2013年06月21日

神の国と神の義

教会の宣教は、神の国と神の義とを希求するところにある。▼イエスの宣教の第一声は、「時は満てリ、神の国は近づけリ、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」であった。このことは、一時も忘れてはならない。キリスト者であることの証しすなわちイエスの弟子であることの証しは、「まず神の国と神の義とを求めよ」と命じられたイエスの呼びかけに応えて生きる姿を世に示すことにほかならない▼神の国とは、領土領海を超えて統治される愛なる神のお取り仕切りのことである。教会とは、この大きな愛の御取り仕切りのもとでいきいきと生きる群れのことである▼神の義(正義)を求めよとは、端的には、人間の正義を棄てよということである。戦争一つを考えてみても、正義を歌わずに戦う戦争が一度でもあっただろうか。人間は都合のいい正義を創出し自らを説得し満足させる。愛国心、国益をいえば、国民は正気を失い、「天に代わりて不義を討つ」戦いに身を投ずるのである。ここに人間のエゴイズムに起因する原罪ともいうべき最も悪質な罪があるのかもしれない▼創世記における人間の始祖についての神話的な物語は、まさにこの罪の発生を描き出している▼神は、土から人を造り、その鼻に息を吹き込み、生きるものとした。人間をエデンの園におき、そこにあるすべてのものから食べるように、ただし、善悪を知る知恵の木からだけは食べてはならないとした。箇条書きの律法が成立する以前からの人間を規定する定めである。アダムとイブは、、園の中央にあるこの木に魅せられ、ついにその実を食べてしまうのである。善悪を知って神のようになろうとしたのである▼人間の義を退け神の義を求めなければならない。教会は、主の祈りの教会でなければならないのである。 (2013/06/20)

6月の聖書会は 28(金)10:30am.  ヨハネ 9:1-12(-40)

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信72

朝山正治 多摩市豊ケ丘6-3-2-308  Tel. 042-373-2710



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2013年05月31日

どこへ行く途中か

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。兄のドミートリーが主人公のアリョーシャに「おまえは、どこへ行く途中だった?」と訊くところを読んで、アリョーシャはまさに宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」そのものだと思った。自分を勘定に入れず、足を棒にして走り回っている。▼彼は、ロシアのキリスト教(正教)におけるいわば最後の聖人のように描かれている高僧ゾシマのもとで修行を積む、若い修道僧である。不思議なのは、このゾシマが愛弟子のアリョーシャに、自分の死後は修道院を離れ別の道を行くようにと言い残して死ぬのだ。ゾシマは時代から取り残されたキリスト教の限界を見ていたのである。僧服を脱いだアリョーシャは以前にもまして人々の間に出て行き「雨にも負けず」に励むのである。▼この長大な小説のテーマは何か。高等な芸術論はさておき、作者が訴える本筋の主題は一点に集約され、「エピローグ」に至るのである。それは、まさに我々のテーマでもある、新しい人類の共同体への夢物語の提示である。▼貧しい家に生まれ、親を侮辱され、クラスの全員からいじめられ、石をもってひとり多勢に立ち向かい、様子を見に来たアリョーシャにも石を投げ、その手にかみつき骨に達するほどの傷を負わせもする小学生のイリューシャを、アリョーシャは深いところで受け止め、子供たちに和解をもたらす。やがて病死するイリョーシャを記念する中で、新しい共同体に向けての子供たちの決意が表明されるのである。キリストの復活の出来事を連想させる聖なる場面である。▼時代の風がロシアを襲い全世界に吹き荒れようとしていた19世紀末葉のロシアで書かれた小説を我々は今日の状況下で読んでいる。教会はいまどこへ行く途中なのだろうかと問いながら。(2013/05/21)

