2018年08月09日

しかし、本当にそうなんですかねぇ。
だってさ、誰かさんてさ、三世永遠の因果論を確信していて幸福であり、現世安穏、後生善処も完全に保証されていると確信してるはずなのに、なぜそんな不平不満たらたらで、目に着いた気にくわない思想を罵倒し、悪口し、貶してるんだろうね? あれれ〜おかしいねぇ。幸福ってのは不平不満がないってことじゃないの?

三世永遠の因果論を確信していて幸福なんだったら、普通は、喜びに満ちみちていてさ、情愛豊かで、自分だけ幸福になるなんて申し訳ないからと情愛をもって、他者にその確信している三世永遠の因果論を啓蒙するんものじゃないの? もちろん、情愛豊かに慈悲深くね。だって、幸福なんだろうからね。

まあ、こういうところで誰かさんとか、簡単にボロがでてるのがバレバレなんだわ。
不平不満の塊で、他人のことを非難しまくり、悪口いいまくり、貶していてさえ、わたくしは、三世永遠の因果論を確信していて幸福者なんですー! なんて宣ってるんだからね。

しかもさ、すでに確信してるんだったら、なんで今頃初期仏教とか勉強したり、法華経を改めて勉強してんだろうねぇ。確信しているといいながら、信じきれなくて不安でしかたないから、勉強してるんじゃないの?
あれあれ〜言ってることとやってることが矛盾してるね〜。


現世安穏で後生善処といえばさ、ある映画を思い出すんだな。
『アンドリューNDR114 』というやつ。

この映画の主人公は、まさに現世安穏で後生善処な存在でさ、今も未来もずっと幸福でありつづけるアンドロイドなんだよね。アンドロイドだから寿命は永遠なんだな。
でもって、人間の主人たちのために、執事として働くんだけど、幸福なはずのアンドリューが、長い年月の間に、どんどん悲しみに塞いでいき、最後は死にたいっていいだすんだよ。

そう、彼が愛情を注いでどんなに懸命に仕えようが、主人たちはただの人間だから、どんどん死んでいくんだよ。
そういう別れの辛さにアンドリューはしだいに耐えられなくなって、自分も死ねる存在にして欲しいと芯から望むようになるんだな。

誰かさんはさ、三世永遠の因果論を確信していて幸福なんだったら、きっとアンドリューみたいなんだろうね。
今はもちろん幸福。死後の成仏も確定してて幸福。アンドリューみたいでいいね!! って話だよね。
現在は幸福、未来の成仏も約束されている、悩みもなければ、苦痛もない。
そんな人生の何が面白いのか、わたしにはまったく理解できないがね。
ふつうの人間なら、悩みや苦しみがあってそれを乗りこえたときに幸福感というものが湧くんじゃないかなぁ。

人間にとって何が幸福かを、もう少し真面目に考えてみるといいかもね。

創価にしろ、大石寺系にしろ、日蓮を妄信・狂信しているような人びとってさ、あたしたちは幸福者なんだとかいいながら、不平不満たらたら、愚痴文句たらたら、極悪がどうのこうの、あげく批判、非難、悪口いいまくってるけどさ、それってどういうことなんだろうね?
なんでそんなに不平不満だらけなの? 幸福なんじゃないの?

というか普通に考えれば、幸せ一杯なんだったらさ、自分はこんなに幸福なんです! ってな姿を見せたり、言動でそういう振る舞いを見せて、ほらわたしを見て! こんなに幸福になれるのは、日蓮仏法に出会ったからなんです! って満面の笑みで信仰を啓蒙できるはずだろうにさぁ、なんでそういうことやってる人が少ないんだろうねぇ。
というか、むしろそういう人がいないってどういうことなだろうねぇ。

ふ・し・ぎ・!!

ipsilon at 01:03コメント(1) 

2018年08月08日

もう何年も前のことだが、ある時、コメントでこんな意見を頂いたことがある。
「あなたがブログで述べている日蓮とか創価の思想ってさ、結局のところ日蓮や創価のいうとおり信仰すれば、死後必ず救われるという極楽信仰と変わらないように見えるんだけど」と。

