Prof. Shima's Life and Opinion

Shima教授の生活と意見。

多事多難だったこの一年を振り返る

6ea06352.jpg「この一年、あっという間に過ぎた」とは毎年年末に思うことだが、今年はそれ以上の感慨がある。昨年末に母、今年夏には父が相次いで入院から重度の要介護状態に入り、基本的に自宅で世話をする選択をしたため、生活発想の転換を迫られることが多々あった。

その間に起こった3・11東日本大震災と引き続く東京電力福島第一原発の重大事故では、家族そろっての疎開の一時期を経て、二人の子どもたちが、完全に親元を離れて暮す体制に入った。結果として、逗子の我が家では現在老親二人と我々夫婦という状態になった。これも人生の大きな節目であろう。

東京電力福島第一原発事故の発生と同時に、大きな危機意識と後悔が襲ってきた。想定可能な最悪の事態に備えて、自分と家族の当面の安全を確保するための最善の行動をとるとともに、なんでこのような事態が起こってしまったのか、そもそも社会的存在としての「原発」とはなんだったのかを考えはじめた。

連れ合いの実家のある鹿児島に家族を置き、3月末、まだ元気が残っていた父とともに逗子に帰ってからしばらくは、日本の原発政策がどのような事情のもとに、誰の手によって推進されたのかの研究に没頭した。それは自分の取り組んでいた「55年体制」というものと骨がらみに結びついたものであった。

原発はまさに「日米同盟」と一体のものだった。日米安保条約と日米原子力協定によって、日本は「核抑止力」という名目の、軍事同盟体制に組み込まれ、アメリカ合衆国の属国と化したきた。そのプロセスの帰結が、日本列島の「原発漬け」化であり、沖縄の米軍基地化であり、TPPによる農業破壊である。

こうしたことがらが全て一続きの線につながることによって、これまで見えていなかった戦後日本社会の巨大な闇の部分が視野に入ってくることになった。その結果の一端は、笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」の風景の意味の解明など、研究上の新しい分野に直接反映されることになった。

しかし「研究成果が挙がった」という嬉しさとは全く無縁の心境だ。これまで視るべきものを視ず、知るべきことを知らずにいたことが、どれだけ大きな欠落となっていたかと悔いる気持ちばかりが募る。

3・11後、何人かの心ある友人たちも、「これまでやってきた学問や芸術なんぼのものか」という心情を吐露してきた。自分も同じ心持である。そうかといって、それを仕事にしている以上、放棄してしまうわけにもいかない。せめてはこれまでの欠落を補い、専門性に恥じぬ発信を続けていくしかなかろう。

来年がどのような年になるか、これまた例年以上にまったく見当がつかない。正直なところ、家庭生活も、研究状況も、日本と世界の情勢も、どう転がるか予測できないのが現状だ。ともすればその不透明さに、絶望的となることもある。

所詮一人でできることは限られている。人の力ではどうにもならないこともある。だが一人一人の声を集め、人の力の及ぶ限りのことは、やはりしていかなければならないだろう。こうした中でも、生活や仕事を通じて、そのような志を持つ人たちと知り合うことができたのが、せめてもの今年の収穫であった。

今年もあと一週間を切った。多事多難だったこの一年が、将来どう意味づけられるか、瀬戸際まで見極め、力を尽くしたい。

高橋正氣さんからのメッセージ

f2413a3d.jpgひさびさのブログ更新である。最近はツィッターとフェイスブックを主な発信手段としているが、まとまった文章はやはりブログを活用しないと、広く伝えることができない。今日はそういう類の話題だ。

先日逝去された津波研究家・山下文男氏の葬儀に際し、故人に縁深かった岩手大学工学部元教授・高橋正氣先生からメッセージをいただいた。

高橋先生はもともと物理学者であるが、岩手大学工学部付属金属材料保全工学研究センター所長として、原子炉の非破壊検査に携わり、「原発村」の東大教授らに対して以前から問題点を指摘してきた方である。またお連れ合いの曜子さんは、片岡鉄兵の「綾里村快挙録」で知られる野々村善二郎の娘さんだ。山下文男さんの御父上は、その野々村とともに綾里村でアワビの漁業権をめぐり、漁民の立場から争議を敢行した同士である。

以前ブログにも書いたように、いろいろなご縁で高橋先生ご夫妻と知り合うことができた。山下さんにはお目にかかることができなかったが、毅然として主張を貫いていらっしゃるこのご夫妻とのご縁を大切にしたい。以下、頂いたメッセージを転載させていただく。

