2005年10月

2005年10月29日

人間になる

「人間になれ。

「人間にならなければだめだ。

と言うのが、小学校も出ていない父の口癖だった。

これに優ることばは、ほかにだれからも聞いたことがない。

及ばずながら、朝に夕に聞かされたこのことばを励みとしてこれまで生きてきたと思っている。IPCCの“Be Small. Be a Person!”は、これを英語で言ったものである。

 

<わたしの最大の悲しみは、語る友を容易に得ることができないことである。信仰について、宗教について、人生について、現代について、政治について、文学について、詩歌について、音楽について、死について、生について、語る意思と力とを持った人間がどれだけいるか。>

と書いたりした。博学を披瀝して欲しい、芸術の薀蓄を聞かせて欲しいなどといっているのではない。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論者はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」

われわれは、人間との出会いを待っているだけの話である。

 

子どものころに読んだイソップ物語が忘れられない。

ある主人が、公衆浴場へ行こうとして、召使に人がどれくらいいるか見てくるよう言いつける。しばらくしてから帰ってきた召使は、人間は一人しかいませんでした、と主人に伝える。主人が浴場に行ってみると大勢の人でごった返していた。いぶかる主人に召使はこう言う。「先ほどここで観ておりましたら、石ころか何かが道の真ん中に転がっていて、通る者たちがみんな躓いて行く。それなのに、それをどけようとするものがだれもいない。最後に、一人だけが、躓いた石を横に取り除けたのです。」

 

いろいろな肩書きを持つ人や、知識人、学者、あるいは道学者や宗教家は大勢いた。しかし、人間はいなかったということだったのではないか。

 

大邱の蒲公英

2005/10/29



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2005年10月28日

わたしも立派な障害者だ!

二三日前のこと。午後、授業が終わり寮に帰る途中の広場で、小さなバザーが開かれていた。何張りかのテント小屋の店が並び、女性物の衣類がハンガーにつるされていたり、カバンだとか雑貨などが、あまり注意してみなかったのでほかに何があったか覚えていないけれども、いろいろと並べられていた。何のバザーかと、主催者と目される年配の人たちが座っているテーブルのところへ行ってみた。何かの雑誌が、ふた山積まれていた。笑顔で迎えてくれた年配の婦人が、どうぞどうぞと言ってくれたので、手に取って眺めた。裏表紙の下のほうに障害者の親たちの会という文字が英語で書かれていた。ああそうか、と急に親しみがわいて、三冊ほどいただくことにした。おでんを煮込んで売っていたので、それを一本いただくことにした。おでんとたれの皿をもらって、テーブルに座ってゆっくり食べた。韓国語を話さないわたしに、婦人はとても親切にしてくれた。回りの数人の男女も、興味を持ってわたしのほうを見ていた。その時、わたしは、わたし自身が障害者であることに気がついた。聞きたいことや話したいことが一杯あるのに、何一つまともに話すことができない。うまいとか、ありがとうとか、断片的なことばを二三発して、あとはただきょろきょろするばかりのわたしを、相手人たちも同じように、どうしたらいいかわからずもてあまし気味にただ笑っているだけだった。そこへ電動椅子に身を託したからだの大きな若い男がやってきて、こんにちは・・・と歓迎の表情を浮かべて笑いかけてくれたけれども、お互いにそれ以上のことは何もできない。

それでもわたしたちは、一つのときと場所とを共有できた。ことばのないことばを交わすことができた、とわたしは思っている。

みんなに別れを告げて寮のほうへ歩いて行くと、幼いときに大やけどでもしたのか顔面全体が赤くただれた若い女性が、電動車椅子の友(男性だったか女性だったか覚えていないが)に寄り添って歩いているのにであった。ほんとうに人生はていろいろだな、と思った。いろいろな苦労を背負って坂道を上り下りするお互いが、黙っていてもお互いが実はひとりではないという、ことばではいえない何か実感のようなものをどこかで共有することができたら、それだけでかなり幸せではないだろうか。このキャンパスにはそういった空気がそこはかとなく漂ってるような気がして、大いに気に入っている。

 

