2008年03月08日

旧本能寺発掘調査現場

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昨日事務所に行ったところ、産経新聞夕刊に載っていた発掘調査現場はすでにマンション建築が始まっていました。
去年のテレビ番組で放映された旧本能寺跡地の発掘調査現場はまだ何も建てられていませんでしたが、こんな看板がありました。(画像参照)
5780万円で一戸建てが購入出来るそうです。
近くにモデルハウスもありますので、旧本能寺跡地に住みたいと思われている信長公ファンの方いかがですか?

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2008年03月04日

信長の宿泊場所実は小規模御殿「最大40メートル四方」〜「本能寺の変」舞台で新説〜

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先月の21日に旧本能寺跡地の住宅建設予定地にて何やら作業しているのを目撃しました。
少し前にはテレビカメラも来ていたとの事で気になってはいたのですが、やっぱり新たな情報が出ました!!

信長の宿泊場所実は小規模御殿「最大40メートル四方」〜「本能寺の変」舞台で新説〜
3月3日産経新聞夕刊1面の右側にドドーンと!
しかも左側には須磨物語として須磨寺が紹介されており、平敦盛が愛用した笛や境内には敦盛の首塚や首を洗った池〜等々と記事が書かれてました。
新聞の1面に信長公と敦盛!
産経新聞さん素敵すぎます☆☆☆

以下1面の記事より全文抜粋

「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。
昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。
予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。
テレビドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が高くなった。
新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。
本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。
発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「〇(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。
西側調査地からは、建物跡などは出なかった。
この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものと分かった。
信長の生涯を記した『信長公記』によると、信長は「変」の2年前にあたる1580年2月、京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。
本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華の乱」(1536年)をきっかけに京都から追放されたのが許されて戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて追放されていた」とする意見も出されていた。
今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺がよそに移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。
具体的には「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院や同光浄院(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。
権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第や徳川家康の二条城などが有名。
これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠地を移そうと意図していたと推測している。

臨時の宿舎
小島道裕・国立歴史民族博物館准教授(日本中近世史)の話
「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。興味深い説と思う」

本能寺の変
甲信から京都にかけてを制圧した信長は1582年5月29日、中国攻めのため、わずかな供を連れ京の宿所だった本能寺に入った。
6月2日未明、明智光秀の軍1万3000人が急襲、信長は妙覚寺にいた長男・信忠とともに討たれた。
信長49歳。
天下統一の業は秀吉に受け継がれた。

夕刊1面より

文中に漢字変換が出来ず〇にしている部分がありますが、能のヒの部分が去という漢字です。

同10面にも関連記事が掲載されていました。
以下10面より全文抜粋

無防備信長 深まる謎
圧倒的兵力差、すぐ決着
光秀「野心説」に追い風?

戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。
あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。
謎はますます広がっている。

旧本能寺遺構確認

発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は「この石垣が、信長時代のものであることは間違いない。特に瓦の量などから大きなが伽藍が焼けた可能性は低いのではないか」と話す。
遺構の延び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。
この場所に、信長の御殿があったとみられる。
規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。
圧倒的な兵力(1万3000人)の明智光秀軍を前に、信長はあっけなく自害。
戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったようだ。
信長はなぜこれほど不用心だったのか。
今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が背くとは、考えてもいなかった」とみている。
光秀の謀反の理由については、[涼和悗┐鯡燭犬蕕譴燭蝓安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み∈患彜嵜盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感B利義昭や近衛前久ら、旧幕府・朝廷勢力に唆された‐などの説が唱えられている。
しかし今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨説は考えにくいとする。
やはり、本能寺に小人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と決断したとみている。
また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。
ヾ愬鬮∪夷大将軍B誓大臣‐の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。
一方、脇田修・大阪歴史博物館館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。

夕刊10面より

私が見た時はこの発掘調査の関連作業だったのか、と思うと声をかけて現場を覗けば良かったぁー!と激しく後悔…。
実は今春設立する会社の事務所が旧本能寺跡地なのですが、事務所のあるビルの前が今回の発掘調査現場です。
今週また事務所に行くので、何かあればブログで報告しますね。
それと私が目撃した日より少し前にテレビカメラで撮影もしていたようなので、これらがテレビで放送されるかもしれませんね。
こちらも要チェックですよ!

