2017年04月22日

まともな、というより創立者の牧口が思い描いた崇高な思想にのっとて「正しい創価」として生きたいと思う心ある人なら、今こそこの一冊を読むべきである。

とても大事なことが冒頭から書かれている。
すなわち、「利」とはなんぞや? である。

とはいっても牧口の価値論は「利」のみを単体で語ることはできない。
創価が誤った思想に進んだ原因は、ほぼここにあるといって過言はないだろう。

「利」を実利や結果としてしか見ない結果主義が、創立者の思想を踏みにじったのである。

簡単にいえばこういうことだ。
牧口の価値論は「利」「善」「美」すべてが関係しあっていて、切り離すことはできないということだ。
仏法の三宝(仏・法・僧)がそうであるように、またキリスト教の三位一体(父・子・精霊)がそうであるように、三つは一如でありかつ、三つでもあるという観点こそが牧口の価値論であるからだ。

こんなことは仏法の初歩の初歩である。(とはいえ、初歩でありながら最難度な思想ですがね)
三身(法・報・応)にしてしかり、またそれを言い換えた(如是)相・性・体もそう、法身・般若・解脱もそう。要するにありとあらゆる事象は「空」であるという仏法の基本中の基本もわきまえず、「利」ばかりを追求してきたのが、牧口の思想を歪曲してきた今の創価学会であるということだ。

自分の行いが相手の生命(心)を豊かにしたか? 喜ばせたか? など考えない。
とにかく自分の思いだけで突っ走る。狂信・妄信会員の姿がそれだ。

してその三つ(利・善・美)が「調和」した価値とはいったいなにか? といえば、賢い人ならいうまでもなく察せることだろう。
牧口もそのことをはっきり言葉にしている。

価値というものは評価対象と主観との関係を意味することは前に述べたとおりである。その対象の中でも人間の生命の伸縮に関係のないものには、価値は生じない。ゆえに価値を人間の生命と対象との関係とする(牧口)
――と。

簡単にいえば、以前わたしが述べたように、生命を豊かにすることが価値であるということだ。
すべての価値は生命というものを根源として発想されなければならないということである。

自分がいいと思っているという一点だけ見て、相手が嫌がっているのに、しつこく勧誘する。
さて、そうしたことが相手の生命を豊かにしているか、考えてみるがいい。
無論こういうことは価値の反対、反価値であることはいうまでもなかろう。
しかし、反価値を否定することは間違いでもある。間違いや失言など誰にでもあることであるし、反価値を否定すれば価値を存在たらしめられないことになるからだ。表裏一体であるところの表は価値、裏が反価値だということですよね。
ようは大事なのは「寛容の精神」なわけだ。
とはいっても寛容にも限度があるのだ。だからわたしなど、こうやって憤っているわけだ。


そしてそれとは別に、創価は「利・善・美」は教えてもその対極にある「害・悪・醜」は教えないわけだ。
つまり、表裏一体の表だけを教えて、そう生きなさいと勧める。
これでは独善なり偽善になってしまうのは理の当然だ。

表裏一体の両面を知っていれば、「こんな言い方は相手の気持ちを“害”するかもしれない?」と思考することが出来るのだろうが、表だけ(自分の思いや都合)しか考えないため、「俺のやってることは利であり善であり美である!」などと思い込んでしまうのが狂信・妄信会員の行いなわけだ。何事においれてもね。
彼らの発言を見てみればいい。それが如実にあらわれているから。とにかく言うことのほとんど全てが「べき論」あるいは「俺が正しい」という発言ですからね。


またここでわたしも何度か指摘してきた、御本尊に関しての誤った感覚も、村尾はきちんと指摘していた。

本や紙自体が尊いのではなく、尊いと思い、それに向かって念じる人の心によって本当の尊さが生まれるのである。(中略)
ところが、木や紙自体が尊いと思うことは、物を神聖化させるわけで、これが「物神崇拝」という愚かな信仰心である。

