日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案


                             

              「日本国憲法」無効論  小山常実著  草思社   1995円


1 日本側草案とはどういうものだったのか

マッカーサーは憲法改正を「示唆」ではなく「指示」した

 「日本国憲法」をつくろうという動きは、マッカーサーの日本政府に対する指示に始まる。マッカーサーは、
1945(昭和20)年10月4日、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に憲法改正を示唆した。ついで、10月11日マッカーサーは、9日に首相となった幣原喜重郎と会見し、「ポツダム宣言の達成によって日本国民が数世紀にわたつて隷属せられて来た伝統的社会秩序は匡正せらるであらう、このことが憲法の自由主義化を包含することは当然である」(『朝日新聞』昭和201013日、社説「欽定憲法の民主化」)として憲法改正を指示した。

 憲法解釈学も中学校教科書も、かつて、日本側が一貫して自主的に憲法をつくったという虚構を築くために、この指示について正面から取り上げないか、勧告的な意味合いの「示唆」という言葉を使っていた。その後、命令的な意味の「指示」と表現するようになっていったが、宮沢系の憲法学者を中心に、1980年代以降、むしろ「示唆」とする学者のほうが多数となっている。なんとも、すさまじき史実の歪め方である。


政府側の五つの草案

 マッカーサーによる指示のあった10月11日、近衛文麿は、宮内大臣とともに皇室の機関である内大臣府の御用掛に任命される。近衛は改正案の起草を、美濃部達吉とならび称された憲法学者佐々木惣一に依頼することとし、
13日には佐々木も内大臣府御用掛に任命される。幣原内閣は、13日の臨時閣議で憲法調査に乗り出すことを決定し、25日、松本烝治国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会を設置することを発表する。その結果、内大臣府の憲法調査は宮中の私事、内閣の憲法調査は国務という形ではあるが、内大臣府と政府とが競い合う形で憲法改正問題を取り上げることになった。

 内大臣府の憲法改正作業の中では、佐々木惣一がまず憲法草案をつくる。だが、佐々木案は、天皇の最高諮問機関である枢密院を残していたり、上院議員として皇族・華族議員を残していたりしていた。米国側との接触の多かった近衛には、佐々木案は、政党内閣制期に政党内閣と対立しがちであった枢密院さえも廃止せず、改正の程度が弱すぎるように思われた。再三、近衛は佐々木に修正を迫るが、聞き入れてもらえない。結局、意見の相違を解決することができないまま、近衛案と佐々木案の二案が天皇に提出されている。

 政府の憲法問題調査委員会では、美濃部達吉、松本大臣らの多数派と、昭和初期に東大の憲法学第二講座を美濃部と交替で担任した野村淳治とが対立する。美濃部は占領されているような非常事態の中での憲法改正に反対であった。しかし、明治憲法の条文に満足していたわけではなく、もしも改正するならばどう改正するかという観点から、改正構想を立てている。


 孤立した野村淳治が作成した案は野村の私案に終わることになる。これに対して、委員会は、美濃部構想を発展させて、大改正案として松本乙案を作成し、小改正案として松本甲案を作成し、正式の小改正案として決定している。

 この五案は、野村案とその他の案で区分することができる。野村案は、国体を維持しながらも、米国にならって、議院内閣制を否定し、大統領型の内閣総理大臣の制度をつくろうとして首相公選制または準公選制を提案する。しかも、社会経済制度はソ連にならって社会主義化しようとする。野村案とは、日本の国体、米国の中央政治体制、ソ連の社会経済体制を組み合わせようというものだった。一言でいえば、野村案とは、天皇制社会主義の改正構想である。

 これに対して、他の四案は「大正デモクラシー」改良型の改正構想である。「大正デモクラシー」は、天皇の統治権の総攬を維持したうえで、軍事を含む全国務を内閣の責任範囲とし、内閣を議会のコントロール下に置くこと、議院内閣制の完全な確立を課題にした。四案とも、基本的に「大正デモクラシー」と同様の思想から憲法草案をつくっているのである。

