日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会

「日本国憲法」無効論 小山常実著 草思社 1995円
3 統制下にあった帝国議会の審議

「日本国憲法」無効論 小山常実著 草思社 1995円
3 統制下にあった帝国議会の審議
「帝国憲法改正案」
3月6日の「憲法改正草案要綱」の発表後、4月10日には、憲法改正問題をまったく選挙の争点としないまま、戦後初の総選挙が行なわれる。民定憲法論の一部の人は、GHQ案をもとにした政府案支持を表明した候補が多く当選したから国民の支持があったとするが、候補者の多くは、憲法改正問題について取り上げていない。1956(昭和31)年から1964年まで活動した前回の憲法調査会の調査によると、北海道第一区、福島県、茨城県、静岡県、大阪府第一区、広島県、愛媛県、福岡県第一区の八選挙区の立候補者のうち、選挙公報で政府案について意見を表明していた候補者は、全体の17.4%にすぎない(『日本国憲法制定の由来 憲法調査会小委員会報告書』時事通信社、1961年、371頁)。少なくとも、この時点で国民の多くが支持したなどというのは、まったくの虚構なのである。
その後、4月16日の閣議決定で、GHQの了承をいちいち得ながら「憲法改正草案要綱」を口語化し多少とも修正した「憲法改正草案」が政府案として承認され、翌17日に発表される。
「憲法改正草案」は、4月22日から5月8日まで、八回の枢密院の審査委員会の審議を経て、いったん内閣に戻される。「憲法改正草案」は、若干の修正を施されて「帝国憲法改正案」となり、5月29日の枢密院審査委員会に提出されている。
「帝国憲法改正案」は、29日から6月3日までの三回の審査委員会の議にかけられる。枢密院の会議では、吉田首相は、「帝国議会ニヨリ修正ヲ加ヘラルルコトハ可能ナルベシ」(村川一郎『帝国憲法改正案議事録』国書刊行会、1986年、162頁)として、枢密院による修正を許さない態度に出る。政府にすれば、ポツダム宣言が「日本国民の自由な意思表明」による政治形態の決定、ということを要求している以上、国民の代表とはいえない枢密院による修正を許せば、ポツダム宣言に反するおそれがあると考えたのであろう。そして、政府は、「国際情勢」を考慮せよ、という言葉を繰り返し、審査委員会における疑問や反対を押さえ込んでいく。
「帝国憲法改正案」は、審査委員会の議を経て、6月8日、枢密院本会議にかけられる。ここで林頼三郎は、主権の問題、戦争放棄の問題など七点の疑問を掲げながらも、「政府の言明するところによれば、現下の国際情勢は複雑微妙であり、本件の急速なる実現が絶対必要であり、さもなければ不測の事態に立至るやもはかりがたいとのことであり」(同、188頁)として政府案に賛成している。林のような考えにもとづき、枢密院本会議は、「帝国憲法改正案」を正式に可決するのである。ただし、三笠宮崇仁親王が退席し、美濃部達吉が反対したことは特筆されよう。
6月20日、「帝国憲法改正案」は、天皇の発議案として、帝国議会に提出される。翌21日、マッカーサーは、声明を発表し、5月13日に極東委員会が示した「議会における討議の三原則」をそのまま述べた。三原則とは次のようなものであった。
「a 新憲法の条項を徹底的に討議し検討するため、十分の時間と機会が与えられるべきである。
b 1889年の憲法と新憲法との間に完全な法的連続性の存することを保証されるべきである。
c 新憲法は、それが日本国民の自由な意思を、確定的に表明するものであることを示すような方法で採択されるべきである」(清水伸『日本国憲法審議録』第四巻、原書房、1976年、172頁)
bで述べている「完全な法的連続性」を保証するために、明治憲法第73条にもとづき憲法改正を進めることになった。欽定憲法の改正方式をこれまでどおりとり続けることになった。同時に、cで述べている「日本国民の自由な意思を、確定的に表明する」ために、議会は改正原案を広く自由に修正できることとなった。
6月25日、「帝国憲法改正案」は衆議院本会議に上程される。ついで7月1日から23日まで憲法改正特別委員会が開かれる。さらに25日から8月20日までは、特別委員会の中にさらに設置された憲法改正小委員会で、憲法改正のほとんどの修正が行なわれる。