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2008年02月29日

敦盛復活!!

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〜人間五十年、けてんの中をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、一度生を受けめっせぬ者の有るべきか〜
幸若舞(大頭流)・敦盛より

信長公が敦盛の中でも特に好んで舞った一節で、桶狭間の合戦前にも舞った事でも有名です。
なんとこの敦盛の舞がついに復活しました!!

敦盛の舞が披露されたのは、福岡県みやま市瀬高町大江の大江天満神社。
毎年一月二十日に五穀豊穣を祈って大江天満神社の幸若舞堂にて舞を奉納されています。

敦盛の舞を見に、今年も大江天満神社に行って来ました。
敦盛効果で地元テレビ各局やマスコミも取材に来ていました。
しかし当日は寒いうえに朝から雨が降っていて屋外で舞を鑑賞するには厳しい状況でした。
仕方ないのでこれは信長公の涙雨なんだと自分に言い聞かせ我慢。

十一時半開会、十二時上演で、全六曲披露されます。
曲目は浜出・日本記・安宅(下)・高館(下)・曽我(上)・敦盛。

浜出と日本記はこれから幸若舞を継承するであろう小学生が、安宅は二十代、高館は三十代、曽我はベテランと各年代の継承者が舞を披露されました。

そして待ちに待った敦盛です!
敦盛は現三十代家元の松尾正巳さんにより披露されます。
敦盛が披露される前に司会の方から幸若舞の敦盛についていくつかの説明がありました。

その中でびっくりしたのは、“謡曲に敦盛は存在しない”という事でした。
えぇ〜っ!今まで時代劇で目にしてた敦盛は何だったの!?
幸若舞と謡曲は違うと知っていたけど…びっくりです。

それと幸若舞には宗教的な意味合いもあるらしく、幸若舞では頻繁に足踏みをするのですが、その足踏みには返閑(へんばい)といい邪気を祓う要素があるそうです。
舞いの歩き方にも宗教的意味合いがあり、兎歩(うほ)といい道中の安全や邪気・猛獣から身を守る要素があるそうです。

以前の幸若舞の記事にて信長公が桶狭間の合戦前に敦盛を舞ったのは己の魂を鼓舞する為と書きましたが、邪気を祓う等の宗教儀式的な要素も含まれていたのですね。
信長公が桶狭間の合戦前に敦盛を舞ったのも納得です。

そしていよいよ敦盛の舞が始まりました。

例の“人間五十年、けてんの中をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、一度生を受け滅せぬ者の有るべきか〜”の節はドラマで聞くのとは違っていて少し違和感を感じましたが、信長公もこんな風に舞っていたのか…と思うと、もう感無量で涙が出そうなぐらい感動しました。
司会者の日本の総人口一億二千万人の中で最初に復元敦盛を見たのはあなた達です!と興奮しながらしゃべっていましたが、本当に興奮するぐらい感動しました。
寒い雨の中、五時間じっと座って耐えた甲斐がありました。

今回は敦盛の五十四ページある内の例の人間五十年〜の部分が含まれている六ページだけが披露されました。
これからも敦盛は毎年披露されるそうですが、来年以降は残りの部分を披露される可能性が高いので、“人間五十年〜”を見たい方にはおすすめしかねます。
ただ幸若舞を見てみたいという方は、毎年一月二十日に大江天満神社にて披露されますので是非どうぞ。
幸若舞にすっかり魅了された私は来年も見に行こうと思っています。

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2008年01月24日

岩村城

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岩村山荘さんにお世話になった翌日は、岩村城と大将陣塚(秋山信友と信長公の叔母が逆さ磔で処刑された場所)に行ってから岩村の城下町を散策しました。