 四案のうち、佐々木案と近衛案は内大臣府が廃止されたため、あまり影響をまたぬまま終わった。松本甲案は2月初旬には若干修正されて一応の政府案とされるが、より重要な草案は松本乙案である。なぜなら、2月1日の『毎日新聞』によって、松本乙案とほぼ同様の案が政府案としてスクープされたことをきっかけにして、GHQが草案づくりに乗り出すからである。


明治憲法を大きく修正するものだった松本乙案


 それでは、松本乙案はどうのようなものだったか。憲法学者や最近20年の社会科教科書の多くは、日本側が明治憲法を微修正した案しかつくれなかったから、GHQが改正案を作成して提示したのも無理がないと説明してきた。しかし、本当に、松本乙案は、明治憲法を微修正したにすぎないのだろうか。

 まず松本乙案は、ざっと数えただけでも、明治憲法全76条のうち46条を修正ないし削除している。現状維持で残されたのは30条だけである。

 内容的に分析していけば、たしかに、松本乙案は、「万世一系ノ天皇」や「統治権ヲ総攬ス」という表現を残しており、国体の維持をはかっている。しかし、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ノ一身ハ侵スヘカラス」などの案に変更している。第3条は天皇現人神観を発生させた一つの根拠として攻撃されつづけてきた。松本乙案は、第3条から「神聖」の語を削って、現人神観が発生しないようにし、単に国家元首の無答責を規定したものとしか読めないものに変更したのである。これだけでも、微修正ではないといおうと思えばいえるのではないだろうか。

 だが、国体に関しては、微修正であるという批判もあながち的外れではない。しかし、松本乙案は、明治憲法と異なり、憲法改正の発議権を天皇に独占させず、各議院の3分の1以上の賛成でそれぞれ発議できるとする。したがって、少なくとも、松本乙案の改正条項にもとづき議会側の発議で将来の憲法改正がなされれば、その改正憲法は、君主と国民または国民代表議会とが合意して憲法を作成する協約憲法の性格をもつものになる。これだけで、松本乙案と明治憲法とは、大きく異なるものといえよう。

 また、現実の統治機構を定めた政体については、松本乙案は、基本的に、議院内閣制を憲法と内閣法によって保障しようとしている。

 明治憲法体制下で政党内閣制が成立しながら、昭和初期に軍国主義体制となっていったのは、あえて憲法にその理由を求めれば、第一に、軍の指揮監督や作戦用兵に関する統帥権について規定した第11条の存在による。

 明治憲法下では、統帥権は、内閣から独立した統帥機関、すなわち陸軍の場合は陸軍参謀本部が、海軍の場合は海軍軍令部が管轄した。いわゆる統帥権の独立である。統帥権の独立という思想は徐々に肥大化していき、昭和5(1930)年のロンドン軍縮条約問題では濱口民政党内閣を攻撃する武器に使われる。

 ロンドン軍縮条約問題では、政府は海軍軍令部長の同意を得ずに、補助艦の制限を規定した条約に調印した。補助艦の制限問題は、海軍編制の問題だから内閣の一員たる海軍大臣の管轄である。それゆえ、内閣が海軍軍令部長の同意を得ずに条約調印をしても、本来問題ないはずであった。しかし、この調印を、対外強硬派は「統帥権干犯」であると攻撃したのである。以後、軍部はしだいに力を強めていき、政党に代わって国政をになうようになっていったのである。


 軍国主義体制となっていったのは、第二に、議院内閣制を保障する諸規定が欠如していたことによる。すくなくとも明治憲法に議会に対する大臣責任の規定と不信任決議の規定とが存在すれば、政党内閣制はあれほど簡単に崩れなかったと考えられるからである。