5月の聖書会は 24(金)10:30am. ヨハネ 8:32-59

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信71

朝山正治 多摩市豊ケ丘6-3-2-308 Tel. 042-373-2710



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一回性、即興性

先頃、武蔵野市民文化会館小ホールにおいて開催された国分桃代さんと御夫君グザヴィエ・デゥプレさんとのオルガン・デゥオ・リサイタルは、実に凄い演奏会であった。▼リサイタルの前半は、桃代さんによってバッハが、後半はグザヴィエさんによって、メンデルスゾーンのほかはわたしなどその名を知らない作曲家たちの曲が演奏された。いずれも、二短調の曲で構成されているプログラムであった。調の違いがどのような差異をもたらすのかわたしには分らない領域であるけれども、とにかくお二人はパイプオルガンが秘蔵する可能性のすべてを惜しみなく開示しその極限の響きをもって会場を満たしたのではなかっただろうか。▼風雅な響きに酔いしれてしばらくはほとんど夢心地で聴いていたのだが、やがてあたりの気配はどんどん変化し、あちらからこちらにかつて聞いたことのない複雑な音々が行き交い、時にゲリラ暴風のように吹き荒れる。一時それが途切れると、お二人の愛娘の百合香さんが楚々と現れ清澄な声で歌唱する。深山に清水を汲むがごとき静寂の一時が過ぎると、再び大編成のオーケストラを凌ぐ大音響の即興演奏が会場を満たし終局に至るのである。▼芸術は長く人生は短いと言われるが、その逆が真実ではないか。額に収まった絵画、楽譜に定着された音楽は、実はまだ半製品なのだ。それがどのように解凍され受容されるか、その時々の一回性、即興性においてこそ、ナマの、生きた芸術が出来事として立ち現われるのである。その一回性、即興性こそ、決定的に重要なのだ。▼だからこそ居合わすこと(当事者として参与すること)がこの上なく重要なのだ。次回はないのである。われわれも、この一回性、即興性に、心血の最後の一滴を注ぐのではないだろうか。 (2013/04/19)


4月の聖書会は 26日(金)10:30am. ヨハネ 8:12-30

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信70

朝山正治 多摩市豊ケ丘6-3-2-308 Tel. 042-373-2710



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断捨離か形成か

日曜日の集会、ヘブル書が終わり、来週からマルコにするかエフェソ書にするかで迷っている。復活節を挟んで断捨離か形成かの問いの前に立たされているのだ。▼日野原重明氏は土曜日の朝日新聞に連載中の「101歳・わたしの証 あるがまま行く」で先週は<「残り時間ゼロ」を生きる>というエッセイを書いている。題がいい。わたしもそういった心境に至りたいのだが脳のどこかにのんきというプログラムが仕込まれているらしく、ゼロを意識しながらゼロが実感できない。言うほど絶望することもなくずるずると生きている。▼イエスの誕生、十字架、復活を書いた福音書は、一言で言えば、断捨離である。復活は、断捨離から発生した新しい生。使徒言行録以降の文書はこの生を描いている。新しい生を生きる教会は形成の過程で可視的実態として肥大し、歴史を動かす勢力ともなった。分かりやすい具象的な実例は醜聞には事欠くことのないヴァティカン。▼恐竜のように肥大化した歴史的宗教としてのキリスト教はいまさらこれをどうすることもできない。が、パーソンのレベルではできることしなければならないことがある。で、IPCCである。▼「汝なお一つを欠く」のあの「富める青年」は今日の教会であり我々自身である。無くてならないものは多くはない。いや一つだけなのだ。このシンプルな原点に立ち戻るほかない。▼へブル書は終部で、宇宙的な破局にあって、「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている」「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火である」と断じている。▼イエスが教えられた主の祈りを祈りとし、ただただ神の国と義とを求めるシンプルな教会の形成を心に描きながら、次週から日曜日はエフェソ書を読むことになりそうである。 (2013/03/05)

3月の聖書会は 22日(金)10:30am. ヨハネ 8:1-11

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信69

朝山正治 多摩市豊ケ丘6-3-2-308 Tel. 042-373-2710



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天に登録されている集会

「ガックンと歳をとった感じがする」と、3キロも体重を減らしたこの老人を眺めてKさんが言います。金曜日の聖書会を前日の夜になってキャンセルしたり、めぐみ教会の創立20周年記念礼拝で説教することになっていたのをこれも前日の土曜日にお断りしたり、なんとも申し訳ないし実に情けない。体もさることながら心が萎えている。潮時とでもいう時かもしれないなどと怠惰な思いも出てくる。昔、国立の教会に大内さんという高齢のご婦人がおられ、日曜日は這ってでも礼拝に出るとおっしゃっていたのを思い出したりもする▼柄にもなく「月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」という歌があったななどとつぶやきながら、いやいやこれはぜんぜん違う、こちらは、世の中のことが気になって仕様がない、原発はどうなるのか、平和はどうなるのか、・・・▼「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」そう、「一つだけ」なのだ▼そんなところへ中会の機関誌「ぷれすびてり」が届いた。朝妻姉が寄稿した<多摩ニュータウンみどりの教会「聖書友の会」の一日>という記事が載っていた。そして見開きページの<あの町にあるわたしたちの教会>には他の教会と並んで「多摩聖書友の会」の名が一人前の顔で載っている。中会レベルで認知されるに至ったわけです▼そういえば、「ノロによる閉鎖」の中で守られたKさんと二人での日曜日の集いで読んだヘブル書12:23には、「天に登録されている長子たちの集会・・・」とあり大いに励まされたのだ。天に登録されている多摩ニュータウンみどりの教会を思うと何かまた力が出てきたような気がする。 (2013/02/15)

