2017年05月27日

昨夜からまた『法華義疏』を読みなおしはじめた。
途中で投げ出しては挑戦し、今度が三度目。なぜそうなるかというと、疑問が解消しないからだ。

序品、最大の疑問を呈したのは以下だ。

かつて日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」を説かれたときには、たくさんの衆生が集まり、仏が三昧(禅定)に入られたとき、二人の菩薩がやりとり(質疑応答)をした。

また、日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」が説かれた時もそういうことがあった。
またまた、日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」が説かれたもそういうことがあった。
つまり、日月燈明仏は何度も現れては法を説いていた。
これは釈尊以前にもブッダと呼ばれる覚者はいたということを言っているんでしょ。

そして今、釈迦如来(仏)が、「妙法蓮華経」が説かれるであろう以前に、最後に日月燈明仏が、「妙法蓮華経」を説いたときも同じことが起っている、と。そのときに質疑応答したのは、妙光菩薩と求名菩薩である、と。

法華経は、ここまではっきりした文証をすでに序品で提示しているわけだ。

仏は何度も説法している。その法はすべて名前をつけるなら「妙法蓮華経」である、と。
冒頭、仏が三昧にはいっているときに弟子の菩薩の代表、二人が質疑応答するのも同じ、四種の花が天から降るのも同じ、大地が六種に振動するのも同じ。仏が額から白毫を放つもの同じ。
白毫が一筋なのは、四種の花も六種の振動も(十界は)、一乗妙法に含まれているという意味でしょ。
つまり一念三千だと。

そして、最後に日月燈明仏が法を説いたときに、はじめて「妙法蓮華経」という名が提示されているわけだ。
それまでは「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くる法」という義は同じだが、名前がどうだったかはわからないというのが法華経の本文にきちんとある。

つまりこれは、釈尊が説く前にすでに「妙法蓮華経」という法はあったということを述べているわけだ。
だから、日蓮がそれを説いたんだから、日蓮が本仏なんじゃないか!! というんでしょ。
それはあまりにも忖度のしすぎです。

あくまでも日月燈明仏は日月燈明仏であって、日蓮が本仏であったなどと証明できるものは、何一つない。
仏はあくまでも唯一であり、何度も(常住して)法を説いてはいるが、同じ人と見るのが正しい解釈だろう。
ゆえに、本仏論でいえば、釈尊以外に本仏はいないということだ。
もちろん人間=仏ではなく、仏とはあくまでも智慧であって、いわば釈尊はその智慧を心身両面にわたって体得した人間、そう――人間であるというのが法華経にはきちんと書かれている。
人間を人間以上と見たり、人間を人間以下と見る思想は、そもそも法華経にはないのだ。
だから人間・日蓮。こう見ていくのが筋なんです。

法華経すらきちんと読まず、他の人師(日有や日寛)が言ったこと(そもそもそれは日蓮正宗の教義)を信じて、正当な仏法だとか宣うのは謗法だ。
日蓮の御書といっても、より正しく法華経を釈するためにあるのであって、その法華経すら学ばず、御書だけ学んでいればいいというのはおかしいのだ。
まあ、日蓮を本仏と信じているのだから、彼らにとっては御書こそ法華経より上位に位置するということになるのだろうがね。
でもそれでは、単なる日蓮信仰であって、仏法でも何でもなくなるわけだ。

いやそもそも、日蓮本人は自分を仏に位置させてなどいない。そんなことは曼陀羅を見れば一目瞭然である。
主題の五時は妙法蓮華経なのだから。でもその下に日蓮て書いてあるじゃんというのでしょう。書いてないのもある。あるいは、端に日蓮と書かれた曼陀羅もあるのだ。それに、署名と花押はそもそも日蓮が本仏であることをあらわすものでも何でもない。
曼陀羅にはきちんと方角があるのであって、それを鑑みれば、主題の下にならざるを得ないということなのだ。
もっとも方角とか上下とか天とか大地とか述べているのは妙法が深く広い、つまり広大無辺ということを讃嘆する比喩でしょう。


何にしても、釈尊が法華経を説法する前に日月燈明仏が説法した場面は謎に満ちている。
質疑応答したのが、妙光菩薩であり、求名菩薩であるのがまず面白い。
そもそも、これも比喩であり、一人の人間の内面を擬人化したものと見れば、同一人物であり、一人の人間の自問自答と見れるだろう。

遍くすべてを照らすから妙光菩薩。いい名前ですね。妙という字には絶という意味もあるそうだ。普通のものと比較できないくらい素晴らしいといった意味だ。壮絶とか絶対とかいった語句を考えてみればそれはわかる。
だから絶妙などという語はトートーロジー(同じ意味の語を並べて、意味をわざと強める論法)といっていいだろう。

そして求名菩薩。
名前をつけなければ、それは認識したことにもならないし、実在するともいえない。
よって求名菩薩という名は、仏が説いた法の名前はなんだ!? ということを徹底的に追及する菩薩といっていいだろう。
そう、日蓮はまさにこの立場にあったと見ればいいだろう。だから日蓮の立ち位置は菩薩なのだ。

まあ、日蓮が説いたところの法(曼陀羅)を拝すという立場に自分をおけば、日蓮=仏となるのも理解はしていいる。
ようは関係性によってものごとは入れかわるのであって、固定した形で見ることは間違いだということだ。
そもそも、妙法蓮華経はそういうこと(空=縁起=一念三千)を説いているのだから、日蓮が本仏であると固定したり断定するのはおかしいと言っているのだ。
いってる意味わかりますか? ようするに常にTPOに見合った見方をするのが大事だということです。