故山下文男先生の葬儀に参加して

高橋正氣

山下文男先生は12月13日に亡くなられ、葬儀に妻曜子と共に出席した。山下先生と妻の郷里が同じという事が縁で何度かお会いし、話を聞く機会があった。今回の津波で先生が奇跡的に一命をとりとどめた後も数度お会いし、厳しい87年間毅然として生きてこられた人柄に接することが出来た。葬儀は12月17日午後1時から大船渡市の盛の葬祭場で行われた。盛岡からは交通手段は1日2往復バスがあるだけで、葬儀が始まる2時間余り前に到着し、遺影を前に故人の業績を自分なりに考えることができた。

弔辞は共産党時代の同僚の金野氏から故人の業績と、お人柄が紹介された。共産党の機関紙「赤旗」の文化部長など、立派に職務を果たされたことが述べられた。職歴とは別に津波史研究者として知られている紹介もあった。故人は東北大学をはじめ防災研究者との付き合いがあり、彼らに多大な影響を与えた。しかし、津波研究者としての山下先生を偲ぶ弔辞が防災研究者から語れることはなかったことは一人の研究者として残念に思った。研究分野は異なるが小生の故人に対する研究者としての評価を記すことをお許し願う。

研究者としての故人の最も大きな業績は1944年の東南海地震と1945年の三河地震の研究である。第2次世界大戦で軍事統制の下で地震被害がもみ消され、その後も多くの犠牲者を出したことすら忘れられていた。山下先生によってこの事実に検証が加えられ、明らかにされた。どのような分野の研究でもこれまで知られていなかった事実を発見し、解明することが研究目的である。しかし、このような業績をあげられる研究者は100人に1人もいない。山下先生の研究はそうした仕事である。

もう1つ山下先生の仕事は「津波てんでんこ」による防災思想である。高い強固な防波堤あるいはハザードマップによって被害を最小限に抑えられると考えられたが、今回の津波によって我々の思い上がりが根底から覆った。「津波てんでんこ」によって多くの命が救われた。今後も「津波てんでんこ」は津波防災には不可欠な思想であり、この言葉は普遍的な意味を持つ。寺田寅彦先生の「災害は忘れたころにやってくる」という教訓と共に後世に伝えられるであろう。強固な防波堤の建設の前に「津波てんでんこ」の碑を被災各地に建てることを提案する。

2011年12月18日

故・井上ひさしさんの父・修吉さんの小説集(『赤旗』)

40eaba33.jpg本日の『赤旗』に、井上さんの父・修吉さんの小説集が、山形市の山形謄写印刷資料館長・後藤卓也さんによって出版された記事が掲載されている。

文中に紹介されている「あとにつづくものを信じて走れ〜井上ひさしさんが残したメッセージ」を制作するにあたり、実演できる「ガリ版」を探していた担当ディレクターのOさんに「謄写版なら、ここに資料があるはず」と紹介したことが、この本の出版に結びつくこととなったのだ。

ご縁あってのこと。ありがたいことだ。『H丸伝奇』が多くの人の手にわたることを期待する。

問合せ先:中央印刷(山形市) 023−631−5533

フェリス祭でバンド出演

8298b0a0.jpg恒例のフェリス祭(首都圏の女子大の学園祭の中でもひときわ華やかだ、と評判があるが……)に、教員三人によるバンドで出演する。

5日(土)の午後三時五〇分ころから、緑園5号館の軽音部のライブの時間を借りての演奏。ぼくはペースを担当。お時間のある方、物見高い方はおいでください。

台湾で国際シンポジウム

2a83e0a9.jpg明日から31日まで台湾・彰化師範大学で国際シンポジウム。早朝出発、深夜帰国でちょっときついが、行ってきます。題目は「モダニストがなぜプロレタリア文学を翻訳したのか−−リベディンスキー「一週間」と戴望舒、池谷新三郎その他」。この勉強はたいへんだけど面白かった。

この「一週間」は多喜二も「析析帳」でコメントしており、大変興味深い。あらためて多喜二の「析析帳」のコメントをよく読んでみると「一九二八年三月十五日」「蟹工船」への影響とか、井上さんが多喜二の評伝戯曲のタイトルをなぜ「組曲虐殺」にしたのか、ということも推測できる。作品中で伊藤ふじ子が特高刑事たちを相手にピストルをぶっ放そうとしたとき、多喜二がなぜ「いけないよ、ふじ子…」以下のセリフを語るのかも。井上さんの多喜二の読みがいかに深かったかがよくわかるはずだ。

というところまでは今回はしゃべらないが、そもそもリベディンスキーには、先行する芸術的前衛の作家であり、左翼作家でもあったベーリーという人物の影響があったらしい。「一週間」が受けたのも、単にプロレタリア文学のイデオロギーに沿ったという面ばかりではなく(むしろそちらのほうは、結構アブナイ内容を含んでいる)、芸術的アバンギャルドのような表現の面からだったということもありそうだ。だから日本では池谷新三郎、台湾では戴望舒といった左翼シンパモダニストが翻訳に取り組んだのではないだろうか。