2月の聖書会は22日(金)10:30am. ヨハネ 7:25-39

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信68

朝山正治 多摩市豊ケ丘6-3-2-308 Tel. 042-373-2710



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Ocharaka hoi

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心(みこころ)に適う人にあれ。

おちゃらか ほい。
おちゃらか おちゃらか おちゃらか ほい。
せい せい せい せい、
おちゃらか ほい。
あの子も、この子も、おちゃらか ほい。
あそこでもここでも、おちゃらか ほい。
おちゃらか おちゃらか おちゃらか ほい。
... せいせい せいせい、
おちゃらか ほい。
Ocha rakka hoi.
Ocha rakka, ocha rakka, ocha rakka hoi.
Say, say, say, say!
Ocha rakka hoi!
East and West, ocha rakka hoi.
North and South, ocha rakka hoi.
Ocha rakka, ocha rakka, ocha rakka hoi.
Say, say! Say, say!
Ocha rakka hoi.
大変な時代になりました。力を棄て、おちゃらか節で乗り越えましょう。
2013/01/01
1月の聖書会は25日(金)10:30am.ヨハネ 7:25-39(手土産不要)
聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信67
朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042-373-2710


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今年の漢字 「金」

「今年の漢字」は「金」を報じる清水寺からの生の映像を東京で見ているテレビの司会者は思わずカネ!?と叫んだ。キンでしょうと助けが入った。ロンドン・オリンピックでの目覚ましい成績とかノーベル賞とか・・・。▼金が選ばれるのはこれが二度目だとか。以前、田村で金、谷で金、ママでも金で国中が沸いたことがある。最後は負けても金で白けてしまったのだが。戦時中の国家総動員法下での土日抜きの月月火水木金金は凄まじい。日本の経済復興は朝鮮戦争がもたらした金偏景気からだ。竹下内閣は、何にでも使ってくださいと全市町村に1億円ずつ配った。もらったほうも使い道に困り中には金の鯱鉾をつくって拝ませたりしたところもあった。▼この通信が届くころには、選挙の結果も確定し、第二次安倍政権成立に向けての離合集散劇が繰り広げられていることだろう。この選挙からして、ほんとうの争点は何だったのか、人々は何を求めたのか、改めて問い直さなければならない。▼国民のレベル以上の政府は望めないと言われる。間もなく総理大臣になるかもしれないお方は、日本銀行に命じて輪転機でカネをどんどん印刷させると言った。その瞬間、株価が上がった。紙の金で、道路をつくったらいい、軍隊を増強したりしたらいいということのようだ。美しい国のなでしこジャパンとかさむらいジャパンとか言うのなら、せめて武士は食わねど高楊枝くらいの気位がほしい。▼憲法九条を捨て、経済優先の名のもとに原発温存を図る政治はどんな未来をもたらすか。アメリカを見るまでもなく、富国と強兵は固く結びついている。「神と富とに兼ね仕えることはできない」のである。自らに問いたい。いま我々に主の祈りを置いてほかにいかなる祈りがあるというのであろうか。(2012/12/15)


12月の聖書会は21日(金)10:30am. ルカ 2:8-20

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信66

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042-373-2710



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理不尽

ヒツジが小川で水を飲んでいると上(かみ)のほうからライオンがやってきてお前のせいで水が濁り飲めないじゃないかと難癖をつけました。ヒツジはそんなはずありませんわたしは川下で飲んでいるのですからと言いました。ライオンは理屈を言うな何を言おうと悪いのはお前だと言ってヒツジに襲い掛かり食べてしまいました。▼小学校の時に覚えた記憶の中のこのイソップ物語は、何か事があるとふとわたしの脳裏をかすめていく。要するに世の中には理不尽がまかり通っている、ご用心、という話だ。もう少し深読みすれば、ヒツジのようにただおとなしいだけでは能がない。何か知恵を働かさなければ危機を回避することはできないということかも知れない。▼日光には、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿があるが、聞くところによると秩父のなんとかというお宮にも三猿の彫刻があるそうだ。ただしこちらは同じ三猿でも、よく見て、よく聞いて、よく話す、成人した三猿なのだとか。ちなみに日光のサルは幼児。▼わたしがこれまでの生涯で出会った人たちのほとんどは日光型かな。子供のころの友達も大人になってからの知り合いも、大人しい。それで心が通じ合えるのであれば言うことはないけれども、実のところ何を考えているのかどう思っているのかいつまで経ってもわからない。▼いったい何を言おうとしているのか。そうそう、理不尽ということだ。理不尽という名の暴走車が白昼堂々と走りまくっている。地球規模の異常気象が語られて久しいが、いまや喫緊の大問題は政治的社会的異様気象だ。問うべきはこの国はどうなるかではなく、この自分はどうするか、だ。クリスマスに、天は我々に何を告げるだろうか。我々は何を聴き、何を見、何を語るのだろうか。 (2012/11/22)


