このところ大学の授業で芥川龍之介の「舞踏会」を題材に講義をしている。書き出しから結末にいたるまで、この作品には明治日本の「近代化」の実相、西欧列強から見た日本像、作中に描かれるロチの人物像や心理など、実に仕掛けに満ち満ちた、考えさせられるテーマが詰め込まれている。何時間講義をしても尽きない感じだ。

その舞台となった鹿鳴館だが、今日破綻のニュースが報じられている大和生命の本社があるのが、その跡地である。なんでこういうことになったのか、鹿鳴館と大和生命の接点はどこか・・・と調べてみると、そこにはなんと「富国強兵」の国策というつながりがあったのである。

まず大和生命の沿革を調べてみると、その母体がなんと「日本徴兵保険株式会社」というものだったことがわかる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/大和生命保険

「創業は明治期に設立された日本徴兵保険株式会社にさかのぼる。戦後、大和生命保険相互会社として再スタートした。

1911年(明治44年)9月 日本徴兵保険株式会社設立」

「徴兵保険」とはなにか?それは実に驚くべきものだ。

ブレーク42・生命保険会社の歴史〜「徴兵保険」〜
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/7891/coffee/42.html

つまり「戦争で怪我をしたり死んだりしたら保険が降りますよ」と、いうことなのである。記事にあるように、日本の名だたる保険会社の多くがこの「徴兵保険」で成長したのだ。その一つ、先般問題を起こした「富国生命」は、靖国神社と深いかかわりがある。

2005年6月15日(水)「しんぶん赤旗」これが靖国神社「遊就館」の実態だ
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-15/26_01_0.html

「豆知識――「遊就館」の変身

靖国神社の遊就館

 「遊就館」は一八八二年、「日本初の軍事博物館」(「やすくに大百科」靖国神社社務所)として開館しました。一九三三年発行の「遊就館要覧」は設立趣旨に「国防思想の普及」を挙げています。

 敗戦直後、国家補助を打ちきられた靖国神社は財力もなく、「遊就館を修理したものに、建物および周囲の土地を貸与してもよい」との意向を表明。本社屋を米軍に接収された富国生命保険相互会社(フコク生命、前身は富国徴兵保険相互会社)が四六年に月額五万円(当時)でこれを借り受け、以後、一九八〇年まで同社の「九段本社」となりました(『富国生命五十五年史』などから)。

 その間、靖国神社は遊就館に隣接する「靖国会館」の一部を「宝物遺品館」として、六一年から戦没者の遺品などを細々と展示していました。

 同社が立ち退くにあたり、当時の社長は靖国神社の経営の窮状を財界有力者に訴えました。これをきっかけに「靖国神社奉賛会」が発足。八六年の「遊就館」再開を支えました。

 奉賛会は九八年に「靖国神社崇敬奉賛会」に再組織され、二〇〇二年の大増築の事業費集めに協力しています。」

一方、鹿鳴館の跡地は、以下のような経緯をたどって「日本徴兵保険」の本社となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鹿鳴館

「1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。

旧鹿鳴館の建物は1927年(昭和2年)、徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却された後も保存されていたが、1940年(昭和15年)に取壊された。」

もともと鹿鳴館は西欧列強の仲間入りをするためのデモンストレーションとして建てられたもの。芥川は「舞踏会」でその「人工」性と、権力機関としての抑圧性を痛烈に抉り出している。

芥川龍之介の「舞踏会」と大和生命破綻を結ぶ線として浮かび上がってきたのは日本の「近代化」を名目とする国民に対する軍事的収奪の黒い裏事情だったのだ。