2006年05月

2006年05月15日

どろどろ

 午後、近くの図書館へ返却日が来た本を返しに行く。借りていたのは、「晩年の内村鑑三」「イエスとはなにか」「中世のキリスト教と文化」。

 多摩市へ引っ越してきて、けっこう図書館を利用することが多い。市内には図書館が六つあり、わたしが利用しているのは主に豊ヶ丘図書館。見つけにくい洋書や絶版本なども、国中の市や大学の図書館を調べて探し出し取り寄せてくれる。こういったサービスはとてもありがたい。

 上の三冊は、豊ヶ丘図書館の書架から自分で取り出し貸し出してもらったもの。「中世のキリスト教と文化」(ドウソン著、野口啓祐訳)は、結局目次に目を通しただけで、今回は読めなかった。中世といえば、ホイジンガの「中世の秋」がなんといっても懐かしい。中世の夜の闇が如何に深かったか、斧の音などが如何に遠くまで聞こえたか、まるで中世を歩いて見てきたかのような文章だった。もう一度読んでみたいと思う本の一冊だ。

 「イエスとはなにか」は、笠原芳光・佐藤研を編者とする対論集で、論者には、荒井献、吉本隆明、岡井隆、木下長宏、磯山雅の名が連ねられている。どういった本かある程度見当がつく。第1部の「聖書学から」は、荒井、笠原、佐藤の対談。学者や評論家の雑談と言ったほうがいいかもしれない。本格的な論文や評論よりも、こちらのほうに論者たちの本質の部分がはっきり出ているともいえる。要するに、その学風というか、論風というか、そのフーは、ラッキョウの皮むき風なのである。及ばずながら、若い頃わたしもラッキョウの皮むきに挑んだことがある。皮むきの果てに何が残るのか、残らないのか。問題は、それだ。まさに、To be or not to be. That is the question! である。生きるか死ぬか。そういった問題が、そこにある。

 「晩年の内村鑑三」(安藝基雄著・岩波書店 1997年)には、唖然としたというか、やっぱりそうだったかというか、なにか身につまされる思いがした。偉大な人物の実像というものはなかなかはっきり見えないものだけれども、この本は、晩年の内村のありのままの姿を一次資料に基づけて見事に描き出している。もちろんそこに何を読み取るかは、読者の側の力に委ねられているのだが。それにしても大内村の偏執と多情多恨には呆れるばかりだが、また同情を禁じえない。愛弟子塚本虎二との確執に見られる狂乱振りは目を覆うほどのものである。しかし、視点を変えて見れば、そこに内村の信仰の形の本質が隠されていると言えるのかもしれない。ま、一言で言えば、内村の信仰のコアは、パトスである。熱情である。それは、ねたみでもある、ということではないか。

 歌を忘れたカナリヤではないが、パトスを忘れたこの国の教会はどうしたらいいのかなどと飛躍したくもなる。ここで言うパトスとは、内村が嫌った外国の「宣教師」とか「教会の女」の情緒的な感情とは区別されるものである。(内村には、多分に偏見と蔑視がある。)

 と言って、またまた二重否定になるが、パトス的なものの危険性についても述べておかなければならない。臨終の内村を見舞うことを許されなかった塚本が、自分を近づけなかったのは内村本人ではなかったらしいことを知って書き綴った文章を少し長くなるが引用しておく。

<二月頃までは「塚本が来ても会はぬ」というて居られた先生(内村のこと)が、三月に入りては幾度となく、「塚本はまだ来ないか、あんなに愛して居た塚本とこんなにして死ぬことは出来ない」といはれたと聞かされて、わたしの心は爆発した。堤防は切れた。私は声を上げて男泣きに泣いた。・・・やはり先生であった。私の先生であった。始めて先生の心が、御遺言の意味が、私の心に感通した。悔悟と懺悔とが私を噛んだ。感謝の心が私を圧倒した。先生が私に復活した。私は悪夢より覚めた。>

 学問の塚本にして、この体たらくである。

 いま無教会の一派には、鮮烈にナショナリズムを標榜し時代錯誤の極端な右傾化へ走る人たちがあるけれども、その源流は、内村のパトスや塚本の詠嘆の中に見て取ることが出来るのである。

 (先の「イエスとはなにか」でもそうだけれども、学問とか神学とか、あるいは理論とか実践とか、人間のさまざまな営みには、一皮剥けば、そこには実に俗っぽいそれゆえに実に人間っぽいどろどろしたものがうごめいている、と言えるわけだ。そのどろどろにどう向き合うか。どう向き合ったか。その辺のところをどう読み解くか。奥の深い微妙なもんだいがそこにある。)

 

多摩の蒲公英

2006/05/15 Mon.



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2006年05月07日

I cannot be what I am not.

昨夜、テレビで、ジョン・レノンの生涯をつづるドキュメンタリー(映画)、“イマジン ジョン・レノン”(1988年、アメリカ)を観た。またも強烈な衝撃を受けた。ジョン・レノンのように「福音」をこの時代に向けて直裁に語ることができる牧師なり神学者がひとりでもいるか。彼の前に、この時代の教会は、打ちのめされなければならない。教会の再生は、そこからしか始まらない。と、そこまでわたしは思った。

ドキュメンタリーは、世間がなんと言おうと自分は自分だ。「自分じゃない者にはなれない。」(“I cannot be what I am not.”)というレノンのナレーションで始まる。

Be small! Be a person! 小さくていい。人間になれ!ということだろう。イエスの「エゴー エイミィ」(わたしだ。わたしはわたしだ。)をここに見ることができる。

ヨーコとジョン以外は、何も信じない。レノンのリボルーション(世界革命)はそこから始まる。少なくともヨーコのうちに、信じるものがあった。そこに、彼の平安があった。救いがあった。希望があった。メッセージがあった。そういうことではないかな。

 

2006/05/07 Sun.

多摩の蒲公英



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