――と。

弘安の御本尊を絶対視してみたり、あるいは特別装丁御本尊だから凄いといってみたり、あるいはニセ物だといってみたり。
そうしたことはすべて、結局は偶像崇拝でしかないわけだ。


また、こんなことは言わずもがなだが、
村尾は、牧口が教育者として、教育勅語が馬鹿げた思想を生むものだと(国民が自由に発想する権利を奪うとして)、厳しく指弾していたことを指摘していたのもお伝えしておこう。

しかし――今や公明の議員に至っては、その教育勅語を讃嘆する日本会議の式典に出席して登壇し、挨拶までしている始末だ。
さいとう鉄男幹事長代行ね。
ま、遠山清彦氏なども、かつて日本会議の式典に出席して、あれこれ言い訳してましたがね。

これが公明の実態でしょ。
まだわからないの?

妄信・狂信会員たちが支持支援した結果、日本はどんどん戦前の国家主義に向けて舵を切っているではないか。少しは自分たちのやってきたことを“自覚”して、責任を感じてほしいものですよ。

創価公明が正しいというのなら、なぜ牧口が糾弾した教育勅語を復活させようとするような日本会議の式典に出席しているのか、きちんと説明してもらえませんか? 狂信・妄信学会員さん。

ipsilon at 18:56コメント(0) 

2017年04月19日

私は知っている、自分のものだといえるものは、
自由自在に自分の心から
流れ出てくる思想と、
自分に好意を持つ運命が
底の底まで味わわしてくれる
幸福な瞬間々々だけだ。


「Eigentum」Johann Wolfgang von Goethe


なんの説明がいるだろうか。




安らかに寝ることを欲するか。
私は内的な戦いを愛する。
何ゆえなら、もし疑うことがなかったら、
確実なことを知る喜びがどこにあろう。


「Ins Sichere willst dus……」Johann Wolfgang von Goethe


だから妄信は駄目だって言ってるの。

ipsilon at 17:43コメント(2) 

2017年04月18日

チャーってのは謙虚でんな。
聞きなはれ彼の歌を。



なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。
なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。

地球は丸いんだよ。丸いんだぜ。
地球が丸いって知ってるだろ。

戦争に取り囲まれてるんだよ。囲まれてるんだぜ。
あんたの周りは戦争だらけなんだってわかるだろ。地球は丸いんだからな。

どう感じる? どう思うんだ? どうするんだよ?

地球は丸いんだよ。丸いんだぜ。
戦争に取り囲まれてるんだってこと知ってるだろ。

なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。
なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。


空は高いんだ。すごくね。
空が高いって知ってるだろ。
太陽は輝いている。まぶしいくらいにね。
太陽が輝いてるって知ってるだろ。

俺は右翼じゃない。俺は左翼でもない。その真ん中でもないよ。

空は高いんだ。すごくね。
だけど多くの人は空が高いって思ってないんだよ。

なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。
なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。

空は高いんだ。すごくね。
空が高いって知ってるだろ。
太陽は輝いている。まぶしいくらいにね。
太陽が輝いてるって知ってるだろ。

俺は右翼じゃない。俺は左翼でもない。その真ん中でもないよ。

空は高いんだ。すごくね。
だけど多くの人は空が高いって思ってないんだよ。


なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。
なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。
なあなあ、そういうものだろ。目を開いてくれよ。



正しいとかどうとかじゃなくて、そういうものはそういうものとして見ようよ。
あるがままにね。
Char いいこと歌ってるよね。

なんだろうね。右でも左でもなく、その真ん中でもない。
つまり、それらすべてをあまねく包摂した「空(くう)」だよといってるあたりはもう仏法者だよね。
そして「空は高い」そういうものであり、「あるがまま」に見ればいじゃんと歌うあたり。
うまく出来過ぎてんだろ、この歌詞は。

ipsilon at 14:06コメント(0) 
とは、こういうものでしょう。
ゲーテ先生、よくわかってらっしゃる。

『リーナに』

懐かしいリーナよ、この歌の本が
いつかまたそなたの手にはいったら、
ピアノに向かってかけなさい、
過ぐる日そなたと並んで私の向かったピアノに。

まずピアノを早く打ちならして
それからこの本をごらんなさい。
読んではいけません! いつも歌うのです!
どこをあけてもそなたの歌ばかり。

ああ、白い紙に黒い文字で書かれてみると、
この歌はなんと悲しげに見えることだろう。
そなたに歌われてこそ神の御声さながらともなり、
聞く人の心をむしるばかりに打つものを。


