欽定憲法とは76箇条の「神々」への御誓文
憲法かく論ずべし 伊藤哲夫著 日本政策研究センター 1500+税
なぜ「諸侯会盟」は「国是誓約」へと転換したのか
そこで問題は、それではこの「諸侯会盟」のための五箇條が、なぜ三月に入り、天皇が公卿、諸侯、及び百官を率いて天地神明に「国是」をお誓いになる-------という「国是誓約の文書」に転換したのか、ということになる。つまり、そうなるに至るには、いかなる経緯と理由があったのかということだ。
いうまでもなく、諸侯が集まってきて天皇の前で誓約し合う-------というのと、天皇が主体となって、それも「国是」を神に誓う------というのとでは、そこには根本的な性格の違いがあるといわなければならない。前者の形態に対し、天子が諸侯と誓いを立てる------などというのは中国風の覇道である、との反対論が当時公卿などの間に起こったとされるが、そうした「諸侯中心」の発想を「天皇中心」のそれに改めるには、その前提として「国家理念」の根本的転換が必要とされると考えるのが自然だからである。
その意味で、実はこの根本的な転換の中に、木戸孝允の果たした役割があるのではないか-------というのがここで本論の指摘したい点なのである。その鍵となるのが、三月初頭に提出されたと考えられる木戸の建議である。
「維新の日尤浅く、後主意未だ普く通徹致さず、諸藩尚方向を異にし、随て草莽輩も擲身却って国家の禍害を醸成し、屡屡方向を誤り候者も現に少なからず、国家の不幸容易ならず、且彼等に於ても憫然の至りに候、仰ぎ願わくば前途の大方向を定められ、至尊親しく公卿諸侯及び百官を率いて神参に誓せられ、明かに国是の確立する所をして速かに天下の衆庶に示され度き至願に堪へず候・・・・」
ここにあるのは、維新後日なお浅く、朝廷の御主意も徹底せず、ために諸藩方向を異にし、攘夷も跡を絶たないという憂うべき状況認識であり、よってこの際天皇が公卿諸侯を率いて神明に誓って国是を確立し、それを庶民に示して欲しい--------との意見具申である。
つまり、単に諸侯を集めて新政府支持を誓い合うという戦術的な発想に留まらず、積極的に天皇が中心となって開国の国是--------むろん、「公議政体」の国是も含む----------を確立し、それを「国民」に示すことが必要である--------との未来へ向けた本格的構想の建議なのである。これが、それまでの「諸侯会盟」から「五箇條のご誓文」への決定的な転換をなすポイントとなったと考えられるのである。

名画にみる國史の歩み 小堀桂一郎監修・所功編 近代出版社
五ヶ条の御誓文 新生日本の基本方針
慶応三年(1868)十二月に王政復古を宣言した維新政府は、諸大名の結束を固める必要に迫られた。そこで、福井藩出身の参与・由利公正が「諸侯盟約」の草案を起草し、これをさらに土佐藩出身の参与・福岡孝弟が公議政体を強調したものに修正した。
それに対して、公卿などから、諸侯の会盟は外国のやり方であって、神武天皇御創業の古に復するという新政府の方針に合わないという異論が出された。
そこで、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が群臣を率いて国是を神明に誓う、という方式を建議した。その結果、翌四年三月十四日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に神座を設け、公家・武家の諸臣を率いて、「五ヶ条の御誓文」を奉られたのである。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
二、上下心を一にして、盛んに経論を行ふべし。
三、官武一途庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
五、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
このように明快な五ヶ条の国是(国家の方針)は、戊辰戦争という緊迫した中で公表された。これは幕末の政治過程を通じて確立されつつあった「天皇を中心とした公議体制」の原則が結晶したものであり、その後の新生日本の基本方針となった。

大日本帝國憲法(帝国憲法)(明治二二年二月一一日公布、同二三年一一月二九日施行)
告 文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ皇祖皇宗及皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ神霊此レヲ鑒ミタマヘ
憲法発布勅語
朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
御名御璽
明治二十二年二月十一日
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名画にみる國史の歩み 小堀桂一郎監修・所功編 近代出版社
憲法発布 近代的な欽定憲法の成立
明治元年の「五ヶ条の御誓文」によって、わが国では、公議公論によって決定された国民の意思が天皇の裁可をうけることによって国家意思となる(その間、天皇は、神々の意思にそって国民の意思が形成されることを祈り、重大事については必ず神々に報告なさる)という日本的な大原則(欽定方式)が示された。
その後、この大原則と維新後の新たな状況を受けて、明治八年四月、「漸次立憲政体樹立の詔(みことのり)」が発せられ、九年九月には元老院で憲法の起草作業が開始された。それに前後して、自由民権運動も盛んになったので、岩倉具視は井上毅の起草になる憲法綱領を太政大臣三条実美に提出。この綱領によって、五ヶ条の御誓文以来の欽定方式が確認されるとともに、後の帝國憲法の骨子が固まったといえよう。
そこで、より具体的な憲法条文を起草するため、それに先立って伊藤博文が欧州へ派遣された。帰国した伊藤は、憲法の前提をなす華族制度や内閣制度を創設した後、西洋法にも明るい井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎らの協力を得て憲法を起草している。
この草案は枢密院で慎重に審議された後、明治二十二年二月十一日(紀元節)に制定・発布された。その際、天皇は、これが皇室典範とともに完成したことを皇祖神に報告され、国民に率先して尊重することを誓われた後、総理大臣の黒田清隆に授けられた。
この憲法は、幕末・明治初期における政治的経験を基礎とし、日本の国柄を尊重しながら西欧の諸憲法を参考にして、古来の伝統と外来の制度とを調和させ、独自の近代化を実現しようとするものであった。
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大日本帝国憲法制定史 38-9頁 明治神宮編
「『欽定』とは、外国の覇権者の独断決定などとは全く相反して、臣民の苦闘経験の結果が、すべての者の熱望として統合されて来たときに、それを天皇の精神的権威によって、荘重に確認され公定されるといふことなのである」
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天皇と日本の近代・上・・・憲法と現人神 八木公生著
このように、『明治憲法』を、内容だけでなく形式にも注目しながら見てくると、「不磨ノ大典」とならぶもうひとつの特色である≪欽定憲法≫、天皇が<欽>(つつし)んで<定>(さだ)めたとされる特色も、あらためて考えなおす必要がでてくる。
一般には、<下から>、民衆のほうからその要求として制定されたものではなく、あくまで<上から>、天皇単独の意思として天下り的にあたえられたという点だけが強調されがちであった。
が、これも、原理的には、天皇を祀り主とするすべてのひとびとが、神々に対して誓った≪御誓文≫を想定して理解すべきではないだろうか。
このとき天皇もまた、ひとりの祀り主として、ひとびとと同じ誓約する側にいるのだ。≪欽定≫の<欽>は、これまでとはちがって、天皇ではなくその誓約をうける神々をさす尊称ととらえなくてはいけないだろう。
このような神々への誓約である以上、『明治憲法』は、必然的に、天皇をふくむすべてのひとびとの生きかた、倫理や道徳といった行為にかかわるだけでなく、その精神のありようにまで直截的に介入せざるを得ない。
いや、おそらく正しくはそうではない。いっそう正確を期すのなら、神々への誓約であるから、誓いをたてた天皇をはじめとするすべてのひとびとは、みずから自主的に一挙一動に気をくばり自戒するようになる、いわば精進潔斎をおのれの意思として選びとるしかなかったのだと言えよう。
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教育勅語を読めば、現在の天皇や国民に「主権」がないのは当然にわかるはずなのに占領憲法に国民主権が書かれたからといってそれを守ろうなどとは不真面目な人達ですねえ。
教育勅語は道徳も色々かいてありますが、基本中の基本は、日本国を守りぬいてきた過去の天皇と現在の天皇と未来の天皇の命が連綿とつながってて、天皇と運命をともに活躍してきた国民の命も連綿とつながっており、日本国の主権(絶対的な源泉)がもしどこかにあるというなら、その命の連続体にあるのですよと言ってるのです。
