「この一年、あっという間に過ぎた」とは毎年年末に思うことだが、今年はそれ以上の感慨がある。昨年末に母、今年夏には父が相次いで入院から重度の要介護状態に入り、基本的に自宅で世話をする選択をしたため、生活発想の転換を迫られることが多々あった。その間に起こった3・11東日本大震災と引き続く東京電力福島第一原発の重大事故では、家族そろっての疎開の一時期を経て、二人の子どもたちが、完全に親元を離れて暮す体制に入った。結果として、逗子の我が家では現在老親二人と我々夫婦という状態になった。これも人生の大きな節目であろう。
東京電力福島第一原発事故の発生と同時に、大きな危機意識と後悔が襲ってきた。想定可能な最悪の事態に備えて、自分と家族の当面の安全を確保するための最善の行動をとるとともに、なんでこのような事態が起こってしまったのか、そもそも社会的存在としての「原発」とはなんだったのかを考えはじめた。
連れ合いの実家のある鹿児島に家族を置き、3月末、まだ元気が残っていた父とともに逗子に帰ってからしばらくは、日本の原発政策がどのような事情のもとに、誰の手によって推進されたのかの研究に没頭した。それは自分の取り組んでいた「55年体制」というものと骨がらみに結びついたものであった。
原発はまさに「日米同盟」と一体のものだった。日米安保条約と日米原子力協定によって、日本は「核抑止力」という名目の、軍事同盟体制に組み込まれ、アメリカ合衆国の属国と化したきた。そのプロセスの帰結が、日本列島の「原発漬け」化であり、沖縄の米軍基地化であり、TPPによる農業破壊である。
こうしたことがらが全て一続きの線につながることによって、これまで見えていなかった戦後日本社会の巨大な闇の部分が視野に入ってくることになった。その結果の一端は、笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」の風景の意味の解明など、研究上の新しい分野に直接反映されることになった。
しかし「研究成果が挙がった」という嬉しさとは全く無縁の心境だ。これまで視るべきものを視ず、知るべきことを知らずにいたことが、どれだけ大きな欠落となっていたかと悔いる気持ちばかりが募る。
3・11後、何人かの心ある友人たちも、「これまでやってきた学問や芸術なんぼのものか」という心情を吐露してきた。自分も同じ心持である。そうかといって、それを仕事にしている以上、放棄してしまうわけにもいかない。せめてはこれまでの欠落を補い、専門性に恥じぬ発信を続けていくしかなかろう。
来年がどのような年になるか、これまた例年以上にまったく見当がつかない。正直なところ、家庭生活も、研究状況も、日本と世界の情勢も、どう転がるか予測できないのが現状だ。ともすればその不透明さに、絶望的となることもある。
所詮一人でできることは限られている。人の力ではどうにもならないこともある。だが一人一人の声を集め、人の力の及ぶ限りのことは、やはりしていかなければならないだろう。こうした中でも、生活や仕事を通じて、そのような志を持つ人たちと知り合うことができたのが、せめてもの今年の収穫であった。
今年もあと一週間を切った。多事多難だったこの一年が、将来どう意味づけられるか、瀬戸際まで見極め、力を尽くしたい。







今朝(20日)の『赤旗』紙一面で告知があった。非常に嬉しい。これで運動の呼びかけ、結集にさらに幅が出て、「みんなで原発にさようなら」という主旨が拡がると思う。まずはよかった。



横浜市が市立の全中学校を対象とする教科書採択で


