December 09, 2007

Youth Gone Wild

(諸事、頭だけで考える)

と、左近は三成の外貌のきわだった特徴である才槌頭を、ため息をつくような思いで見た。正義、義、などという儒者くさい聞きなれぬ漢語をつかいその漢語にふりまわされて、そこから物事を考えたがる。出てくる思案は、すべて宙に浮いている。

(人は、利害で動いているのだ。正義で動いているわけではない)

そこを見ねば。
と、左近は思う。左近は無学で、仁義礼智、といったような事は知らない。しかしそういう道徳など、治世の哲学だとおもっている。秩序が整えばそういう観念論も大いに秩序維持の政道のために必要だが、

(しかし乱世では別のものが支配する)

人も世間も時勢も利害と恐怖に駆り立てられて動く、と左近はみている。

司馬遼太郎「関ヶ原」


俺もたぶん、左近のあるじに似ている。

今が乱世だとすれば、俺の運命は、歴史の敗者となった石田治部少輔と同じものになるかも知れない。

果たして今は治世か、乱世か。

価値観そのものが賭け。張るのは、人生。

覚悟を。

「OVER THE UNDER」/DOWN
「FAR BEYOND THE DRIVEN」/PANTERA
「LAND OF THE FREE II」/GAMMA RAY
「WITCHCULT TODAY」/ELECRIC WIZARD
「PLASTIC PLANET」/G//Z/R

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November 12, 2007

A King Without A Crown

北一輝―日本的ファシストの象徴 (1971年)

 歴史学者田中惣五郎の著作『北一輝 日本的ファシストの象徴』は、北一輝という人物のみならず、日本のファシズムそのものを考察する上で欠かすことのできない一冊である。1959(昭和34)年に書かれた序文によれば、田中は当時のネオファシズム的思潮の高揚を危惧していた。そこで田中はファシズム期の日本を、北一輝という、日本的ファシズムの象徴とも言うべきフィルターを通して検証するためにこの本を書いたという。1959年といえば、タカ派として知られた元A級戦犯容疑者の岸信介が内閣総理大臣として活躍していた時期である。翌年には岸が日米新安保条約を強行批准していることを考えても、田中の懸念は的を射ているといえるだろう。そうした目的もあって、田中は本書の中で北一輝という人物の思想や生涯、そして戦時中の日本ファシズムの状況を実に批判的に検証している。そうすることでファシズム期日本の危険性に対する注意を喚起し、1959年当時のネオファシズム的思潮に警鐘を鳴らそうとしていたと考えられる。「北はなかなかに死なないのである」という最後の一文は、田中が本書で伝えたいことを凝縮したものといえるだろう。

 本書は基本的に北の生涯を時系列に沿って俯瞰する伝記の形式をとっている。しかし本書の白眉はなんと言っても、北の著作や言動を精緻に読み込み、批判的に検証している点である。大部の多い北の著作やこまごまとした書簡などを、微に入り細に入り研究する田中の透徹した視点のするどさに圧倒される。北の著作からの引用を多く用い、その思想の矛盾点や誤解・認識の甘さなどを次々と抉り出しているのだ。後世の我々から見て、北一輝という人物は非常に不気味で謎に満ちた存在である。「隻眼の魔王」と称され、2.26事件を思想的に煽動した国粋主義者・国家社会主義者として突如歴史の教科書に登場するのだ。自分で興味を持って研究しない限りはなかなかその本質をうかがい知ることのできない人物である。北一輝という名前を聞いて、洗練・完成された思想と煽動力を持った魔王のごとき大哲学者を思い浮かべてしまう人もいるのではないか。しかし田中は、その不気味な北の思想の欠陥や矛盾を冷徹なまでに暴露していく。