当時のわたしは、創価の教えるところの似非日蓮仏法とやらをほぼ妄信していたから、
「なにを言っているんだ、そうじゃあないんだがな。……けれども言われたことを検証してみると、確かにコメントされたことはそう的ハズレではいないところもあるんだよね……」などと考えた。

けれども、思想や精神性を鍛錬してきた今になってみれば、コメントしてくれた人の認識はほぼ正しかったのだと思っている。

仏教においてそもそも釈迦が否定した三世にわたる因果だとかを肯定するなら、創価や大石寺が宣揚してきた日蓮仏法なるものは、生きている今も極楽にいられるし、それに加えて死後も極楽にいけるという思想にすぎないということだ。

しかし、こんな思想は正しい仏教理解から見れば、ある種のユートピア論であり、単なるお花畑思想であり、「ありのまま」に生きるという仏教を極端に歪曲し、貶めた陳腐な思想でしかないのだ。
このように因果論を肯定することは、極楽信仰に陥りかねないということだ。

考えてみればいい。
祈りとして叶わざるはなしという思想を。
苦しものは苦しい、悩ましいものは悩ましいと「ありのまま」に見ることもせず、とにかく祈れば絶対によくなるんだ、変われるんだという誤魔化しを勧めていることなど容易にわかるではないか。
今ここをありのままに見もせず今を生きる、死んだあともありのままに見ず生涯をおくる。
そういう信仰態度は、生きている今も、死んだあとも、あるかどうかもわからない極楽を求めている迷妄信仰そのものではないか。

少なくとも、念仏を非とした日蓮が、そのような思想であったはずは、絶対にありえないだろう。
そういうことだ。したがって、日蓮は三世永遠の因果など肯定しているはずがないことがわかろう。

そもそも確実に存在する「今」を否定し、「今」に不満足を憶えて祈りを叶えたいとか、変わりたいと思っているなら、死ぬまで不満足で納得できない生をいとなむことになる。つまり生きながらの地獄道を歩んでいいるということだ。
そのことをもって、日蓮は念仏的思想を拒絶し否定したことなど、まっとうに思索できる人なら、容易に辿りつける答えだ。

だから日蓮は病気になった信徒に対して(どの題号の御書か失念したが)、
「病気になった今を契機に、あなたも病気が治る云々ではなく、このさい悟りの境地に達してみてはいかがですか?」と語りかけているわけだ。
それは、とりもなおさず、「今ここを、ありのまま」に受けいれることが悟りの境地だという日蓮の思想であることなど、容易に窺い知れるというわけだ。

まあ、創価思想や、似非日蓮仏法を妄信している人には、どんな論理的説明をしても無駄だろうがね。
マルクスが「宗教はアヘンだ」といったのは誠に正鵠を得ているというわけだ。
思い込みの権化になにをいっても無駄というわけだ。


時間論的因果論も、2、3度丁寧にここで説明したが、アヘン患者には理解できないのだろう。
なにもわたしが勝手にそういってる訳じゃなく、龍樹が『中論』で説いているという話だ。アヘン患者たちは、自分たちが龍樹より賢いとでも思っているのだろう。お可哀想に。他者から学ぶ機会を得ていながら、学ぼうとしない気の毒さよ。

いつまで経っても、弘安の大御本尊いっている人たちもお気の毒だ。
それは偶像崇拝だからだ。偶像崇拝とは、人間が作ったものを崇拝することだからだ。
この自然界には自然界の摂理や法則がある。その摂理や法則を人間ごときが完全に説き顕せるはずがないからだ。
よって歴史的にどんな貴ばれてきた本尊であろうと、聖遺物であろうと、それを信仰の対象にすることは偶像崇拝でしかない。
だから釈迦も涅槃経でいっているわけだ。自灯明、法灯明とね。
だからそもそも法華経の題号も、すべては空であり、断言できるものなど一つもない。すべては縁起によって勝手に起こってるだけだという意味の、「妙法蓮華経」になっているわけだ。

