2017年08月24日



朗読を聞くだけで20分をようする経典であるが、実に素晴らしい節だと感じ入った。
途中、涙が滲みそうになった。

というのは、多分に今のわたしが求めていることこが、この節では語られていたからだろう。
今にも絶望の淵から転げ落ちそうな人の言葉に虚心に耳を傾け、一切の虚飾を振り払った真実の言葉で疑問に答え、質問に答え、まるで悩める人が遠く何千里も歩いて教えを求めて来たように敬っている仏の姿に。

目覚めた人とは、すなわちそのまま遍歴の行者なのだと語られてゆくのが実に美しい。
悟りは究極の目的地であって、道の人――それは覚者である師もまた過程に生きている、死こそ終着点だという意味では覚者と遍歴者はただ単に呼び名の違い――なのだ、と。

でもどこかが違うようにも思える。
だとしたらどこだろうか?
多分こうだろう。迷う人は他人に答えを求める、しかし目覚めた人は自分の内面に答えを求めるのだと。

その僅かな違いこそが遍歴者と覚者の相違なのだろうが、覚者だってやはり迷う。
しかし迷っているあいだに、他人に答えを期待しないのが覚者なのだろう。それをもって「犀の角のようにただ独り歩む」と言うのだろう。
しかしそうであろうとしても、人間というものはどうしても他人に認められたいという心をなかなか捨てきれないものだし、他者という縁なくしては自分の内面すら見れない生きものなわけで。

この「サビヤ」にはそうした人間の捨てがたい悲哀とそれを包み込むような慈悲がみち溢れていると感じた。

仏教では竜を「水」と見て、物事の本質を教える譬喩としているのも美しい。
決して留まることなく淀みなく、倦むことなく瞬間瞬間に流れ去ってゆく水のなかを自由自在に泳ぐ竜。
諸行無常という激流を昇り、やがて時間という概念を超える竜。なんとも美しい譬えではないか。
詩人バイロンは、恋にさえ倦まずたゆまずにいることが「前進」であると詠っていたが、そうなのだ。それこそが水の如くという心だろう。

また戒といっても、決まった期間戒を守れば覚者になれるのではなく、個々人によって期間は変わると説き、そのうえで、あなたがあらゆるものについての答えを自分の内面に見いだそうとするなら、今すぐ戒を授けると説くあたりに、仏教の柔軟さと真理を重んじる姿勢が十二分に表現されていると思う。
他の宗派は四か月、仏教は四年と言い、仏教が底の深いものであると教えつつも、それは結局のところ「あなたの決断しだいです。今すぐ戒を授けることだってできる」と説くあたりも素晴らしい。

疑問を抱き、悩み苦しみ、様々な聖人君子を師と仰ぎ質問すれども、答えどころか、かえって質問したことに嫌悪感を表されても表されても、それでも人間を信じて質問しつづけたサビヤ。涙ぐましい。
そのサビヤの苦悩を知り尽くしていたのか、「よくやってきてくれましたね」と包み込むように迎えて、真摯にサビヤの言葉に耳をそばだてる釈尊の振る舞い。
なんと美しい人間劇であろうか。そりゃあ素直に拝跪したくもなるよね。

無明といえば「疑いや不信」ともいえるが、この節では無明とは結局のところ、自分と他人を過剰に差別して見てしまうことであるとか、名前や事象を正しく見れず、名前や事象に騙されれてしまうことだとも説いているのだろう。

ただそこにあるのは「空――真理・智慧・慈悲」だけ。
世界は有無ではない。
空である。
名前が指し示すものは概念にすぎず、その実態は空なのだ。「ありのまま」としか言えないのだ。それを言葉にしなければ真理と呼び、真理を言葉にする術を智慧といい、その智慧によって世界は空であると教え導こうとする心が慈悲なのであろう。

だって世界が空であると信じられるなら、すべての苦しみは消え去り、もはやこのような生は受けない(煩悩に悩まされない)境地に達するのだから。


生きとしいけるものが幸せでありますように。感謝・合掌。



人生は死への前奏曲(フランツ・リスト)