そしてあなたたち自身もその連続体の一過程をあずかっているのですよ、と言っているのです。
教育勅語の中心的思考法が戦後抹殺されているから自称保守の人でも憲法無効論や占領典範無効論には理解が進まないのです。憲法改正などという刹那的な思考になり祖先の視線は感じないらしい、困ったものです。
その姿勢・構えがさらに生きている我々そのものの生活、思考法を虚無的なものにしていて考えなければならないことが何なのかを分からなくしているのに、そのことにも気づかない。
生者のうちのどちらに主権があるのか天皇にあるのか国民にあるのかというような軽薄な観念にしばられてそれより上位のものが、見えなくなる状態が続いています。
欽定ということは、結局、天皇と国民の共通の祖先に対して「欽(つつしんで)定(さだめる)」ということです。
天皇が上から下の国民にさしあたえたのが「欽定」憲法だなんていうのは、戦争末期被占領中のGHQ(敵)から指令を受けた転向学者の保身理論ですね。
欽定憲法の意味は「天皇と雖も国体のもとにある」ということで法の支配、神々、皇祖皇宗のまなざしのもとにあるということです。 歴史上の特定時期をあずかる一天皇に国体を変革する権能はもともとないのです。
欽定は神々に対し「つつしみてさだめる」の意であり、<神々 ←← 天皇>の関係、神々への報告様式をとらえた概念です。
この関係を、戦後になって学問的に破壊し<支配者・天皇 → 国民>の図式を強調したのは敗戦利得者の戦後憲法業者です。
< 神々・皇祖皇宗 ←A← 天皇(最高祭主) →B→ 国民 >
戦後憲法学者が A の欽定の概念を B にすり替えて承詔必謹論とともに正当化した「日本国憲法」の中に国民を封じこめたのです。
「欽定」の本当の意味 A を国民の意識の上に昇らせると、船中八策が五箇條の御誓文にまで進化し、その煥発方式が「欽定」として神々への誓文として再出発したこと、それと同じく大日本帝国憲法も欽定であったように、国の根幹にかかわることは、日本の神々(祖先)に誓い報告するという確立されたこの大原則(不文法)をふんでいない「日本国憲法」の有効性が明瞭に否定されてしまうからなんです。
日本の憲法の正統性は神々との関係で確定するわけです。
その確定行為を、国民を代表して日本の神々に欽定儀式を通じて報告するのが祭祀王・神々の直近におられる天皇の責務です。
ゆえに、いくら、生きている人間だけで、天皇主権から国民主権に変わったなどとたわごと言っていても、遠い祖先や、まだみぬ子孫との関係では・・・・・言い換えて・・・・日本の神々との関係では、日本式には憲法として成立していないことは明白なのです。
占領中の「日本国憲法」を昭和天皇が神々に報告(欽定)しているはずがないし、もしそんなことが出来ているとしたら神々を冒涜しているというようなものです。 なぜなら、生身をもつ人間には占領が可能ですが、日本の神々までも占領できませんからね。
我々の祖先はこういう民族固有の占領のできない不動の固定点を憲法理論の中に残してくれたのです。それが「欽定」の意味です。
一時の世情の影響を受けやすい生存者、生身をもつものがどう揺らごうとも確固とした動かない国家の永続性の中心軸、憲法の固定点(欽定点)が我国にも存在していることを、国民みんなが思い出せばいいのです。
「正統」ということと、「憲法」ということと「国家の存続」ということとは我国では同義なのです。その目印が欽定点です。
祖先や子孫を冒涜する「日本国憲法」の改正はできないはずです。そんなものは「欽定」できないはずです。
憲法改正や皇室典範改正などの運動する人々に問いたいが、その改正の土台(現行憲法や典範)が、改正などと論ずるまえに、日本の神々(=祖先やこれから生まれる子孫)との関係で本当に憲法や典範として成立しているとでもお思いですか?本心からそう思っているのですか?
祭祀王の統治する国が憲法を「欽定」とするのは当然です。
1、 神々(皇祖皇宗) ←― 現行憲法無効論者の考える憲法の正統性の基礎(法の支配・国体論による国家)
↑
<つつしみてさだめる=欽定方式>
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2 、天皇 ←―――― 承詔必謹論者の考える憲法の正統性の基礎(主権論による国家)
|
|
3 、国民(人民) ←――― 生きている人間が認めていれば有効と考える有効論者(実体は受益者の自画自賛でしかない)、 護憲派護憲論、護憲派改正論、護憲派破棄論、自主憲法制定論など憲法を「つくる」という発想の戦後民主主義者(国民主権教信者)の考える正統性の基礎(実力の支配・主権論による国家)
幻想と実体?さてどちらでしょう?