そりゃあさ、わたしらの立場から見たら、日蓮は仏に見えるでしょう。
しかし、日蓮本人の立場にたってみなさいよ。それはおかしいとわかりますから。
つまり、相手の立場にたてないで、自分の立場でしかものを見ようとしないのが狂信・妄信創価会員の致命的なところなんだな。

ま、それはともかく、序品最大の謎ってのはこうした部分ではない。

日月燈明仏の法の説きかたと、釈尊の法の説きかたが違うのだが、そのことを序品では説明していないというところなのだ。

日月燈明仏→補処ふしょの徳蔵菩薩に法を説かず、妙光に対して法を説いて授記し、仏自身は涅槃に入る。
また日月燈明仏は→まず法を説き、入滅し、その後に徳蔵に授記している。
釈尊→文殊に法を説かず、捕処の弥勒(と舎利弗)に対して法を説き、授記は薬王菩薩に授ける。
また釈尊は→まず弥勒に授記し、その後に法を説いて入滅している。

【捕処】仏教用語。元来は一生だけこの迷いの世につながれたものの意。一生所繋 (いっしょうしょけ)ともいう。菩薩の最高の地位で、その一生の間のみこの世につながれ、次の生に仏陀となりうる地位(コトバンクより転載引用)。

瑞相も、説く法も、説く仏も、説かれる菩薩も同じ形式であるのに、なぜ法を説く順番が違うのか?
これが序品の謎である。

そして『法華義疏』で聖徳太子はこの疑問を釈していない。
理由はあるんだろうね。だけどわからない。わからないけど間違いなく理由はある。そう見ている。
いや、聖徳太子はわかってたでしょ。でもそれを言いだす時じゃないとわかってたから。あえて、「理由はわからないけど、理由はあるんだろうね」などと涼しい顔をしていたのだろう。

そう、まさにここに法華経が滅後の衆生のために説かれたものであることがはっきりしているのだ。
法を説く順番は、すなわち正法・像法・末法での違いなわけだ。
ゆえに、日蓮は薬王菩薩とは天台と伝教であると見ているわけだ。

正法→身近な人に説かず、遠い人に説いている。法を説きそれを聞き、仏が入滅しても衆生は得道できた。
像法→身近な人に法を説き、遠い人には説かない(謗法を働くものにはあえて説かない)。まず法を持ちつづけることを誓願させ、そのあと法を説いて、仏は入滅する。

そして末法→上記ふたつの順番をさらに入れ替えればよい。言葉にしないで(無記で)きちんと法華経は残しているのだから、すでに法華経が末法のための法であることなど、序品を注意深く読めばわかるのだ。

したがって、末法は、
身近な人にも遠い人にも説かない(衆生すべての命が濁悪なのだ、説くと謗法を犯すから)。自分で修行して自分で法を見いだそうという人のみが仏の道に入れる。得道できたなら、授記し入滅する。
さあこういうことをしたのは誰か? 日蓮でしょ。
でもって日蓮が師事したのは何ですか? 釈尊と一体不二の法華経でしょうが。
だから日蓮本仏論はおかしいんです。

どこからともなく(大地から)地涌の菩薩が現れるというのはそういう意味でしょ。
序品で大地が六種に振動する。これは六道輪廻からの脱却の兆しのことでしょ。地涌の菩薩が大地を割って現れるというのは、そういうふうに衆生が自発的に自身の中に法を見出していくしかないのが末法だよということ。
そのために鏡があったほうがいいし、所詮原典は法華経だよということと、もはや誰にも法を説いてもらえないよ、自分で探すしかない。だったら仏の智慧を授けてください! 自分で覚りますから! と誓うのが今の時代の修行だよと気づかせるために日蓮は曼陀羅を残したんですよ。ゆえに曼荼羅は虚空会での誓願の場面になってるんでしょ。だから曼荼羅は宇宙の法則をあらわしているのでもなく、生命論を網羅してるわけでもないんですよ。
そりゃね、すべては空だと説いているんだから、生命も宇宙も説き、網羅していると見ることも出来るが、それはおまけみたいなものでしょ。

祈れば何でも願い事を叶えてくれる、ありがたい曼陀羅じゃあないんですよ。
例えそういえても、それはおまけみたいなものなんですよ。
人間というのは、キャラメルだけあっても欲さない、でも、おまけがあれば買っちゃうものでしょ。
だから祈りが叶うとかどうとかは二の次のことなの。方便なんですよ。

だから日蓮は自分を仏だなどと見ていない。地涌の菩薩の上首上行だと自覚したんでしょ。
それが本仏だとか、ただの神格化なんだよ。

なんで天から四種の花が降って来たの?
これは声聞、縁覚、菩薩、仏。
瑞相はそのまま十界になってるんですよ。

ま、自分で法華経を読んで、考えるしかないんです。

こういう優れたサイトもあるんです。
自分で学びもしないで、習ったことをそんまま信じてればいいというのは楽ですけどね。


如是我聞。一時。仏住。王舎城。耆闍崛山中。

このたった一行からも、多大なことが読みとれるんですよ。

聞いたということは、話した人がいる。つまり関係性がないと何も語れないと言ってるの。
そしてそれが現実であるなら、どこで誰がというのが必須。つまりTPOを無視したものはおかしな言論であるとも言ってるの。だから文切り指導とかは駄目なんだ。ちゃんと相手の状況を弁えろと言ってるの。

だから、王舎城。耆闍崛山中とちゃんと書かれているんですよ。
しかし、それ以外の余計なことは書いていない。書いてはいないけど、暗示してるんです。

如是我聞=仏が説いた。仏が説いたものをそのまま聞いた者がいる。

このように、法華経を読むというのは、もうそれだけで大変なんですけどね。
ゆえに、たくさんの釈が書物になっているわけだ。
でもその釈には間違いがあるのが普通。
だったら、自分はどう感じるのか? という視点をもってなるべく原文に近いものを読む以外、正しい仏道には入れないでしょ。