陰鬱で静かな旋律から楽曲ははじまる。
生命の源が混沌であるかのごとく。
母胎から生まれいずる恐れと喜び、光と闇。
その二極性を誕生の喜びと見るようにトランペットが賛歌を奏でる。
弦がそれを引き継ぎ、まるで子守歌のように賛歌は優しい調べを歌う。
人生は緩やかに流れる。

だがその穏やかさはいつまでも続かない。
弦はしだいに甲高い音を発しはじめる。あたかも悲鳴のようだ。
恐れと喜びは入り混じり、光と闇が射しては消えゆく――。

つぎつぎにあらわれる弦による下降旋律と荒々しい苦悩の音、また苦悩。
トランペットは警告し、ティンパニーは生の大地を揺るがすように轟く。
生とはなんだ? 死とはなんだ?

下降線を描きつづけるその先で、弦が木漏れ日のように穏やかな光をたゆたいだす。
ハープの音色は風なのか水音なのか。
木管の呼びかけあいは鳥や樹々からの木霊のごとし。

世界のすべてに祝福される時、それは生涯の友を得たる調べか。
楽曲のなかで――いな人生のなかで――もっとも温かく明るい旋律が響きわたる。
警句を鳴らしたトランペットもいまは行進曲を彩るよう。
シンバルがあらゆる闇を払いのけ、太鼓も前へ! 前へ! と誘う。

そうだ、生涯の友こそ宝のなかの宝なのだ。喜べ! いざや喜ぶがよい!
老いて皺だらけになった笑顔を見つめあいながら。ありがとう! と。
わたしは一本の木であった。
そしてあなたは風であり水であり、かつまた光だった。
ありがとう!

あなたもまた一本の木だった。
同じ大地に根をおろしながら、決して触れあうことはできなかったが。
わたしは風となり水となり、ときに光になれたことだろう。
ありがとう!

かくして人生は完成する。
人生は死への前奏曲。


カラヤン指揮のこの演奏は、ちょっとテンポが速すぎるかなぁ。
ハープのポロロンとかが良く聞える演奏がわたしは好みです。
この曲は“タメ”があるほうがカッコイイと思うのです。

ipsilon at 06:37コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年08月22日



この節ではいわゆる「五十転伝の功徳」のことを説いているのであろう。
五十転伝の功徳とは、仏教用語辞典などで調べれば、真実の法をAという人に説き、AがBにまた法を説いて、次にまたBがCに法を説いて……というように、五十人目まで法が伝わったとしても、五十人目が聞いたものにも真実の法が残っているということになろう。

しかし残念なことに、わたしが創価で教わったのは表現が違い、そのように五十人目にまで伝わるのだから、法を説く功徳は絶大だという功徳に主眼目的をおいた指導だったことを良く憶えている。

もちろん、いまはそのようには考えない。
つまり、真実の法というのは、五十人目に伝播してさえも、揺るがない普遍性をもっているものだ、ということを功徳というものを方便にして説いたものと考える。

普通に考えて、はじめに言った本質的内容が、そのまま五十人目にまで伝わるはずはないからだ。
だとしたら、正確に言えば、五十人目まで伝播しても、はじめに法を説いた人の慈悲の心は五十人目にも届くと言う意味になろう。
そしてそれはまた、わたしが座右の銘のひとつにしている、トーマス・マンの言葉――
よしんばそれが誤解にもとづいた、いわばプラスとマイナスの符号をとりまちがえたものであっても。そうした意見は愚かしいものではあっても、疑いもなくなにかの真実を表明しています。
――ということであると思う。

ただ、どちらかといえば、五十人目になってもそこにはじめに伝えた人の一念(慈悲)が残っているという意味あいで考えたほうがいいと信じる。
なぜかなら、そう思っていれば、誰にでもそういう意識をもって何かを話そうとする自分になれるからだ。

例えば逆の例――。
怒りに流されて、憤りの心で友人に愚痴を言ったとしよう。
それを聞いた友人がまた別の人に、「ある日、誰々さんに愚痴こぼされてさぁ、えらい気分が悪かったのよ」と話し、それがまた別の人に、それがまたというように、五十人目まで、憤りの心は伝播するわけだ。

もちろん、「五十転伝の功徳」をどう解釈するかは個々人の自由である。
しかし、この節の経典をしっかりと聞いてみれば、結局は供養することに功徳や福運を求めるのではなく、真心(私利私欲や見返りを求めない慈悲心)でもって供養しなければ、意味がないと言っているわけだ。