正しい勤行・唱題の姿勢とはこういうものでしょう。
あれこれ説明したくないのです。
私が伝えたいことを知りたいなら、わかるまで何度でもゲーテの『リーナに』を感じてもらいたい。
もっともゲーテが吟じているように、「読むことで」意味を知ってもそれは価値ではないのです。
歌うこと、感じることで、はじめて価値を生むのだということくらいは記しておこうと思ったわけで。

誰がどんな歌をうたうの?
自分が自分らしくあることを讃嘆する歌をうたうのです。

なんで、まず早くピアノを打ち鳴らせといってるかって?
決まってます。はじめに読んでしまったら、読むことに意識がいってしまうのが人間だからです。
だから、まずテケトーに打ちならし、わが歌を引き出す音を縁として、自分で自分の歌をうたえるようにということなのでしょう。

皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり(日蓮)

だから、自分が自分らしくある歌をうたうことが、仏法の法理にも適っているということなんです。
ご本尊とはゲ−テがいうところの「歌の本」なんですよ。

繰り返し詠んでいくと冒頭の一説が実に美しく思えた。
懐かしいということは、きっとリーナはかつてゲーテに愛された人なのでしょうね。
あるいはどこかで親しくしたことのある友人であったとかね。
(一説によると、リーナとは読者のことをいってるとも言われているようですがね)
ともあれどちらであっても、その本に書かれているのは、ゲーテがリーナに抱いた慈悲や思いやりでしょう。

さてリーナがそれを歌ったとき、彼女はどう感じるのか?
「ああ、わたしは世界からこんなにも愛されていたのだ」
「ああ、わたしは世界からこんなにも愛される存在なのだ、愛されてしかるべき存在なのだ」
といった自己賛歌になるはずだ。

歌うことで、自分という存在が天上天下唯我独尊であると気づけるのだ。
そしてその次が大事。
自分が天上天下唯我独尊であるなら、他の人もまた天上天下唯我独尊であると気づくということ。
ここまでいってはじめて本当の意味で、生命の尊厳を体得したといえるのだろう。

だから、まず自分自身の歌をうたうこと、自分自身に生きることをわたしは勧めているだけなのだ。
もっともゲーテの詩もそういうことをリーナ(読者)に勧めていますけどね。
そこには押しつけもなければ、正邪善悪を説いて聞かせるといった傲慢さなど、微塵もないわけだ。
だからゲーテは本を「読むな(感じなさい)」といってるんでしょうね。

この部分どうですか――。
ああ、白い紙に黒い文字で書かれてみると、
この歌はなんと悲しげに見えることだろう。

ご本尊を文字だとか相貌だとか、模刻や書写された歴史的背景だとか、あるいは紙でなくて板ご本尊のほうが立派に見えるからとかいったり、そういう感覚でしか読めないから、やれニセ本尊だの、正しい本尊を認定する権能があるだの言いだすという悲しさ。
あまりにもそれが悲しいことだから「ああ」と冒頭でため息ついてるんですよ、ゲーテは。


素晴らしいかな、この感性。
多分ではなく、この感性、わたしの中にもあるんだけど、そう思えてないから、なかなか自分で引き出せてないんでしょうね。

心のどこかで、ゲーテはすげえけど、俺がそんな風になれるわけがない……なんて思っちゃってるんだな。
なれるんだけどね。誰でもゲーテのように。

ゲーテの詩にある魅力とは、このように一見するとただの恋愛詩に見えるが、実は深い永遠普遍的真理を歌っているところなんでしょうね。

うーむ、不思議というかね、この『リーナに』も、シューベルトが楽曲にしているんだな。
なんだろうね、わたしがいいなぁと感じる詩は大体、楽曲化(歌われている)という不思議。
少しはゲーテに近づけてるんだと、思っておこうかな。