 例えば北は革命というものを「下級士官による軍事的革命」と極めて狭義に定義・解釈し、日本の明治維新とフランス革命を、そのコンテクストを無視してほとんど同列視してしまっている。そのため北は日本がすでに革命を経験し、近代化を終えた国家だと捉えていたのである。この誤った認識はのちの北の生涯に大きく影響している。このことは北が大学に進学しなかったために外国語を苦手とし、日本語の文献のみに頼っていたことにも起因している。『国体論及び純正社会主義』で当世一流の学者たちに啖呵を切った北だが、そのバックグラウンドとなるべき西洋的知識は相当貧弱だったのだ。また、北は表面的には「純正社会主義者」と称しておきながら、実際に彼が好んで交流したのは政治的、経済的、あるいは思想的に優れた社会上層の人ばかりで、勤労階級にさして関心を持っていないという矛盾した一面も持っていた。この傾向を田中は北の「大物食い」あるいは「上層好み」と呼んでいる。まことの社会主義者にはあるまじき傾向といえるだろう。それ以外にも北は、生涯の中でほとんど対極とも言える天皇観の変遷も見せている。このことは後に説明する。このように北の思想や言動は様々な誤解や矛盾に満ちていたのである。

 田中はまた、北の生涯をも冷徹に分析している。思想だけでなく、北の生涯そのものもまた、大いなる矛盾や挫折に満ちていたのだ。北はいち学究でありながら、金と名声のために、当世一流の学者の著書をこきおろしながら自分の論を展開する形で『国体論及び純正社会主義』を著した。その目論見通りこの本は一部の社会主義者などから高い評価を受け、北は世に知られる存在となったが、まもなくこの本は発禁となる。北は失意の内に、誘われるがままに中国革命運動へのめりこんだ。ついには革命の顧問となるべく中国へ渡った。しかしその誤解に基づく革命観のために、そして超国家主義者でありながら日本と利益の衝突する中国をも愛してしまうというアンヴィヴァレンスのために、北は中国革命を自分の思うように進めることができなかった。中国における排日運動の高揚も目の当たりにした。
 
 またしても失意の底に沈む北は、次第にオカルト性と超国家主義的性格を強めていく。自らの宗旨である日蓮宗へ傾倒しはじめ、大音声での読経を習慣的に行うようになる。自らの妻を霊媒として「霊告」なる怪しげな予言も出しはじめた。また、彼の論理からすれば中国が排日に傾くのは「大矛盾」であり、この矛盾を糾すためには日本を改革するしかないと考えるにいたるのだ。しかし本当の「矛盾」は、日本の帝国主義こそが中国の革命の軌道に最も影響を与えたことに気づかない北の内にあった。彼は自身の矛盾を日本に転嫁してしまったのだ。
 
 ヴェルサイユ講和条約直後の大正8年、北はその国家改造の指針であり、また彼の思想の集大成と言える『日本改造法案大綱』の執筆に入る。ここでは『国体論』のときのように、様々な参考文献を検証し体系的に論じるという科学的なアプローチを取ることはなかった。一切の他の文献を用いず、断食と読経の狭間に執筆するという、ほとんど宗教的といえるほどに非科学的なアプローチをとった。そのアプローチの変遷に関係してのことか、『国体論』においてほとんど天皇機関説に近い考えを示した彼は(それがかの本が発禁処分を受けた理由でもあったのだが)、この『日本改造法案大綱』においては天皇を「国民の総代表、国家の根柱」と定義し、「三千年の生命と六千万人とを一人格に具現化せる」ものとして無条件に称揚しているのである。北の主張の中でもこの部分に惹かれた者は特に多く、そういった人々の上に立つことによって北は日本ファシズムの首魁となったのである。