そして、その私利私欲を求めない心が転伝していくことで、世の中にある欲望による奪いあいや争いが減っていき、そうしたことで結局ははじめに法を説いた人も福運に恵まれ、功徳を受けるということになるのだろう。
それはそうですよね。あの人は私利私欲がなくて信頼できるという心が広がり、またあの人は見返りを求めない真摯な人だという心が広がり、功徳を受けるということですからね。

だからこそ、この節は、ありのままに無心になって真実を語る(法を説く)ことが重要だという意味あいになろう。

「あの件に関しては、自分が言っていることが正しいんだ!」と説けばどうなりますでしょうか?
結局のところ、五十人目まで一貫して、「白が正しく、黒は間違い!」という相対的幸福観を世間に蔓延させることでしかないのです。
いわんや「勝つことが大事!」などと説くなら、世の中はより一層弱肉強食になり、最後には言った本人もその競走に勝つために、なお一層血眼になって他人に勝とうとするしかなくなるわけです。

であるなら、「言葉で語る場合、あの件、この件と部分的にしか話せないものだけど、結局のところ白黒主義で答えを出す事は間違ってると思うよ。白が正解のときもあれば、黒が正解のときもある、それはTPOによるよね」と説けば、それは真実を語った(正しく法を供養した)ことになるだろう。

「よく勝ち負けって言うけどね、それは違うと思うんだよ。勝つ人がいれば、必ずその陰に負ける人がいるんだもん。ということは負ける人がいるからこそ、勝者になれるんでしょ。だったら勝った人は慢心せず、負けた人のお蔭って思えばいいし、負けた人は、負けたことで卑屈にならず、勝った人がいたお蔭で、自分の未熟さに気づけて、向上の機会を得れたって思えばいいものでしょ? つまり、勝ち負けなんてのは方便でさ、お互いがお蔭さまで得るものがありましたと感謝しあえれば、世の中から争いなんて起こらないと思うんだけどね」と言えば、真実を語ったことになるわけです。

そう、そういう語りこそ真の善悪一如なわけですよ。
とわたしは確信してますけどね。

苦楽も同じですよね。
苦も楽も分かちあっているもの。誰かが困苦するのを助けるために少し多めに苦しむこともある。だから苦しくなったら、そんな慈悲心のある自分を褒めてあげればいい。「よく耐えとるやん自分! 偉い!」って。

喜ぶことを多めに与えてもらっていることもある。そんな時は、喜びを分かち合えばそれは無限大にさえなる。
自分のものだけにしていたら、1の喜びは1のまま。
そうやってあらゆる心の均衡をバランスをたもっていこうとするのが仏道だと、わたしは確信している。

余談だが、本節のタイトルのマーガとはサンスクリット語詩人の青年の名前である。
言うまでもなく詩というのは、ものごとの本質を最も純粋に伝える言語表現である。


生きとしいけるものが幸せでありますように。感謝・合掌。

ipsilon at 14:01コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年08月20日



本節は仏教本来の供養の意味について説かれたものだろう。

近現代に成立した宗教的行為における供養形式――仏前や神前に供物を備え、先祖や神仏からの守護を望んだり、功徳を得ようと願うこと――は、本来の仏教からすれば、誤った供養の精神である、と。
そうした供養は所詮は「欲望という執着」でしかないからだ。
よって仏教は、欲望にもとづく儀式や生贄といったものの一切を否定しているということになる。

冒頭で語られる「火の儀式」における供物とは、煩悩の薪を欲望の炎で燃やし、功徳欲しさで料理を備えたのだから、仏陀は、「そういう料理ならいりません」と言っている譬喩はとてもわかりやすい。

では、一体なににどのように供養することが正しい供養なのか?
仏陀は答える。
「三句二十四文字」に供養せよ、と。

この「三句二十四文字」は、もともとはバラモン教のヴェーダ聖典にある句であるそうだが、ここではバラモン僧のバーラドヴァージャに説明するということでヴェーダにある句を思い出させ、それを方便として、仏教における「三句二十四文字」を供養せよと説いたのである。