こんな当たりまえのことさえ出来ないのが末法の衆生でしょうけどね。


あ、それからね、法華経の本文にはこうありましたよ。
精進=思惟とね。


【思惟(しい/しゆい】
一般:物事の根本、、を心で深く考えること。
仏教:考えること。対象を分別すること。また、浄土の荘厳を明らかに見ること。
分別は分けて見るという意味ではありません。すべてのものを明らかに見るという意味です。
こういう小さなことさえきちんと考えず、歪曲されて教えられたことを鵜呑みして信じて、池田氏の指導――法のため、人のため、真剣に悩み、祈り、勇敢に戦い続ける人こそ、勇猛精進――に忠実であろうとするのが狂信・妄信。

まず考える。そこが抜けてるんだな。
まあ、狂信・妄信会員を見ていればそれはよくわかる。自分で考えてませんからね。
言われたとおりやればいいという思考停止をして、精進してるつもりになってるんでしょうね。
もっとも池田氏も、文章の中で言外に「よく考えなさい」と示唆しているのだろうが、そういう深い部分を読もうとしないのが妄信・狂信ってことなんでしょうね。

悩めばいいの……え? それは違わない? 先生が本当に伝えたいことはそうじゃないんじゃない?
そうやって反証思考すれば、示唆しているとも言えるわけだ。

少なくとも、戸田はちゃんと指導してたのにね。池田氏よりわかりやすい言葉でね。
青年よ、心に読書と思索の暇を作れ――と。
残念なことです。

「悩む」のと「考える」のは全然違いますよ。
悩むということは思い煩い苦痛にあえぎ、同じところをぐるぐる回っているということ。
考えるというのは、問題を解決するための方法を自問自答するという意味。
池田氏は真剣に悩めっていってるんだな。
わたしはそういうのは嫌なんです。
だから自分の頭で考えるしかないと、百回以上は言ってきたんですよ。

ipsilon at 12:33コメント(0)『法華義疏』 

2017年05月26日

このことは非常に非常に大切なことなので、一応記しておきます。

いまだ日蓮絶対主義を信奉している人々は多いようだが、それは間違いであり、日蓮の真意に違背する大謗法であるからだ。
かくいうわたしも創価学会に騙されて、日蓮本仏論を信じたり、曼荼羅が生命や宇宙の実相を説き明かしたものだと信じていた時期もあった。

しかし、自死を選ぶほどのどん底を経験し、自分の頭で考えるようになって、ようやくのこと正しい解釈ができつつあるようになってきたのだから、偉そうなことはいえない。
だが、自分が正しい解釈に至ったならそれでいいとはいえない。
もしもそう思うなら、それは二乗信仰であり、いわゆる自分だけ成仏できればいいという小乗の思想になってしまうからだ。
それゆえに誹謗中傷されることも恐れず、自身の解釈や信念をこれまで数年にわたってここに記してきたのだ。

まあいい。前置きはこのくらいでいいだろう。

きちんと学ぼうと思えば、今の時代、ネットからでもいくらでも学べる。
しかしそうしたことさえしないで自論に執着している場合が多いのである。
もっとも、わたしの場合、多くは書物から学び、読んだ内容を真剣に思索することだったのですがね。

おおよそ今のところ、相当に精査し自分の頭で考え、きちんと仏法、なかんずく法華経をきちんと解釈している人といえば、このお二方になるだろう。

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
仏教と批判的合理主義

それ以外でも、この方なんかもきちんと物事を見ているだろう。

まあ、興味が湧いたら読んでみてください。
狂信・妄信会員は生理的に受けつけられないかもしれませんけどね。

しかし、批判に耐えうることをきちんと言葉にされていることは事実だ。
文証・理証もしっかり提示していたりもする。

他にもこういったサイトもある。
紹介したページはトップページではないですがね。
表紙を見れば、このサイトが日蓮宗であることはおわかりだろう。
ここには昭和40年代にすでに日蓮本仏論はおかしいよと言っていた人がいたことも掲載されている。
こうした観点から見ると、創価というのは、宮田氏の論文で、ようやくその入口が見えてきた程度というお粗末さなわけです。
だからといって宮田論文をすべて肯定しているわけではありませんよ。

きちんと、自分の頭で考え(一時的にせよ)判断する。何度も書いてきたことだが、これ以上に大事なことはないということ。

そもそも、真理を探究するにあたって、選り好みをしている場合ではないのだ。
創価だから創価の理屈しか信じない。そのように万般から検証しようともしないでいれば、当然、妄信に陥ることなど、自明の理である。
宗派を問わずに学んでいかなければ、真理の探究など不可能だからだ。
また、宗派を問わずに学ぶことと、自身の信仰を築くことは別問題であるということを理解していれば、いかなるものからも学ぼうという貪欲さは、必然となるものだろう。

世の中には、とにかく批判はいけない! とか言う人がいる。
わたしからしたら、どういう思考でそうなるのか、全く理解ができない。

しかし想像するに、そういった方は、批判という言葉のもっている意味を勘違いして思い込んでいるのだろう。
簡単にいえば、批判的思考というものがいかなる意味をなすものかさえ理解していないのだろう。
つまり、批判=否定・非難・中傷というイメージを頑なに自分の中に持ち続けているということだ。

わたしなども、批判という言葉に、過去そういうイメージがあったことは認める。だから、あんまり批判という言葉は好きではなかった。
しかし、今のわたしが批判という言葉でイメージするのは「弁証法」なのだ。

こうなると弁証法とは何かを説明しないといけなくなるが、面倒くさいのである。
ずっとらせん階段を登っていくということです。そして現段階で辿りついている適正と思える解が階段の踊り場というイメージである。