九識論だっていい加減な寄せ集めだ。そもそも論理の違う、識論に如来蔵思想を無理矢理に縫い付けたものじゃないか。いやそもそも法華経すら寄せ集めの経典ではないか。
後半部分は現世利益のために付け足された経典でしかないじゃあないか。
何にしても、無知ってのは恐ろしいものだ。それ以上に、知らずして思い込みで信じる恐ろしさよ。


ともあれ、M・ウェーバーの著作にはある種、一本の筋が通っている興味深い話でもしておこう。
彼の著作に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というのがあるのだが、これの論理は面白いのだ。

プロテスタントとは、カトリックとは対照的に、教会や司教や司祭の権威を認めず、信仰のよりどころを自己と聖書に求めたことは多くの人が知っていることだろう。
しかし、これにも問題があった。
聖書の記述にこんな内容があるからだ。
「救われる、救われないは、人の信仰心や志で決まるのではない、神の御心によって決まるのだ」と。

どこぞの誰かさんなど、虚無をやたら嫌っているようだが、キリスト教においてさえこういう論理があったことを知っておくといいだろう。

つまり、そうした聖書の文言を、プロテスタントの人びとは、こう解釈したということだ。
「救われようが、救われまいが、俺たちに出来ることは、真摯に真剣に信仰の道を行くことだけだ!」と。
実に潔いではないか。たとえ死して無になると知っても、俺たちに出来ることはより良く生きることだけだ。
プロテスタントの人びとは、正しく仏教を理解すれば必ず到達するであろう同じ境地に達したということだ。

そして、このような思想が社会活動にも生かされ、社会的に成功しようがしまいが、社会的功利を得られようが得られまいが、俺たちにできることは、とにかく真摯に真面目働くことだと考え、実際にそれを実行したがために、資本主義やこの世界は飛躍的に進歩したという歴史的事実があるというのが、ウェーバーの論理なわけだ。

どこぞの誰かさんなど、社会的に成功することだけが人生の目的だといった思考をしているようだが、このようなカトリック的、あるいはオーソドックス的キリスト教徒たちが、近現代や資本主義やこの社会を進歩前進せしめたのではないということを考えてみれば、結局、誰かさんのような、「功利主義や現世利益重視」の思想が、利益がないなら働きませんという人間の堕落を助長させてきたことなど、容易に窺い知れよう。

昨今のニュースを見たって、そういうことはわかる。
希望のない世の中になったから、将来性が補償されていない世の中になったから、今の若い人たちは可哀想だとか、今の若い人たちは希望が持てていないだとか云々、見事なまでに「功利主義や現世利益重視」がつくりだす世界を映しだしているではないか。


従って(ある人もそのように述べていたが)、日蓮が言ったところの、「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」といった文を日蓮の真意にそって解釈するなら、叶おうが叶うまいが、「今ここ」で「ありのまま」に、自分に出来ることを出来る範囲でやっていくために、すべては叶うと信じてやっていきなさい。キリストが復活したように、非合理的に思えても、自然現象では決して起こりえない奇蹟が起こるといった、そういう思いがなければ、この苦悩の海を渡っていくことはできないのだから、とでも言いたかったのだろう。

ところが、日蓮の書いたものを文字どおり自動機械的に解釈すると、迷信するアヘン患者や、妄信者や狂信者、はてはオカルト思想が生まれるというわけだ。

なににしたところで、利益がなければやらないとか、叶わないならやらないとかいう思考の底にどんな執着があるかをよく自分で見つめるのが大事だろう。

たぶんそこには、貧乏臭く、意地汚い欲望の虜になった己が見えることだろう。
そしてそういう己こそが、エゴに満ちみちた自分だというわけだ。


随分、脱線したが、M・ウェーバーは政治学の世界においても、「救われようが、救われまいが、俺たちに出来ることは、真摯に真剣に信仰の道を行くことだけだ!」と同じ本質を語っているというわけだ。