その辺まで含めた本格的な研究となると、自分一人ではとてもやりおおせない。共同研究でも模索するか。。。

(※画像は1934年のリベディンスキーの肖像)

林京子さんを囲むつどい

78210b97.jpg16日(日曜)午後、拙宅に林京子さん、ギタリストの柴田杏里さんらに来ていただき、岩波ブックレット『被爆を生きて』のささやかな出版記念会を行った。編集を担当してくださった岩波の吉田浩一さん、このブックレットができる仲立ちをしてくださった成田龍一さんもおいでくださった。そのほか地元の親しい方々、アモイ大学からおりしも来日中の先生方三名で、楽しく賑やかな集いとなった。

ちなみに、林さんと柴田さんは古くからのお知り合いであり、お二人の話も弾んだ。間近に聴く柴田さんの演奏はすばらしく、企画に花を添えてくださった。こころから感謝する次第である。

図書館総合展: 草稿ノート・直筆原稿に見る小林多喜二 創作の軌跡 

ac7f5fae.jpg草稿ノート・直筆原稿に見る小林多喜二 創作の軌跡 
第13回図書館総合展(パシフィコ横浜) 第3会場(アネックスホール203)
11月10日(木)15:30-17:00 [受付開始15:10]
主催:(株)雄松堂書店


島村 輝氏(フェリス女学院大学 教授)(座長)、日高 昭二氏(神奈川大学 教授)、尾西 康充氏(三重大学 教授)、神村 和美氏(東京学芸大学 助手)

貴重な遺品資料として永らく丁寧に保存されていた多喜二の創作ノート15冊2000ページと、日本各地に散在していた直筆原稿類800枚が2011年2月、DVD版資料集としてまとめられた。多喜二のノート稿類には普段一般読者の目に触れることのない、作家の血のにじむような文学的営みの痕跡が、赤裸々に残されている。一例として代表作「蟹工船」を挙げるなら、このDVDにはその草稿ノート・直筆原稿・初出誌(「戦旗」掲載)が収録されており、それらを綿密にたどることによって成立過程でこの作品の本文がどう変化していったのかを明らかにすることができる。非合法の地下活動中に、若くして世を去った多喜二の作品は、その生成過程に不明な点が多かったが、そうした謎がとかれてゆくことが期待される。近代文学の分野で今注目されている草稿研究の分野に新たな一石を投じることになろう。

日本フランス語フランス文学会にゲスト参加

8、9日にかけて行われた日本フランス語フランス文学会に、ワークショップのゲストとして招かれ、報告を行ってきた。「オラルヒストリーの「事実」と「真実」」というテーマで、千葉大学の高橋信良さん、小樽商科大学の高橋純さんと御一緒させていただいた。

隣接分野とはいいながら、ほとんど知りあいもいない中での発表だったので、いつになく若干緊張したが、聴発表の論をもとに新たな観点を付け加え、「「党生活者」論の展開−−平野謙から井上ひさしまで」というタイトルで話をした。

小樽にはほぼ毎年訪れているが、いつも2月20日前後で、街は雪に埋もれた姿である。多喜二の墓も、その周辺だけ雪が掘り崩されて通路がつけられているので、雪が無い時に訪れると何処だか見当がつけにくい。今回久しぶりに雪のない時期に訪問したが、改めてこんなに道が広かったのかとびっくりした。

来年2月には再び小樽商科大学で、今度は「多喜二シンポジウム」が開催される。再訪が楽しみである。

愛犬「のの」、田園に死す

f1a2217c.jpg昨日の朝、目覚めの時父の調子が非常によく、これは順調な一日が始まったと思ったとこすろ、家内が「ののちゃん、死んじゃったって…」と第一報をもたらしてくれた。

この犬は13年半前に北海道からやってきた柴犬である。「舞里美号」という立派な本名があるのだが、我が家では「のの」と呼ばれていた。娘が不登校になろうとするころ、「どうしても犬が飼いたい。世話は全部私がする」というので飼い始めたのだが、結局その世話は老父の役となった。「のの」がやってくる少し前に我が家の住人(猫)となった「みーこ」とはいい相棒で、仲良く暮していた。

3・11の前まで、朝夕の散歩は老父の役割だったが、震災後一家で九州に移っていたとき、犬と猫は家内の実家に預けてきた。鹿児島の山河になじんで、散歩の際もぐんぐん引っ張っていく元気さだった。当地での世話役は義父がやってくれていたという。前夜までまったく普段と変わりなく、朝散歩に連れ出そうと出てみたら冷たくなっていたとのことだ。

老父に話たところ「そうか。おろかだが可愛いやつだったな」といっていた。昨日今日と老父の体調はよく、元気回復している。「ののちゃんが、おじいちゃんに寿命を譲ってくれたんじゃないか」と、家人と話している。死ぬ直前まで元気で、なんの世話もかけずに安らかに逝ってくれて、これ以上の大往生はないと思う。いい犬だった。