だから議論をするなら、当事者双方が、それまで執着していた一時的な解よりも高い解に辿りつくということがないなら、議論する意味はないと思っている。議論に勝つとか負けるとか、どうでもいいんです。
お互いの中で「動執生疑」が起こり、お互いがより高い次元に進むためにするのが議論だと見ているということです。


では狂信・妄信しているのはどう言いあらわせるか?
永遠に続く円形通路を歩いているようなものだ。そしてそれを繰り返しているうちに、周囲に高い高い壁を自分自身で築き、円形通路から出れないようになることだ。虚しい空転であるし、みじめな孤立である。
わたしも、そんな小説を書きました。けどこの小説の場合、そうなると普通の人間は自問自答するしかないということを提示しているわけで、必ずしも空転し孤立するわけではないと訴えているんですがね。
もっとも、そのためには物であれ、人であれ、自分以外の何かに縁する必要が絶対的に必要だと暗示しているんですがね。

まあ、そういうことをきちんと気づいていれば、批判するにも批判の対象が必要だし、何のことはない会話をするにしても、会話のネタになる対象(縁)が絶対的に必要であり、その縁があることは「ありがたい!」という感覚が自然に湧くもののはずですがね。

難しい言葉でいえば、「意味するもの」と「意味されるもの」という関係性がなければ、何一つ表現できないということです。
仏法ではこれを「能生」「所生」という語句で表記しているんですね。
自他も同じ。自分というものを表現するためには、自分以外の存在が必要だということです。
自分=意味されるもの。他者=意味するものという関係です。
だから、他者があってはじめて自分というものを定義でき、存在(実在)を認識できるということになる。

正報をば依報をもって此れをつくる(瑞相御書)


ゆえに自他不二であり、自他に境はないということですよね。


まあ、こうした世界のなりたちの基本中の基本というか基礎基盤すら理解せずに、「自分さえよければそれでいい」が蔓延していることが、この世界を濁悪にしている根本的原因だということですよ。

ともあれ、カントの書名にある「批判」という言葉は、「どこまで探求できるのか?」という意味だ。

『純粋理性批判』=理性は純粋に見て、どこまでものごとを認識できるのかを徹底的に考えた。
そういう意味。
『実践理性批判』=理性を働かせて、実際にはどこまで認識したものを実践できるのかを徹底的に考えた。
そういう意味でしょ。

なににしても、自分の頭で考えることです。自分の心で感じることです。
これしかありません。


あそうそう、このさいはっきりいいます。
池田氏絶対主義とか創価絶対主義ほど恐ろしいものはありませんよ。

そもそもその池田氏自身「青は藍より出でて藍よりも青し」を薦めているのであるから、池田氏という師を乗りこえてこそ本物の弟子なのです。氏の誤りは誤りと見抜き、正しいことは正しいと選びとっていくのが本物の弟子です。
池田氏の思想にただ忠実であることが本物の弟子ではないのです。
これは源流がどこにあるかを見極めるということです。
池田氏だけでなく、あらゆる人師の論を精査していくべきだということです。
依法不依人には、仏その人自身は含まれない。確かにそれは正しい解釈でしょう。しかしその仏というのは、日蓮の立場からすれば、釈尊の己心(平等大慧)なわけですな。
日蓮はあくまでも私事を極力持ち込もうとしなかった人師と見るのが正しい見方です。釈尊の己心を過たずその身で実践する上行菩薩であるというのが、正しいものの見方です。

日蓮の観心した釈尊の己心は仏ですが、それを言葉で過たずに伝えきっているかといえば、それは無理なのです。言語道断。仏法とはそういうものだからです。

もちろん、日蓮も出藍の誉れであれと言っている。
師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり(曾谷殿御返事)

乱暴ないいかたをすれば、
――自由だ! 選ぶのはあなただ!

ということですよね。 
その自由を委縮させるから、共謀罪は駄目だと言ってるんです。

ipsilon at 20:43コメント(0) 

2017年05月25日

ずっと読まなければと読みたいというあいだの願望を抱えていた一冊の頁をくりはじめた。
すっと心に湧きあがってくるものがあった。
ただただ涙したりした。

啄木の人生っていったいなんだったのだろう?
これはどう贔屓目に見たって、不幸な人生にしかみえない。
しかし、しかしだ、その不幸があって、どん底を生きた彼がいたからこそ、今わたしたちは彼の歌をこうして味わえるわけだ。

今でも脳裏に焼き付いて離れない映像がある。
紛争の犠牲となって、頭を半分吹き飛ばされたり、首がちぎれかかったまま生きている少女の映像だ。
どうしてこうなんだ。どうしてこういう不幸があたりまえに行なわれている。
怒りと悲しみ……。

でも、啄木の詩集を読むうちにそうした少女たちに底知れぬ感謝の気持ちが湧きあがってきた。
そうだ、そうじゃないか、啄木にしろ暴力の犠牲になった少女にしろ、そういう人たちがいるからこそ、そういう姿を見せてくれるからこそ、わたしたちは戦争や暴力が残酷の極みであると知れるのだと。

不幸に生きたから不幸ではない。不幸に見える死に方をしたから不幸なのではない。
例え不幸な一生に見えても、その人はその人にしか果たせない尊い使命を果たして逝っているのだ。
わたしが見た映像の少女にとってはあまりにも過酷なことではあるが……。

わたしが最もこうしたことを実感したのは、母の死である。
なんで信心していて癌になんてなったんだ。どうしてあんなに祈ったのに治らなかったんだ!?
頭では成仏したと考えていても、心は納得していなかった。
だから、唱題の中で何度も何度も、それこそ何度も考えた。
そしてある日ある瞬間、ああ、あれで良かったのだと覚ったのだ。
わが母は。全身全霊をつかって我が命をつかって、自分の使命を果たして逝ったんだと、心底納得できたのだ。
その日から、わたしは母の成仏を疑ったことは一度もない。