 このようにして田中は北一輝という男の矛盾を徹底的に暴きだしている。しかし我々がこの本から最も学ぶべきことは、この矛盾に満ちた北の思想が、日本のファシズムを先導する思想となってしまったことの危うさである。北は名目の上では2.26事件の思想的指導者として処刑されているが、実際のところ彼の影響はそれだけにとどまらないものだった。本書の第五章で田中が述べているように、北の『日本改造法案大綱』の「緒言」は、ファシズム期の日本が満州事変以降終戦まで辿った道程を予言しているかのごとくである。満州事変の12年も前にこれを書いた北の慧眼はすさまじいが、ファシズム期の日本の指導者が北の思想に沿って行動したという側面も多分にあるのだ。北の影響力の大きさはこの一事でも知れる。もちろんその影響力は、北自身の持つ人を惹きつける不思議な魅力やオカルト的神秘性によって増幅された面は否めない。だがしかし、そういう条件を備えていれば思想にいかに矛盾があってもファシストのリーダーたりえることにこそ日本のファシズムの危険性があるのだ。これは現代においても完全に否定できることではない。田中は岸の時代のネオファシズム的思潮を警戒していたが、つい先ごろまでその岸の遺伝子を受け継ぐものが日本の首相の座に座っていたのだ。その首相はいなくなったものの、田中の危惧した状況は続いている。今もなお「北は(そして北的なものは)なかなかに死なない」のである。だとすれば、現代を生きる我々が本書を読むことには大いに意義があると言えるだろう。

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October 31, 2007

A Meteoric Hero

夏草の賦 [新装版] 上 (文春文庫)

夏草の賦 [新装版] 下 (文春文庫)


「土佐の出来人」、長宗我部元親の一代記。
元親の後を継いだ盛親の生涯を描いた『戦雲の夢』と併せて「司馬遼太郎長宗我部氏二部作」と勝手に呼んでいる。

恐らく司馬氏が同じ大名を二代に亘って題材とし、それぞれについて長編の小説を書いた例は他にないはずだ。

よほどこの大名家に思い入れがあるのかも知れないが、なるほど長宗我部氏というのはあらゆる戦国大名の中でも極めて特異な在り方をした家である。

元々は土佐の小土豪でしかなかったのが、元親が出るに及んで瞬く間に土佐一国の主になり、ついには四国全土を手中に収めるという、いかにも戦国乱世らしい流儀と英雄譚で大いに家名を上げた。
しかしその間に中央の趨勢は大きく変わり、長宗我部氏はやむなく土佐一国23万石への減封を受け容れた。さらにこの家は不測の事態がために世子信親を失う憂目に遭う。
代わりに元親の後を継いだ盛親は決して凡庸な人物ではなかったものの、またしても時の流れに翻弄され、大名から一転して一浪人となり、長宗我部の名は一時期歴史の表舞台から姿を消す。
しかし大坂の陣という、戦国時代の終焉を象徴するイベントにおいてこの家名は俄かに復活し、花火のごとき一瞬の凄まじい輝きを見せて、そしてまた歴史の表舞台から消えていった。

同じような境遇にあった薩摩の島津氏や長門・周防の毛利氏は関ヶ原以降も家名を存続させ、260年の時を経て新しい時代を切り拓いている。それに対して長宗我部氏の辿った運命は余りに数奇である。まるで戦国乱世を象徴する彗星のごとき強烈で鮮やかな印象を、この家名は持っている。

それが長宗我部元親という不世出の謀略家とその血脈が徳川氏に恐れられたからなのか、あるいは徳川氏に対する山内氏の貢献に見合う封土として、たまたま土佐が選ばれたからなのかは分からない。

何にせよ長宗我部氏は歴史の表舞台からいなくなった。しかし幕末に「土佐藩士」として活躍する人物のほとんどが、元親の創始した郷士階級「一領具足」から排出されているという事実が、今も時空を超えて土佐という国への我々の興味やロマンを駆り立てて止まないのだ。

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October 19, 2007

Wish You Were Here

So, so you think you can tell
Heaven from hell,
Blue skies from pain

Can you tell a green field
From a cold steel rail?
A smile from a veil,

Do you think you can tell?

And did they get you to trade
Your heroes for ghosts?
Hot ashes for trees?
Hot air for cool breeze?
Cold comfort for change?
And did you exchange
A walk on part in the war for a lead-role in a cage?