一月ぶりの更新

前回更新が9月8日、以来まさに「とりこみ中」が続いて今日に至る。

8月は21日から31日まで、ヨーロッパに行っていた。最初はフィンランド。フェリスの学部生、マユ・サーリッツァさんのご案内で、御父上で著名な詩人・翻訳家であるペンティ・サーリッツァさん、そのご友人のリスト・アラプロさん、カイ・ニエミネンさんらをご紹介いただき、数日滞在。その後バルト海を高速フェリーで渡り、エストニアのターリンで開催されたヨーロッパ日本学研究協会の大会に参加。ここでは村上春樹についてのパネルでディスカッサントを務めた。さらにこの大会でキーノート・スピーチをされた上野千鶴子さんらとともに、オスロ大学へ。半日のワークショップと上野さんの講演会を聴講した。

帰ってたまった書類などを片付けている間に、父(88歳)の具合が悪くなり、一週間の間にみるみる衰弱して、救急車で病院を往復、さらにストレッチャーに乗っての外来受診・検査で一週間の入院となった。

その間に卒論に立ち向かっている4年生の合宿、さらに9月16日から19日まで、満州事変勃発80周年を機にと企画した、日本社会文学会の秋季大会で、瀋陽−北京のツァーに加わった。父親入院中だが、企画者なので参加しないわけにはいかない。しかし大会は日中の参加者の協力を得て成功。行って良かったと思う。

帰国したらすぐに大学の秋学期がはじまった。その間、坂手洋二脚本による青年劇場公演「普天間」を観劇したり、10月に入って昨日1日には宮沢賢治研究会の例会で「地震・津波・冷害−−賢治は災害をどうとらえたか」の発表をしたりと、多忙だった。

この後来週末は日本フランス語・フランス文学会に合わせたワークショップのため小樽商科大学に行き、16日には『被爆を生きて』でインタビューさせていただいた林京子さんとぼくのギターの師匠・柴田杏里さんを御招きして、自宅で小さな集まりをする予定だ。父母には是非がんばって体調を回復しておいてもらいたいものだ。

そういうわけで相変らずの多忙。ブログ更新のペースも渋りがちかと思うが、お許し願いたい。

いろいろ取り込み中につき・・・

ヨーロッパから帰国して一週間になるが、ブログを更新していない。公私ともにいろいろ動いていて、ブログからの発信対応ができていない。ツィッターとFacebookのほうではぼつぼつ発信しているので、そちらをご覧いただけると幸い。

一つだけ、告知。拡散希望です。

動画「福島の子どもを守れ」
国際請願「EVACUATE FUKUSHIMA 福島の子供を守れ」
 

『赤旗』報道:「来月19日「さようなら原発集会」/著名人9氏が呼びかけ/東京で開催」

c4d93ef8.gif今朝(20日)の『赤旗』紙一面で告知があった。非常に嬉しい。これで運動の呼びかけ、結集にさらに幅が出て、「みんなで原発にさようなら」という主旨が拡がると思う。まずはよかった。

本日『朝日』大江さんの「定義集」、『被爆を生きて』を紹介

aa9e680e.jpg今日8月17日付の『朝日新聞』、大江健三郎さんがお書きになっている「定義集」に「【広島・長崎から福島へ向けて】庶民生きのびる力を得る」という文章が掲載されている。

そこで、原爆直後から広島で救急治療にあたり、永く「内部被曝」の問題を訴えてきた肥田舜太郎医師の話題から、林京子さんの『永い時間をかけた人間の経験』、そしてぼくが聞き手をさせていただいた『被爆を生きて−−作品と生涯を語る』のことが丁寧に紹介されている。

この仕事が大江さんの目にとまり、こうして発信していただけたことは、心から有難いことだ。まさしく励まされた思いである。林さんとのご縁をいただいたことに感謝するとともに、核兵器廃絶、脱原発を忘れずにやっていきたい。

動画で見る炉心溶融


独立行政法人・原子力安全基盤機構が事故前に、原子力防災専門官向け資料として作成していた、炉心溶融のシミュレーション画像。

こんなものが事故の2年も前に作られていたのだ。なんで事故直後にこれを全テレビ局が放送しなかったのか。。。ビデオの最後に「最悪の事態が起こっても安全・安心」といっているような認識だったからか?