護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
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もくじ
新無効論概略
新無効論概説・問答編
新無効論の目的・論理概略・現実対処法
新無効論と旧無効論
憲法違反と条約違反 ―― 新無効論と旧無効論
改正?破棄?廃止?無効確認?
大日本帝国憲法75条違反
法律論議以前!事実関係からの無効
日本国憲法の死亡 ―― 有効論への即効解毒剤
日本国憲法の誕生 ―― 日本国憲法は講和条約の限度で有効
日本国憲法改正論の欺瞞
憲法業者のペテンにひっかかるな!
法定追認有効説の論理破綻
追認有効説の変形――事実の規範力
保守の思想と保身の欲望
追認有効説の破綻と自画自賛
改憲派は「保守」派ではない!小山常実
4月28日問題!大東亜戦争はどうやって戦争終結できたの?
護憲派改正論者に告ぐ!
護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
憲法改正とは祖先との協同作業のことである
憲法学者の騙しテクニック
元凶は東大法学部
(1)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
(2)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
大日本帝国憲法に殉死・清水澄博士
「祓庭復憲」現行憲法無効宣言
「憲法無効宣言」南出喜久治講演録
橿原の宮のおきて
神聖をもとめる心 ──祭祀の統治への影響──
神の差し替え工作(2-1) 神道神学論考
神の差し替え工作(2-2) 神道神学論考
史上最悪宗教「利を権ることを尊べ!」
「生きていく」と「生かされている」
欽定憲法とは76箇条の御誓文
(動画)大日本帝国憲法とは?
大日本帝国憲法とは何か 3-1 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-2 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-3 小山常実
國體の下に 序章
國體の下に 1-1 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 2 生きている者だけの天国
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの
國體の下に 5 すべては國體の下に
戦後の「疚しさ」(1)
戦後の「疚しさ」(2)
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-1) 小山常実
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-2) 小山常実
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-1)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-2)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-3)
日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案
日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案
日本国憲法の誕生-3/GHQ案押付プロセス
日本国憲法の誕生-4/ポツダム宣言違反
日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会
日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」
日本国憲法の誕生-7/皇室自治・職能代表制
日本国憲法の誕生-8/第9条修正ドタバタ劇
日本国憲法の誕生-9/占領軍制定無効憲法
憲法かく論ずべし 伊藤哲夫著 日本政策研究センター 1500+税
なぜ「諸侯会盟」は「国是誓約」へと転換したのか
そこで問題は、それではこの「諸侯会盟」のための五箇條が、なぜ三月に入り、天皇が公卿、諸侯、及び百官を率いて天地神明に「国是」をお誓いになる-------という「国是誓約の文書」に転換したのか、ということになる。つまり、そうなるに至るには、いかなる経緯と理由があったのかということだ。
いうまでもなく、諸侯が集まってきて天皇の前で誓約し合う-------というのと、天皇が主体となって、それも「国是」を神に誓う------というのとでは、そこには根本的な性格の違いがあるといわなければならない。前者の形態に対し、天子が諸侯と誓いを立てる------などというのは中国風の覇道である、との反対論が当時公卿などの間に起こったとされるが、そうした「諸侯中心」の発想を「天皇中心」のそれに改めるには、その前提として「国家理念」の根本的転換が必要とされると考えるのが自然だからである。
その意味で、実はこの根本的な転換の中に、木戸孝允の果たした役割があるのではないか-------というのがここで本論の指摘したい点なのである。その鍵となるのが、三月初頭に提出されたと考えられる木戸の建議である。
「維新の日尤浅く、後主意未だ普く通徹致さず、諸藩尚方向を異にし、随て草莽輩も擲身却って国家の禍害を醸成し、屡屡方向を誤り候者も現に少なからず、国家の不幸容易ならず、且彼等に於ても憫然の至りに候、仰ぎ願わくば前途の大方向を定められ、至尊親しく公卿諸侯及び百官を率いて神参に誓せられ、明かに国是の確立する所をして速かに天下の衆庶に示され度き至願に堪へず候・・・・」