小委員会の委員は、最大政党で与党の自由党からは、後に首相もつとめる芦田均憲法改正特別委員会委員長、北一輝の弟である北昤吉、廿日出厖、江藤夏雄、高橋泰雄、第二党で与党でもある進歩党からは犬養健、吉田安、原夫次郎、第三党の社会党からは鈴木義男、無政府主義思想の研究者の森戸辰男、後に民主社会党を結党する西尾末広、他に協同民主党からは林平馬、新政倶楽部からは大島多蔵、無所属倶楽部からは笠井重治が選ばれる。三大政党からは自由党5名、進歩党3名、社会党3名が選ばれ、三つの小会派からは1名ずつ、選ばれている。合計14名である。
政府側からは、金森徳次郎憲法担当国務大臣は4回出席して意見を述べており、佐藤達夫法制局次長は13回とも出席して意見を述べている。
小委員会は、各会派提出の憲法改正修正案についてそれぞれ審議して調整をはかり、共同の修正案を作成している。共同修正案は、8月21日の憲法改正特別委員会で可決され、24日の本会議で記名投票にかけられる。その結果、総数429、賛成421で衆議院を通過する。反対は、徳田球一、野坂参三、志賀義雄などの共産党の6名全員と、無所属倶楽部の穂積七郎と細迫兼光の2名だけであった。穂積と細迫はともに社会党左派系議員として活躍することになる人物であり、衆議院で「日本国憲法」に反対した人たちは、すべて左翼であったことに注目しておきたい。
衆議院を通過した憲法改正修正案が貴族院に送付されると、8月26日から本会議で、31日から9月26日までは憲法改正特別委員会の質疑が行なわれる。貴族院での修正は少ないが、ここでも橋本実斐委員長、織田信恒、宮沢俊義、浅井清など15名からなる特別委員会内小委員会が若干の修正を行なっている。この修正案は、10月3日の特別委員会、10月6日の貴族院本会議で可決される。
貴族院本会議では、大正期に佐賀県知事や石川県知事をつとめて勅撰議員となった沢田牛麿と佐々木惣一以外のほとんどの議員が賛成している。7日、衆議院本会議は、衆議院に回付されてきた憲法改正案を可決する。そして、10月29日の枢密院本会議の可決を経て、11月3日、新しい憲法が公布されるのである。
なお、戦前憲法学の大家の一人であった清水澄は、1947(昭和22)年5月3日の「日本国憲法」施行日に遺書を認(したた)め、9月に自殺している。美濃部達吉、佐々木惣一、清水澄という、戦前憲法学の3人の大物がいずれも「日本国憲法」に反対していたことに注目しておきたい。
国民に閉ざされた憲法改正小委員会
さて、議会審議において、ポツダム宣言でも、極東委員会の「議会における討議の三原則」でも
保障されていた「日本国民の自由な意思」は、尊重されていたのか。答えは、断然否である。
そもそも、1946年1月4日に出されたGHQの公職追放令により、466名の衆議院議員のうち、381名、81.8%の議員が追放されていた。党派別に見れば、進歩党274名中260名、日本自由党43名中30名、社会党17名中10名などとなっている。彼らは、4月に行なわれた総選挙への出馬資格を失ってしまう(増田弘『公職追放論』岩波書店、1998年)。
総選挙の後も、議員追放は行なわれる。5月3日、GHQは、総選挙で第一党となった日本自由党総裁の鳩山一郎を直接追放する。さらに、6月には、日本自由党幹事長の河野一郎(河野洋平の父)や衆議院議長に予定されていた三木武吉など8名の国会議員を、直接に追放する。また、GHQの公職追放令を実施するために日本側が設置した中央公職適否審査委員会も、7月15日に民政局に報告した段階で、貴族院議員169名、衆議院議員10名を追放していく(前掲増田)。つまり、日本国民を代表する多数派の意思が、そもそも議会から排除されていたのである。
このように、議員たちは、自分がいつ追放されるかという恐怖の中で、憲法改正について審議していた。つまり、議会の審議をいちいち検討するまでもなく、議員たちの自由意思は、客観的に存在しなかったのである。
しかも、帝国議会における審議中においても、議員の自由意思は尊重されなかった。日本側による修正も、いちいちGHQによる承認が必要だったし、GHQの修正要求にはまったくさからえなかった。完全に、GHQは議会の審議を統制していた。とりわけ、憲法改正小委員会は、これから見ていくように、GHQによって完全に統制されていた。
憲法改正小委員会は、記者の入場も一般議員の傍聴も許さないまま、衆議院での修正をほとんど行なった。それゆえ、小委員会でどのような議論が行なわれたか探求することは、衆議院での修正過程の実質を知るうえで一番重要な作業である。だが、この速記録は、秘密会議事録の扱いを受け、1995(平成7)年9月に公開されるまで、49年間も国民一般に秘密にされてきた。ところが、GHQのほうには、英訳して提出されているのである。議会が、国民でなくGHQに開かれていたことが、よく見てとれよう。
