似て非なるもの
「生きていく」と「生かされている」
主権論と國體論を支えるもの
追認有効説の破綻と自画自賛 から抜粋
つまり、「日本国憲法」体制内でいるかぎり追認できる情況や資格者の地位さえ得ていないことになるのです。
では、何をやっているか?
60年間自画自賛をやっているだけです。
ここが「死人にくちなし」の国民主権思想のすごいところです。我が身は「生かされている」のではないそうです。「生きている」と認識するのだからどんな野蛮だって生きているものが納得すればなんでもできます。おそれをしらないのです。それの発展したのが自画自賛の極致である無効憲法改正行為です。法的な意味はまったくありません。
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教室から消えた「物を見る目」「歴史を見る目」
小柳陽太郎著・草思社
「生かされている」ということが理解できなくなった生徒たち
高校一年生の現代国語の教科書に、東山魁夷の「風景開眼」という一文が収められていた。風景画家として世に立って以来の精神の遍歴が克明に記された自伝『風景との対話』の一節であるが、その中で筆者は、自らの人生観を次のように述べている。
「私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によっていくらか救われる」
さらに筆者は、戦前信州八ヶ岳の高原で画を描きつづけていたころに見たその印象を、次のように書きとどめている。
「冬はとっくに過ぎたはずだのに、高原に春の訪れは遅かった。寒い風が吹き、赤岳や権現岳は白く、厳しく、落葉松林だけがわずかに黄褐色に萌え出している。ところどころに雪の残る高原は、打ちひしがれたような有様であった。その中に、昨年の芒が細く立っているのが不思議であった。深い雪と、烈しい風の冬を経て、頑丈な樅の枝でさえ折れているのがあるのに、どうしてこの細々とした茎が立ちつづけていたのだろう」
そして春、夏、秋と季節は廻って、再び深々と雪が降りつもるのだが、春が来て雪がとけると、芒はやはりもとのままに立っているのである。
「やがて、再び春が廻ってくる。さて、あの芒は-----------雪が降ってきた時は、だんだん下から積って、そのまま倒れずにいるうちに、しまいには、すっぽりと雪の中に蔽いかくされてしまう。雪がとけると、頭のほうから出て来て、こうして春に残るのである。私はこの弱々しいものの、運命に逆らわないで耐えている姿に感動した」
美しい文章だが、東山魁夷氏の、あの静謐な画風を心に描きながらこの文に接していると、あくまでも謙虚に身を処して生きてきた筆者の生涯のすべてが、この芒の姿の中に凝縮されているように思われて、深い感動に誘われるのである。
――――――――――――――――――――――――――――――
この文章を読んだあと生徒に感想文を書かせてみたが、さすがに生徒の感動も大きかったらしい。だが、数多くの生徒は深い感動を覚えながらも、この「生かされている」という生き方には何かしら疑問をもったようである。東山さんの生き方は立派だ、だが僕はちがう。僕はそんな消極的な生き方はしたくない----。感想文の言葉は次のようであった。
「『私は生かされている』---------僕もそう思うことがある。たとえそこまでは考えないにしても、自分が運命にささえられているということをしばしば考える。しかし、やっぱり『生かされている』という生き方ではつまらないような気がする。自分の力で未来をつくっていく。そんな生き方をしてみたい」
「作者の他力本願的思想にははっきりいって反対である。たしかに人間は宿命の中で生かされているかもしれない。しかし人間の生きるという行為が、野の草のように路傍の石のように無力なものとは僕には思えない。生かされているという認識によって、いくらか救われるより、生きているという実感で生活したほうが僕は好きだ」