ここにあるのは、維新後日なお浅く、朝廷の御主意も徹底せず、ために諸藩方向を異にし、攘夷も跡を絶たないという憂うべき状況認識であり、よってこの際天皇が公卿諸侯を率いて神明に誓って国是を確立し、それを庶民に示して欲しい--------との意見具申である。
つまり、単に諸侯を集めて新政府支持を誓い合うという戦術的な発想に留まらず、積極的に天皇が中心となって開国の国是--------むろん、「公議政体」の国是も含む----------を確立し、それを「国民」に示すことが必要である--------との未来へ向けた本格的構想の建議なのである。これが、それまでの「諸侯会盟」から「五箇條のご誓文」への決定的な転換をなすポイントとなったと考えられるのである。

名画にみる國史の歩み 小堀桂一郎監修・所功編 近代出版社
五ヶ条の御誓文 新生日本の基本方針
慶応三年(1868)十二月に王政復古を宣言した維新政府は、諸大名の結束を固める必要に迫られた。そこで、福井藩出身の参与・由利公正が「諸侯盟約」の草案を起草し、これをさらに土佐藩出身の参与・福岡孝弟が公議政体を強調したものに修正した。
それに対して、公卿などから、諸侯の会盟は外国のやり方であって、神武天皇御創業の古に復するという新政府の方針に合わないという異論が出された。
そこで、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が群臣を率いて国是を神明に誓う、という方式を建議した。その結果、翌四年三月十四日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に神座を設け、公家・武家の諸臣を率いて、「五ヶ条の御誓文」を奉られたのである。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
二、上下心を一にして、盛んに経論を行ふべし。
三、官武一途庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
五、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
このように明快な五ヶ条の国是(国家の方針)は、戊辰戦争という緊迫した中で公表された。これは幕末の政治過程を通じて確立されつつあった「天皇を中心とした公議体制」の原則が結晶したものであり、その後の新生日本の基本方針となった。

大日本帝國憲法(帝国憲法)(明治二二年二月一一日公布、同二三年一一月二九日施行)
告 文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ皇祖皇宗及皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ神霊此レヲ鑒ミタマヘ
憲法発布勅語
朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
御名御璽
明治二十二年二月十一日
――――――――――――――――――――――――――――――
名画にみる國史の歩み 小堀桂一郎監修・所功編 近代出版社
憲法発布 近代的な欽定憲法の成立
明治元年の「五ヶ条の御誓文」によって、わが国では、公議公論によって決定された国民の意思が天皇の裁可をうけることによって国家意思となる(その間、天皇は、神々の意思にそって国民の意思が形成されることを祈り、重大事については必ず神々に報告なさる)という日本的な大原則(欽定方式)が示された。
その後、この大原則と維新後の新たな状況を受けて、明治八年四月、「漸次立憲政体樹立の詔(みことのり)」が発せられ、九年九月には元老院で憲法の起草作業が開始された。それに前後して、自由民権運動も盛んになったので、岩倉具視は井上毅の起草になる憲法綱領を太政大臣三条実美に提出。この綱領によって、五ヶ条の御誓文以来の欽定方式が確認されるとともに、後の帝國憲法の骨子が固まったといえよう。
そこで、より具体的な憲法条文を起草するため、それに先立って伊藤博文が欧州へ派遣された。帰国した伊藤は、憲法の前提をなす華族制度や内閣制度を創設した後、西洋法にも明るい井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎らの協力を得て憲法を起草している。
この草案は枢密院で慎重に審議された後、明治二十二年二月十一日(紀元節)に制定・発布された。その際、天皇は、これが皇室典範とともに完成したことを皇祖神に報告され、国民に率先して尊重することを誓われた後、総理大臣の黒田清隆に授けられた。
この憲法は、幕末・明治初期における政治的経験を基礎とし、日本の国柄を尊重しながら西欧の諸憲法を参考にして、古来の伝統と外来の制度とを調和させ、独自の近代化を実現しようとするものであった。
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大日本帝国憲法制定史 38-9頁 明治神宮編
「『欽定』とは、外国の覇権者の独断決定などとは全く相反して、臣民の苦闘経験の結果が、すべての者の熱望として統合されて来たときに、それを天皇の精神的権威によって、荘重に確認され公定されるといふことなのである」
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天皇と日本の近代・上・・・憲法と現人神 八木公生著
このように、『明治憲法』を、内容だけでなく形式にも注目しながら見てくると、「不磨ノ大典」とならぶもうひとつの特色である≪欽定憲法≫、天皇が<欽>(つつし)んで<定>(さだ)めたとされる特色も、あらためて考えなおす必要がでてくる。