11月の聖書会は30(金)10:30am. ヨハネ 7:1-24


聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信65


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白い鳥

膝を組み床に座り込んで薄暗がりの森を眺めていた。何かが微かにうごめきこちらを見ているようだった。それは舞い上がり、飛来し、わたしの膝の上にとまった。鳩よりももっと大きい真っ白な鳥だった。わたしは、重くはないけれどもしっかりした質量感のあるその鳥の背のあたりを撫ぜ、わたしに体をつけて吠えも唸りもせずに神妙な顔で座っている白い小犬のメグに、ほらね、ほら来たんだよ、と教えている。それから少し声を高くして、来たよ、来たよ、と家人に知らせた。鳥は静かに舞い上がり部屋の奥の方へ行ったがすぐ膝の上に戻ってきた。前方の薄暗がりから妻のKさんと居るはずのない亡母が一緒にやってきて、体を低くし、膝の上の鳥をのぞき込んでいる。わたしは、ほら、ほらね、来たんだよ、と重くはないけれどしっかりした質量感のある鳥の背をさすりながら言った。言いながら手元を見ると、鳥はいなかった。もう何もなかった。▼え、えーっ、と思っているところで目が覚めたようだ。夢にしてはあまりにもリアルだった。しばらくボォーッとしていた。忘れないうちに手帳に書き留めておこうと思い、体を起こし、居間へ行った。卓上の電波時計を見ると、明け方の4:30だった。年月日は、2012/09/21 Fri. ▼Kさんは、いよいよお迎えね、と言って笑った。年をとり心が萎えてくるとこのような夢を見るのだろうか。何か懐かしいあの世の天国が急接近してくる。フォスターの「オールド・ブラック・ジョー」だね。だけど、この世に生を受け、神の国の福音の宣教を託された者としては、最期の日まで、「み国を来たらせたまえ。み心の天に成る如く地にも」と祈り続けていたいね。「まず神の国と神の義とを求めなさい。」これに尽きます、教会の宣教は。(2012/10/02)

10月の聖書会は26(金)10:30am. ヨハネ6:60-71

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信64

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042-373-2710



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何を祈り、何を語り、何を為すか

先日の新聞(朝日9/5)でこんな記事を読んだ▼<「教会は200年、時代から取り残された」 バチカン(ローマ法王庁)の改革派で、法王候補にも挙げられたマルティーニ枢機卿が亡くなり、ミラノの大聖堂(ドゥオーモ)で3日、葬儀が営まれた。最後となったインタビューが死の翌日に報じられ、「教会は200年ほども時代から取り残された。官僚組織が肥大化し、儀式と服装ばかりが仰々しい」と現在のバチカンを厳しく批判した。・・・大手紙コリエレ・デラ・セラが1日に掲載したインタビューによると、枢機卿は「我々の文化は年老いた。教会は大きいが空っぽだ」と現状を嘆いた。その上で「我々は民衆に近づき、対話すべきだ。法王や司教が先頭に立って、自らの間違いを認め、根本的な変革への道を歩み出すべきだ」と訴えていた。>▼わたしたちはカトリックではないけれども人ごととは思えない。宗教改革の時代から500年を経て、プロテスタントを名乗る我々の教会も、内面性の世界に閉じこもるだけで、いまやこの時代に機能しないいわば役立たずの存在になってきているのではないか▼9.11以後の世界の状況において、3.11以降の日本の状況にいて、我々の教会は、いま何を祈り、何を語り、何を為すべきだろうかと、わたしもその一員である世の牧師たちに問いたい▼戦後は歴史の過去に追いやられ、右傾の「愛国者」たちが勢いづき、戦前の雰囲気を煽りからさわぎする時代になった。わたしはぽつねんと、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を読み返している。<まことにわたくしどもの祖国が罪を犯した時に、わたしどもの教会もまたその罪に陥りました。わたしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。> (2012/09/20)

9月の聖書会は28(金)10:30am. ヨハネ 6:16-59

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信63

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人間になれ Be small! Be a person!