 そこで、松本乙案は、明治憲法と異なり、議会に対する大臣の責任を明記し、衆議院の不信任決議があったときは解散しないかぎり、辞職しなければならないと定め、さらに内閣の組織については勅令ではなく内閣法によって定めなければならないとしている。つまり、松本乙案は、基本的に、法上の議院内閣制を保障するものなのである。

 また、松本乙案は、統帥、編制、宣戦・講和など軍事関係の規定を削除するとともに、枢密院を廃止し、衆議院から地租や所得税などの直接国税を多く納める者の中から互選で選ばれる多額納税議員や華族議員を排除しており、旧勢力を排除している。そして、職業地域代表で参議院を構成する案をも考えていた。

 最後に、権利義務に関しては、松本乙案は、「公益ノ為」や「公安ヲ保持スル為」ならば法律によって権利自由の制限を行なえるとし、教育を受ける権利義務、勤労の権利義務といった社会権を新設している。

 右のように、松本乙案は、特に政体と憲法改正手続きにおいて、明かに大きく明治憲法を変えるものであった。少なくとも、政体においては、明治憲法よりも「日本国憲法」に明確に近いものであった。

 ところが、従来の研究者は、きちんと分析項目を設定して、明治憲法やいろいろな憲法草案と比較検討することなく、「万世一系ノ天皇」や「統治権ヲ総攬シ」という表現にとらわれて、松本乙案は明治憲法とたいして変わらないものであると位置づけてきたのである。この認識は改めなければならない。


 したがって、日本側の案が明治憲法を微修正したものだったからGHQが改正案を提示したのも無理はないという物語は、成立不能なのである。



                        
              
1995(平成7)年まで秘密に・・・
                                「日本国憲法」成立をめぐる年表

日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案へつづく
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もくじ

新無効論概略
新無効論概説・問答編
新無効論の目的・論理概略・現実対処法
新無効論と旧無効論
憲法違反と条約違反 ―― 新無効論と旧無効論
改正?破棄?廃止?無効確認?

大日本帝国憲法75条違反
法律論議以前!事実関係からの無効
日本国憲法の死亡 ―― 有効論への即効解毒剤
日本国憲法の誕生 ―― 日本国憲法は講和条約の限度で有効

日本国憲法改正論の欺瞞
憲法業者のペテンにひっかかるな!
法定追認有効説の論理破綻
追認有効説の変形――事実の規範力
保守の思想と保身の欲望
追認有効説の破綻と自画自賛
改憲派は「保守」派ではない!小山常実 

4月28日問題!大東亜戦争はどうやって戦争終結できたの?
護憲派改正論者に告ぐ!

護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
憲法改正とは祖先との協同作業のことである

憲法学者の騙しテクニック
元凶は東大法学部
(1)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
(2)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
大日本帝国憲法に殉死・清水澄博士

「祓庭復憲」現行憲法無効宣言
「憲法無効宣言」南出喜久治講演録

橿原の宮のおきて
神聖をもとめる心 ──祭祀の統治への影響──
神の差し替え工作(2-1) 神道神学論考
神の差し替え工作(2-2) 神道神学論考
史上最悪宗教「利を権ることを尊べ!」
「生きていく」と「生かされている」
欽定憲法とは76箇条の御誓文

(動画)大日本帝国憲法とは?
大日本帝国憲法とは何か 3-1 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-2 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-3 小山常実

國體の下に 序章
國體の下に 1-1 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 2 生きている者だけの天国
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの
國體の下に 5 すべては國體の下に

戦後の「疚しさ」(1)
戦後の「疚しさ」(2)

再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-1) 小山常実
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-2) 小山常実

チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-1)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-2)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-3)

日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案
日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案
日本国憲法の誕生-3/GHQ案押付プロセス
日本国憲法の誕生-4/ポツダム宣言違反
日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会

日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」
日本国憲法の誕生-7/皇室自治・職能代表制
日本国憲法の誕生-8/第9条修正ドタバタ劇
日本国憲法の誕生-9/占領軍制定無効憲法