一般には、<下から>、民衆のほうからその要求として制定されたものではなく、あくまで<上から>、天皇単独の意思として天下り的にあたえられたという点だけが強調されがちであった。
が、これも、原理的には、天皇を祀り主とするすべてのひとびとが、神々に対して誓った≪御誓文≫を想定して理解すべきではないだろうか。
このとき天皇もまた、ひとりの祀り主として、ひとびとと同じ誓約する側にいるのだ。≪欽定≫の<欽>は、これまでとはちがって、天皇ではなくその誓約をうける神々をさす尊称ととらえなくてはいけないだろう。
このような神々への誓約である以上、『明治憲法』は、必然的に、天皇をふくむすべてのひとびとの生きかた、倫理や道徳といった行為にかかわるだけでなく、その精神のありようにまで直截的に介入せざるを得ない。
いや、おそらく正しくはそうではない。いっそう正確を期すのなら、神々への誓約であるから、誓いをたてた天皇をはじめとするすべてのひとびとは、みずから自主的に一挙一動に気をくばり自戒するようになる、いわば精進潔斎をおのれの意思として選びとるしかなかったのだと言えよう。
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教育勅語を読めば、現在の天皇や国民に「主権」がないのは当然にわかるはずなのに占領憲法に国民主権が書かれたからといってそれを守ろうなどとは不真面目な人達ですねえ。
教育勅語は道徳も色々かいてありますが、基本中の基本は、日本国を守りぬいてきた過去の天皇と現在の天皇と未来の天皇の命が連綿とつながってて、天皇と運命をともに活躍してきた国民の命も連綿とつながっており、日本国の主権(絶対的な源泉)がもしどこかにあるというなら、その命の連続体にあるのですよと言ってるのです。
そしてあなたたち自身もその連続体の一過程をあずかっているのですよ、と言っているのです。
教育勅語の中心的思考法が戦後抹殺されているから自称保守の人でも憲法無効論や占領典範無効論には理解が進まないのです。憲法改正などという刹那的な思考になり祖先の視線は感じないらしい、困ったものです。
その姿勢・構えがさらに生きている我々そのものの生活、思考法を虚無的なものにしていて考えなければならないことが何なのかを分からなくしているのに、そのことにも気づかない。
生者のうちのどちらに主権があるのか天皇にあるのか国民にあるのかというような軽薄な観念にしばられてそれより上位のものが、見えなくなる状態が続いています。
欽定ということは、結局、天皇と国民の共通の祖先に対して「欽(つつしんで)定(さだめる)」ということです。
天皇が上から下の国民にさしあたえたのが「欽定」憲法だなんていうのは、戦争末期被占領中のGHQ(敵)から指令を受けた転向学者の保身理論ですね。
欽定憲法の意味は「天皇と雖も国体のもとにある」ということで法の支配、神々、皇祖皇宗のまなざしのもとにあるということです。 歴史上の特定時期をあずかる一天皇に国体を変革する権能はもともとないのです。
欽定は神々に対し「つつしみてさだめる」の意であり、<神々 ←← 天皇>の関係、神々への報告様式をとらえた概念です。
この関係を、戦後になって学問的に破壊し<支配者・天皇 → 国民>の図式を強調したのは敗戦利得者の戦後憲法業者です。
< 神々・皇祖皇宗 ←A← 天皇(最高祭主) →B→ 国民 >
戦後憲法学者が A の欽定の概念を B にすり替えて承詔必謹論とともに正当化した「日本国憲法」の中に国民を封じこめたのです。
「欽定」の本当の意味 A を国民の意識の上に昇らせると、船中八策が五箇條の御誓文にまで進化し、その煥発方式が「欽定」として神々への誓文として再出発したこと、それと同じく大日本帝国憲法も欽定であったように、国の根幹にかかわることは、日本の神々(祖先)に誓い報告するという確立されたこの大原則(不文法)をふんでいない「日本国憲法」の有効性が明瞭に否定されてしまうからなんです。
日本の憲法の正統性は神々との関係で確定するわけです。
その確定行為を、国民を代表して日本の神々に欽定儀式を通じて報告するのが祭祀王・神々の直近におられる天皇の責務です。
ゆえに、いくら、生きている人間だけで、天皇主権から国民主権に変わったなどとたわごと言っていても、遠い祖先や、まだみぬ子孫との関係では・・・・・言い換えて・・・・日本の神々との関係では、日本式には憲法として成立していないことは明白なのです。
占領中の「日本国憲法」を昭和天皇が神々に報告(欽定)しているはずがないし、もしそんなことが出来ているとしたら神々を冒涜しているというようなものです。 なぜなら、生身をもつ人間には占領が可能ですが、日本の神々までも占領できませんからね。
我々の祖先はこういう民族固有の占領のできない不動の固定点を憲法理論の中に残してくれたのです。それが「欽定」の意味です。
一時の世情の影響を受けやすい生存者、生身をもつものがどう揺らごうとも確固とした動かない国家の永続性の中心軸、憲法の固定点(欽定点)が我国にも存在していることを、国民みんなが思い出せばいいのです。
「正統」ということと、「憲法」ということと「国家の存続」ということとは我国では同義なのです。その目印が欽定点です。
祖先や子孫を冒涜する「日本国憲法」の改正はできないはずです。そんなものは「欽定」できないはずです。
憲法改正や皇室典範改正などの運動する人々に問いたいが、その改正の土台(現行憲法や典範)が、改正などと論ずるまえに、日本の神々(=祖先やこれから生まれる子孫)との関係で本当に憲法や典範として成立しているとでもお思いですか?本心からそう思っているのですか?