How I wish, How I wish you were here.
We're just two lost souls, swimming in a fish bowl,
Year after year
Running over the same old ground.
What have we found? The same old fears
Wish you were here

(PINK FLOYD/Wish You Were Here)

秋の夜の帰り道には、この曲がやたらと似合う。
自分が死ぬときに流れていてほしいと思える曲は、この曲とPROCOL HULMの"Whiter Shade Of Pale"ぐらいだろうな。

「WISH YOU WERE HERE」/PINK FLOYD
「A WHITER SHADE OF PALE」/PROCOL HULM

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October 15, 2007

Delirium Veil

ヘッドホンをしないで人の多い街を歩くとロクな音が聴こえてこない。

誰も彼もが悪意に満ちたノイズを好き勝手ブチ撒けている。

悪意まみれの噂話、上司・同僚・友人・恋人・親・先生etcへの悪口雑言、不機嫌な車のクラクション、奸言佞言まみれの大型ビジョンの広告etcetc…

俺が街中を歩くときにヘッドホンから流れる激音蛮音に身を委ねるのは、それらのノイズに耳を塞ぎたいからに他ならない。

まったくもってこの国は、この都市は、豊かだ。ないものを探す方が難しい。
ほとんど狂的なまでに豊かなのに、その豊かな街と人々の出すノイズは耐え難いほどにやかましい。

あんたらそれ以上なにが必要なんだ。何が不満でグジグジノイズ出してんだ。

と、ここまで書いてみて思ったのだが。

はて、豊かってのはモノがいっぱいあることだったっけ?



なんてことに疑問を持ちかけてはみたが、自分を囲む様々のモノたちを、惜しげもなく手放す気概も壮気も持たぬ俺がこれ以上書くわけには行くまい。

先達の言葉たちを引用することで、このハナシは終わるとしよう。

「聲」

止せ、止せ
みじんこ生活の都会が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
固まりついたパレツト面の様な混濁と
その中で泥水を飲みながら
朝と晩に追はれて
高ぶつた神經に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行くその態は何だ
平原に来い
牛が居る
馬が居る
貴様一人や二人の生活には有り餘る命の糧が地面から湧いて出る
透きとほつた空氣の味を食べてみろ
そして静かに人間の生活といふものを考へろ
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

そんな隱退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
繪に畫いた牛や馬は綺麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都會の路傍に堆く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢつと翫味しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きた者を先に思へ
自己の王國に主たれ
惡に背け

汝を生んだのは都會だ
都會が離れられると思ふか
人間は人間の爲した事を尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
惡に面せよ
PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害ふものよ

馬鹿
自ら卑しむるものよ

『高村光太郎詩集』より


いまの日本の企業社会で、同種企業と気が狂ったように競争しているサラリーマンたちの70パーセント以上は祖父の代まで、太陽の下でスゲ笠をかぶりながら畑の草をとっていた。たった二代で大変化を起こしたこの社会で、われわれはわりあい平気で生きているというのがこっけいなほどだが、しかし心のどこかで、かつての人間らしい社会へ回帰したいという思いがたえずあるらしい。

司馬遼太郎『人間の集団について』より


Demon Cleaner/KYUSS
A World So Cold/MUDVAYNE
Happy?/MUDVAYNE
「DAYDREAM ANONYMOUS」/InMe
「SABBATH BLOODY SABBATH」/BLACK SABBATH

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October 11, 2007

A Long Winding Road

昨日の夜やっていたNHKの『その時歴史が動いた』で、賤ヶ岳の戦に敗れる前後の柴田勝家が取り上げられていた。

番組の内容は勝家の目線で、新資料や研究を基にこの戦いと勝家の人物像を検証しなおすというものだった。

ただ、正直言って視聴後にも柴田勝家という人物に対する俺自身の印象は変わらなかった。彼は織田家の筆頭家老という地位に甘んじ、傲岸な振る舞いを続け、時流が読めずに歴史の敗者となった。そのことは覆らない。

最後に勝家の子孫と称する方がコメントしていて、「勝家は人の心を掴んでいた」みたいなことを言っていたが、やっぱりそれは違うのだろう。彼が本当に人の心を掴んでいたのなら、前田利家と金森長近は戦場から撤退しなかっただろうし、秀吉憎さの余り協力していただけだった伊勢の滝川一益も死に物狂いで秀吉に抵抗しただろう。