人間になれ。人間にならなければだめだ。これが我が家の教育のすべてであった。戦争が終わり近くにキリスト教の学校が開校された。親は無理をしてわたしをこの学校に入れた。三年生になるとき成績順にクラス替えがあった。親はキリスト教の学校でそんなことがあっていいのかと反対した。教師が説得に来たが譲らなかった。語るも愚かしいが、3年B組は、「人間にならなければだめだ」の親がわたしのために勝ち取ったクラスだった。たまに同窓会のようなものに出るといまだにA組を鼻にかけている者がいる。C組でなくてよかったなどとささやき合っている者たちもいる。▼「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。自分を失ったら、人間でなくなったら、何の意味もないではないか。親は、人間が人間として生きる根本のところをわたしに伝授し、キリスト教の学校へ入れ、聖書の信仰へと向かわせてくれた。地位も肩書きもなく(だからこそ)生意気に生きた親をいまでは大した人だったと思っている。▼生意気はいい。威張るのはいけない。威張るやつはいちばん嫌いだ。あまり上品とはいえないがわたしの口癖である。多少学問があったり、地位や肩書きがあったりすると、表面はともかくとして、ついつい威張りたがるものだ。それだけならまだいいが、根本的なところで人間を失っているのである。ニコデモのようにこっそりイエスを訪ねて生の根本を問い直す大人の勇気が、政治家、教育者、宗教家、その他の偉い人たちに求められているのではないか。(2012/08/23)

8月の聖書会は31(金)10:30am. ヨハネ4:43-54

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信62

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042-373-2710



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大きな祈り

日曜日の集まりでは使徒言行録を読んでいる。先週と今週は、27章を読んだ。新共同訳が、出来事の順番に「パウロ、ローマへ向かって船出する」「暴風に襲われる」「難破する」と標題をつけている個所。▼パウロはエルサレムで民族の裏切り者としてユダヤ人に告発され、今は未決囚として船でローマへ護送されて行くところである。船は暴風に襲われ、どこの海とも分からぬところを彷徨する。▼「ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろした」。パウロはこれを百人隊長たちに告げると、「兵士たちは、綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた」。そのようにして船のものたちは「全員が無事に」陸に上ることができた。▼船には背景を異にする種々雑多の人々が276人同船していた。「呉越同舟。We are all in the same boat.」の運命共同体。今日の地球共同体の縮図をそこに見る思いだ。どの海を航行しているのかさえ定かでないこの時代の船で、われわれは運命を共有する同時代人と共に生きている。▼が、我々は、小舟で脱出を図る小さな群れになり下がっているのではないか。我々の間で交わされている祈りは、小さい祈りだけである。真の意味での大きな祈りがないのだ。▼ペテロをはじめとするガリラヤの漁師たちのイエスの召しを受けた時の最初の具体的な行動は、家族や小舟を棄ててイエスの後について行くことだった。▼大きな祈りとは、主の祈りのことである。世界を包む大きな祈りである。そこに、小さな祈りも隠されてもいる。 (2012/07/23)

7月の聖書会は27日(金)10:30am. ヨハネ5:31-47

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会) 通信61

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エルサレムの非聖地化

間もなくオリンピックが始まる。世界中の人たちが自国の選手たちの活躍を期待しありったけの愛国心を燃やして熱狂することだろう▼この愛国心というものは、いろいろな状況のもとで自然に湧き上がる情動。あおったり強制したりする必要はない。わたしは夏になると高校野球が気になる。母校の桜美林が優勝した時は小躍りして喜んだ。愛国心もせいぜいそれくらいのものと考えれば丁度いいのではないか▼そもそも民族とか国家とか領土とかは、それ自体を過度に神聖視してはならない。だからわたしはかねがね「エルサレムの非聖地化」を提唱している。聖地と言われる地域の周辺は、いまも騒乱が絶えない。この地に平和が訪れるのはいつの日か▼土地はもともとだれのものでもない。分かりやすい話。アメリカは、もともとアメリカ人のものではない。ヨーロッパからの渡来人が彼らにとっての新大陸を「約束の地」と呼んで、先住民のことなどお構いなしで築き上げたのがいまのアメリカである▼「約束の地」といえば、イスラエルはその御本家だ。エルサレムはシオンの丘とも呼ばれ、神さまが約束に基づいて賜った土地だという。弱小な人間集団を神は偏愛し生きる道を備えてくださったのであるけれども、今日のイスラエルの言い分については再解釈が必要である▼イエスがもたらした神のお取り仕切りを意味する「神の国」の福音は、人々がそれぞれに絶対化し神聖視しているこの世の国々のありようを根底からひっくり返し、歴史を新しく切り開いて行く道を示しているのである。(2012/06/19)