多摩の蒲公英

2005/10/28



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2005年10月24日

懐かしさの記憶

大きさが少し違う電動車椅子に身を托した若い男女が、肩を並べ、時折小声でことばを交わしながら、起伏のある夕暮れの道をゆっくりと移動して行く。恋をささやきあっているのだろうか。それとも、行く末の心配を語り合っているのだろうか。早足で歩く習癖のわたしは、たちまち彼らを追い抜き、彼らのことなどすっかり忘れてしまう。

来年創立50周年の年を迎えるこの大学は、はじめ社会福祉を軸に創設されたと聞く。この分野の教育では、名の通った大学であるとも聞いた。そういったこともあってか、広い構内を電動の車椅子で移動する学生たちの姿を多く目にする。最近の車椅子はよほど性能がよいのであろう、急な坂道をかなりのスピードで登り降りしている。盲目の女性が折りたたみの白い杖を操りながらレンガの歩道を常人と変わらぬ速度で歩いていくのを見てあらためて驚いたりすることもある。つまり、当たり前のことが日常的に普通に繰り広げられているだけの話なのだけれども、この当たり前が当たり前に通用する世の中こそが当たり前の世の中ではないのか。

きょうはこの辺にしておこう。お腹がすいたので、ちょっと近くのキャフテリアへ行って何か買って来よう。

 

最初の頃は律儀に三食キャフテリアで食べていたが、生来小食のわたしには食べきれない。このごろは、一食はキャフテリアで食べ、あとはパンとかインスタントラーメンとかで済ませている。いまこうしてKさんが送ってくれたインスタントの味噌汁でパンを食べている。インスタントでも、赤だしの味噌汁はうまい。お袋の味とか、ふるさとの味とかいうが、これは理屈じゃないね。無条件に美味い。

で、思い浮かぶのは、まだ世の中の矛盾や不正をしらぬままニューオーリンズのミシシッピ川で川遊びをする少年たちやグアッピー河で丸木舟を漕ぐ幼女たちのことだ。(それを遊覧船やモーターボートから眺めている構図にすでに、パラダイス・ロストの予兆を見ることが出来るわけだが、それは置いておくとして、)彼らはいずれ否応なしに、彼らを不当に扱う社会へ出て行くことになるだろう。文明がもたらす実を食べた彼らは、楽園を捨てて出て行くのである。あの子らがいまどこでどう生きているかを想像すると、何か胸が痛くなる。そして、思うのである。かなりの年になったあの子たちは、木の枝から水に飛び込んだ日のことや、丸木舟を漕いだ日々のことを懐かしく思い浮かべていることだろう、と。

そして、さらに思うのは、人間の心の奥の深みには生まれるよりはるか昔の懐かしいふるさとの記憶が残っているのではないか、と。

風に吹かれてやって来た韓国の地で、そんなことをとりとめもなく考えている。弱い者や小さい者が安心してありのままの姿で生きていける原初の世界が、どこかにあるのではないか。あってほしい。

では、グッドナイト。

 

大邱の蒲公英

2005/10/24



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2005年10月21日

パラダイスロスト (楽園考)

かつて妻と二人で一日ニューオーリンズで遊んだことがある。昼間のフレンチコーターは、あくびの出そうな閑散としたうら寂しい町だった。車を走らせ港の方へ行った。車を満載した大きな船が停泊していた。たしか煙突か何かを模した筒状の大きな構造物が中央あたりにあってそこに大きな文字でTOYOTAと書かれていた。”Japan As Number One”という本なども出て、日本の高度成長の波がアメリカを脅かし始めた頃のことだった。

ミシシッピ川を上って行く遊覧船に乗った。乗客を乗せた船は海と川の水位を調整する、あれをなんと言いましたかパナマ運河とかスエズ運河の関、あのようなところへ入れられた。前と後ろに水門があって、一方の水門が閉ざし他方の水門が開くといった仕方で、数メートルはある水位の違いを調整し、いよいよ船はミシシッピ川をさかのぼって行った。今考えると、潮の干満によっていちようではないのであろうけれども、おおむね海の水位が高いのだろう。

わたしの記憶の中に絵のようにあるいは8ミリ映画のようにはっきり残っている情景がある。それは、岸辺で無心に遊ぶ肌の色の黒い子供たちの姿である。彼らは、河に突き出した木の枝にぶらさがり先端の方へ移動し最後は反動をつけて川の中へ身を投げていくのである。