では、仏教でいうところの「三句二十四文字」とはなにか?
「三宝」である。仏・法・僧である。
仏・法・僧とは平易にいえば、真実の教えを悟り、真実の教えを言葉にし、真実の言葉を人々と語り合う人間、ということになる。

よって、三宝を敬うとは、より具体的には目覚めた人・仏陀その人を敬うということになる。
しかし、これであると、仏陀だけしか敬う対象にならない。そこで、それはどうなの? 平等を説いている仏教なら、すべての人を敬うべきではないか? なぜかならあらゆる人には目覚めた人になる種、すなわち仏種を内に秘めているのだから、という解釈をしたのが、大乗仏教である。

このように、本来の仏教における供養とは、生きているあらゆる人間を敬うことであるわけだ。

しかし、近現代の供養の形式を捨てきれない――かくいうわたしも未だそういうところがある心持ち――でいると、何かこう、神前仏前、あるいは仏壇やそこに安置されている本尊にものを供養し、あるいは自分が所属する教団に寄付や寄贈をすることを考えがちなのだろうが、実はこういう「心」がすでにある種まちがいなのだということになろう。

そもそもそういった形で、功徳や何らかの見返りを期待することは、本来の仏教にある供養の精神とは違うからだ。
つまり供養の精神において何よりも大切なのは、生きた人間に奉仕する、より具体的に言えば、言葉や行為をとおして、互いの人格を陶冶していくことにあるという部分を見失うべきではない、ということになろう。

無論、人と人が集まり、三人以上になったものを僧と呼び、また社会ともいうのだから、社会にあって互いに人格を陶冶していくことこそ、本当の意味での供養ということになるわけだ。

例え一億円の供養を教団にしたところで、それが社会に生きる人びとの人格向上に繋がるものに使われていなければ、何の益もないということだ。
そしてまた、自分が供養した物や金銭に見合った見返り(功徳)を望むような欲や執着が捨て切れていないなら、供養などかえってやらないほうがいいということだ。

しかしこの正しい供養の精神というのは、なかなかに理解するのが困難なようで、とくに政治の世界では、この見返りを求めない供養の精神を実践するのが甚だ困難なようで、それゆえに政(まつりごと)を生業とする人こそ、しかと肝に銘じるべきであると、わざわざ聖徳太子は十七条憲法の第二条で「三宝を敬え」と記したのだとか。

ちなみに、第一条は、誰もが目覚めた人のように真実を悟り、真実を語り、真実を語れる人を持てるわけではないだろうが、そういう環境・境遇であっても卑屈にならずまた高慢にならず、和をもって人に接していきなさい、つまりはあらゆる人の内にある仏性を敬っていけと書いているわけです。

供養とは、尽きるところ、人間への奉仕といって過言はないだろう。

無論、草木という非情(人間でいう死の状態=人体でいうところの爪や髪といった痛みを感じない有機物)にも仏性はあるのだから、曼荼羅本尊や木絵二像や亡くなった先祖などに供養することを否定しているわけではないが、結局のところそういう供養も、有情であるわれわれの「行為」があって成立するものであり、その根底ではわれわれの心のありかたが問われているということになろう。
そしてまた死んだ人への供養をいつまでも続ける人の心の奥底には、故人は未だ成仏していないという不信があるから、そういう行為を辞められないと考えれば、生きた人間への奉仕こそとわたしが述べた意味は理解できるのではないだろうか。

仏壇を荘厳にして、沢山の供物を具えることを否定はしないが、極端なことを言えば、わたしなどは、そういう余裕があるなら、今にも飢餓で死にそうな人に布施してあげるほうがよほど良いのではないかと思うのだ。

余談というより、批判ではあるが、赤誠のご供養で云々とか、会員の浄財だとか言いだすなら、はじめから供養なんかしないほうがいいんじゃないのと、わたしなどは思うのだ。
欲に執着し、また供養したものが自分の思ったとおりに使われていないと憤ることなど、所詮は恨み言であるし、瞋恚に過ぎないと見えるからだ。

もちろん、自分自身の今とこの先が、不安だったり恐怖するほど経済的に貧しいと感じているのに、他人に寄付したりする偽善的行為にも、以前と変わらずわたしは否定的な見解のままだ。