例え、政治というものが力や支配、ひいては暴力だと熟知していても、それでもなお、政治でもって人々を幸福に導くのだという志のある人間だけが政治家であるべきだと。
つまりこのウェーバーの論理は、政治が最終的に暴力であることを知ったうえで、それでもあえて、非暴力の政治道を行くんだという、凄まじい自覚と決意が必要だといっていると解釈してもいいわけだ。

結局のところ、いかなる分野であろうと、そのような「それでもあえて」という克己心や自己実現を目指すのが、人間にある使命であろうし、ある種の義務だとさえいっていいのだろう。

さて、その克己心に従って、まずは自分のことに努力している人は? と周囲を見れば、まあ、いない。
他人のことをあげつらって非難し、批判し、偉そうに批評して自己正当化している輩ばかりしか見えないというわけだ。

少なくともわたしは自己の信じるところを語っているつもりではあるがね。
誰かをひきあいに出して、自己正当化するなどという卑怯なことはしていないつもりだ。
誰から学んだ、誰それがこういってると引用はするが、それは致し方ないだろう。

そもそも、人間は何一つ創りだすことなどできないのだから、先達から学ぶ以外に方法がないからだ。
歴史という過去を見つめて、勝手に起こってることってさ、繰り返されてるところがあるよねと問うていく以外に、人びとのなかに共通感覚や普遍性を呼び起こさせる手段がないからだ。

法華経だってそういう解釈もできよう。
様々な如来や菩薩が現れるが、だいたいに於いて、彼らは過去と現在を会通し、それをもって未来をも予見しているのだから。
しかし、そういう過去・現在・未来の会通を三世永遠の因果論だとか、馬鹿げた見方をすると極楽思想に陥るというわけだ。

法華経にあるそういった会通は、過去の歴史を検証すれば、今なにが起こっているかはわかる。今起こっていることがわかれば、未来がどうなるかはある程度予測ができ、その予測をつかって、より良く生きるために知恵を働かせることもできると解釈すべきなのが当たり前だろう。
序品から方便品の流れは、まったくもってそのようになっているじゃあないか。
過去に素晴らしい教えが説かれた、そのとき、俺はそこにいた、お前もいたじゃないかと(弥勒と舎利弗)。するってーと、これから釈尊も素晴らしい教えを説くだろう!

そもそも、法華経で、未来に成仏が約束された菩薩なんかはたくさんいるが、その菩薩が実際にこのような名の如来になって成仏しましたという明確で実際的な記述がでてくるかどうか考えてみるがいい。
釈迦は未来の成仏の記別は与えるが、与えられた誰それが、のちに事実としてこのように成仏しましたなどという記述はありはしないのだから。
つまり、われわれに言えることは、過去から学び、今をよく見極め、未来をより良くする努力ができるのであり、より良くなると信じることはできても、良くなった未来を確実に知ることはできないし、必ずしも良くなるとも言えないということだ。

法華経にある三世観は、そのように解釈するのが正しい解釈であることなど、自明の理だということだ。
それを三世の因果を完璧に説いているから、成仏は間違いなしだとか思い込むのは勝手だが、そんなものはオカルトに過ぎない。


この動画はアメリカ版どっきりカメラみたいなものだ。

因果論や罰論をふりかざして、人を裁くような人たちには是非にも見て欲しいものだ。
どんなにネットで高尚な理論を書き並べられられようが、現実に差別にあったり、酷い目に遭っている人が目の前に現れたときに行動できるのか。大事なのはそこだ。

日々にツイッターで政治問題や差別やヘイトへの批判をいうのなんて簡単だが、実際その人がどういう人柄なのかという大切な部分は見えてこないってことだ。ネットなんてしょせんその程度だってことだ。

ipsilon at 07:31コメント(1) 