わたしは、そこに、楽園の原型を見る思いがした。

後年、南米コロンビアを訪れたときの記憶がこれに重なる。アマゾン川には及ばないが、太平洋に注ぐグワッピー河という大河がある。海から少しばかり上流にある黒人たちや肌の赤い先住民たちが混在して住む集落で、ヤマハのエンジンでスクリューを回す十数人乗りのボートに乗り込み、河を一端海までくだり、そこから別の支流に入って遡って行く。河の両岸に、掘っ立て小屋の集落が散見される。顔を前方に向けてはいられない速さで小一時間位走ったところで、エンジンの音が静かになった。岸辺から少し離れたあたりに手作りの丸木舟が浮かんでいる。褐色の肌をした7、8歳の裸の女の子が二人、ゆったりと櫂を漕ぎ回遊している。これほど優雅な情景を見たことがない、と思った。

行きずりの旅人が、景色の一部分として見たのかもしれない情景をこのように描くのは、愚かなことなのかもしれない。大いに礼を失する話なのかも知れない。

しかし、言いたい。文明の発展とは、ニューヨークに巨大なツイン・タワーを建てることでもないし、何百人もの人間をいっぺんに運べる飛行機を建造することでもない。ましてや、人類を何回にもわたって殺戮できる核兵器を貯蔵することではない。人間の歴史が文明の発達発展の歴史であるとすれば、それは同時に楽園喪失の歴史でもあった。パラダイス・リゲイン(楽園の回復)は、果たして可能なのか。これは、この時代の最も重要なテーマではないのか。

幼い女の子たちが漕ぐ木をくりぬいた細長い舟は、われわれが乗ってきたボートが立てる波で大きく揺れたのを思い出す。

夜のニューオーリンズは、物憂い昼の情景とは一変して、いたるところからジャズが響き渡ってくる熱気に満ちた街だった。お金など払う必要もなさそうだ。軒々から音楽が流れ出てくる。演奏の様子が外から窓越しによく見える。勢いあまって、楽団の行列が外へ繰り出してきたりする。有名なコンベンション・ハウス(ちょっと違うかな。)とか言われる一軒に入った。二十人も入ればいっぱいの小屋で、みんな床に座り込んで聞いている。老齢の黒人の奏者たちが、古びたピアノやコントラバスやトランペットなどををゆったりとひいている。バケツが回ってきて、それに何ドルかを投じ、ひざをかかえて聴いたジャズの味わいはまた別世界のものだった。

ニューオーリンズをハリケーンが吹き荒れ、高波が襲った。

世界の各地で、大きな災害が起こっている。

自然の災害は、人間の文明をあざ笑うかのように、世界を席巻している。

われわれは、そこに、あえて原理主義者たちが言いそうな言い方をするが、神の裁きを見る。(アメリカの原理主義者たちは、ほかの事では思い切った(乱暴な)ことを言いながら、自分たちの所業への神の裁きということになると、そ知らぬふりをしている。)

人間よ、おごるなかれ!

 

大邱の蒲公英

2005/10/21



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2005年10月13日

地上の楽園

少し誇張して言えば、―いや、ぼくにとっては少しも誇張ではないのだが、このような前置きでもしておかないと読む者が納得しないと思って言うだけのことだけれども―地上に楽園があるとすれば、まさにいまこのときこのところがそれではないかと、ここへ来てからの日々の生活の中で思っている。きょう自分にとって何か特別にいいことがあった、というようなことではない。きょうは、宿題も多いので、ほんとうはこんな文章を書いている時間はない。まもなく3時だ。あと五分したら、勉強を見てくれる人との約束があるので、出かけなければならない。

―くぃーっ、うまい。けさ作って冷蔵庫に入れておいたミルクコーヒーが美味い。さあ、出かなけりゃ。帰ってから余裕があったら、続きを書く―

 