「協」だ「禁」だといっている場合ではない。

a3a1ac63.png9・19集会についての告知が広まっていない原因の一つに、この集会の連絡とりまとめが「原水禁」であるということがあるとすれば、まことに嘆かわしい。

「原水禁」と対立する「原水協」の沢田昭二代表理事(名古屋大学名誉教授)は「原水協」の公式ホームページに掲載の以下の文書でこう述べている。

「もう原発は収束させるべきです。日本が世界をリードしてきた太陽エネルギーなど自然エネルギーの開発に舵を切るときに来ています。」

(「福島第一原子力発電所の事故に関して」)


その後事態は「脱原発」できるかどうか、現在稼働中の原発をすべて停止させる可能性を現実にできるかどうかという、具体的な課題になっている。「原水禁がとりまとめているから」など偏狭なことをいわず「原水協」も挙げてこの運動に合流すべきだ。呼びかけ人の名前、呼びかけの内容を見れば、それが「9条の会」と同様の国民的合意が形成できる課題であることは一目瞭然であろう。

せっかく頑張ってやってきた共産党や「原水協」が「9・19」集会の告知を行わない合理的理由があるなら、是非説明していただきたい。

【原発アクション】9/19「原発にさようなら集会」東京・明治公園【拡散希望』

99a9543f.jpg9月19日、明治公園の大集会に集まろう!原発にみんなで「さようなら」を言おう!

◆◆◆原発にさようなら集会◆◆◆

日時……2011年9月19日 13:30〜
場所……東京・明治公園
集会規模……5万人(集会後、パレードがあります)


呼びかけ

「原発にさようなら集会」にお集まりください

3月11日の東日本大震災によって、東電福島第一原発は、1号炉から3号炉までが最悪事態の炉心溶融(メルトダウン)を引き起こしました。

水素爆発、工場外壁の破壊などによって、高濃度の放射性物質が、海水、大気、土壌に放出され、環境を汚染するという未曾有の大事故となりました。

2ヶ月がすぎても原子炉の暴走は収束する気配がなく、いまなお極めて不安定な状況がつづいています。これまでの放射性物質の拡散量だけでも、地域の住民と労働者ばかりか、まだ生まれていない将来の子どもたちの健康と生命にとっても、計り知れない悪影響を与えると危惧しております。

原子力と人間の共生など、けっしてありえないことなのですが、それに気づいていながらも、私たちの批判の声と行動があまりにも弱かった、と深く悔やんでおります。

いま原発を拒否する声はさまざまな運動となって拡がっていますが、わたしたちはこれまでの怠慢を反省し、政府や財界や電力会社などが、原発推進の巻き返しにでないためにも、さらに大きな市民の力で、原発依存の生活から脱却する道をあゆみだしたい、と念願します。

わたしたちは、自然を収奪し、エネルギーを無限に浪費する生活を見直し、自然エネルギーを中心とする「持続可能な平和な社会」にむかうために行動します。その目標です。

1. 新規原発建設計画の中止
2. 浜岡からはじまる既存原発の計画的廃止。
3. もっとも危険なプルトニウムを利用する「もんじゅ」、「再処理工場」の廃棄。

これらを実現して、わたしたちの生存と未来の子どもへの責任を果たします。

「原発にさようなら集会」を、つぎの要領で開催いたします。どうか皆さんでご参加ください。

日時……2011年9月19日 13:00〜
場所……東京・明治公園
集会規模……5万人(集会後、パレードがあります)


集会呼びかけ人

内橋克人
大江健三郎
落合恵子
鎌田 慧
坂本龍一
澤地久枝
瀬戸内寂聴
辻井 喬
鶴見俊輔

横浜市「育鵬社」版歴史教科書採択の背景

1a8d5dc9.jpg横浜市が市立の全中学校を対象とする教科書採択で「育鵬社」版の歴史教科書を採択(8月4日)したことにつき、中国のジャーナリズムへの寄稿を求められたので、執筆した。さっそく翻訳されて掲載されたとのことなので、その原文をここにアップしておく。掲載誌は『青年参考』8月10日号翻訳は孫洛丹さんである。

横浜市「育鵬社」版歴史教科書採択の背景

横浜という日本有数の国際都市で、このような教科書を採択するとは、お恥ずかしいかぎりです。

この問題にはいくつかの根があると思います。

1、「55年体制」の帰結としての日本の右翼化と2006年の教育基本法改悪

日本はアジア太平洋15年戦争の敗戦の結果として、連合軍の手によって終戦直後一定の民主化がなされましたが、その後すぐにアメリカ合衆国と当時のソビエト連邦という超大国の確執により、アメリカの属国化が進んでいくことになります。1946年公布の日本国憲法、47年施行の旧・教育基本法の民主的先進性は、単独講和、安保締結と米軍駐留の恒久化、日本再軍備から、憲法改悪の企てが一定の頓挫にいたり、60年の安保改定によってほぼ完成にいたる「55年体制」と後に称されることになる、一連の日本属国化の過程で、次第に骨抜きにされていくことになりました。