岩村城は鎌倉時代の文治元年(1185)に加藤景廉により築城され、備中松山城・大和高取城と共に日本三大山城の一つとして知られています。

岩村山荘をチェックアウトする時にお宿のご主人から、岩村城は下から登るとしんどいので途中まで車で行った方が良いよとアドバイスをいただいたので車で岩村城へ。

岩村山荘さんから国道へ出て、少し走ると岩村城の看板が見えます。
看板の指示通り左折し、岩村城へ続く細い山道を車で走ります。
車一台しか通れないような細い道を登って行くと、途中で森蘭丸の看板が駐車場を案内してくれます。
そのまま道なりに行くと本丸下にある出丸の駐車場に到着です。
車を停めて岩村城の本丸へ。
歩いて数分で本丸に着きます。
残念ながら建物は残っておらず、所々残っている石垣がかつての山城の姿を偲ばせます。
本丸はちょっとした広場みたいになってます。
岩村城の歴史が書かれた看板の側には有料(百円)の音声ガイドが設置されており、岩村城の歴史が語られます。
歴代将士慰霊碑(画像一番上)等も建てられています。

天正十年三月十日〜十二日には信長公も岩村城に滞在しており、その時に武田家滅亡を聞き、天下統一を確信したそうです。

せっかく日本三大山城の一つに来ているので、登城口まで行ってまた本丸まで戻ってこようと思い歩きました。

途中岩村城の別名・霧ヶ城と呼ばれる所以となった霧ヶ井(一番下の画像)がありました。
以下霧ヶ井の説明文です。
霊泉・霧ヶ井
この井戸は城主専用のものでお堂の中にあった。
岩村城の別名を霧ヶ城と云うが、それは非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけなれた。
伝説によると敵が攻めて来た時に城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると忽ちにして雲霧が湧き出して全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、そこえ城兵が突入して勝利を得た。
これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ天下の名城と伝えられている。
霧ヶ井はどんなに日照りがつづいても、決して水の涸れない不思議な井戸で江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられている。
(看板より全文抜粋)

看板の説明文を読んでから井戸を覗き込んでみたのですが、思ったより小さく水量もそこまであるようには思わなかったです。

本丸から下へは楽勝で降りられたのですが、石畳のある登城口から再度登って行くと、やはり登りはしんどい!
岩村城は、日本一の標高を誇る山城です。
軽い登山みたいな感じで、息があがってしまいます。
でも本丸に到着して岩村の城下を見下ろすと、しんどかった事も忘れてしまいます。
途中少ししんどいのですが、登城口の石畳から歩く方が遺っている石垣も見れて山城という事を実感出来るのでおすすめします。
その際には岩村城の麓の歴史資料館の敷地内にある駐車場に車を停めると便利です。
歴史資料館の側には岩村山荘さんもあるので、登城前の腹ごしらえや登城後に戦国料理をいただくのも良いと思いますよ。
それと岩村山荘さんですが、前回の記事でお風呂は温泉ではない〜と書いたのですが、ラジウム温泉でした。
すみません!
どおりでよいお湯だと思いました。

岩村城
岐阜県恵那市岩村町城山

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2008年01月11日

岩村山荘

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岩村を訪れたら一度泊まってみたい!と思っていた岩村山荘に宿泊しました。

岩村山荘は日本三大山城の一つの岩村城の麓にあり、外観は城の二の丸風で、名物の戦国料理(戦国時代の武将が食べたと思われる炭火焼き料理)がいただけるという、戦国ファンにはたまらないお宿です。

岐阜市から恵那市の岩村まではかなりの距離があります。
高速を使わずに車で約3時間。
岐阜市内との気温差もかなりあり、11月に入ったばかりでしたが、岩村はかなり寒かったです。

向かっている途中、所々に立てられている岩村山荘の案内板を見ながら無事お宿に到着。
チェックインしてから食事までの間、明日の岩村城や城下町散策の為に資料を見てルートや食事処を確認。
お部屋には岩村観光マップが置かれてあり重宝しました。