ああ、なんと言う幸せ、などと自己陶酔的に書くのは気が引けるけど、木陰の芝生に寝転び秋の青空を眺める。起き上がってテキストブックを開き、勉強の手伝いを申し出てくれたS君に教わりながら、宿題をしていく。やや離れたところには、若い男女の学生たちが木製のテーブルを囲んでベンチに座ったり、あちらこちらに置かれているベンチにあるいは二人あるいは三人が座って談笑している。双子の兄弟だろうか、五歳くらいの男の子たちがサッカーボールをけりながら、なだらかな傾斜の芝生を登ったり下ったりしている。振り返って後ろを見ると、そこに父親らしい若い男性が、ビニールの敷物を敷いて、子供たちを眺めている。学校の教師のようだ。

一時間余り、宿題に没頭し、あとはしばらく、他愛のない話をする。とは言っても、話はいつの間にか、「難しい話」になって行く。日本語を勉強中のS君は、難しい話を、興味を持って聴いてくれる。だいたい、話を聴く人に出会うことは、稀なのである。わたしの最大の悲しみは、語る友を容易に得ることができないことである。信仰について、宗教について、人生について、現代について、政治について、文学について、詩歌について、音楽について、死について、生について、語る意思と力とを持った人間がどれだけいるか。それが、日本の、韓国の次の時代を決める。酒の話や、女の話から、人間の根源的な問題に至る話を、どれだけの人がしっかりと考え、対話し、議論し、生きる力としているか。人間に出会うのは、困難なことなのである。

S君にどれだけの力があるかはまだ分からないけれども、今日もまた大事なことを語りあえたのだというある種の充足感を得ているように思えるところがあり、わたしとしてはうれしい。

どこかわたしの日本の住まいがある多摩ニュータウンの、丘陵の起伏をうまく利用し、住宅と車道と人の通る道とをうまく組み合わせた、他の都市にはあまり見られないゆったりとしたグランド・デザインを思わせるこの学校の風景に、何よりも大きな満足を覚える。そこでは、人はゆったりと歩き、生活している。天気がよいせいか、きょうは、パラグライダー(というのだろうか)がエンジンの音を響かせて、キャンパスの上を旋回していたりする。大小かなり多くの学校を出入りしているけれども、これほど開放・解放されたキャンパス・ライフを見たことはない。

 

芝生の教室から寮に戻ると、Kさんからの小包が届いていた。冬のジャンパーと替えズボン2本、セーターと下着、厚地のソックス。ありがたい。

きょうは、ここまで。

 

大邱の蒲公英

2005/10/13



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2005年10月08日

朝、外は真っ暗だった

2005108日(土)

2005 10 8()

 

頭が痛い。

のどが痛い。

鼻水が出る。

咳が出る。

머리가 아프다.

목이 아프다.

콧물이 나온다.

기침이 나온다.

 

天気は絶好の秋晴れだけれども、体の調子は、最悪だ。

날씨는 절호의 맑은 가을 하늘이지만, 몸의 상태는, 최악이다.

 

昼ごろ、チキンバーガーの食堂へ行ったが、閉まっていた。自室で、パンを食べ、ミルクを飲んだ。

낮경, 치킨 버거의 식당에 갔지만, 닫히고 있었다. 자기 방에서, 빵을 먹어 밀크를 마셨다.

 

服のまま、寝てしまった。

目が覚めると、6時だった。

朝の6時と思った。

メールを打った。

옷인 , 버렸다.

깨어나면(), 6(이었)였다.

아침의 6시로 생각했다.

메일을 썼다.

 

窓を開けると、真っ暗だった。

夜の7時半だった。

遠くの夜景を見た。

少し恐ろしかった。

창을 열면(), 깜깜했다.

밤의 7 (이었)였다.

야경을 보았다.

조금 무서웠다.

 

大邱の蒲公英

 



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2005年10月06日

To be or not to be

それにしても、韓国語は甘くない!!!