2018年08月06日

ついつい、くだらないことに反応してしまったので、己の精神の浄化のために、もう一記事をば。

人間に生れてもっとも良かったと思うこと。
それは、他人に合わせられる能力が他の動物と比較したとき、非常に高いことだと最近、深い感慨にふけっている。

その典型は音楽の演奏だ。
オーケストラは何十人も集まって、一つの楽曲をみなで演奏する。
他の動物が逆立ちしても絶対に出来ないだろう妙技を人間はやってのける。
この素晴らしさに最近、日々感動している。

犬や猫、あるいは賢いと言われるボノボやチンパンジーを集めてみたところで、絶対に交響曲を意識的に奏でることはできないからだ。

ボノボなんかは本当に頭が良くて、歳をとったり体が弱くてうまく餌を取れない仲間に餌を分けてあげたりして、随分と関心なのだが、それでも彼らが何十匹集まろうと、交響楽団を結成することはない。

賢いチンパンジーなんかは、リズムにあわせて鍵盤を叩けたりもするが、ただ叩くだけ。あんまりリズムが早いと、合わせることさえできなくなる。
いわんや、創意工夫してメロディーを奏でたり、歌詞があってもなくてもいいが、リズムにあわせて歌うことさえ出来ないわけだ。

つまり、人間に生れて最も幸福なことというのは、他者と協調しつつ生きられる、協調することによって高揚感や幸福感を味わえるということであり、つまりは、芸術的に生きることが人間にとって最も幸福だといっていいだろう。

芸術というと、何か遠い世界のものと思うなかれ。
家事育児にだって芸術性はある。
ここに一輪挿しの花おくといいかな〜とやってみたり、洗濯ものを美しく畳んだり、箪笥に並べるのに彩を考えてみたりと、しようと思えば、いくらでも芸術的に生きられるのだから。
料理の彩を考えたり、つけだしやら、つけおきを工夫するのだってひとつの芸術だ。
夏は涼し気なガラス、冬は温かみのある陶器でとか、目を配れば、いくらでも芸術的に生きることはできる。

でもやはり、音楽をみなで奏でる。これほど人間らしい幸福はないだろう。
日々に交響曲を聴くたびに、この幸福感に包まれている。
その交響曲も、自然のなかにあるあらゆる音が協調しているハーモニーを人間が楽譜にして演奏しているだけだと知ると、自然にある偉大さに畏敬を抱かずにはいられないだろう。



ipsilon at 18:43コメント(0) 
日蓮は三世の宿業を「佐渡御書」で否定していることも知らない愚か者にも辟易する。

正法の家をそしれば、邪見の家に生ず。善戒を笑へば、国土の民となり王難に遇ふ。是は常の因果の定まれる法なり。
日蓮は、此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲弄せし故に、此の八種の大難に値えるなり。此の八種は尽未来際が間、一づつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚り起せるなり。

つまり、日蓮は過去に行ったことによって今報いを受けているのではないといっているわけだ。
そういう常業と呼ばれるもので今苦しんでいるのではないとはっきりいってるわけだ。
しかも、この文の前では、宿業ってのはああだのこうだの法華経にも説かれているが、所詮「はかりがたき」といっている。日蓮自身が「はかりがたき」っていってるのに、日蓮宗だかなんだか知らないが、その一信徒が三世永遠の因果があるとか断言できるって凄いよな。随分と傲慢だよね。

で、ここで日蓮の受けているのは常業ではなく、法華経を過去世に誹謗したからとはいっているが、実はもっと大事なのはその後の部分だ。
すなわち、日蓮が「今ここ」で法華経の敵を責めているから「今ここ」で様々な難に遭っているといってるわけだ。
ただし、ここで日蓮がいっているのは相対的な見方をすると「今ここ」で法華経の敵を責めているから、「今ここ」で難に遭ってるように、あなたがたからすると見えるといってるのであって。これは信徒の疑問に答えるためにそういってるわけだ。
だから、正しく日蓮の因果論を絶対的に解釈するなら、「今ここ」で法華経の敵を責めるという善いことをしているから、わたしは「今ここ」で歓喜し、功徳を満喫しているということだ。