6月の聖書会は22日(金)10:30am. ヨハネ5:19-30

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会) 通信60

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042.373-2710



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2013年05月30日

「非常識を排し超常識を愛でる」追々記

超常識氏が九州のある教会の文集で書いた文章を、少し長いが引用という形でここに載せたい。氏の本領の一端を瞥見していただきたいと思うからである。以下、<木村一光寄「父の最期の言葉」>

病床にあった父が意識を取り戻したという。病院の一室に足を運ぶと父は窓外の景色に目をやっていたが、私に気づくと「愚かかねー人間は。ワヤばい。みんな破壊して。瓦礫の山・・」と同じ言葉を呟いていた。それは父の戦争の体験の記憶だった。それまで戦争について語ることはなかっただけに、父の中にもそれが生々しい爪痕を残していることを知った。思えば父が終戦を迎えたのは17の歳で、思春期の最も多感な時期をその中で過ごしたのだった。10代の頃は特攻隊を志願した命知らずの荒くれだった。その頃の身を張った、口にするのも憚れるような陰惨な喧嘩も耳にした。それも2度3度ならずで、父の兄弟や知人達がそれとなく語るだけで、父自身は口にしようとはしなかった。

末期癌の進行に伴う意識の混濁の中で、父は己の過去に立ちかえっていくかのようだった、そこでは父の中の二つのが露わになった。父が付き添っていた私の名を呼ぶ。恫喝する低く唸った声だった。私はこれまで父のそんな声を聞いてはいなかったろう。今の父は10代の荒れていた頃の父なのだろう。警察官に殴りかけた拳を交わされ、壁に打ち付け、包帯で腕を吊るしていた父。ともかく私は父が恐かった。怒ると手におえなくなるからである。私も周りもそんな時は逃げるより他仕方がなかった。父が何か口づさんでいる。ジョン・レノンの「イマジン」か?先程とは打って変わった柔らかい声で私の名を呼んでいる。私が目にしてきた、後年の文化人めいた父だった。私には荒事をしないようにとピアノを習わせ、みずからも日がな一日ピアノを弾き、油絵を描いたりしてすごしていた。還暦を過ぎた辺りで父は目を二重に整形し、茶髪に染めてきた。顔にしまりがなくなり周囲を笑わせたが、存外父は真面目な様子だった。父はそんなことで失われた青春を取り戻そうとしていたかのようだった。

その日は父の意識が戻っていた。途切れがちに父は私と話をしていた。「俺の10代は」父が言った「やくざ同然だった。思い出したくもない」仰臥している父の目が虚空を仰ぐように天井に向けられた。私はその時の打ち震える不安と苦しみに捉えられた父の眼差しを忘れることができない。父の言葉は死を目前にした人間の嘘偽らざる告白だったのだろうか。ともあれ父が最後に残した言葉の一つになった。私は荒くれだった10代の父をここで否定しようと思ってはいない。父の世代は戦中派と呼ばれる。戦争によって青春を奪われ、天皇制国家日本と平和国家日本との相容れない矛盾や相克を内に抱えながら歩んでいった世代の人間であった。



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「非常識を排し超常識を愛でる」追記

先に「超常識の一光寄さん」のことを書きました。はじめは、イニシャルで「 I さん」と書こうとしたのだけれどもどうもしっくりこない。「超常識」が似合うのはやはり一光寄さんだ。フライング気味だが事後承諾でと、期日もせまっていたので、通信を発送しました。一光寄さんから、それへのメールが届きました。ここに転載します。今度は了承済みです。どうぞお楽しみください。(あさやま 2012/05/25)


先生、

葉書ありがとうございました。「超常識」とはいってもそこはスネに傷ある身、先生のfacebookを昨日見たら私の名前が・・借金取りがどっと押し寄せてくるような不安を覚えました??(*^_^*)