その後60年代の高度成長から2005年の小泉郵政選挙まで、日本は基本的に自民党とそれに同調する勢力が権力を握る、アメリカ合衆国の属国体制を進めてきました。ソ連の崩壊後、アメリカ合衆国が新自由主義とともに新保守主義を進めてきたこともあり、日本ではこうした親米勢力が、右翼国粋主義者たちと野合して、反動的なはたらきかけをあらゆる方面で強めてきました。

2005年の総選挙で多数を得た自民党は、小泉総理を継いだ安倍晋三内閣のもとで、さまざまな反動的施策を実現しようとしました。その中の一つに47年教育基本法の改悪があり、それが2006年末に公布・施行されました。この改悪教育基本法は、日本国憲法の理念を活かすことを目的に掲げた47年基本法とは全く方向を異にし、国粋主義的な「愛国心」の涵養を国民に強いるものです。

2、「新しい歴史教科書」復権の動き、自由社・育鵬社二つの「教科書」

この教育基本法改悪の結果として、それまで主流からは外れていた「新しい歴史教科書」(旧・扶桑社)が再びクローズアップされることになったわけです。扶桑社版の教科書は、政府の実施する教科書検定は通過したものの、そのあまりの偏向的な内容から、多くの地方で採択の実績が作れなかったものです。

そうした中、石原慎太郎知事がリードする東京都では、都立のいくつかの学校(日本では、中学校は基本的に市・区・町・村の単位が行政を担い、都道府県単位の学校、国立学校はごく少数の例外です)でこの教科書を採択してきました。そのほかいくつかの教科書採択単位(自治体と一致しているとは限りません)が、この教科書を多くの批判のある中で採択してきました。

一方扶桑社版の教科書は、「新しい歴史教科書を作る会」の内紛と分裂により、扶桑社系の「自由社」版と、それとは別の流れになる「育鵬社」版との二つになりました。もっとも別とはいいながら、両者とも扶桑社版の教科書を踏襲した反動的な内容であることは変わりません。

ところで「自由社」の教科書は、歴史ある教科書出版社である「東京書籍」版の教科書からの盗用が判明し、さすがに採択がしにくい状況にあるといえます。その結果、「作る会」系の教科書で、超保守層が採択する可能性があったのが育鵬社版の教科書ということになったのです。

3、中田宏・元市長の息のかかった教育委員長と現市長

2009年まで横浜市長をしていた中田宏という人物は、さまざまな政党を渡り歩いた政治的ヤマ師のような人物です。機会主義者という肩書がぴったりな政治的経歴を持っています。その中田が尊崇するのが、石原慎太郎です。もともと反動的な考え方のもとに、無茶苦茶な市政を進めてきた中田ですが、石原がそうであるように、大衆的な人気はありました。

中田は自民党から民主党への政権交替の後の民主党の不人気ぶり、地方自治体でのボピュリズム的政治家への人気集中を見て、国政への転身を計、横浜市長を辞任しました。しかしその後を継いだ現職の市長も中田と同様の人間です。ぼくの住む逗子・池子の米軍住宅の横浜側への増設も、これらの人間たちの承認のもとに進められてしまっています。

今回育鵬社の教科書を採択した横浜市の教育委員長は中田宏が任命した今田忠彦という男です。永く横浜市の職員で、退職後すぐに教育委員になっている、つまりもともと教育者というわけではなく、行政官僚なのです。

教育委員会というのは、本来、行政から独立して、国家権力によって教育が歪められないように子どもたちを守るためにあるとされてきました。だから、最初は公選制だったのです。

ところが、首長による任命制に制度が改悪され、ほとんどその使命は忘れ去られてしまいました。行政権力に歯向かうことなどできない仕組みになったのです。それにしても、横浜の今田某のように、市役所の幹部職員がそのまま横滑りしているのでは、教育委員会とは名ばかりで、役人が自分で決めているということになります。

4、「55年体制」の崩壊と新たなポピュリズム的反動潮流

2004年に、日本国憲法の改悪の危機に反応した日本の心ある国民は、「9条の会」をはじめとする平和・民主の理念を力にする運動をいくつか起こし、ある程度大衆的な支持と理解を得て、とりあえず憲法改悪の策動を困難にするところまで押し返してきました。しかし先に述べたように、その過程で2006年には日本国憲法の理念を支える旧・教育基本法が改悪・施行されてしまったわけです。

宗主国であるアメリカ合衆国の政治的・経済的崩壊の危機に対面して、安倍内閣以来の歴代内閣は、自民党・民主党を問わず、その施策の無能力ぶりをさらしてきており、それに対してポピュリズムの危険な動き(石原や、大阪の橋下、横浜の中田ら)があります。彼らは大衆の耳目に入りやすいスローガンを掲げて、その実は国民をきわめて危険な方向に誘導する、ファシズムの要素を多分に持った政治家たちです。