ちなみに lina という名前は「平和に満ちた」というラテン語を英語的に発音した愛称形だそうですよ。
そういえば、そういう芸名のAV女優の絵を描いたことがあったなぁ。

そして、小学生のころ初恋した子の名前。これがまた「リナ」だったりするわけで。
だからね、こういう偶然のように見えることが繋がることを、わたしは必然だと感じているわけなんですよ。

不思議すぎる!!


「An Lina」Franz Schubert / Johann Wolfgang von Goethe

それから、どうでもいいことですが、最近知ったんですよ。
あのスター・ウォーズに出てくるお姫様の名前「パドメ(・アミダラ)」ってのは蓮って意味なのをね。
ちなみにアミダラというのはもちろん阿弥陀のことを暗示しているわけで。
本物のアミダラがアナキンをダークサイドに導き、影武者であったパドメは殺されてしまうという構図。
いえば、一人の人間の中には人を地獄に導く命と、自身を犠牲にしても世界を救おうとする命が併存してあるということを名前で端的に暗示しているわけで。
そしてどうも人間はそのどちらかに極端になってしまうということを、物語っているわけで。

だから、ルーク・スカイウォーカーはそのどちらでもなく、中道すなわち「空(くう)を行く者」という名前になってるんだな。
ルークには「光を運ぶもの」とか、チェスの駒にあるような「(宝)塔」という意味とかがある。
無論キリスト教徒であればルークの語源が聖ルカであることは承知のことなのだろうが。
スター・ウォーズ、なめたらあかんですよ。

それから、釈尊の弟子の阿難ことアーナンダという名がもつ、本来の意味は「菩薩」という意味だともね。
やっぱり名前のもつ意味をきちんと知ることは大事なんだと思ったわけで。


ということで「ルカ」でも聴いておこう。

悲しい詩だけど、美しくもある。
忍耐の力の素晴らしさをも歌っている。
家庭内暴力に苦しむルカ。でもそれに耐えていればすべてがうまくいんだという健気な忍耐力。
聖人はやはり忍耐をこそ宝としているのだろう。

ipsilon at 12:20コメント(0) 

2017年04月17日

創価学会のことをそれなりに知る人なら、牧口常三郎という人が初代の会長(学会創立者)であることはご存知なのだろう。
しかし、現実に私のように二世などであり、長いあいだ会員であることが当たり前だった場合、むしろ牧口の思想をきちんと原典から学んでいないというパターンに陥っている場合が多いのではないだろうか。

何事にも源があるわけで。
その創立者の精神を忘れたり、後世の弟子などがその精神を蔑ろにすることで、企業にしろ国にしろ滅亡してきた歴史を、我々はもっと重く考えるべきではないだろうか。

しかしそれもまた致し方ない部分もあろう。
なにしろ『人生地理学』にしろ『創価教育学体系』(価値論)にしろ、大著ですからね。
しかも、言葉遣いが明治の言い回しであることから、現代人が一読してその意味を正確に理解するだけでも大変な側面もあるのだから。
だが、そうしたことは、学ばざる自分の怠惰を正当化する言いわけでしかないのだろ。

そうして考えれば、原典を読む前に知識人であり、なおかつ牧口と直接親交のあった村尾の言葉に耳を傾けることには、それなりに有意義であるのではないだろうか。

もちろん、出版社が潮出版という学会の外郭団体なのであるから、著述は学会への賞賛がほぼすべてであることは言うまでもない。
しかし、こうした本が今でも読めるというのは、潮出版社あってのことと思っているし、そうしたことに私は感謝を忘れることはない。

ただ昨今の佐藤優氏を起用した行き過ぎた学会賛美とは相当に色合いが違うことは確かであるし、村尾のものの見方はとても正確であることだけは伝えておきたい。
だから、むしろ今こそ読むべき一冊だといえるだろう。(本書の発行は1997年)