お宿での食事は朝夕共に部屋食ではなく、食事専用のお部屋に移動します。

戦国料理を食べたくて岩村山荘に泊まろうと思っていたのですが、お宿のHPや女将さんのブログを見て期間限定の飛騨牛・松茸プランに飛びついてしまい、戦国料理を食べそびれました。
すみませ〜ん。

隣では戦国料理を食べていたようですが、私は飛騨牛と松茸を炭火で炙りながら地酒の“女城主”を呑んでいました。
地酒の“女城主”は、その名のとおり信長公の叔母がモデルになっており、さらっとしてて呑みやすく美味しいお酒です。
飛騨牛・松茸プランの夕食も美味しくて大満足でした。

お風呂も温泉ではないものの、よいお湯で清潔感のあるお風呂場で良かったです。

翌日の朝食も、ご飯が美味しくて大満足。
おかずよりもお米が食べたいという人にはたまらないと思います。
普段朝食をあまり食べない私でも、ご飯の美味しさにかなりの量を食べましたから。
おかず重視の方には物足りないかもしれませんが、個人的にはちょうどよい品数でした。

チェックアウトの時に、売店にて小野稔先生の著書・新女城主を購入。
先生の著書や岩村の地では、信長公の叔母の名前がお直の方となっています。
以前テレビの歴史番組を見ておつやの方だとばっかり思っていたのですが、実際のところはどうなんでしょうか?
残念ながら我が家の系図では某となっており、名前が不明です。
ちなみにまだ本を読めてないので内容はわかりません。
すみません。
時間がある時にじっくりと読んでみたいと思います。

今回お世話になった岩村山荘さんですが、通常の宿泊の他に特別宿泊プランやビジネスプラン等のリーズナブルなお値段で泊まる事も出来るので、岩村山荘さんのHPをチェックしてみて下さい。
今さっきHPをチェックすると、大変お値打ちな冬のあったか特別宿泊プラン実施中でしたよ。
またお昼ご飯に戦国料理等をいただく事も出来るので、岩村城や城下町散策の際には是非お立ち寄り下さい。

岩村山荘
〒509-7402
岐阜県恵那市岩村町冨田569-1
(0573)43-3626
http://www.iwamurasansou.com/

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2008年01月10日

謹賀新年

96c8dccc.jpg遅ればせながら…新年あけましておめでとうございます!

しばらくブログをほったらかしにしていましたが、ぼちぼち再開したいと思います。
ブログをほったらかしにしている間にもたくさんの方が訪問してくださっていたようで、本当にすみません。
そしてありがとうございます。
それから今年の春頃には、信長公終焉の地にて株式会社〇〇(まだ登記してないので名前は控えさせてもらいます)を設立する予定です。
設立後にはブログにてご報告と、コメントくださっている皆さんの所へもご挨拶させていただくつもりです。
会社は戦国武将グッズを取り扱いますので、こちらもブログ同様宜しくお願い致します。

今月は以前ブログの記事にて紹介させていただいた九州大江の幸若舞が、信長公が好んで舞った敦盛の舞を復活させるようです。
バッチリ録画して来ますので、何らかの形で皆さんにも披露出来たら良いな〜と考えております。

では今年も一年どうぞ宜しくお願い致します!



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2007年11月20日

織田信長菩提所・崇福寺

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今月の1日に一泊二日の日程で岐阜に行って来ました。

円徳寺→崇福寺→金華山公園→岩村で一泊→岩村城→岩村城下町散策のルートで回ってきたので、数回に分けて記事にしたいと思います。

岐阜市に到着後、まずは円徳寺に向かいます。
1日はご先祖様の旧暦の命日なので、今年も住職に供養のお経をあげてもらいました。
円徳寺は信長公ゆかりのお寺で、信長公の寄進した鐘や秀信公の髪切り塚等があります。
岐阜城へ訪れる際は、円徳寺にもお立ち寄り下さい。