ああ、やめようかなァ。

と書いたら、末の妹からメールが届いた。

 

ヒマラヤ語を始めた人は「10年も続ければ分かってくるだろうと思っています。」と言っていました。・・・・・・

たった1、2ヶ月で分かろうなんて、それこそ甘い甘い。

 

だと。血も涙もないやつだ。

「ああ、やめようかな」は、本音だけれど、本気じゃありません。プロレスなんかでよくある手。ギブアップと思わせて、逆襲する。相手は、自分の中の弱気だけど。

と、いま、朝の出掛けに、キーをうっているが、もう時間だ。

続きは、あとで。

 

と、危なく遅刻のところを、いそいでパソコンを切り上げ、学校へ行ってきた。朝は、霧雨で少し寒かったけれども、午後は、気分のいい秋晴れになった。そうだ、わが気分はまったく秋の空だ。ちょっとしたことで、アップしたりダウンしたりだ。ほかの事は何もかも天国のように楽しいのに、本業の韓国語だけは、天気が定まらない。・・

 

などと、学校から帰って、こうして続きをうだうだ書いていたら、ドアをノックする音。「どなた?」(と、まだ日本語だ。ここは、どこなのだ。)と言って開けると、Uさんが立っていた。

「ビザの延長手続き、本館でチェさんが待ってますよ。」

今朝、Uさんが、手続きは今週中だとわざわざ教室へ言いに来てくれた。それが今日中のことだったとは知らなかった。もう四時近いけれども、とにかく行って話しだけはしてくることにした。

そうか。気分の天気が定まらないのは、11月からどうするかを決めかねていたからだったのだ。そんな時に、ドアをノックするのがいる。ベートーベンか。このノックひとつが、運命なんだね。「・・・かな?」などと言っておれない終わりのとき。カイロスですね。

と言うわけで、もう一度、本館へ行って、話しをつけてきた。

 

Kさん。

あと2ヶ月延長することにするよ。

詳しくは、あとで電話する。

 

大邱の蒲公英

2005/10/06



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2005年10月03日

辛いばかりじゃない

 数ある学校の食堂を渡り歩いて、日々をしのいでいる。

 壁に掲げられているメニューをいくら眺めていても、チキンライスとか、とんかつとかのほかはいまだに何がなんだか分からない。適当に選んで、文字は何とか読めるようになったので、口に覚えさせ、カウンターまで行く。数歩の距離だけれど、大変な距離だ。タイラバヤシカヒラリンカと唱えながら、カウンターのおばさん、おじさんに告げる。その途端に、何を言ったか忘れてしまう。しばらくすると、煮えたぎった真っ赤な鍋が出てくる。鍋を指差しながら、厨房の青年が、「ホット!ホット!」気をつけよ、と何度も言ってくれる。

 すする。ああああっと、のどが悲鳴を上げる。この辛さは、半端じゃない。スプーンのご飯をひたして、口に運ぶ。キムチを箸で挟んで、食べる。

 つぎはやっぱり、とんかつライスにするか。それとも、カレーライスか、と少し後悔しながら、冷たい水を飲む。

 やはり、本場は違う。この辛さに毎日付き合うのには、相当の修行が必要だ。

 ところで、以前、メガネを送ってくれたメガネ会社のチョンさんが、ここ大邱の郊外に住んでおられる。電話をしたところ、土曜日の夕方、学校へ迎えに来てくれることになった。5時の約束が、いつまで経っても来ない。3,40分したところで、ロビーを引き上げ、5階の部屋へ戻ってしまった。しばらくして、念のためにチョンさんの携帯へ電話したところ、そちらも、さんざん待ったが会えなかったので帰えるところだ、いま(隣の町の)ハヤンだが、学校へ戻るから待つように、と片言の日本語と片言の英語で言う。後で分かったのは、チョンさんは、旧インターナショナル・ハウスで待っていた。

 新しいインターナショナル・ハウスに到着した車の中から、チョンさんと、わたしが予想していなかった、奥様と、二人の男のお子さん、10歳のドングン君と5歳のチェグン君が降りてきて、丁寧に挨拶された。

 車で小一時間も走ったところが、何といったかな忘れてしまったが、きれいな町並みがあって、学校の周辺の飲み屋とはぜんぜん趣をことにするしゃれたレストランが十分の駐車場のスペースをとって立ち並んでいる。その一軒に入った。

 そして、韓定食なるものを戴いたのである!