ともあれ、小難しいことをいっても仕方はないのだろう。
大事なのは数点に収まると思ったからだ。

・『人生地理学』と『創価教育学体系』は表裏一体をなすものであり、どちらか一方だけでは、極端な思想に陥りかねないということ。
・『人生地理学』は庶民に縁起(すべては関係性でなりたっている)ということを、あらゆるジャンルをとおして牧口が語った内容。そして『創価教育学体系』は今度は庶民ではなく、学者、知識人、指導する立場にある人に縁起をいかに生かしていくべきか、またそうした活かし方を教育に盛り込んでいくべきかという立てわけになっている。
(ゆえに、表裏一体なのだと。しかしそうしたことに牧口自身が気づいたたのは、両著がほぼ完成するころであったというところに重要な意味がある。つまり「真」は「利」を生む努力をしていくことで到達するものである、という体験則から、「真」よりも「利」を重んじるべきだと、牧口自身が体現したわけで、それは単なる卓上の論理ではないということ)
・究極、すべては関係性でなりたっている。であるがゆえに、その人がよいと思うことを自分で選びとっていくことが基本的に絶対的な幸福であるという結論。

こうした3点に集約されるだろう。
いやもっと言えば、村尾も本書の中で言葉にしているが、池田氏、戸田、牧口、それぞれ偉大でダイナミックな人であるし、偉大な思想家であり実践家であるが、彼らの奥にはそれ以上に偉大な日蓮、釈尊の「魂」が内存していることを見逃すべきではないと語っている部分だろう。

狂信・妄信する学会員は、学会が凄いという言葉は何百回も言うが、日蓮とか釈尊が凄いと言わない部分を柔らかに村尾は指摘し、1997年当時であっても、学会が源から遠ざかっていることを言外に嘆いていたのかもしれない。

ともあれ、私ごときが説明できるようなものではない。
各人が意志をもって学ばれることを期待したい。


創造とはすなわち自然の存在の中から人生(人間生活)に対する関係性を見出してこれを評価し、さらに人力を加えてその関係性を緊密化し増加させることである。全く人工をもって自然の配列を改め特殊の配列となし、もって人生への有益性をさらに加えることである(『価値論』牧口常三郎)


この一文に牧口の思想哲学のすべてがあるといって過言はないだろう。
すべては関係性なんですよ。いかなる有益な関係性(つまりは信頼関係)を構築するかが価値創造だということです。

自然の配列を改めるといっても、核や放射能を生むものを作るのとは違う。また遺伝子操作といったものでもない。
樹木を加工し、紙となし、衣服の繊維となし、また机や椅子となすといった加工のことである。

だから、村尾はわざわざ戸田の遺訓である「原水爆禁止宣言」を全文にわたって引用していた。
創価にはこうであって欲しいという切なる願いだろう。
その創価公明が安保法制をはじめとする軍国主義の道のアクセルを踏んだのを見たら、村尾はどんなにか嘆くことだろう。

戸田は宣言の中で明確に言っている。
なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります――と。
武器を使用しての自衛? 笑わせないで欲しい。
例えそれが核兵器でないとしても、他人や他国の生存を脅かしかねないものであることなど明々白々なことだからだ。

いまさら言うまでもなかろうが、日蓮の著した『立正安国論』は、まさにこのことを述べているわけで。
いかなる人にも生存の権利があるんだということを認識し、確信しないで死んでしまったら、次に生まれかわったときに、良いも悪いもわからずに殺人を犯す可能性の因を作ることになる。だからまずは殺すなかれというのが日蓮の思想の根底なわけで(もちろんこれは釈尊の思想でもある)。
幸か不幸か、人間というのはそういったことを認識し知覚できる唯一の動物種なんですよ。
だから、動物のように、腹が減ったからといって無暗に同族を殺してはいかんとしてきたのです。