その後、お昼ご飯を食べに“布武”に行きました。
信長公のファンなら“布武”という名前だけでピン!とくると思いますが、天下布武の印の提灯が店先に吊されており、店の名前の由来は“天下布武”からきているようです。
店主がファンなんでしょうね。
今回食べたのは、布武ランチ(1,050円)
刺身・天ぷら・小鉢にご飯・赤出汁が付いて、ご飯はおかわり自由!
しかも食事の後は、お茶と茶菓子が出されます♪
美味しいし、ボリュームもあり、これで1,050円はかなりお得です。
他にも布武上ランチ等あります。
店の中は普通の和風店舗なので、信長公ファンでなくても気軽に入れるお店です。
布武
岐阜市中竹屋町27
058-263-3830
第1,3,5月曜日休み
営業時間11:30〜14:00 17:00〜22:00(L.O.21:30)
駐車場有り

お腹いっぱいになった後は、信長公菩提所・崇福寺に行きました。
本堂は現在工事中なので、青いビニールシートがかけられています。
本堂の中で展示している宝物は見る事が出来るので、拝観料150円を払い本堂の中へ。
信長公愛用の櫓時計やお鍋の方の手紙等が見れます。
特に信長公愛用の櫓時計は、手を伸ばせば確実に届く位置にあります。
触りたい!という衝動に駆られましたが、貴重な信長公の遺品です。
触りたい気持ちをグッとこらえて我慢です。
本堂の真ん中には信長公父子の位牌と共に信長公の肖像画も展示しており、見る事が出来ました。
奥のガラスケースにお鍋の方の手紙の他に、信忠公の奇妙丸時代の書状や信玄公の書状等も展示されていました。
そして天井には、血天井があります。
関ヶ原の合戦で、信長公嫡孫・秀信公の最後の牙城となった岐阜城。
落城の際に戦死した将兵の血が付着した床板を、供養の為に崇福寺の天板に使用したそうです。
鎖帷子の跡等が残っているというので、じっくり見ました。
四百年以上前の血痕がまだはっきりと残っているのには驚きましたね。
本堂の宝物を見た後は、信長公父子の墓を見に庭へ行きました。
手を合わせてから写真を撮っていたら、11月だというのに何ヶ所も蚊に刺されて痒い!
墓石には右側に信長公の法名と左側に信忠公の法名が刻まれてあるそうですが、見えにくいです。
なんとか見ようと試みるも、しつこく蚊が寄ってくるし、刺された箇所が痒いわで、それらが気になってしまい断念。
蚊さえいなければじっくり見れたのですが…。
墓石の東側には宝形胴葺根木造彩色の位牌堂(一番下の画像)があります。
天正十年十月十五日、京都大徳寺にておこなわれた信長公法要の際に使用された信長公父子の位牌が安置されています。
他にも敷地内には稲葉一鉄が寄贈した鐘があります。

崇福寺の後は金華山公園へ行きました。
金華山公園では、今年も去年同様信長公の菊人形が見れました。
毎年恒例なんでしょうか?
現在、信長公の館跡にて発掘調査をしていると、こちらに訪問してくださっているk2さまの泰巖宗安記ブログにて知ったので探してみたのですが…。
どこかわかりませんでした。
これまたk2さま情報ですが、今週の23日には発掘調査をしている場所で現地説明会があるそうです。
目の前に岐阜城がそびえ立っているのですが、岐阜市から岩村のある恵那市まで少し距離があるので、今回はロープウェイに乗って岐阜城には行かず岩村へ向かいました。

岩村での話は次の記事で書きますね。

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2007年11月12日

小笠原長時・貞虎書状

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高槻市しろあと歴史館の秋季特別展・三好長慶の時代〜「織田信長入城」の以前以後〜で展示されている小笠原長時・貞虎の書状です。

この長時の書状を目にした時に、こちらのブログに訪問して下さっており武田家の研究もされている、CA@管理人殿の事が頭によぎりました。
長時は武田家の歴史に関わる人物なので武田ファンには気になる書状だろうと思っていました。
CA@管理人殿によると、長時に関する資料は数点しか残ってないそうで、この書状は武田家の歴史を勉強している方には非常に気になる物だと思います。
しかし地元高槻市にある本山寺所蔵の書状なので、他で目にする機会が殆どないと思い、今回取り上げてみました。