57年間のまだ続いている生の中で、ちょっと政治づいた時期があった。「市会議員に立候補する!」と酔った私は佐世保教会の中庭で立ちあがって言った。(こちらの教会は年に二回ほど焼き肉パーテイなどと称して教会で宴会を開いております)周りが静まり返った。

「政治家になったら私は離婚よ」横で同席していた妻が言った「選挙の時ウグイス嬢のバイトをしたことがあるけど、政治家の妻は大変、政治家の奥さんだけにはなるまいと思った。それにあんたに誰が票を入れるとね」

「俺が出ると必ず多くのシンパがでてくさ、見てみろ」酔った私は立ったまま同席した教会のメンバーをぐるりと指さして言った「この人たちはみんな俺の票田さ」そう言うと、みんながニヤニヤ笑いながら頷いている

(妻)「あんたなんかに誰が入れるかって皆腹の中では思っとるよ。ふたを開けてみたら一票よ」

(私)「誰や」

(妻)「あんたが自分で入れたったい、いや、あんたも自分で愛想尽かして〇票よ」すると、周りがげらげら笑い出したのであった。

先生の葉書を読んでハタと思い当ったのだった、教会の人たちがこんな自分につきあってくれているのは「目には見えないが厳然として臨在されておられる唯一の師がおられる」ということだったんだな〜、教会だからこそこんな自分にも居場所を与えてくれているんだな、とありがたみの湧くお葉書ではありました(*^_^*)



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非常識を排し超常識を愛でる

超常識の一光寄(イッコーキ)さんが何十年振りかで九州からこちらにやって来られた。多摩の拙宅では十人余りの者が集まり旧交を温めることができた。まさに、「朋あり遠方より来るまた楽しからずや」であった。▼この語句の出典を調べると、次のような記事があった。長いがためになると思うので引用しておきたい。▼<春秋時代に物事を「学ぶ」場合には、書物によって知識を得るよりも師から言葉によって知識を伝達されることが多かった。その為、弟子たちは師が 「詩経」や「書経」を読む声を聴いて、その内容を忘れないように復習したのである。学問といっても現代のような教科書や講義による勉強ではなく、基本は、師から口伝で受け継ぐことにあった。君子とは、端的には、統治者階級に相応しい「人格・度量・教養・品位」を備えた貴族 のことであり、孔子が現れて以降は、人民を敬服させる徳(人間的な魅力・教養)を兼ね備えた人物を指して特に君子と呼ぶようになる。為政者たる者は、有徳 の君子でなければならないとするのが儒教の基本的な政治思想(徳治主義)である。>▼ところで、われわれの集まりでは、一応、牧師と信徒といった区別はあるけれども、本質的には、雀の学校と同じで、だれが生徒か先生かわからない。それでいい。いや、それでなければいけない。なぜなら、わたしたちのただ中には、目にはみえないが厳然として臨在される唯一の師がおられる。復活の主イエス・キリストがおられるからです。▼わたしたちは、非常識を排し、超常識を愛でる。 (2012/05/19)

5月の聖書会は25日(金)10:30am. ヨハネ5:1-18

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信59

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042.373-2710



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「何だろう、この息苦しさは」追々記

わたしは日本キリスト教団に所属する者ではないけれども、同教会が1967年に、総会議長・鈴木正久の名前で公にした「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」は、この国に住むすべてのキリスト者が記憶し実践の指針ともすべきものであると考えています。いわば第二の敗戦のもとに置かれているともいえる現下の状況のもとで、わたしたちは個々のクリスチャンとしてまた教会として自らの信仰のあり方を謙虚かつ真剣に点検し直すべき時に差し掛かっているのではないかと思います。▼上記の「戦責告白」の一部分を引用します。「まことにわたしどもの祖国が罪を犯したとき、わたしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたしどもは『見張り』の使命をないがしろにしました。」「終戦から20年余(1967年の時点で)を経過し、わたしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向に向かっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」▼大きな危機のただ中にありながら、ぼんやりと暮らしているわたしのような者が、それぞれの状況のもとで多大の苦労を負いながら日々忙しく真剣に生きておられる多くの同信の人々に向かってこんなことを言っていいのかと自らを責めながら、それでもやむに止まれぬ何かに突き動かされて、毎回、facebookなどでつまらぬことを書いては「公開」し、その都度「後悔」しています。どうぞ隠退牧師の独り言として聞き流してください。