これまでの、政府主導とは違ったかたちで、こうしたポピュリズムの政治家たちの主導によって、より反動的な施策が実行される危険性があることを、今回の横浜の教科書採択は示したと思います。東日本大震災で日本という「国家」の屋台骨が揺るいでいるとき、「地方主導」の看板を掲げて、その実は「新自由主義」「新保守主義」と伝統右翼国粋主義とが利権政治家と野合していくような動きがさらに進むようであれば、事態は深刻です。

これまでもこうした反動的な動きを危険視し、反対する運動は草の根で繰り広げられてきましたが、今回横浜という大都市での動きを阻止できなかったことは、大きな問題だと考えざるを得ません。

横浜は先年開港150年を迎える、早くから世界に開かれた国際都市という貌を持っています。その横浜市がこのような教科書を採択したとはその横浜の、歴史ある大学に勤める身として、まことに恥ずかしいかぎりです。

横浜のためにも、また現在大きな困難を抱えながら奮闘している日本国民のためにも、これ以上世界に対して恥ずかしいような教育を広めてしまうわけにはいかないと考えています。

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『国文学 解釈と鑑賞』休刊のお知らせ

文学としての帰宅したら「解釈と鑑賞」編集部から手紙が来ていた。執筆依頼かしらと思って開けてみたところ、なんと「休刊のお知らせ」だった。

この伝統ある雑誌には、これまで本当にお世話になり、育てていただいた。わがままを通してもらったこともたびたびある。なんといっても別冊として『「文学」として小林多喜二』をまとめさせてもらったことは忘れられない。ありがとうございました。

學燈社の「国文学」もとうに休刊となり、これで「国文学」界を支えてきた二大ジャーナリズムが撤退することになった。時代か。

【脱原発】海と空と風と土と【祈復興】

b4c1d0f7.jpg予告どおり、明日のナガサキ原爆の日からひとまず日常に復帰。「逗子・葉山9​条の会」の定例宣伝、午後6時から、JR逗子駅

明日は新曲「海と空と風​と土と」を発表の予定。「脱原発・祈復興」のメッセージを込めて​作った歌だ。

林京子さんのブックレット「被爆を生きて」も販売します(やや割引、ワンコイン500円にて)。

​お近くのかた、お時間ありましたら是非。

【脱原発】海と空と風と土と【祈復興】

作詞・作曲 しまむら てる

1 あの海の 碧(あお)さに 男らは 憧(あこが)れ
  あの海の 深さに 女らは 恵まれた

  あの空の 高さに 大人(おとな)らは 誘(さそ)われ
  あの空の 広さに 子どもらは 夢(ゆめ)を見た

  そんな海の そんな空の
  生命(いのち)を断(た)って いいはずはない

あの海の 碧さを あの空の 高さを
ひとはかならず 取り戻すだろう

2 あの風の 流れに 男らは 癒(いや)され
  あの風の 剄(つよ)さに 女らは 励(はげ)まされた

  あの土の 香りに 大人らは 目覚め
あの土の 温(ぬく)もりに 子どもらは 育(はぐく)​まれた

  そんな風の そんな土の
  生命を断って いいはずはない

 あの風の 流れを あの土の 香りを
  ひとはかならず 取り戻すだろう

経済学者・福田徳三と大熊信行、小林多喜二

27c2dd04.jpgある仕事の関係で、経済学者の福田徳三について調べていたら、文芸評論家の桶谷秀昭氏の講演録にいきあたった。小樽高商時代の多喜二の先生の一人に大熊信行がいたわけだが、福田徳三はそのまた先生だったというわけだ。そして大熊にラスキン、モリスの研究を勧めた人物こそ福田徳三だった。多喜二は大熊の『社会思想家としてのラスキンとモリス』についての批評を書いており、荻野富士夫氏の最近の研究によって、全集未収録の広告文案も発見されている。こんなところにもつながりがあったのだ。

福田徳三とその弟子たち

講師 文藝評論家 桶谷 秀昭 

平成17年7月12日 於:如水会館

大熊信行

 (福田は)大正7年に慶応義塾を辞めて、高等商業の教授に任ぜられて母校に戻るわけであります。大正8年ですから、商大に昇格する大正9年の1年前です。三浦新七、左右田喜一郎というような友人たちが非常に熱心に高商に戻れるように斡旋してくれたことを恩に着て書いております。

(中略)

 そこで、大正8年という年に、ある日突然、一人の背の高い立派な顔をした青年が研究室へやってきまして、「ゼミナールに入れてもらいたい」と言う。これが大熊信行であります。大熊信行は、実はその4年前に高等商業を卒業しております。この人は山形県米沢市に生まれていますが、父を幼いときに亡くして母親に育てられて、明治45年9月に高等商業の予科に入ります。文学青年でありまして、この頃から3行分かち書き、啄木スタイルの歌を作って、土岐哀果の『生活と芸術』という雑誌に毎号のように歌を発表していたようです。そういう文学青年ですから、高等商業の学科目にどうも興味が湧かなくて、やがて長編小説を書きはじめる。なんでも『危機』という題の長編小説で、それを書き上げたら夏目漱石に見てもらおうと思っていたというんですね。高等商業を大正5年に成績劣等、つまり尻から数えて2、3番というところで出ました。