ネット上で、わたしが抱いた悩みに似た心境を、四半世紀以上に渡って抱えている人を見出したこともある。
その人は、あんな死に方をしたことがどうしても納得できないと苦悩の言葉をこぼしていた。
そうじゃないよ。そういう見方をしなければいいんだよと、渾身の心をこめて教えてあげたかった。
でもね、無理なんですよ。
本人がそういう境地に辿りつく以外、そうした悲しみを他人が癒せることは絶対にありえないのだから。

ともあれ、多分、紛争の犠牲となったあの子の顔は一生涯にわたって忘れないだろう。
できれば今もこれからも、そうした犠牲を見ないですむ世界になって欲しい。
歴史を学べばそんなものはいくらでも転がっているのだから。今からさきそんなことを繰り返し続けるのは智恵のない生きものすることなのだから。

しかし人間はある種、遠い国での出来事に無関心であり無頓着なのだ。
だから今も宇宙はわれわれにこんな悲惨なこともあるんだよということをわれわれの眼前に置くことでしか、われわれの意識を変えることができないのだろう。

飛躍した思想だ?
そう思うなら思うがよい。

しかし、啄木がいたから、貧乏というものの辛さを自分は体験しなくても知れるのは確かだ。
人間にとって自尊心というものが、いかに大きな意味をもっているかも垣間見せてもらえるのだ。

だから、いかなる存在であろうと、他者はありがたいのである。だからどんな人間であっても敵視することは愚かなことなのだ。
けれども、ちょっとした感情の爆発で、人はそういうことを忘れ去り、怒りに呑み込まれる。


厖大な数の歌である。
付箋や引用は無意味だろう。
それぞれが感じたものを大事にする読み方をすればいいだろう。

もっとも有名なのは――

はたらけどはたらけど
猶わが生活くらし楽にならざり
ぢっと手を見る


――ですかね。


そして、これだろう。

頬につたふなみだのごはず
一握の砂を
しめしし人を忘れず


砂とは啄木自身のことであって、啄木が生きたかった詩人・歌人としての人生を指すだそうだ。
泣いても嘆いてもどうにもならない。
しかしその砂になろうと決めた(しめしし人)は自分なのである、と。

砂は掴んだと思えば指のあいだから流れ落ちてしまう。
人生とはそういうものである。
しかしそうであっても自分の志に生きようとする人間は、いかにも美しい。


もちろん啄木は、こうした自己愛ばかりを歌っているのではない。
誰もがふとした瞬間思う心を包み隠さずに歌っている。
そういえばさ、こんなことあると、こんな気持ちになるよね? みたいな。

またこれがいい。
言いかたをかえれば、「あるある」歌集とでもいえばいいか。


余談だが、宮台真司がいいことを言っているのを見た。
昔の日本は文武両道だったんです。
武というのは柔道やら剣道といった勝負ごとです。
勝負である以上、勝ち負けは必須なんです。
そして勝負というのは、負けることがほとんどなんです。
しかしそうした負ける体験こそ人間を忍耐強くし美しくするんです。
負けを沢山経験してきた人が一番強いんです。
負けても負けても人生を放棄しないでいることがどれだけ大変か。
今の日本ではそういうものが無くなってきた。
だからおかしくなってきたんです、と。
いやまあ、わたしが相当脚色してますけどね。

でもそのとおりでしょ。
やれ勝ち組だのリア充だの……。
勝てなきゃ人間としての価値すらないという風潮。
某宗教団体などその典型のなかの典型だ。

人生はほとんどが負けなんですよ。勝者だとか勝利なんてほんのわずかなことなんです。
そういう現実から目を背けて、勝った勝ったとか常勝だとか馬鹿騒ぎし、人を見下すようになる。
最悪です。

いっておくが、この啄木の『一握の砂・悲しき玩具』は、池田氏が推薦している一冊である。


おまけ――
社会学者 宮台真司さん スペシャル・インタビュー
一人一人が心の習慣を変えるしかない。
もうね、その通りなんだ。

けど最もそうしようとしない人たちが今の日本を動かしているわけだ。
妄信し、狂信し、全く自分の頭で考えず、言われたことをやってれば歓喜していると勘違いしている人種がそれ。

宮台氏は某団体を褒めているが、ある時期まではそうだったということであり。
今の某団体は違う。査問、処分、除名と何でもありで、共同意識のネットワークなんて重視していないということだ。重視してるのは親分子分の関係だけという悲惨な状況。

最後に言ってることも最もなんですね。
自立できる個人からやっていくしかないんです――ってね。

ipsilon at 22:37コメント(0) 
 宇宙は、宇宙を構成する無数の生物や要素を一つ一つ区別しては見てはいない。全部が平等なのだ。どれにも依怙贔屓しない。宇宙は諸々の素材と創造力だけを備え持ち、あれを創り、これを創り、ただひたすらに創造をつづける。自分が作り出したものを制御することはできず、また、どうやら創造物によって制御されることもありえないようだ。(中略)宇宙の働きにたいして、うらみごとを言っても、相手の耳には届きはしない。なぐりかかったところで、相手には通じはしない。こぶしを振りかざしたところで、相手には見えはしないのだ。
 しかしだからといって、無敵の相手に戦いを挑み、その破産を企てる者が全然ないわけでけではない。
 いつの世にも、そのような者が存在するはずである。そしてそのときには、そのような者が偉大な英知の持主であり、無頓着な宇宙を信ずること自体にがまんできない性格の持主である場合もあるのだ。
 コルム・ジャエレン・イルゼイ公も、その一人であった。
(序文より)