少なくとも自分の命を保っていなければ、寄付すらできなくなるわけで。
否、自分を粗末にするということは、自分の言動や行為をもって相互に人格向上していくことさえ出来なくなるわけで。

ipsilon at 13:17コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年08月19日



「みごとに説かれた言葉」は四つの特徴を持つという。

1)法句
ズバリいえば実智のことであろう。個人が内面で己が心を直観したときにみる言語化できない句とでも言えばいいだろうか。
具体的にいえば、みたものをありのままに表現した句ともいえよう。
であるからして、句はすなわち「名前」といっていいだろう。
なぜそうなるのかがまったく理解できないかたは、カント哲学、実存主義、ハイデガーやヴィトゲンシュタインの言語論を学べば多分、理解できるはずですがね。

2)理法
権智に基づいて語られる、方便の言葉であろう。
「名前」だけでは対話や会話、あるいは説法というものはできない。だから、「名前」と「名前」のあいだにある関係性を語ることといっていいだろう。

「草」「土」「水」「綺麗」「花」。このように法句だけでは現象というものを説明できない。
草を土に埋め、水をあげると草は綺麗な花を咲かせますよねと言えば、現象を説明できるわけである。
むろん、正しい関係性に見合った言葉を使うことでそれが「道理」となるわけだし、こうしたことから、あらゆる存在は相互に関係しあっている縁起の法則で成り立っているということを気づかせていくのが仏法なわけだ。

残念なことに、言葉とは本来そういうものであるべきなのに、自己の欲望に支配され、道理に叶っていない言葉づかいが多用されているのが人間社会なのでしょうね。

3)耳と口に好ましい言葉。
聞いた側も、また云った側も不愉快にならない言動。
好ましいの反対は好ましくない=嫌いであり、仏教用語でいえば「瞋」である。
瞋とは瞋恚であり、簡単にいえば怒りである。
つまり、自分も相手も怒りが湧くような言葉を使わない。またそうした会話をしないということだ。

正義とか極善とかいって、他人の悪口を言いまくっているようなブログをされている人がいる。残念なことだ。
仏教を正しく理解されていないのだろう。残念だ。
瞋恚はそのまま般若、つまり智慧に変えることができるのだから。

4)真実の言葉
(永遠)普遍性のあること=真実を語れということ。
対して語ってはいけない虚妄とはようするに相対的な事実、立場によって善悪や正邪が入れかわるような事象のことである。

善悪一如という語句を正しく理解していれば、善悪一如とは真実を語ることであり、善悪二元論を盾に相手を罵倒し悪口するようなものでないことは理解できるはずだ。

Aの言動が正しくBの言動は正しくないなどと述べることはいわば虚妄を語っているのだ。
真実を語れば、Aの言動も、Bの言動も正しいかどうかは誰にも断定できない。したがってA、Bそれぞれが自分の信念に基づいて生きていけばいいのである。
例えばAが極悪犯罪者であっても、それはそれで仕方がないのだ。犯罪をし続け、逮捕され収監され懲役や禁固刑に処されようと、A自身が「俺が間違っていた」と自覚するまではどうにもしようがないのが真実なのだ。
しかし人間の心にはどんな極悪人にも善性というものがあるのだから、いつか必ずAは改心できると信じていくのが正しい仏法の実践であるわけだ。

つまり、善悪二元論を盾に相手を罵倒し悪口するようなことは、相手の善性(仏性)を信じていないということである。
仏性を信じていないのに仏教徒であると言い張るのなら、それもまた虚妄であるわけだ。
自分で自分に嘘をつき、自分で自分を騙しているわけだ。

ipsilon at 14:33コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年08月17日

――これだ

まあ、そうなりますよね。
ここ数日、わたしだって記事を更新したくなくなりましたからね。

いや、今ここで言うことをやめてしまったら、権力の思う壺じゃないかとも言えるが、では権力やそれにおもねる勢力を批判をしていればいいかといえば、それもまた無意味であることを知っているからだ。
批判は批判でしかないからだ。批判は批判をよび、また悪感情を呼び、悪と憎悪の連鎖を強めるだけだからだ。
起こったことを見聞して結果論であれこれ批判することなど、小学生にだってできることだからだ。
大事なのは、例えそれが批判であっても、なにが「原因でそうなったのか?」という問いかけを発信することなわけだ。