全部がそうだというわけではないが、こういう意見が多かった。なるほど若々しい少年らしい客気に満ちた生き方だ、そういえないことはない。東山さんの謙虚さと少年らしいひたむきな生き方と、そのいずれをとるも、それぞれに立派ではないか、君たちは一人一人の資質に応じてそのいずれかを生きればいい-----。そういえないこともないようである。だがそれでいいのか。
私はやはりそれではいけないと思う。「生かされる」のではなく「生きていく」。運命に耐えるのではなく、自分で運命を切り拓いてゆく。それはいかにも少年らしい率直な気持ちだと思うが、それでもなお、私たちはこの二つの生き方をならべて、生徒にそのいずれかを選べというべきではないと思う。
自分で運命を切り拓くのだという決意はもちろん大切だが、その前には是非とも、「生かされている」という深々とした感謝のおもいが用意されていなければならないのである。そのうえで「自分の力で未来をつくる」というのなら結構だが、そうではなく、「生かされている」という生き方を消極的な、受動的な生き方として否定した上で、俺は自分の力で生きていくという気負った言葉が生まれるのは、やはり問題であろう。
だが現在、そういう子供たちがいかに多く育っているか。それは何といっても戦後の教育全体の責任だと思われてならない。戦後の教育では、この「生かされている」というような人生への接し方はほとんど無視されてきた。
「僕は東山魁夷の考え方には驚きを感じた。彼は自分を生かされていると見ているのだ。僕は自分自身をそういう考え方でとらえたことは今まで一度もなかった」
こういう感想を述べた生徒もいた。共鳴するにせよ反撥するにせよ、大部分の生徒の受けとめ方は、その点で共通していた。
その率直な感想は大切だと思うが、生徒たちが、「生かされている」という考え方に今はじめて出会ったというようなことでいいのだろうか。これが現代の子供たちに共通した感想であるとすれば、現状の教育からは人間としての一番大切なポイントが外されている、と思われてならないのである。
いのちを大切にするという。戦後の教育ではこのことは極めて強調されてきたようである。しかしそれが一見まことしやかに見えながら、結局のところ、自己の生へのあくなき執着に終っているのはなぜか。
いのちの貴さ、いのちの大切さ-------それを身にしみて感じるのは、他のいのちとのつながりに目覚めるときではないか。空行く雲に、路傍の花に、草陰にすだく虫の音に無限のいのちを感じ、そのいのちとのつながりの中に、つつましく自己のいのちのありようをかみしめてきたのが、日本人の伝統であった。
自己の欲望をいかに荒々しく追求しようとも、それは決していのちにふれる道ではない。自分だけがこの世に生きているのではない-----。
そういう痛感の中に、「生かされている」自己の姿を見つめてきたのが、日本人の珠玉の伝統であった。
しかもそれは、単に日本人の特殊な生き方だというだけでなく、人類のすべてが歩むべき「いのちにふれる道」であった。だが戦後の教育では、そのような生き方は捨て去られたし、たとえ思い出されることがあっても、それは「過去」という額縁の中に収められた一つの風景でしかない。
感恩のおもいとか、全体奉仕の感情とか、あるいは偉大なものへの畏敬の情とか、それら人間にとってかけがえのない大切な情感もすべて、この「生かされている」というつつましいおもいの中に実感されるはずであるが、その根底をなすつつましいおもいが無視された以上、それらすべては、子供たちの心に実感されることなく、結局は古めかしい道徳として、いつのまにか忘れられてゆくことになるのである。