 小さな受け皿の、かぼちゃのスープから始まり、いろいろな肉や、白身の魚、野菜類が、運ばれてくる。いちいちを覚えていないけれども、どれも、繊細で、マイルドで、優雅で、程よくやわらかく、天にも昇るような味わいだった。銘酒花郎を一口二口飲んだが、甘くておいしいと思った。

 辛いばかりじゃないんだ、と韓国食文化の奥深さをあらためて知る思いだった。

 

 こうしてみると、食べることばかり書いていることに気がつく。食うことがいかに重大なことか、ということを自ずと告白しているようなものだ。少年時代を過ごした戦後のあの時代も、日本人は、食うことだけを考えて暮らしていた。「人はパンのみで生きるにあらず」というのも、食を離れて人間の生はないからこそ言えることばではないかな。

 

 それにしても、韓国語は、甘くない!!!

 ああ、やめようかなァ。

 

大邱の蒲公英

2005/10/03

 

きょうは、開天節(建国記念日)で学校は休み。

 



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2005年10月01日

自分の足で歩く

 バスは、急な坂道を登り、釜山タワーの立っている高台の駐車場に止まった。老人たちが大勢たむろしていた。ベンチに座って碁をしている者たちもいた。「福祉館」の野外版といった感じだ。この季節はいいが、もう少し寒くなったらどうするのだろうか。

 タワーには登らず、急な長い階段を下って町に出た。(帰りの上りは、エスカレーターになっている。)磯の匂いがしてきた。名古屋から船で釜山まで来てそこから鉄道で大邱にやってきたというY君と一緒に歩いた。車道を横切ってまっすぐ前方に進んで行くと、突き当たりに、有名な(と聞いた)ジャカルチ市場があった。新鮮な魚の市場だ。見渡す限り、魚屋だ。奥へは行かず、入り口の店で、ひらめ、石鯛、こぶりのあわび、何かの貝、まだ動いているイカ、形はめんたいこのような時々塩を噴き上げる得たいの知れない代物を無造作にバケツにほうり入れ、4万ウオンでどうか、と来た。Y氏の掛け合いで、3万ウオンにしてもらい、向かいの調理やへ連れて行かれた。席料は(一人)3千ウォンになりますと告げられて、ちゃぶ台を挟んで座った。コチュジャン、そのたぐいの赤いもの、わさびと醤油、それに、えごまとか名前は知らない野菜をたくさんと、きゅうり、にんじん、にんにく、わかめ、そしてゆでた落花生と、これもゆでたうずらの卵が6個、それにキムチが、つき出しとして手際よく膳の上に並べられる。生のにんじんに赤いものをつけてかじったりしているうちに、きれいにさばいた貝や魚が次々に運び込まれた。よく食べた。歯が悪いので、イカは噛み切れないし、コリコリするあわびにも難儀したけれども、これでビールでもあれば言うことなしだね、とか。仕上げは、さっきの魚のあらや骨を辛いスープで煮立てた鍋と、赤めし。持ち時間の2時間のうちの小一時間は、こうして消費された。市場で3万ウォン、ここで13千ウオン、しめて四万三千ウォン。日本円にすると4,500円くらい。高いのか安いのか分からないけれども、実に楽しいひと時だった。マシッソヨ。コマオヨ(どうも)、と言って店を後にした。

 釜山は、何と言っても、まず港湾都市だ。来るときとコースを変えた帰りのバスからは、

港がよく見えた。客船や貨物船や小さな船がひしめいていた。陸上では、大きなクレーン車などが行き来し、港湾の活況を呈していた。

 話はもどるが、ジャカルチ市場から表通りに移動し、しばらく歩いた。きれいな町並みがあった。築地の市場から銀座あたりへ出たときの事を思い出したりした。本屋があったので、そこへ入り、大邱大学がある慶尚北道全域の地図を買った。本屋の中にあるネスカフェでコーヒーを飲んだ。Kさんのには及ばないが、久しぶりのコーヒーらしいコーヒーだった。

 釜山はごちゃごちゃしていて嫌いだ、という話を何人かの人から聞いていた。そういった先入観をもって、釜山に着いた。しかし、釜山は、大邱より大きいし、しゃれた店も並んでいて、さすがは韓国第二の都市を思わせるところがある。

 要するに、ある地域に、どこから入るか。どこを通るか。何を見るか。どんな人に出会うか、で町の様相は一変する。われわれの前には、常に、運命的な分かれ道が置かれている、という事かも知れない。既成の観念やお上任せの(「現」代的)視点で見るのではなく、自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考えることが大事、ということかな。

 