三好長慶が芥川城で覇権を確立した天文二十二年(1553)、信濃国(長野県)の守護小笠原長時は、甲斐の武田信玄に国を追われていました。
長時一族は上杉謙信に身を寄せた後、永禄四年(1561)頃に長慶を頼って芥川に来住しました。
芥川城の近くに位置する本山寺には、一時身を寄せてた事もあり、小笠原長時・貞虎父子の書状が残されています。

小笠原長時書状 一通「本山寺文書」(巻子物)のうち
永禄四年(1561)閏三月吉日

信州於本/意者二千疋/之地寄進/可申候、弥御/祈念頼入候、/恐々謹言
永禄四年辛酉
閏三月吉日 長時(花押)
本山寺
別当床下

小笠原貞虎書状 一通「本山寺文書」(巻子物)のうち
永禄四年(1561)閏三月吉日

就今度下/国身上之儀、/存分之儘候者、/随其相応之/地寄進可申候、/別而御祈念/頼入候、恐々謹言
永禄四年辛酉 小笠原喜三郎
閏三月吉日 貞虎(花押)
本山寺
別当玉床下

貞虎は後に「貞慶」と改名しますが、三好長慶の一字をとったものと言われています。
永禄十一年の信長上洛時、貞慶は芥川を退去し、後に徳川家康へ仕官します。
江戸時代には小笠原家は数家が栄える大名家に返り咲きました。
ちなみにこの間、勘助こと内野さんが一路さんと結婚披露宴をおこなったのは、長時の子孫である小笠原長幹伯爵邸です。
新宿区河田町にあり、昭和初期に建てられたスペイン様式の建物です。
スペイン料理のレストランですが、カフェもやっているそうなので、一度お茶をしてみたいな〜と思っています。

信濃国つながりで…先月の27・28日に上田市で開催された第6回真田幸村ロマンウォークにまたまた参加してきました!
上田市の観光大使であり、幸村公の子孫でもある真田様と一緒に真田の史跡を歩くという真田ファンにはたまらない企画です。
私達が歩いた27日はあいにく台風の接近により雨が降り、足元が悪い中18キロ歩きました。
いつもは上田の景色を楽しみながら歩くのですが、今回は雨のせいで足元ばかり気になっしまい、せっかくの景色を楽しめず残念でした。
コースには砥石・米山城も含まれてたので楽しみにしていたのですが、こちらも雨のせいで登れずじまいでした。
次の日は晴天に恵まれて良かったそうですが…また来年のロマンウォークに期待したいと思います。

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2007年10月18日

三好長慶の時代〜「織田信長 芥川入城」の以前以後〜

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高槻市立しろあと歴史館にて現在開催されている秋季特別展・三好長慶の時代〜「織田信長芥川入城」の以前以後〜を見に行って来ました。

今回は芥川城主・三好長慶展です。

阿波を本拠とする長慶は天文二十二年(1553)に高槻の摂津峡の山奥に位置する芥川城に入城しました。
その後芥川城から広く畿内に号令し、芥川政権と称されるほどの全盛期を迎えました。
しかし永禄十一年(1568)の織田信長による城攻めにより落城。
その後、織田信長が芥川城へ入城し、将軍足利義昭とともに政務を司り、天下統一を目指します。
この期間にスポットを当てて展示されています。

展示品は三好長慶やその一族関連の物が中心で、松永久秀や信長公の書状等が65点展示されています。

今回の展示では、鎧兜や刀等の武具が皆無なので少し物足りない気がしたのと、信長公関連展示物が書状(画像参照)の一点だけだったのが少し残念でした。

しかし普段あまりスポットを浴びる機会のない三好長慶に関する品々が展示されているので、三好長慶やその一族に関して勉強したい方にはおすすめです。

他に、大河ドラマ風林火山で甲斐の武田信玄公に信濃国を追われた守護小笠原長時親子の書状も展示されていました。
長時一族は上杉謙信公に身を寄せた後、永禄四年(1561)頃長慶を頼って芥川に来住しました。
その時の信濃復帰を願う書状が本山寺に残されています。
ちなみに本山寺はまだ世に出る前の松永久秀が立身出世の祈願をしたりと戦国武将と縁のあるお寺です。