つまり、今やっていることで今その報いをうけるのであって、日蓮は三世永遠の因果だの宿業なんてものをは否定してるんだよ。
極めて当たりまえのことでしょ、こんなこと。自分がある行為をして、良いことをしたなぁと思ったときには、心地よい爽快感がある。逆に、ある行為をして悪いことをしてしまったと思った瞬間に、冷や汗が出て赤面しているとか、極めて当たりまえのことなわけだ。
つまり、日蓮のいう因果論とはそのようなものであり、自分がしたことに対してそれに見合った感情なり感覚を感受するという絶対的な視点でのものであり、自分がしたことを他人が見て「それは悪事だ!」などと評価するような相対的なものでもないし、誰か他人がこのわたしの因果論を「こうなった結果には、こういう原因があるだろ」なんて証明できるような代物でもないということだ。

創価とか誤った日蓮宗が、日蓮の思想を捻じ曲げて、やれ御本仏だの三世永遠の因果を完璧に説き明かしただの嘘ついてるだけだわ。そしてそういう間違いにまんまと騙されてることも知らずに、知ったかぶりして偉ぶり、人を貶す。恥ずかしすぎんだろ。
証明できるならしてみろってば。わたしの過去がどうであって、今こうしているから、来世どうなるって証明してみろっての。できっこないだろうが。もしそれが出来るというなら、それこそオカルトだぞ。
だから、日蓮にしたところで、三世永遠の因果を完璧に説き明かしてなんかいないんだよ。

この、「今良いことをやれば、今良い人である」という論理は、釈迦が説いた因果(具時)論――つまり、間違いなくあるのは現在だけなのだから、今やったことが今現れるという当たりまえの話をしてるだけ――であり、三世の因果論の決定的な否定なわけだ。日蓮もまた釈迦と同じ立場をとっているということだ。

まあ、そうはいっても物理的な因果というのはあるさ。殴れば痛いとか、動かなきゃ何も手に入れられないとかな。けどそういうニュートン力学的なものを普通は三世永遠だなんて誰もいわないわけだ。そういうのは普通、この世界だけで通用する事象的因果というわけだ。
大方は、そういう因果をもちだして、精神的な世界や生命現象にも因果があると妄想してるだけだろ。愚かにも。
より正しくいうなら、神経を電気信号が伝達するとかいったような、情報と物とエネルギーが交換されるような時間のともなう現象には因果があるが、エネルギーだけの状態とか情報だけの状態、つまり精神とかクオリアといった範疇になると、時間の概念が通用しないから、そこに因果論なんてものは成り立ちようがないってことだ。死んで肉体や脳を作っている物質とそこに蓄積されていた情報と、そこに宿っていたエネルギーがバラバラになってみなよ、どうやって情報やらを伝達すんだよ? できっこないだろが。だから死んだら無なんだよ。三位一体じゃあないが、物と情報とエネルギーの三者があるから、われわれは便宜上、現象には因果があるって見てるだけってわけだ。

だいたいにおいて仏教の究極は「空」なのに、三世永遠の因果があるなんて思考は、相当に異常な思考だ。
まあ、その「空」すら理解していないからそういう迷妄に執着するんだろうよ。
肉体とか、今の自分とか、所有とか、そういうものを失うのが怖いから、三世永遠の因果ってのを信じたい臆病者なだけだろ。
死の恐怖を和らげるお呪いみたいなものとして信じるのを否定はしないけどね。
何を信じようが個人の勝手だからなぁ。

わたしはむしろ、死んで無になると知っていても、生きているあいだに、この生を充実させようとすることや、自他にとってよい世界にしようと努力することこそ、尊いしカッコイイ生き方だと確信してるがね。
死んで無になるなら、何もしたくねーとか、死んでもやったことは報われるなんて考えのどこが尊いんだ?
そんなもん、私利私欲やないか。貧乏くさいし、利益しか眼中にない意地汚い生き方じゃねーか。