大邱の蒲公英

2005/10/01



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釜山で考えたこと

 きょうは、寝坊してしまった。

 目が覚め、ベッドのそばに置いておいた腕時計をとって、見ると、840分。ええっ、とメガネをつけてもう一度確かめる。840分だ。850分に、本館のロビーに集まることになっている。バスで、釜山へ出かけるのだ。

 昨夜は、2時頃床に着いた。大概、眠くなるまで起きている。早く床についてなかなか眠れないのよりその方がいい。6時半頃、目が覚めた。トイレへ行き、あと1時間は寝られるなと思い、もう一度ベットに入った。いつもはそれでも、7時半頃には目が覚める。それが、今朝に限って、寝過ごしてしまったのだ。

 顔を洗って、ひげもちょっとだけ剃り、慌てにあわてて飛び出した。15分はかかる道のりを、早足、小走り、息を切らして、9時5分前くらいには何とか本館の前に止まっているバスまでたどりついた。遅刻者は、ほかにも何人もいた。みんな、何もなかったような顔でやってくる。最後に、クラスの遅刻常習者であるトルコ人のポラトシ君が、悠然とバスに乗ってきた。バスは、3台。何やかや結局予定の9時を10何分か過ぎて出発した。

 昨夜洗った髪の毛にはろくろく油もつけていない。ひげも、きちんと剃っていない。バスに乗って座席についても、実に居心地の悪いものである。2時間ほどして、釜山の最初の目的地に着いた。貿易センターとでもいうのか、幕張あたりにあるような大きな施設で、そこで、観光地博のようなことをしている。入場すると、各国のブースには目もくれずに、トイレに行き、顔を洗い直し、出るときにハンカチにくるんでショルダーバックに入れておいたジレットの髭剃りでひげを剃った。濡れた手櫛で髪を整え、やっと少しばかり生き心地がついた。

 こんな間の抜けた話はわざわざブログに載せるような話ではないけれども、ま、とにかく参った。

 で、釜山旅行のことだけれども、面白かったし、無理をしていった甲斐があった。

 釜山に近づくにつれ、連続して目に入ってくるのは何とも味気のない高層アパートの群落だ。高層アパートの壁面には、ロッテとか、そのほかよく覚えてはいないけれども、家主の社名が大きく書かれている。その中に、「現代」というのがあった。デザイン化されたその字を見ていて、なるほどと思うことがあった。現代の「現」という字。「王」という字と「見」るという字から出来ている。本当の字源が何であるかは知らないけれども、なるほど、「王の視点で見る」それが現代ということかと、居心地の悪いバスの座席でひとり考えたわけである。現代史に限らず、そもそも古代から近代を経て今日に至るまで、およそ歴史というものは、王の視点、つまり支配者の観点に立って綴られているといっていいのではないか。聖書も、旧約聖書など、たとえば「列王記」とか「歴代誌」いう表題そのものが、王の視点に立って書かれていることを表明しているようなものだ。これとはまったく違った視点に立って書かれているのが、新約聖書の福音書ではないか。この議論はまたいつかするとしてこの、王の見たものを歴史の現代とする、ということの意味を考えてみたいのである。

 ブッシュのアメリカ、コイズミの日本を考えると分かりやすい。ブッシュは、イラクやそのほかの国々に、自由と民主主義を与えるのだ、と言って戦争を遂行している。アメリカの国民は、これを追認している。これが、アメリカの民主主義である。小さい者や、弱い者や、少数者たちがい、自分たちの視点を失い、支配者の視点を追認しこれに追随する。それが、民主主義の実態ではないのか。このいかがわしい「民主主義」のからくりを、白日の下に晒しださない限り、民主主義に明日はないのではないか。コイズミの政治には、功も多くあるのではないかと思う。しかし、民主主義の名のもとに、考えない民衆をいいように操っている点において罪は大きい。小さい者であり、弱い者であり、少数者の一人でしかない個々の民衆が、本来自分のものとして持っているはずの視点を無自覚に放棄し、王すなわち支配者の言辞を鵜呑みにし、王の視点を追認し、これに追随する。それこそが、時代を狂わす元凶であることを、いま気づかなければならないのだ。

 これが、まず、釜山とは関係のないことではあるけれども、釜山で考えたことである。



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