さすが、ムアコックだ。コルムという<ヴァドハー族>最後の生き残りを、永遠のチャンピオンの一人と設定してファンタジーを描きながら、現実にあるこのわれわれの住む世界を描いているというわけだ。
本作はムアコックがもっとも脂が乗っているときの永遠のチャンピオンシリーズの一冊にあたる。
だからなのか、物語の疾走感は素晴らしく、これまでムアコックが作りあげてきた世界観が見事に織り出されている。
冒頭、コルムの種族が滅亡し、彼は最後の生き残りになる。
つまりこれは、絶望することで、人間ははじめてまっとうな感覚を取りもどすということを伝えんとしたのだろう。
大体において永遠のチャンピオンシリーズはこういう悲惨なはじまり方をするのだが、このコルムシリーズはその流れに無理がない。
エルリック・サーガなんて、エルリックが自分の種族を自分の手で滅亡させるという凄まじい序章がありますからね。でもこれ、ある意味、今後地球上で起こらないとはいえないことですけどね。つまり、そういう視点がムアコックの凄さなわけです。

そして、彼がたった一人になってまず取りもどしたのが感情だ。
それは怒りであり、憎悪であり、それが行き着く先にある「復讐心」だった。と同時に彼の生命を救った女、ラリーナに恋をする。
(そう、人間というのは怒ると最後は「復讐心」に到達するんです。わたしも自殺しようとしたときまざまざと体験しました。太宰もそうだったと読んで、身震いしたことは何度かここにも書いてきた)
しかしその復讐心の本質は、愛と憎悪という表裏一体なものだと提示し、その間で揺れ動く人間心理を描いていくわけだ。いやいや、素晴らしい展開だ。しかも無理がない。

そしてそこから物語は急展開を見せる。愛によって正義をなそうとするがわに、なろうとしてなるのではなく、ならざるを得ない状況に陥るのだ。何よりここが上手い。序文では無敵の相手に戦いを挑みといってはいるが、所詮コルムも創られたものであり、宇宙によって制御されているわけではないのだが、少なくとも人間は自分が制御されているとか、自分のやったことが思い通りにならないことに悩むという悲劇を描き出していくわけだ。
ふつうそれを人は「運命」だとか「宿命」だとか呼ぶのだ。

こうして彼は愛と憎悪の間で起こったちっぽけな揺れなど、小さなものであると見ざるをえない境地に陥っていく。
それは、戦いや努力や意志の力ではいかんともしがたい無頓着な宇宙を相手に――自分の意思で混沌と秩序の間にあるべき均衡をもたらそうとする――不毛な戦いをはじめることだった……。

人はふつう、宇宙で創造されるもので自性を持った生物は「われわれ人間だけだ」と思っている。
しかしある意味ではそういう認識ができたり、意識したりできることが不幸なのだ。
なぜかなら宇宙はあらゆるものに対して無頓着であるからだ。
ときに宇宙は破壊の力に覆われる。またある時には秩序の力に支えられることもある。
しかし、人間という卑小な生き物が宇宙という巨大な時計の針を早めたり、遅らせたり、いわんや均衡をたもつことなど、ほとんど不可能なのだ。
しかし、あえて不可能に挑戦できる自性を授けられてしまったのが人間なのだ。
そして授けられたものを使おうと努力するものこそ英知ある存在なのである。それはまた数々の苦悩を抱え込むということではあるのだが……。

人間が宇宙の無頓着と戦えるのは幸福なことかもしれない。しかしムアコックはわざわざそれを不幸なことに見えるように描いてきた人だ。
それは、とりもなおさず、現実の人間生活が苦悩の連続であるということを熟知していたからだろう。小説というのは娯楽でも何でもなく慰めでもないのだというドライなスタンスを常に保ってきたのがムアコックなんだろう。それもヒロイック・ファンタジーという世界で。
だからムアコックはそれまでの勧善懲悪な英雄象をいとも容易に打ち捨てることができたのだろう。

わたしがこのシリーズにはまったのは学生時代のことだ。
いま読みかえしてみるに、自分は意識するしないに関わらず、当時から心の奥底で、宇宙ってなんだ? 人間てなんだ? 生きるとか戦うってなんだ? ということを知りたがっていたのだろうと思えた。

第一巻の終わり方もまた素晴らしい。混沌と秩序が戦っても、決着はつかないとおぼろげに描いている。それに勝負をつけさせることが出来るのは有限寿命者モータルの種だけ。つまり人間だけだと言っているわけだ。もちろんそれは現実には勝負をつけられるのではなく、つけられた、自分は勝ったんだと見ることができるのが人間であるだけなのだが。

では混沌を滅ぼすことができるものは何か? と問うなら、それはまた混沌であるとも言っている。
卓見だ。実に見事な卓見だ。
戦争を見てみればいい。非人間的になり残酷なことをできたほうが戦争の勝者になっているではないか。
わたしも自作の小説でそういったことを描いてきた。暗黒物質を葬りさることができるのは、その当の暗黒物質だけであった……なんてね。

正義だ邪悪だとか、善だ悪だといったところで、勝負はつかない。それは議論にあっても明確だ。
しかし、悪と悪が戦ったなら話は別なのだ。悪意の強い方が必ず勝つのだ。実に恐ろしいことだが。

まっとうな人間なら見ていることも悍ましい事実だ。自分が当事者になろうとは思いもしないだろう。
だから、コルムはそうした現実を目の当たりにして悶絶するような嫌悪を感じている。
善と悪というのは、どんなに激しく火花を散らしたとしても、どちらかが滅びることはない。なぜかなら二つの概念は表裏一体だからだ。ゆえに、そこには均衡というものしか存在しえない。一方が滅びることは他方も滅びることになるからだ。