ただし、世間というのは、今良いことをやっても、必ずしも良いことをやったとは評価しない。
だから、日蓮はそのことについても触れているわけだ。

夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり

先というのは枝葉のことであり、誰の目にもよく見えることだという意味だ。本というのは根っこであり、根源的なことなのだが、土に埋まってるいるので見えないという意味だ。
よって世間の賞罰というのは、良いことをすれば必ず表彰されるわけでもなく、悪いことをしてさえ顕彰されるようなことがあり、あてにならない。だから、日蓮の弟子であるなら、世間の評価など気にせず、仏法の眼でものをみて、自分で自分をしかと評価していきなさい(自在であり、自由であれ)。例え世間に評価されずとも、腐ったり倦まずに仏教に従って生きなさいという意味なんだよ。

現世利益しか頭にない奴には高尚すぎてわからんかもだがな。

ただ真実を語るのみ。
個人的な人格攻撃はしないよ、誰かさんみたいにはね。

恐らく、目指している人間性の次元が違うのだろうねぇ。



せっかくだから、もう少し話しておこうか。

そもそも因果論を説いたのはバラモン教とかヒンドゥー教だ。そのヒンドゥー教は因果を肯定しているからカーストも肯定したという流れがあるってことだ。
だから因果論というのは、必ずといっていいくらい差別を生むということを見抜いた釈迦は、因果論を否定したんだよ。

因果論は、過去に悪いことをやったせいで今のお前はこうなんじゃないか! だったらその過去世の報いどおりに生きろよというのがカースト制度だからね。つまり、今ここにいるその人を見ず認めず、その人の過去がどうなのかも知りもしないのに、ただ生まれという過去だけで、今ここにいるその人を評価し判断してるってわけだ。そういうふうに因果論というのは差別を生むってことだ。

また別の言い方をすれば、今必死に良いことをしても、「お前は過去世に悪いことをしたんだから、しょせん良いことをしようと、過去の悪事の報いをうけるだけだ、良いことなんてしても無駄だ」というように、人が努力して変わっていける可能性までも否定するどうしようもない論理だから釈迦は否定したんだよ。

日蓮だって、そう頭の悪い人じゃあない。曼荼羅に仏教にありもしないものを自己解釈で入れてしまったりはしているが、それでも必死に釈迦から学ぼうとしてたのも事実だろう。
そういうことで、正しい仏教ははじめから終わりまで、どこまでいっても因果論なんて肯定するはずがないんだよ。

法華経にある因果論で、籟病に生れてきたのは云々……。これ最低の差別思想なんだわ。かつ、人間の可能性を否定する最悪の思想でもある。
日蓮もそれをわかってたからこそ、佐渡御書にあるように、説明に苦労したんだろうねぇ。


そもそも、良識のある人間なら、宿業とか宿命なんて言葉をもちだして人を虐めたりしないんだよ。

宿命というのは、じつに嫌なことばだね。二重の意味で人間を侮辱している。ひとつには、状況を分析する思考を停止させ、もうひとつには、人間の自由意思の価値を低いものとみなしてしまう。宿命の対決なんてないんだよ、ユリアン、どんな状況のなかにあっても結局は当人が選択したことだ。(中略)ヤンは、自分の選択を「宿命」という便利なことばで正当化したくなかったのだ。自分が絶対的に正しいのだ、と思ったことはヤンは一度もない。いつも、もっと良い方法があるのではないか、より正しい道があるのではないか、と思い続けてきた。(中略)彼を信頼してくれる人、彼を非難する人は多く存在したが、彼に変わって考えてくれる人はいなかった。だからヤンは、自分の才能と器量の範囲内で考え、思い悩まなくてはならなかったのだ、「宿命」と言ってすませられるなら、そうしたほうがずっと楽だった。だが、ヤンはまちがうにしても自分の責任でまちがいたかったのだ。(田中芳樹『銀河英雄伝説』)

わたしに変わって何か出来るなら、いくらでも非難するがいいさ。
でも、そんなこと微塵も毛頭もできないだろ?
だったら、人のことあれこれ言ってないでさ、自分のことに必死になればいいんじゃーないの?

ipsilon at 15:43コメント(0) 


ipsilon at 08:15コメント(0) 
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