しかしそうなると、言えることはたった一つなんだな。
「一人一人が自分のあまたで考えるしかない」。
まずは無智から抜け出すために「知って欲しい、学んで欲しい」と。


終戦記念日を前にして、いくつかの映像作品を見た。

『FURY』。
血生臭い相変わらずのアメリカ万歳、ナチスは糞的な惨殺シーン盛りだくさんのロクデモナイ映画だった。戦車オタク。とくにM4シャーマンオタにはたまらない作品という他、ただただ血生臭いというだけの作品。
けれども、戦闘がひと段落して、ドイツ人従姉妹の家で戦車兵たちが食事をとるシーンだけは良かった。
食事といえば一家団欒である。そのあたりまえのように見える一家団欒すらまともに出来なくなる精神状態になるのが戦争の狂気である、と描かれていたからだ。
まあ、M4戦車オタ以外、観てもさして得のない映画だが、このシーンだけは良かったですよ。

『ラスト・アタック』。
沖縄県、伊平屋(いへや)島で実際にあったことをベースとしたNHK制作のドキュメンタリー。
この作品は良かったですよ。人間らしく生きるとは? ということを問いかけていましたからね。
ただこの作品の背景を見れば、伊平屋島はそういうことを思索できる、比較的平穏な環境であったことはわかるだろう。
『FURY』のように、常に激怒(FURY)が錯綜する戦場や、ニュースが毎日のようになだれ込んでくる都市生活にあってそれが出来るのか? を対比して見てみると、戦争の狂気というものがどういうものかは理解できるのではないだろうか。

作中、主人公が心中で語る言葉が重かった。
「沈黙して生きると決めた」とか、「これからは、自分も他人も憎まずに生きることだけを考えよう」と。
そう、結局のところ、自分の頭で考えて辿りつく答えとは、まさにこのことだとわたしなどは確信しているのですがね。
沈黙しても、行動で示せばそれは沈黙ではないわけで。

ドキュメンタリーとはいっても、終戦後に特攻した宇垣纏の戦隊によって米側に死傷者が出たというのは、事実とは異なるようですがね。とはいえ現在に至ってしまえば、「のようだ」としか言えないわけで。米側記録と日本側記録というのは、そういう部分からして、どちらが事実なのかさえ知りえないのが戦争というものの正体なわけだ。無論、こんなことはまともな戦記本を一冊でも読めばすぐに気がつけることです。一体何人が戦って、一体何人が死んだかさえわからないのが戦争である、と。個人の尊重であるとか人権なんてものはこれぽっちも顧みられないのが戦争であるわけだ。バラバラの肉片になってそれが誰であるかさえもわからなくなるのが戦争なわけだ。大体これで一人分の肉片だ。そういう惨たらしいものが戦争なわけだ。そんな状況のあと戦後の補償とか言ってもどうにかなるわけではない。それが戦争でしょ。『FURY』では、そういう演出で戦争のなんたるかを描いてもいましたけどね。ブルドーザーで死体を埋めたり、死体の上を戦車が走っていったりとかね。誰だってそんなシーン見たくないでしょうよ。わたしだってそうですよ。でも見なきゃ戦争の恐ろしさなんて感じられないんですよ。それが例え作りものでもね。映像にはそういう力があるんです。

ともあれ、そういう視点でものを見れない限り、従軍慰安婦は「あった・なかった」などという議論をしていても、何も解決しないことはすぐにわかるわけで。だからこそ、その奥に潜むものが何かを、一人一人が考えていくしかないわけです。

『ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ』。
これもNHKのドキュメンタリーだ。
見てもらう以外にないだろう。
いかなる争いであろうと議論であろうと、それを起こす原因は「われわれの中にある」のだから。
そのことを一人一人が見つめない限り、争いや悲劇は繰り返されるのでしょう。

一人一人が作りだしているものは塵のようなものだが、その塵のような「空気」が巨大になり、結果、悲しむべき歴史を繰り返してきたことを一人一人が自覚することでしか、この地上から戦争の惨禍が止むことはないのでしょう。


デズモンド・T・ドス――映画『良心的兵役拒否者

ipsilon at 17:11コメント(0) 
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