こういうことに気づける人ならば、やたらに「正義」だとが「善」だとかを振りかざすことがいかに愚かなことかは容易に納得できるのだろうが、どうやらそうした者は少ないようだ。
かくいう私も気づくのに随分と時間がいりましたけどね。
ともあれ、永遠のチャンピオンシリーズでは、このコルムが一番好きなんです。


この宇宙の真の姿は無秩序だ。有限寿命者モータルにとって、これは決して受け入れることのできぬ悲劇なんだろうがね。


こうして勝ちとった平和と愛情は、ただ単に与えられただけのものよりも、ずっと価値があるわ。


そう、そのとおり。憲法九条にしてもそうだ。
日本人は憲法で平和を勝ちとってきたのではない。ただ平和な状態がたまたまつづいてきただけのことだ。
それに気づいたなら、今の憲法を破壊するような人間の行為は、人間によってうち滅ぼされてはじめて、憲法により平和を勝ちとったといえるのだ。
もちろん、憲法を必死になって守ってこられた方も少数だがいることも確かだ。


自分はやるだけやった。実はそれでは勝ったことにはならない。
自分の意思を引き継ぐ勢力を残していく。それが本当の勝利だ。
それは若い世代への教育というものでしかありえない。
しかし、その教育はあくまでも学ぶものの主体性を伸ばすものであらねばならない。
国家が愛国心を持てと強要したり、子どもたちに無理矢理、国歌を歌わせたり、教育勅語を暗誦させるようなことではない。決してない。



前進、また前進
旌旗はたをかがやかせながら
その兵力を加えながら
つぎに進んでゆかねばならぬ
休養は心をうんざりさせ
隠遁はその身を朽ちさせる
衰えた王位などに恋々たるものではないのだ。


バイロン『「恋」がいつまでも』


いつだかの『第三文明』で見つけた詩の一部。
全文を読まなければ、文脈がわからない。
いつか見つけだしてやる。そんな気持ちで『バイロン詩集』を読んだ。

思いもよらない作品にこの一文があった。バイロン晩年の作品だ。
人間が最も執着しやすいもの、恋。
それにすら執着することなく、諸行無常を感得して、ともかくも前進せよ、生きよ、活動せよと歌われていた。
活動といってもどこぞの団体のいう活動ではありませんぜ。
生きるという根本の生命活動のことだ。

説得力があった。
なぜかならこのバイロンという人は、それこそ恋多き人だったからだ。
ゲーテもまたそうである。
お爺ちゃんになってから10代の娘を愛したのだから。
実体験からくる言葉は宝である。

またバイロンは、人間の本当にしたいことは幼少時代の憧れにあるとも気づいていた。
それがまたなんとも透明で美しかった。
そうなんだ、理由なんてわからなかった。いや理由なんて探ろうともしなかったのだ、あの頃は。
でも大人になるにしたがって、「want to 」を顧みなくなり「have to」に縛られていった。

憧憬――。
なんとも美しい言葉だ。
故郷――もだ。

別にセンチメンタルになっているのではない。
ただ、憧憬や故郷という言葉を耳にして、湧きあがってくる心を忘れるべきではないと思うだけだ。


理由もわからずなぜかあの人に惹かれてしまう。
それは恋ではなく憧憬なんだと訴えたきた、村上春樹の『ノルウェイの森』のあの場面が蘇る。
といいながら、モンキーズを貼りこむ私。



いいじゃない夢見心地で生きたって。
人それぞれなんだから。
一番になったからって何だっていうの?
白馬の騎士じゃないからって何なの?
幸せってのはそういうものじゃない。
自分が幸せであると見れることが幸せなんじゃないの?
気に入らない人を見ても、その人も幸せと見るのが幸せなんじゃないの?
もっとも、どう頑張ってみても幸せそうに見えない人ってのもいるんだけどね。

だから、そういう人をどう見ていくかが問われているんだろうね。
お前が勝手に決めるなよ! ってことさ。

ipsilon at 20:57コメント(0) 

2017年05月24日

本来ならわたしの言葉で語るべきですが、時間がもったいなくもあり、またわたしより上手く語っているものがあるので、今日はそれを紹介しようと思う。

前半
後半

いやまあ何というか、リンク先に書かれていることは、まさにわたしがしてきた思索(瞑想)体験なんですね。
あらゆるものを否定するとは、わたしの言葉でいえば、「疑ってみる」ということだったのです。

そうして疑っていくうちに「空」に辿りつき、なんだ、物事は縁起であるし関係性なんだと確信したんですね。
そしてこれが不思議なことなのだが、「空」がわかってくると、なぜか他者に優しくなれるんですよ。
とはいえ、それはわたしの内的変化がほとんどであって、言動という表面しか見ていない人には、なかなか見えないことなんですけどね。人によってはこいつはどうしようもないところまで堕ちたと見えるようですがね。
でも、わたしの内面が豊かになり、昔の自分と比べたら遥か優しくなれていること、これは事実なんです。

だから、仏法はまず「空」を悟ることが目的なのだと、十全に納得できたのだ。
だってそうでしょ。「空」を悟り、自然に慈悲深くなるなら、それは本物の慈悲だが、悟ってもいないのに慈悲ぶかくあろうとすることは、偽善でしかないからだ。
やたらに「絶対」や「正義」や「べき論」を振りかざすのも同じ。これも偽善なのだから。

ゆえに、本来は、仏法に生命論や生命尊厳をもちこむのも、ある種の過ちなんですね。
なぜかなら、そうしたやり方をすると、仏法者だから、生命尊厳に生きる「べき」となって、偽善になるからです。