小委員会は、GHQや極東委員会がらみの話となると、速記をとめたうえで会議を行なっている。おそらく、このときに、GHQの具体的な圧力が赤裸々に語られているのであろう。実は一番重要な部分は速記を中止した部分であろう。繰り返すが、衆議院での修正過程の研究で一番重要な作業は、小委員会の議事の研究である。この重要な部分が相当程度闇に葬られていることに留意されたい。
しかも、1995年までは、小委員会の議事は、英訳版によってしか知ることができなかった。だが、英訳版では、かなりの部分で議員の発言が、そっくり削除されたり、ほとんど原型をとどめないほどに大幅に修正され、実質的に削除されていた。ようやく7年前の公開とともに、その削除部分が明らかになった。削除された主な発言は、国民主権、皇室財産、戦争放棄、国務大臣に関する文民条項の4つの論点をめぐっての発言である。いずれも重要な論点であり、国体と戦力放棄という二大問題に関する論点である。以下、主に、この4点と参議院議員の選び方について、議会の議事を見ていくことにしよう。
日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」 へつづく
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もくじ
新無効論概略
新無効論概説・問答編
新無効論の目的・論理概略・現実対処法
新無効論と旧無効論
憲法違反と条約違反 ―― 新無効論と旧無効論
改正?破棄?廃止?無効確認?
大日本帝国憲法75条違反
法律論議以前!事実関係からの無効
日本国憲法の死亡 ―― 有効論への即効解毒剤
日本国憲法の誕生 ―― 日本国憲法は講和条約の限度で有効
日本国憲法改正論の欺瞞
憲法業者のペテンにひっかかるな!
法定追認有効説の論理破綻
追認有効説の変形――事実の規範力
保守の思想と保身の欲望
追認有効説の破綻と自画自賛
改憲派は「保守」派ではない!小山常実
4月28日問題!大東亜戦争はどうやって戦争終結できたの?
護憲派改正論者に告ぐ!
護憲派護憲論と護憲派改正論は蚤の曲芸!
憲法改正とは祖先との協同作業のことである
憲法学者の騙しテクニック
元凶は東大法学部
(1)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
(2)「君主殺し」を叫ぶ国立国会図書館HP監修者
大日本帝国憲法に殉死・清水澄博士
「祓庭復憲」現行憲法無効宣言
「憲法無効宣言」南出喜久治講演録
橿原の宮のおきて
神聖をもとめる心 ──祭祀の統治への影響──
神の差し替え工作(2-1) 神道神学論考
神の差し替え工作(2-2) 神道神学論考
史上最悪宗教「利を権ることを尊べ!」
「生きていく」と「生かされている」
欽定憲法とは76箇条の御誓文
(動画)大日本帝国憲法とは?
大日本帝国憲法とは何か 3-1 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-2 小山常実
大日本帝国憲法とは何か 3-3 小山常実
國體の下に 序章
國體の下に 1-1 何が私たちを決めるのか
國體の下に 1-2 何が私たちを決めるのか
國體の下に 2 生きている者だけの天国
國體の下に 3 命と人権を越えるもの
國體の下に 4 憲法の向こうにあるもの
國體の下に 5 すべては國體の下に
戦後の「疚しさ」(1)
戦後の「疚しさ」(2)
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-1) 小山常実
再考 皇室典範改正 議論すべき五つの論点 (2-2) 小山常実
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-1)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-2)
チャンネル桜 渡部昇一の大道無門 ゲスト:小山常実(3-3)
日本国憲法の誕生-1/政府草案/松本乙案
日本国憲法の誕生-2/松本乙案≒民間草案
日本国憲法の誕生-3/GHQ案押付プロセス
日本国憲法の誕生-4/ポツダム宣言違反
日本国憲法の誕生-5/GHQ統制帝国議会
日本国憲法の誕生-6/其ノ筋ノ意向「国民主権」
日本国憲法の誕生-7/皇室自治・職能代表制
日本国憲法の誕生-8/第9条修正ドタバタ劇
日本国憲法の誕生-9/占領軍制定無効憲法

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