皇は権力者で大臣はその下僚であるというイメージをつくっている。そもそも「大臣責任」を書かない教科書が大多数です。大臣責任を書いても、天皇に対して責任を取るのだということしか書かない。 


そして代議制の問題ですが、「アジア初の立憲国家」と褒めておいて、しかし選挙権は限定されていたと書く。たしかにこれは嘘ではない。この通りなのですが、限定された選挙権から始まって、わずか三十数年で普通選挙まで実現してしまうわけですから、このように揶揄的に書くのはおかしいのです。 


次は、政治の総体的なあり方について。ここがいちばんおかしな所です。全社が「天皇親政論」なのです。軍隊の指揮も天皇が行うと読めます。子供たちは、戦争も勝手に天皇がはじめられるんだと、そういう読み方をしてしまいます。ということで、最後にまとめさせていただきますと、教科書はいまいいましたように、一方では立憲国家だといいながら、実際には天皇制絶対主義論が展開されているのです。 



きわめて政治的な「日本国憲法の三大原則」 

藤岡■個人的な体験を思い出しますと、私は一九五〇年代の後半に中学生だったわけですが、先生は黒板に「明治憲法」と「日本国憲法」と書いて、表をつくりました。そして「主権」と書いて、明治憲法で主権は天皇にあったが、日本国憲法では国民にあると書いた。そして「国民の権利」は、明治憲法では法律の制限のもとでしか認められなかったと書いたのを覚えています。今日ご指摘があった古色蒼然たるそういう図式が戦後かなり早い時期に確立して、それが今日まで続いているということなのでしょうか。 


小山■明治憲法に関してはそうだと思いますけれども、「日本国憲法」に関してはちょっと違います。私はこの一年くらい公民教科書の研究を続けているのですが、いわゆる「日本国憲法」の「三大原則」というのは新しく出てきたものです。三大原則というのは「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」だといわれているわけですが、これが一般化したのは昭和三十年前後以降の公民教科書です。

それ以前は「日本国憲法」の三大原則などということはいってこなかった。公民教科書にそう出て、その後を追い駆けるようにして憲法学会でも三大原則といい出したのではないかと思います。昭和二十年代の憲法学説を読んでも三大原則などまるっきり出ていません。これはちょっとびっくりしました。今でも憲法学会では、決して定説ではありません。 


しかも、「日本国憲法」の柱は三大原則ではありません。「日本国憲法」に一番に出てくるのは何かというと、間接民主主義です。国民主権ももちろん入っていますけれども間接民主主義が最初です。前文を見ると、五つぐらい原則が挙がっています。その他では、第一条を見ると、象徴天皇制を説明するために国民主権が使われていますから、象徴天皇制が六つ目になる。

七つ目は三権分立です。その社の公民教科書を見ても、三権分立と国民主権は民主主義の原理だと書いている。ところが、とくに「日本国憲法」に入ってくると国民主権が残って、三権分立が消える。先ほどの間接民主制の話ですけれども、昭和二十年代の公民教科書は、国会が最高機関だということを強調していました。これは間接民主主義の強調です。

ところが国会が最高機関だというテーマがだんだん消えていく。昭和三十年ぐらいからそうなります。これは、間接民主主義をやめて直接民主主義にもっていきたいという希望が教科書の執筆者にあるからだと思います。教科書の執筆者たちは直接民主主義が好きだから間接民主主義を捨てたのです。それから三権分立も捨てた。 


しかし三権分立と間接民主制は自由主義的な民主主義のいちばん大事な点です。それに対して、平等主義とか全体主義的な民主主義は何を強調するかというと、何よりも直接民主制です。直接民主制を導き出すために国民主権という論理はものすごくいいわけです。それで三権分立と間接民主制を捨てていく。戦後の公民教科書の歴史のなかで起きたことはそういうことです。 


藤岡■明治憲法の話に戻りたいと思いますが、じつはこいう話があります。コミンテルン史観の流れを汲む教育史の人たちがある時プロジェクトをつくって自由民権運動の教育論を一所懸命研究しはじめた。彼らの頭のなかには「保守反動の自民党」対「革新進歩の社会党・共産党」という対立があります。その対立とまったく同じ図式で「明治政府」対「自由民権派」という講図を考えた。講座派理論は全部そうです。つまり、明治維新は封建制を克服したわけではないという思い入れを持って教育史を再構築しようとした。

ところが、それは簡単に挫折してしまった。調べていくと、自分たちの期待したのとはまったく反対にじつは自由民権派のほうが対外強硬路線だったのです。政府よりもはるかに対外強硬路線を主張しているので非常に困ってしまった。それで途中でやる気をなくして挫折したという話があるわけです。 


そういうことを私は近くで見てきたものですから、この講座派理論というものがいかにデマゴギーであるか、インチキであるかということはよく分かります。自由民権派と明治政府を対立させることはデマゴギーだとおっしゃったのはまったくその通りだと思います。それにもかかわらず教科書が依然として講座派理論の枠を守っているのは、先生のお考えではなぜだと思われますか。 


小山■それはやはり現場の先生なり「進歩的な大衆」にとっては昔教わった理論がそのままに残っているわけです。先生格の人たちは変わったとしても、その弟子たちはまだ新しい理論を聞いていないわけですから変わりようがないわけです。それが採択という場でも表れてしまうのだと思います。 


藤岡■そこで思うのですが、各教科書の執筆者を徹底的に洗い出して、これは誰が書いたのかということをどんどん暴露していくことが必要だと思います。いずれ来年(二〇〇五年)の三月末には文部科学省が検定結果を発表して、それ以降は教科書を見ることができるようになりますので、徹底的な言論戦というか批判活動をやらなければいけないと思っています。そのときは是非先生にも有力な一翼を担っていただきたいと思います。 


ここでひとつ付け加えておきたいのは、大学入試センター試験もまさに講座派理論そのものの押し付けだということです。今年(二〇〇四年)の日本史Bの入試にこんな問題が出されました。 

――――大正期からマルクス主義の影響が日本社会に現れはじめて、そして日本社会を科学的に分析するようになった。その例として『日本資本主義発達史講座』を正解として選ばせているのです。マルクス主義という枠のなかでいっても労農派という、戦後でいえば社会党系の理論家がいたにもかかわらず、講座派を選ばせる。きわめてセクト的な見解を全国の受験生に強要することになっているわけです。 


じつは昨日、いまは大学一年生で、今年の一年生で、今年の入試問題でそれを強制された学生たちが全国で七人ほど現れまして、東京地裁に入試センターを相手取って裁判を起こしたところです。 


それから、これは何年か前のことですが―――マッカーサーはいろいろな民主化を行って日本人民を解放してくれたけれども、ひとつだけやり残したことがある、それは何かという問題がありました。そして、正解として「天皇制の廃絶」を選ばせる。天皇制の廃絶を政治綱領に掲げているのは、日本の政党のなかでは日本共産党だけですから、これは明らかに共産党史観の押し付けです。

いったい大学入試センターはどうなっているのか。まさに共産党、それも共産党内の頑固なセクトが牛耳って組織的にこれをやっているといわざるをえない。それが実情です。教科書や大学入試をめぐっては、このようにあまりにひどい現状があります。これをやはり改善していかなければならないと思います。
(二〇〇四年七月十一日) 





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