 そして、福田徳三の研究室に大正8年、もうすでに26歳になっておりますが、高等商業の専攻部に入学してゼミナリストになりたいという希望を言いに来たわけです。何をやりたいかということで福田徳三が訊いたことろ、「ラスキン研究をやりたい」と。ジョン・ラスキンです。そうしたら福田徳三は、「君は今まで河上肇を読んだり、ラスキンを読んだりしているんだから、一橋ではなくて京都へ行ったらどうなんだ」と言ったらしいですね。ちょっと意地悪く言ったのかと思いますが、そうしたら、「いや河上さんは読めば分かる。ですから読めばそれはいいんで、そうじゃなくて経済学の理論を一橋に入って改めて福田先生のところでやり直したい」というようなことを、たぶん緊張のあまり吃り吃り言ったんだと思います。当時のゼミナールのテーマは指導教官が命令したそうで、福田徳三は1日考えて大熊信行に「カーライル、ラスキン、モリスの比較研究をせよ」と命じました。

 それから大熊信行はそれまでの、つまり小説家として身に付けたスタイルを粉々に砕いて、いわば科学のスタイルを身に付けるために悪戦苦闘して、2年後に「カーライル、ラスキン及びモリス」という論文を書き上げて専攻部を卒業するわけです。その出来が良かったんでしょう。私の友人で小野二郎というモリスを研究している男がいまして、「大熊信行が若いときに書いて新潮社から当時出た『社会思想家としてのラスキン及びモリス』っていうのは、いい物なのかね」と訊いたら、「あれはいい物なんだ」と言うんですね。「日本におけるモリス研究の草分けと言ってもいいんだ」というから、「ほお、偉いもんだな。僅か2年で、まだ28歳の青年がそれだけの物を書いたか」と思いました。

 小樽高等商業に福田徳三の斡旋で行って、そこでまず初めにジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』の講読なんかをやっているわけですね。大熊信行が赴任した年に小林多喜二が入って参ります。1年後に伊藤整が入って参ります。大西猪之介という、この人はわりと有名な経済学者ですが、急に亡くなったために経済原論の担当者がいなくて、大熊信行がその担当を命ぜられて、労働の定義というところでつまずいて、学会の定説すべてに疑問を抱いて3週間休講したという逸話があります。これは逸話だけじゃなくて事実らしいんですけど。そのときに、暗中模索の果てに理論経済学上の第一論文で「生産力配分の原理」というものができて、これを福田徳三に送ったそうであります。福田徳三は意外に思ったでしょうね。だいいちカーライル、ラスキン、モリスというのは経済学の論文じゃなくて思想史の論文です。大熊に「経済学の純理論をやれ」といったって無理だろうと思ったんでしょうか。あるいはそうではなくて、福田徳三のいわば東京商科大学というものに込めていたアイデアをそういうかたちで自分の弟子に課したのか。つまり、あとでまたもう一遍、東京商科大学とは何であったのか、福田徳三にとって何であったのかということを話しますが、そういう二重の意味が「ラスキン、モリス、カーライル」というテーマにあったんじゃないかと思います。

 鶴見俊輔はいつか、「センスがいいねぇ」と言って感心していましたね。つまり、もうほとんど咄嗟に「カーライル、ラスキン、モリス」というテーマを命ずるその教師のセンスです。「いいセンスしてるね」ってなことを言ってましたが。大熊としては、しかし心中不安でありました。経済学の純理論なんか何もやってないわけですから。それでこの頃から密かに近代経済学系の物を読んで、特に価値論について準備をしております。そして、やがて胸を悪くして小樽高商を退職して、療養生活を送って、昭和3年ですか、「マルクスのロビンソン物語」という有名な論文を(今だから有名なんですが当時は無名の青年の書いた物です)「改造」に投稿して、これが一躍「大熊信行」という人間の名前を高からしめるわけですね。私はきょう持ってきましたが、こういうおよそ学術書らしくない、童話の本じゃないかと思われるような装丁です。これは一昨年出た、当時の初版本をそのまま復元した復刻本なんですけど、皆さん、この「マルクスのロビンソン物語」をお読みになっているでしょうか。これを噛み砕いて紹介するのは、たいへん私の力に余る仕事なんですけども。やっぱり小説を書いていただけあって文章がうまいんですね。もうこの頃から大熊信行は経済学者としては抜群の文章力を身に付けていたんだと思います。こういう書き出しなんですね。


※画像は福田徳三の肖像写真。