人々は、「いのちの大切さ」を口々に叫びながら、実は肝腎の「いのちにふれる道」を見失ってしまった、それが戦後教育の一番大きな特色である。「いのちの尊さ」を強調することが、実は自分自身の、生に対する単なる執着をかきたてるだけのことに終っているのも、また当然といわなければなるまい。だが一体このままでいいのだろうか。(以下略)
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感恩 山本良吉著 『新訓練論』 (憲法正統論 相原良一著 展転社 から抜粋)
わが存在について、われ以外の力に負ふ所あるは否定し難い事実である。わが身体、わが心的作用の成立に於て、わが一切の活動、不断の創造に於ても、すべてわれ以外の力の助けをからねばならぬ。この外力の存在を認め、それとわれとの関係が理解されると、感恩となる。一切活動が主客両側の綜合に成ることを知れば、感恩の思想は当然起こらざるを得ぬ。
しかし感恩はただ知的の作用ではない。わが負ふ所のあることを明かに知れば、自然にそれに対して感謝の情を生ずる。感謝の情は直ちに正当の態度を取るべき義務心や報謝の念を呼び起す。親に対する孝、国に対する忠、社会に対する奉公の念の真の内容はかくして感ぜられる。-------中略---------
前時代の道徳思想は他人特に少数者に対する義務に重きをおいた。人間の差別相のみを見、人格の平等相を遺れたために、社会は義務のみある者と、権利のみを有する者とから成るの奇観を生じた。
この傾向に反抗して、現代のわが思想は一切の義務を捨てて、権利のみを主張せんとする傾向を有してゐる。前時代の少数者が不合理に権利のみを有した如く、今は一切の人が皆前時代の少数者と同じく不合理な立場に出でようとする。
実に現在のわが各層の理想とする所は、ただ前代の少数階級と同じくなるにあり、社会全体について前時代よりも多くの正義、多くの人情を持ち来さうとの点には向いてゐない。
しかし我に権利があれば、必ずその前に我に権利あらしめるもの即ち我をして権利を有し得しめるものがなくてはならぬ。それに対して必ず感恩の念を抱かざるを得ぬ。これがわが民族の昔からの考へ方であり、そして今でも実際に感ずるところ、感ぜざるを得ぬ所である。
前時代に於て権利のみの階級と義務のみの階級とあつた如く見えるのは、これ恩の思想がまだ徹底しなかつたとも見るべきであらう。君には臣に負ふ所があり、臣は君に負ふ所がある。互に相負ふ。
これによつて始めて君臣の和合をみるのであり、従来の聖勅にはかかる思想が度々表れてゐる。君臣のみではなく、凡そ権利の存するところ、その基には必ず恩の事実が存在する。
恩によって権利を得る。故に権利の行使に人情が加味せられ、それが一定の範囲外に走るのを制する。人情、人道は皆この恩から発し来り、それが権利の行使によつて、社会を平静和楽の情態におく。日本の道徳は歴史的にかかる基調の上に立つてゐた。
明治以降外国の道徳が批判なしにわが国に入り、それが同じく批判なしに輸入された法律思想と結合したために、この歴史的の感恩を社会外に放逐せんとし、その結果は今の社会の落ちつきのない道徳情態となつた。わが民族は形式的には--------又教育的には-----恩の思想を忘れしめられた。
しかし民族は半世紀の誤つた(広義の)教育によつてその伝統的特性を失うものではない。わが民族は意識上では感恩の不必要を感じながら、中心感恩なしの物足りなさを痛感してゐる。
わが訓練に於ては、是非ともこの誤つて毀たれてしかも未だ中心から毀たれきらぬわが特性たる感恩の念を明らかにせねばならぬ。これは思ふにわが訓練の最深最重点の一つであらう。
「生かされている」の意味がわからなくなれば「国体論」も「欽定」の意味もわからなくなるのだろう。
「生きていく」と「生かされている」
主権論と國體論を支えるもの
追認有効説の破綻と自画自賛 から抜粋
つまり、「日本国憲法」体制内でいるかぎり追認できる情況や資格者の地位さえ得ていないことになるのです。
では、何をやっているか?