佐久間玄蕃盛政が突出して敵陣中で孤立したことが敗因のように描かれていたが、それは些細な戦術的過誤に過ぎない。それがなくても秀吉はすでに戦闘の前に(戦術ではなく戦略的に)勝っていた。

秀吉の戦というのはいつもそうで、実際的戦闘や個々の戦術というのはオマケというか、将棋で言えば「詰み」に過ぎない。その前に天性の人心収攬術を利用して政略・調略を幾重にも張り巡らし、戦略的な勝ちを確実にしてから戦闘に及ぶ(ほとんど唯一の例外として小牧・長久手の戦はあるが)。

歴史の勝者というのは得てしてそういうもので、時代の趨勢を読む透徹した目と、人心を掴む天性の技術や徳性を備えている。

佐吉と呼ばれた少年の頃から秀吉に近侍しながら、「人蕩しの天才」と呼ばれた秀吉の人心収攬術を毛ほどにも吸収できなかった石田治部少輔三成が晩年に辿った運命は、皮肉にもこのことの良き証左と言える。

少なくともそれらの特性を備えていることが歴史の勝者となるための必要条件ではあるだろう(十分条件ではないにしても)。

これって多分今も余り変わらないんじゃないかと思う。

「歴史の勝者」という言葉は強すぎるにしても、ある領域において成功を収めたいと思う者は、これらの特性を具有していなければならない。

「人蕩し」の能力はその人間の天性によって大いに左右されてしまうので仕方ない側面があるが、「時代の趨勢を読む目」は努力次第で誰しも得られるものだろう。

但しそれを得るためには膨大な知見と努力、そして覚悟が要る。

そして俺自身、最近になってようやくその覚悟が固まった。

まだまだこれから。道のりは遠い。

「殿は」

と、左近は三成のそのきらびやかな欠点について、こう指摘した。

「人間に期待しすぎるようですな。武家はこうあるべし、大名はこうあるべし、恩を受けたものはこうあるべし、などと期待するところが手厳しい。人間かくあるべしとの理想の像が、殿のあたまにくっきりとできあがっている。殿はそれをご自分にあてはめてゆかれるところ、尋常人とは思えぬほどにみごとでござるが、さらにその網を他人にまでかぶせようとなされ、その網をいやがったり、抜け出ようとしたりする者を人非人として激しく攻撃あそばす。」

「それがどうした。」

と、三成は、左近にだけは温和に微笑する。

「ようござらんな」

左近は、三成のそういうけんらんたる欠点と長所が好きでたまらないのだが、人心を収攬してゆくばあい、どうであろう。

司馬遼太郎『関ヶ原』より

「ENDTYME」/CATHEDRAL
「SIMPLE MIND CONDITION」/TROUBLE
「DEATH IS THIS COMMUNION」/HIGH ON FIRE

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October 03, 2007

Review 1: Asceticism

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)


プロテスタント、わけても予定説にたつカルヴァン派は「救いの確証」を得るための集団的な「世俗内的禁欲」の実践を説く。

そのプロテスタントの宗教的な倫理観が、合理的な近代的資本主義が発達する土壌を用意したということを論じた本。読みにくい膨大な例示の中でさらっと大事なことを言ってしまうためにきわめて難解だが、言いたいことは終章(2章2)に全て込められている。

その終章のさらに最後では、ゲーテの言葉などを引用し現代の(特にアメリカの)資本主義を「軸となる倫理を忘れスポーツ的とさえ言える競争主義に堕した」と痛烈に批判している。

このことについて見田宗介は、ヴェーバーが「近代合理主義の推し進めた『魔術からの解放(Entzauberung)』によって我々が獲得したものの巨大と失ったものの巨大とのアンビバレンス(両価性)を見ていた」としているが、それこそがこの本の主題ではないかと僕も思う。

「倫理」という土台の上に近代資本主義を発達させてきたアメリカ資本主義の「精神」が「倫理」を忘れて形骸化してしまったというヴェーバーの議論を是とするならば、そもそもキリスト教的「倫理」の土台がないのにそのアメリカ的な資本主義の「精神」だけを持ち込んでいる日本はどうなるのか?