祭祀王の統治する国が憲法を「欽定」とするのは当然です。
1、 神々(皇祖皇宗) ←― 現行憲法無効論者の考える憲法の正統性の基礎(法の支配・国体論による国家)
↑
<つつしみてさだめる=欽定方式>
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2 、天皇 ←―――― 承詔必謹論者の考える憲法の正統性の基礎(主権論による国家)
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3 、国民(人民) ←――― 生きている人間が認めていれば有効と考える有効論者(実体は受益者の自画自賛でしかない)、 護憲派護憲論、護憲派改正論、護憲派破棄論、自主憲法制定論など憲法を「つくる」という発想の戦後民主主義者(国民主権教信者)の考える正統性の基礎(実力の支配・主権論による国家)
幻想と実体?さてどちらでしょう?
護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
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もくじ
新無効論概略
新無効論概説・問答編
新無効論の目的・論理概略・現実対処法
新無効論と旧無効論
憲法違反と条約違反 ―― 新無効論と旧無効論
改正?破棄?廃止?無効確認?
大日本帝国憲法75条違反
法律論議以前!事実関係からの無効
日本国憲法の死亡 ―― 有効論への即効解毒剤
日本国憲法の誕生 ―― 日本国憲法は講和条約の限度で有効
日本国憲法改正論の欺瞞
憲法業者のペテンにひっかかるな!
法定追認有効説の論理破綻
追認有効説の変形――事実の規範力
保守の思想と保身の欲望
追認有効説の破綻と自画自賛
改憲派は「保守」派ではない!小山常実
4月28日問題!大東亜戦争はどうやって戦争終結できたの?
護憲派改正論者に告ぐ!
護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
憲法改正とは祖先との協同作業のことである
憲法学者の騙しテクニック
元凶は東大法学部
(1)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
(2)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
大日本帝国憲法に殉死・清水澄博士
「祓庭復憲」現行憲法無効宣言
「憲法無効宣言」南出喜久治講演録
橿原の宮のおきて
神聖をもとめる心 ──祭祀の統治への影響──
神の差し替え工作(2-1) 神道神学論考
神の差し替え工作(2-2) 神道神学論考
史上最悪宗教「利を権ることを尊べ!」
「生きていく」と「生かされている」
欽定憲法とは76箇条の御誓文
(動画)大日本帝国憲法とは?
大日本帝国憲法とは何か 3-1 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-2 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-3 小山常実
國體の下に 序章
國體の下に 1-1 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 2 生きている者だけの天国
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの
國體の下に 5 すべては國體の下に
戦後の「疚しさ」(1)
戦後の「疚しさ」(2)
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-1) 小山常実
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-2) 小山常実
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-1)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-2)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-3)
日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案
日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案
日本国憲法の誕生-3/GHQ案押付プロセス
日本国憲法の誕生-4/ポツダム宣言違反
日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会
日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」
日本国憲法の誕生-7/皇室自治・職能代表制
日本国憲法の誕生-8/第9条修正ドタバタ劇
日本国憲法の誕生-9/占領軍制定無効憲法

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