60年間自画自賛をやっているだけです。
ここが「死人にくちなし」の国民主権思想のすごいところです。我が身は「生かされている」のではないそうです。「生きている」と認識するのだからどんな野蛮だって生きているものが納得すればなんでもできます。おそれをしらないのです。それの発展したのが自画自賛の極致である無効憲法改正行為です。法的な意味はまったくありません。
――――――――――――――――――――――――――――――
教室から消えた「物を見る目」「歴史を見る目」
小柳陽太郎著・草思社
「生かされている」ということが理解できなくなった生徒たち
高校一年生の現代国語の教科書に、東山魁夷の「風景開眼」という一文が収められていた。風景画家として世に立って以来の精神の遍歴が克明に記された自伝『風景との対話』の一節であるが、その中で筆者は、自らの人生観を次のように述べている。
「私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によっていくらか救われる」
さらに筆者は、戦前信州八ヶ岳の高原で画を描きつづけていたころに見たその印象を、次のように書きとどめている。
「冬はとっくに過ぎたはずだのに、高原に春の訪れは遅かった。寒い風が吹き、赤岳や権現岳は白く、厳しく、落葉松林だけがわずかに黄褐色に萌え出している。ところどころに雪の残る高原は、打ちひしがれたような有様であった。その中に、昨年の芒が細く立っているのが不思議であった。深い雪と、烈しい風の冬を経て、頑丈な樅の枝でさえ折れているのがあるのに、どうしてこの細々とした茎が立ちつづけていたのだろう」
そして春、夏、秋と季節は廻って、再び深々と雪が降りつもるのだが、春が来て雪がとけると、芒はやはりもとのままに立っているのである。
「やがて、再び春が廻ってくる。さて、あの芒は-----------雪が降ってきた時は、だんだん下から積って、そのまま倒れずにいるうちに、しまいには、すっぽりと雪の中に蔽いかくされてしまう。雪がとけると、頭のほうから出て来て、こうして春に残るのである。私はこの弱々しいものの、運命に逆らわないで耐えている姿に感動した」
美しい文章だが、東山魁夷氏の、あの静謐な画風を心に描きながらこの文に接していると、あくまでも謙虚に身を処して生きてきた筆者の生涯のすべてが、この芒の姿の中に凝縮されているように思われて、深い感動に誘われるのである。
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この文章を読んだあと生徒に感想文を書かせてみたが、さすがに生徒の感動も大きかったらしい。だが、数多くの生徒は深い感動を覚えながらも、この「生かされている」という生き方には何かしら疑問をもったようである。東山さんの生き方は立派だ、だが僕はちがう。僕はそんな消極的な生き方はしたくない----。感想文の言葉は次のようであった。
「『私は生かされている』---------僕もそう思うことがある。たとえそこまでは考えないにしても、自分が運命にささえられているということをしばしば考える。しかし、やっぱり『生かされている』という生き方ではつまらないような気がする。自分の力で未来をつくっていく。そんな生き方をしてみたい」
「作者の他力本願的思想にははっきりいって反対である。たしかに人間は宿命の中で生かされているかもしれない。しかし人間の生きるという行為が、野の草のように路傍の石のように無力なものとは僕には思えない。生かされているという認識によって、いくらか救われるより、生きているという実感で生活したほうが僕は好きだ」
全部がそうだというわけではないが、こういう意見が多かった。なるほど若々しい少年らしい客気に満ちた生き方だ、そういえないことはない。東山さんの謙虚さと少年らしいひたむきな生き方と、そのいずれをとるも、それぞれに立派ではないか、君たちは一人一人の資質に応じてそのいずれかを生きればいい-----。そういえないこともないようである。だがそれでいいのか。
私はやはりそれではいけないと思う。「生かされる」のではなく「生きていく」。運命に耐えるのではなく、自分で運命を切り拓いてゆく。それはいかにも少年らしい率直な気持ちだと思うが、それでもなお、私たちはこの二つの生き方をならべて、生徒にそのいずれかを選べというべきではないと思う。