言えば、広宣流布というのはその次であるし、もっといえば広宣流布とは「いかなる人にも生存の権利があり、それを誰人にも犯されるいわれなど、どこにもない」ということを宣揚していく運動のことである。
のだが、何やら昨今はそれを捻じ曲げて、創価が人々や世間から偉大に見られるようにとかいった見栄だったり、教義だの本尊だのをもちだして、箸にも棒にもかからない自己正当化の議論を熱くやっているようですがね。

まあここでいう生存権の主張にはパラドックスがあって、あまりにも強く自己の生存権を主張すると、それはそのまま他者の生存権を侵害するという構図があるのですが、それに気づけない人が多いわけだ。
日本の主権やら生存権を守るために、安保法制は必要なんだ。
そうですね、そうすることで日本の生存権は高まったかもしれない。しかし、軍備拡張した日本の振舞いを見た相手(中国や韓国、特に北朝鮮が今そうなっているわけでしょ)は、日本があんなことをしたから、俺たちの生存権がおびやかされたと感じるわけだ。
だからこそ、ガンジーの非暴力主義しかないのです。
北から日本に核が発射されたとしてもね、それは自業自得なんですよ。
創価の人はよくそう言ってきたでしょ。何が起こっても自分の責任だと受けとりなさい、とね。
だったら、北が核を撃ってきたとしても、そうなる原因は日本人の振舞いにあったというのが仏法のものの見方ですよ。違いますか?
言えば、日本がアメリカのケツをペロペロ舐めて軍産路線に舵を切ったしっぺ返しですからね。
そういう因果さえ見れずに、北朝鮮は頭がおかしいとか言ってる学会員もいますけどね。
まあ、何でも人のせいにしてると楽に生きられるのでしょうから、その気持ちもわからなくなはいですがね。

冷酷な言い方をすれば、地震災害や原発事故も、自分たちがやってきたことのしっぺ返しを受けてるだけですよ。仏法の厳しい因果で見ればそういわざるを得ないわけで。
被害に遭った人に哀悼を……。それもいいでしょう。
でもね、そうなった原因の一端は俺にもあるんだ……と自覚し反省するのが仏法者としてまず先にすべきことでしょ。
それもしない。むしろ原発は再稼働する、被災者への支援は打ち切り、いまだ放射能ガチ漏れの地域に帰宅させて、座談会開催おめでとうとかさ、もはや狂人のなすことだということですよ。
誰もまっすぐにこういうこと言わないし書かないから、私が憎まれ役になって言ってるだけですよ。

また村尾はこうも言っている。
貴方たち独特の表現があります。それは
「頑張ってますっ」です。
一般的には「頑張ろう」とか「頑張ってください」です。要するに相手に向かって言うのです。(中略)
これは「一人立つ」ということを庶民的に、しかも簡潔に表明した言葉遣いです。


つまりは、他人を激励することが使命だなどと思い勇んでいるという昨今の学会員の姿は、もはや村尾の褒めたような人たちではないということだ。
この点を鑑みただけでも、池田氏のなした功罪は大きいと言わざるを得ないと私は思っている。
「とにかく激励だ!」
そうやって言いまくってきたことで、会員は「主体性」を失い、他人を励ましていくことが価値創造であると勘違いし、思い込んでしまったということだ。

冷静に考えてみれば、言論出版妨害事件など、意図的ではなかったにしろ、池田氏が大きく牧口の思い描いた思想――ようするに、表現・言論の自由を死守する(むろんこのことは池田氏自身も学会の基本理念として声だかに叫んできたものだ)――から逸脱した実証となって顕れたのだろう。

だが、自分たちのやってきた言論出版妨害事件さえ、狂信・妄信会員たちは正当化して見ているのだから、共謀罪の恐ろしさになど気づけるはずがないんでしょうね。
言論出版妨害事件だけを見ても、俺たちを悪くいうような表現・言論の自由は認めないという独善に満ちたスタンスなのだから……。