その歪みが表出化したのが先のホリエモンショックや村上ショックなのかも知れない。

とはいえ日本にも近江商人の「三方善」のような思想はある(プロテスタンティズムほど強力な倫理的土台とはなりえないにしても)。大事なのは自らの手で自らに適合した資本主義のあり方を模索することではないだろうか。

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September 19, 2007

A Night Without Lights

高校時代の友人が、骨肉腫(骨の癌)で長く入院している。

それを俺が知ったのは先週の土曜日のことだった。そして昨日になってようやく院試や就職活動がひと段落し、御見舞いに行くことができた。

彼は思いのほか元気ではあったが、抗ガン剤使用のために頭髪は無く、体も痩せてしまっていた。

時間の許す限りそこにいて、高校時代の思い出話に花を咲かせた。

帰り道、この数ヶ月の自分を恥じる思いでいっぱいになった。

俺はたかだか進路が決まらないとか、院試の勉強がキツいとか、そんな些細なことで周りに愚痴をこぼしていた。

健康な体で、色々なことにチャレンジできていることが、どんなに在り難いことなのかを忘れてしまっていた。

情けない。いつの間にか俺は贅沢に染まりきってしまっていた。

自分の体が健康なのを、つい当たり前に思ってしまっていたけれど、それは実はとても貴重で尊いことだった。

明日は自分が病に倒れているのかも知れないのだ。今の自分は健康という奇跡に恵まれているのだ。

このことへの感謝を忘れず、日々を全力で生きねばならない。改めてこの当たり前のことを感じさせられた。

(一寸先は闇だとはよく言ったものだ)
 
 竜馬は、お遍路の国にうまれたから、その種の陳腐な言葉は百ダースほどきかされて育った。人生は無明長夜であると。

(なるほど無明長夜であるな)

 夜天を見ている。ときどき星を吹き飛ばすような黒い風が、轟っ、とうなりをあげて天を吹きすぎてゆく。

(しかし、あれだな)

 竜馬は、自問自答した。

(無明長夜であるからといって、路傍に腰をおろすこともなるまい。おれは歩きつづけてゆかねばならん)

司馬遼太郎『竜馬がゆく』より

「RISE OF THE TYRANT」/ARCH ENEMY
「BADMOTORFINGER」/SOUNDGARDEN
「ONE DAY REMAINS」/ALTER BRIDGE
「WEATHERED」/CREED

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September 17, 2007

The Resurrection Code/Higher Now

◆復活のじゅもん

かなり久しぶりにここのブログを復活させてみる。ひっそりと。

留学中に色々考えたことを埋もれさせてしまうのもなんだか嫌なので。

今読み返すと未熟なことも書いてたなぁと思うけど、なんだかそれも含めてとても貴重な場に思えてきた。

しばらくはこの2年くらいmixi日記に書いてきたもののうち、こっちのブログに載せる価値があると判断したものをリヴァイヴァルさせていくと思う。だから今日の日付より前の日記がだんだん増えていくはず。