自分で運命を切り拓くのだという決意はもちろん大切だが、その前には是非とも、「生かされている」という深々とした感謝のおもいが用意されていなければならないのである。そのうえで「自分の力で未来をつくる」というのなら結構だが、そうではなく、「生かされている」という生き方を消極的な、受動的な生き方として否定した上で、俺は自分の力で生きていくという気負った言葉が生まれるのは、やはり問題であろう。
だが現在、そういう子供たちがいかに多く育っているか。それは何といっても戦後の教育全体の責任だと思われてならない。戦後の教育では、この「生かされている」というような人生への接し方はほとんど無視されてきた。
「僕は東山魁夷の考え方には驚きを感じた。彼は自分を生かされていると見ているのだ。僕は自分自身をそういう考え方でとらえたことは今まで一度もなかった」
こういう感想を述べた生徒もいた。共鳴するにせよ反撥するにせよ、大部分の生徒の受けとめ方は、その点で共通していた。
その率直な感想は大切だと思うが、生徒たちが、「生かされている」という考え方に今はじめて出会ったというようなことでいいのだろうか。これが現代の子供たちに共通した感想であるとすれば、現状の教育からは人間としての一番大切なポイントが外されている、と思われてならないのである。
いのちを大切にするという。戦後の教育ではこのことは極めて強調されてきたようである。しかしそれが一見まことしやかに見えながら、結局のところ、自己の生へのあくなき執着に終っているのはなぜか。
いのちの貴さ、いのちの大切さ-------それを身にしみて感じるのは、他のいのちとのつながりに目覚めるときではないか。空行く雲に、路傍の花に、草陰にすだく虫の音に無限のいのちを感じ、そのいのちとのつながりの中に、つつましく自己のいのちのありようをかみしめてきたのが、日本人の伝統であった。
自己の欲望をいかに荒々しく追求しようとも、それは決していのちにふれる道ではない。自分だけがこの世に生きているのではない-----。
そういう痛感の中に、「生かされている」自己の姿を見つめてきたのが、日本人の珠玉の伝統であった。
しかもそれは、単に日本人の特殊な生き方だというだけでなく、人類のすべてが歩むべき「いのちにふれる道」であった。だが戦後の教育では、そのような生き方は捨て去られたし、たとえ思い出されることがあっても、それは「過去」という額縁の中に収められた一つの風景でしかない。
感恩のおもいとか、全体奉仕の感情とか、あるいは偉大なものへの畏敬の情とか、それら人間にとってかけがえのない大切な情感もすべて、この「生かされている」というつつましいおもいの中に実感されるはずであるが、その根底をなすつつましいおもいが無視された以上、それらすべては、子供たちの心に実感されることなく、結局は古めかしい道徳として、いつのまにか忘れられてゆくことになるのである。
人々は、「いのちの大切さ」を口々に叫びながら、実は肝腎の「いのちにふれる道」を見失ってしまった、それが戦後教育の一番大きな特色である。「いのちの尊さ」を強調することが、実は自分自身の、生に対する単なる執着をかきたてるだけのことに終っているのも、また当然といわなければなるまい。だが一体このままでいいのだろうか。(以下略)
――――――――――――――――――――――――――――――
感恩 山本良吉著 『新訓練論』 (憲法正統論 相原良一著 展転社 から抜粋)
わが存在について、
しかし感恩はただ知的の作用ではない。わが負ふ所のあることを明かに知れば、
前時代の道徳思想は他人特に少数者に対する義務に重きをおいた。人間の差別相のみを見、
この傾向に反抗して、
実に現在のわが各層の理想とする所は、
しかし我に権利があれば、
前時代に於て権利のみの階級と義務のみの階級とあつた如く見えるのは、
これによつて始めて君臣の和合をみるのであり、
恩によって権利を得る。故に権利の行使に人情が加味せられ、
明治以降外国の道徳が批判なしにわが国に入り、
しかし民族は半世紀の誤つた(広義の)教育によつてその伝統的特性を失うものではない。わが民族は意識上では感恩の不必要を感じながら、
わが訓練に於ては、
「生かされている」の意味がわからなくなれば「国体論」も「欽定」の意味もわからなくなるのだろう。

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