ただ、池田氏個人の行いを見ていくと、言論出版妨害事件を深く反省し、正式に謝罪し、その後「創共協定」へと舵を切った部分は誠実で実直な振る舞いだといえる。
だが、その池田氏の思いを踏みにじって、創共協定を事実上無効にするような動きをした人間が学会内、あるいは公明党内にいたわけだ。
そしてそうした思想を受継いでいる者が、今の執行部なわけだ。
だから、学会はいつまで経っても共産党攻撃がやめられないのだろう。

ただここにも面白い出来事があって、池田氏側にしろ共産党側にしろ、双方を歩みよらせる縁があったという不思議さがそれだ。
仲介した人物、作家、松本清張の存在だ。
当事者双方がどうにかしようとしたのではなく、そこには松本清張という縁があって、ある意味では勝手に創共協定ができあがったという妙なる法の働き(すべては縁起によって起こるということ)を、私などはそこに見ているのですがね。

もっとも先に述べた独善的な振る舞いというのは、心理学から見れば弱者の強がりであって、自分に自信のない人間というのは、外に敵を作りだして自己正当化するという修羅の生命の現れにすぎないのですがね。
アメリカのやりかたがその典型。中国もしかり、日本にもそこかしこにありますね。
ネット上にも沢山ありますね。いつまでたっても喧嘩や悪口がやめられないとかね。
結局は、自分のやってることに自信がないだけなわけで、見ていて可哀想になるんですがね。

もっともそういった手法を取らないと、纏まれないのが国家であり、政治なんですね。
だから政治はある意味、必要悪そのものなんですが、それに気づいていない人は多いようですね。

前記事で引用したが、イーシュワランの言葉には、こうしことがよくわかっている表現がある。
「喜び」とは――
心が乱れず、自分に対して静かな自信を感じていられる――と言っているわけだ。
つまり歓喜とは「自信」のことなんですよ。


ともあれ、誰かを敵視した人たちが集まる。そういう仲間意識ではない仲間意識をどう作っていくかで、地球は滅亡するのか生きのびるのかが決まるのでしょう。

その意識が、願わくはコスモポリタン思考――全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義・世界主義とも呼ばれる――であることを私は願っていますけどね。
だからといって人類がひとつの国家をつくればいいということではないんですがね。

むしろそうしたことをすると、それは究極の国家主義(独裁主義)になるわけで。
だから、カントの著した『永遠平和のために』にあるような、多数の国家が存在し、それらが良き方向で切磋琢磨しあいつつ、それぞれの地域性や慣習に見合った「主体的」な国づくりをしていくほうが望ましいわけだ。

村尾はこうした競(競い争うのではなく、競い共に走ること)こそ重要であるなどと言ってましたがね。
そしてこれはルソーの『エミール』での教育論を私に思い起こさせた。
健康な体を作るためなのだからといって、徒競走をさせようとしても子どもはなかなかやらない。
だから、勝ったものに景品を与えるという餌でつる教育がいる。
しかし、その後が大事であって、勝ち取った景品を一人占めするのではなく、共に走った友だちと分かちあう精神を次に教えていくのだ、と。

一位になれたという原因をよく見れば、一位になれなかった人がいたからなれたという事実を自覚させるということですよね。
ようするに牧口のいう「利」とは、こういう利のありかたなわけなんでしょうがね。
ようするに功徳というのもそういう餌なんですよ。
功徳をうけたことを利己的に喜んで誇る。こんなことをするのは愚痴の行いなんですよ。
功徳はあくまでも方便。その先にあるのは、そうした功徳を感じられたのは、自分以外の存在があるからだと自覚することが重要であり目的なわけで。
それこそが本当の功徳なのだろうが、まあほとんどの学会員はそういうことに気づいておられないようで。


ともあれ、コスモポリタン思考というのは、個々人においても理論的にはあてはまるわけで。
各人が自分とは何者かを自覚して、各人の長所を生かし、互いに支え合っていけばいいだけだろう。
それを「こうあるべき」などと言いきってしまうような創価思想には、もはや害毒しかないとしか思えないわけだ。

まずは目の前の一人を大切にするということなんでしょうけどね。

ipsilon at 18:02コメント(0) 
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