最終的には学生時代の自分の脳内アーカイブみたいになってくれれば理想。

てわけで↓はさっそくmixiから転用。

◆Higher Now

「無智に溺れる者は、菖蒲(あやめ)もわかぬ闇を行く。明智に自足する者は、一層深き闇を行く。」

確か昨年の誕生日の日記でも引用したこの『ウパニシャッド』からの一節。

あれから一年と数日が経ったけど、この言葉は日を追って自分の中で重要性を増してきている。

この言葉は捉えようによっては

「中途半端が一番タチが悪い」ともなるし、

「ものごとの追究に終わりなどない」ともとれる。

どちらの意味に読んでも俺にとって大事であることに変わりはない。そしてこのことは「智」に限らず、どんなことがらについても当て嵌まるように思う。

この四月くらいに俺は色んなことに失望して、身の丈を超えた望みなど持たない方がいいのではないかと思ってしまっていた。

けれどこの数ヵ月様々なことに挑んでみて、やっぱり人間は向上心を忘れては終わりだと思い直した。

幸い俺の近くには滾るほどの向上心を持ち、困難なことや厳しいことに挑む人たちが大勢いる。

彼ら彼女らのおかげで俺はモチベーションを保ち続けられる。彼ら彼女らの努力する姿が、俺のやる気を押し上げてくれる。

そういう友達や仲間にたくさん巡り会えたのは僥倖と言う外ないだろう。

俺自身、浪人してなお国立受験に失敗したあのときから、自分に出来うる限りの努力を払い続け、這い進んできたと自負している。この経験はきっと、一生の財産になるだろう。

願わくば、自分自身もまた、誰かのモチベーションや励みとなる存在でありたいと強く思う。

Lift Me Up/MOBY



<Today's Tunes>

「HOTEL」/MOBY
「BLESSED BLACK WINGS」/HIGH ON FIRE
「A MATTER OF LIFE AND DEATH」/IRON MAIDEN
「DOOMSDAY MACHINE」/ARCH ENEMY
「NATURALBORN CHAOS」/SOILWORK
「NOLA」/DOWN

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April 26, 2007

Invisible Wounds

さっきのNHK「クローズアップ現代」でバイオエタノールに関する特集が組まれていた。

バイオエタノールはトウモロコシなどの穀物を原料とする新たな燃料で、二酸化炭素排出量を減らすのに有効な手段として今注目されている。

排出量削減が義務付けられた先進諸国も争って導入を検討している(日本ではまだ現行エンジンとの相性の問題で3%ぐらいしか混ぜられないらしいが)。

そこで懸念されるのが穀物価格の高騰、というのがその番組の焦点だった。

ただ、同番組では語られていなかったが、この話の裏側には経済に与える影響以上にもっと深刻な問題が隠されている。

すでに60年代の初頭から、先進国に穀物などの一次的産品を輸出する発展途上国・後進国において、そういった輸出用作物の耕地面積が大きくなっていった。

しかし当然ながら土地は限られているので、代わりに現地の人のための食糧を生産していた耕地が激減し始めていたという。先進国のブタのエサを作る耕地のために、後進国の人々の胃を支えてきた耕地が犠牲にされてきたのだ。

先進国の論理で言えば、ちゃんと対価を支払って輸入しているのだから問題ないということになるだろう。しかしカネは入ってきても買うべき食糧がないという事態が、世界のどこかで起こっている。

先進国の行動によって、より原的な生活の喜びを収奪されている人々がいることを、僕達は(今すぐ変えることはできないにしても)知っておかなくてはいけないと思う。

で、バイオエタノールの話に戻ろう。

先進国が「CO2排出削減義務を果たさなければならない」と焦ってバイオエタノールの使用を爆発的に増やすようなことがあれば、原料となる穀物の輸出国で輸出穀物用の耕地面積がさらに大きくなることは避けられないはずだ。

先進国が「地球環境のことを思って」することが、地球のどこかで収奪を生み、貧困を生むという皮肉。

しかもその先進国の行為は、純粋に「地球のため」という正義感のためよりも、どちらかと言えば先進国間の「義務の履行」そのもののために為されているように思える(手段を目的と取り違えている)。

バイオエタノール自体は素晴らしい発明だと思う。しかし単に先進国の自己満足による「問題のすり替え」に堕してしまわないように、よく考えて導入して欲しいと思う。

Invisible Wounds (Dark Bodies)/FEAR FACTORY
「THE CRUSADE」/TRIVIUM
「SACRAMENT」/LAMB OF GOD
「SILENS」/IT DIES TODAY
「SHADOWS ARE SECURITY」/AS I LAY DYING
「FLIES AND LIES」/RAINTIME
「A BEAUTIFUL LIE」/30 SECONDS TO MARS

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