だから、本来の仏法は「空」を悟るのが唯一の目的なわけだ。
そして「空」を悟ったことによって“自然に”慈悲深くなるという結果がそれに伴うということなのだ。
いえば悟りへの道は原因と結果。そして慈悲深くなれるのは結果からくる報いといえばいいだろう。
慈悲深くなって得をするのは、何も慈悲を受ける側だけではなく、そうなった自分のほうが遥かに大きな報いを受けているということですね。
しかし、日蓮仏法の場合、そこが誤認されているようだ。

日蓮本人はまず空を悟ったゆえに、その結果生命尊厳を訴えたのであろうが、どうも、日蓮を信奉する日蓮系団体のほとんどは、「空」を悟ることと生命尊厳を標榜すること――生きとしいけるものが幸福でありますようにと祈ること――を混ぜこぜにしてしまったと見えるのだ。

いわば某団体でいえば、「仏とは生命なり」といった言葉は、明らかにそういう部分を混ぜこぜにしてしまった証拠といっていいわけだ。もちろん両立できれば言うことなしなのでしょうがね。
しかしそれは難しい。残念なことではありますがね。

むろん、日蓮の顕した曼陀羅や彼の思想を見ていけば、日蓮が「空」への悟りの結果として訪れる慈悲の両方が備わるような顕し方をしているのだが、後世の弟子たちがそれを捻じ曲げてしまったと見ていいだろう。

日蓮本仏論などというのはその典型なわけだ。
仏とは衆生を救う「智慧」であり、仏そのものには行為がないからだ。無作だからだ。
ゆえに、日蓮は自分を本仏だなどとは言っておらず。あくまでも上行菩薩だと自覚していたわけだ。

こういうことさえ正確に理解できずに日蓮の題目や曼陀羅を流布しても、日蓮の意には叶っていないわけだ。
いなそれどころか、害悪になっているといっていい。
だってそれは形式だけを流布して中身を伝えていないということだからね。
本物にそっくりな国法の壺を本物だと嘘をついている詐欺に等しいわけだ。

でもね、こういうことをちゃんと考えている人は、まだまだ少ないみたいですね。
ネット上には、それなりの数いるんですけどね。
そしてわたしはそういう人から学びつつ、自分でも考えて――先入観、偏見、思い込みを否定したり疑い尽して――きたつもりなんですがね。

まあ、疑うことを知らず、ただただ狂信・妄信してるほうが、ある意味じゃ楽なのは人情としては理解できるが、わたし自身はそういうお花畑には決してなりたくないだけだ。というかなれない。自分を観察していて、自分がそういう性向ではないと気づいているからね。
狂信・妄信する人たちを否定はしないけどね。したいならしていればいい。それが楽しいのなら、それはそれで仕方がないのだ。今さら無理に変わって欲しいなどと、もう思わないのだ。
いや、正確にいえば少しは自分の頭で考えて欲しいなんですがね。
こうやって書いておかないと、ほらお前は他人を変えたいんじゃないかとかさ、言葉の表面しか見ないで難癖をつけてくる人がいるからね。

まあ、決め手は共謀罪衆院通過だ。

国連からの質問書に対して、「個人的な意見書をいきなり送りつけてくるなど失礼極まりない」などと、自民の菅氏や公明の山口氏が講義したそうだが。
私人と公人の区別さえつけられないようですね。
そういう人たちが組織的犯罪集団と一般人を見分けられると豪語する。ヤバイね、日本。

まあ、このままいくと、あの戦争に向かったように、日本の大使なんかが、国連脱退を宣言して……だ。



おまけ――。



新しい動画がアップされてると見ちゃうんだよなぁ。
ジュンコさんの話はわかりやすいしね。
なにより人と会話しているのが楽しそうな顔がいいんだな。

そう、押しつけしかできない人なんか無視しとけばいいだけ。
大正解〜!!


そうそう、このさいはっきりいっておきますが、わたしは核戦争が起こって地球が破壊されようが、人類が滅亡しようが、そうなったなら、それはそれで仕方ないと思っている。
これは別に諦めなどではなく、そういう運命にあるなら受け入れるしかないということ。
別にいいんじゃない。そうなろうが、(おかしな言いかただが)空は厳然としてありつづけるなら、またどこかの宇宙に生命体が現れるかもしれないのだしね。
そもそも、地球だって太陽だってこの銀河だって、いつかは壊れるし、寿命はあるんだしね。

だから、戦争になろうと、そこで自分がぶっ殺されようと、それはそれで仕方ないと思っているし受け入れる。
けれども、例えそうなるとしても、今できることをしないでそうなったなら、あとで後悔するのが目に見えているから、誰に苦情を言われようが、何を言われようが、戦争法にも共謀罪にも反対してきただけだ。

けれども、これだけ長い期間そうした主張をしてきても、小さな波動すら起こせなかった。
むしろ反発ばかりだった。反発を生むならやめたほうがいい。そう判断しただけ。
だったら徒労になることはもうやめるかな。無駄な時間を割くより、もっと自分らしく生きようかなと思っているに過ぎない。

戦争になるとかそうなってから後悔しても遅いぜ。
そういうことをひたぶるに訴えてきただけ。
わたしはそうなろうがとうの昔に覚悟できてるからいいけど。そうじゃない人は相当苦しむだろうな。
そういう気持ちからいろいろ言ってきただけなんでね。

すべて空であるなら、あらゆることは無自性なんだな。
だけど不思議なことに人間というのはある程度の意思をもち、なりたい自分になろうとすることができる。
それがどれだけ素晴らしいことか気づいていない人が多いみたいですけどね。

極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず(報恩抄)

すべては自由だ――勝手にしやがれ!

ipsilon at 17:26コメント(0) 
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