たった一点だった信長公の展示品は、離宮八幡宮蔵の織田信長禁制(重要文化財)です。
こちらの書状には天下統一へ乗り出した信長公の天下布武の印が押してあります。

それと特別展の展示品とは別にちょっと前の新聞にも載ってた秀吉の太閤検地の書状類も展示されていました。
こちらはまさか見れるとは思ってなかったので、嬉しかったです。

拝観料は200円と安いのでお近くの方は足を運んでみて下さい。

少し遠くの方も歴史館と芥川城跡を見にいらしてはいかがですか?
芥川城は畿内でも屈指の規模を誇る山城です。
永禄十一年(1568)岐阜から畿内に入った織田信長公が将軍足利義昭と真っ先に入城し、「五畿内隣国皆以て御下知」(信長公記)したのも芥川城です。
この時、信長公の勢いに屈した松永久秀や堺の商人、京の公家達が名物の茶器等を手土産に面会を求め、城の門前は市をなしたそうです。
信長公ファンにはあまり馴染みのない芥川城ですが、是非一度は訪れていただきたい城跡です。

秋季特別展の期間は平成19年9月29日(土)〜11月25日(日)ですが、一部展示品の入れ替えがあり、信長公の天下布武の印の書状は10月28日(日)までの公開なので見たい方は急いで下さい。

高槻市立しろあと歴史館

〒569-0075
大阪府高槻市城内町1-7
072-673-3987
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/shiroato/

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2007年09月30日

銭司聖天

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京都府木津市にある銭司聖天。

金運向上・お金に縁のある寺として日々多数の参拝客が、御利益を求めて訪れます。

奈良のとある神社への道中で度々目にしてた銭司聖天の看板がふと気になり調べてみると、何故か本堂に戦国武将の位牌が安置してあるとの事で、行ってみました。

家から銭司聖天までの所要時間は車で約一時間半。

ちょうど京都府と奈良県の境目辺りにあり、周りを茶畑に囲まれた中に銭司聖天のお堂が建っています。

先ずは戦国武将の位牌を確認しなければ!と思い、本堂の中へ。

本堂の横には「戦国名武将の台霊」と称して、豊臣秀吉・明智光秀・織田信長の位牌が並べられておりました。

えぇっ!?その3人の位牌を一緒に並べたらアカンやろ!

信長公を本能寺で自害に追い込んだ光秀・その光秀を伐った秀吉・その後信長公亡き後の織田家を乗っ取った秀吉ですよ…。

一体何の為にこの3人の位牌を一緒に並べてるんでしょうか?

謎です。

位牌に関しては怪しいのですが、金運向上には御利益があるそうで、「このお寺で祈祷をしてもらった七福神財布を使用してから順調に仕事が舞い込んできた」とテレビでピーコさんがおっしゃってたそうです。

実際にその財布を持ってる知り合いが何人かいて、自営業の知り合いに財布の効果のほどをたずねたら、結構良いと言っていました。

ちなみにピーコさん愛用の七福神財布は4千円ぐらいでネットで購入出来るのですが、祈祷してないものだと250円で購入出来ます。

250円だと安いので私も購入しました。

で、せっかく銭司聖天に行くのだから金運向上をお願いしなくちゃ!と思い、金運向上の金箔貼り(画像参照)やお守りを購入。

七福神財布(未祈祷)にお守りを入れて日々持ち歩いていますが、それなりに御利益があるような気がします。

銭司聖天は車でないと不便な場所にあるので、戦国武将の位牌だけを見に行くのはあまりおすすめしませんが、金運向上祈願を兼ねて行かれるのなら良いと思います。

inuyamajyou at 01:44|この記事のURLComments(12)TrackBack(0)