2012/04/24



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「何だろう、この息苦しさは」追記

二三日前のこと、二時ころ、家から歩いて多摩センターへ行き、三越5階の丸善で本を二冊ほど買い、四五十分して下へ降り、自動ドアから外へ出ようとすると、真っ暗だった。ええっ、何時だ、と腕時計を見ると三時半頃だった。稲光がした。ざぁざぁ降りの雨だった。大震災後の日本のようだと、後で思った。六十数年前の敗戦の日は、ああ、戦争が終わった、とすっきりした開放(解放)感があった。苦しいけれども、明るかった。今回の第二の敗戦は、全く違う。近い将来に予想される更なる大震災に東京の住民は不安を募らせている。その上に、社会的政治的な不安、さらには思想や信教の不自由が、日ごとに増大しつつある。ああ、真っ暗だ、と感じるのはわたしだけだろうか。そんな思いが、「何だろう、この息苦しさは」の記事になった。つまらぬことを言ったと、郵便を発送してから後悔したが、本音だから仕方がない。この間の雷雨のように一過性のものであることを心から願う。2012/04/21

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何だろう、この息苦しさは

「中央公論」最新号の特集「指標なき社会、心の拠り所はどこに―宗教は日本を救うか―」で加賀乙彦さんは、「私が知っているどの宗教も日本という国を救うことはできないと思う。宗教は国との関係で存在するのではなく、個人との関係でその人の人生に深い関係を持つものだ」「すぐれた宗教の備えている愛や慈悲や自己犠牲の心が、今こそ必要なのだ。原子爆弾で何十万の人々が死と原爆症に追いやられたこの国で、平和のためだと言って、原子力を利用すべきではなかったのだ」と書いている。▼そうですねとうなずきながら、いやいやちょっと待て。ここはお国の何百里?「宗教は国との関係で存在するのではない」お国にとって都合のよい理想的な「宗教」の姿なのでは。善良なる老若男女を国は都合よく束ねて場合によってはお国のために喜んで死んでもらうこともできる▼加賀さんは反論される。「1929年4月22日生まれの私は現在82歳で、戦争中の国家神道の時代を経験している。戦争に勝つためには、神道を信じなくてはならぬと強制的に教育された」 二度とこのようなことがあってはならないと暗に言っておられる。▼しかしそれは逃げ口上でしかないのではないか。「無用な説明はしない。論争もしない。その融通無碍なところが仏教の幅広さであり、今のわたしたちが求めているものと言えるのではないでしょうか」と言う高村薫さんが正直にも思える。▼屹立した個は、無力だ。何もできない。主の祈りだけが頼りだ。「み国を来らせたまえ。み心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」(2012/04/21)

4月の聖書会は27日(金)10:30am. ヨハネ4:43-54

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会) 通信58

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042.373-2710



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うたを忘れたカナリヤ

わがまぼろしの「多摩ニュータウンみどりの教会」の集会室には、正面に二副の絵が掛けられている。一つはめぐみ教会のメンバーで絵本作家の河合ノアさんが描いた大きさが37型テレビくらいの絵(レプリカ)。リスやうさぎ、きつねなどの可愛らしいキャラクターを乗せた三日月の船が青い星の海を星しぶきをあげて航行している。額の下部に、ノアさんのご夫君柳川茂さんが絵本に書いている「しんじること、ゆめをみること、まえを みつづけること・・・それが、『きぼう』を みつける とっておきの ほうほうなのです。」ということばが小さく添えた。▼意味深な絵である。中央のこぐまのリトル・ジョイが長い棒状の櫂を漕いでいる。舳先ではハリネズミくんが望遠鏡で熱心に前方を眺めている。▼童謡「歌を忘れたカナリヤは」が聞こえてくるような気がする。うたを忘れたカナリヤは、「後ろの山に棄てましょか」「背戸の小藪に埋(い)けましょか」「柳の鞭でぶちましょか」。いえいえそれはなりません。「うたを忘れたカナリヤは 象牙の船に銀の櫂(かい) 月夜の海に浮かべれば 忘れたうたを思い出す」▼「うたを忘れたカナリヤ」とは、わたしたちのことでは。教会のミッションは何か。なんと答える?「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」▼が、われわれの関心はひたすら「これらのもの」へと分散して行ってはいないか。われわれの祈りを「主の祈り」に照らし合わせて点検しなおさなければならない。神の国の福音の宣教こそ、教会のミッションであり、教会の初心である。このことを今あらためて想起したい。 (2012/02/16)

2月の聖書会は24(金)10:30am. ヨハネ4:1-42

聖書友の会(多摩ニュータウンみどりの教会)通信56

朝山正治 多摩市豊ヶ丘6-3-2-308 Tel.042-373-2710



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