2017年07月21日

わずか10数ページ読み進めただけだが、重要だと感じることがあったので忘備録として。
内容は譬喩品の「三者火宅の喩え」の部分になる。

気になったのは2点。

仏は「知見」「力」「無所畏」をもって法を説かない。ただ、智慧の方便のみをもって説くということ。
さてこれ、どう説明したものか。
簡単にいえばこうなるだろう。「知見」「力」「無所畏」「智慧」は仏のもつ特質である。しかしながら、いまだ仏の境涯というものがいかなるものか知らない衆生に対して、仏が見知ったもの(知見)を話しても衆生はわからない。
同様に、仏となれば「知見」によって備わる「力」や「無所畏」で法を説いたところで、衆生にはわからないからだ、と。

つまりは、悟りというものの根本は「(如実)知見」であることがわかるわけだ。
これ、平たく言えば、「ありのまま」にものを見ることでり、ありのままにものを見れば、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印であり、これに「一切皆苦」を入れて四法院といい、仏の覚りは実はこの四つに過ぎないということになるわけだ。
もっとも、この四法印は、「諸行無常」から他の三つは導きだされるとわたしは思ってますけどね。
全ては移り変わる事象の連続にすぎない。だとしたら、確固たる自分など存在しえない。また自分があると決めることもできない。また、すべてが移り変わっていくとしたら、そのように見ていけば、すべては安穏に見えるということであり、また、そう見れないなら全ては苦(思い通りにならないもの)と見えるだろうと言ってるだけですからね。

しかし衆生はそういうものの見方(知見)に至っていないわけで。
そこで仏は法を説くとき、仏の特質である最後の切り札とでもいうべき智慧(と方便)を使うわけだ。
ものすごく論理的でとても納得できることだと思う。

じゃあ智慧ってなあに?
こう考えればわかりやすいのだろう。
知見とはその人のもつ能力であり、智恵とはその能力を説明する行為だと。
いい換えるなら、心の中で思ったことを言語化あるいは行為として、相手に伝える術、それが智慧だと。
そしてそのことでしか、いまだ知見を得ていない衆生は、「ああ、なるほど。そういう能力は俺っちにもあるよね」と悟りへの道を自ら踏みだすわけだ。

よって、悟りの境地へは「主体的」な「自律性」――自発能動――によってしか達しえないわけだ。
だから、三者火宅の喩えのなかで長者は子どもたちに、「〜であるべき」とか「〜しなさい」とか「〜は絶対なんだよ」などという説き方は一切していないのである。長者(仏)はあくまでも、勧めることはしても、それを無理強いなど一切していないのだ。それが正しいとも一言もいっていない。ただ、君たち前から車欲しがってただろ、今、家の外にあるぞ〜! と言って、子どもたちの中にある主体性を薫発したに過ぎないわけだ。これが智慧の方便ということだ。
どこぞの団体とは大違いである。


といった具合に、衆生は自らの主体性にのっとって成仏へと歩みだすのだ。
ゆえに、譬喩品にはこういう言葉も出てきた。
悟りへの道は「無師智」である、と。
でもこの「無師智」を説明するのは非常に骨が折れる。

簡単に言えば、誰人であっても悟りを得ることは自分一人で行うことだ、と。
つまり色心不二にあって、色(身体=五感)は心を頼りに、心は色(身体=五感)を頼りに互いに互いを補完しあいつつ、自分の中で真理を悟るのが仏だという意味だそうだ。よって師があって悟りを得るのではないということを、法華経譬喩品でははっきり説いているわけだ。

しかし、「無師智」にはまた依正不二も含まれるわけで。
そうなると他者(師匠)というものがあってもいいということになる。
ただし、師といってもその師が仏の境涯にあらなければならないのだそうだ。でも諸行無常。師といえども常に仏であるわけでもない。であるから実際的には仏縁という名の師(善智識・善友)と関わることで、自分の中で真理を悟ることが尚更容易になるということだ。

方便品にもそのことは説かれていますよね。
「唯仏与仏」とね。
仏と仏のみが縁しあったとき、悟りを得られる、と。

まあこれ、キリスト教の三位一体みたいなものですよね。
仏縁があって、心があって、身があって、その三つが一つも欠けることなくあって、はじめて正しく悟れるのだ、と。
キリスト教はこれを父(心)と子(身)と精霊(縁)だと言ってるだけでしょ。
もっとも仏教ではそれを三学(戒・定・慧)とも、三宝(仏・法・僧)とも言ってるだけでしょ。

だから、「無師智」の正確な意味は、自分の心と体だけで悟れるといえばいえるが、そういう方法だと我見に陥ることがありえる。だが、仏縁があれば我見に陥ることはない、と。

そして譬喩品ではこうも説かれている。
仏と仏が悟った内容が違っても別にいい、と。
ようは仏法による悟りとは、自分は自分の五感などを使って、物事をありのままに見ていけばいいんだねということを人間同士が確認しあうということになろう。
道理として、非常にあたりまえのことを言ってますよね。
個々人の五感はそれぞれ違うんですからね。だったら、わたしはわたしらしく、あなたはあなたらしくあればいいよねというのが仏法の悟りだということになろう。

だが現実は、その五感を欲望を満たす道具として使っているのが愚かな衆生というわけだ。
五感をつかって欲望を追いかけたり、今自分がどういう欲望を感じているのかを知るために五感つかってどうするの? それを成仏する(事象をありのままに見ていく)ために使えばいいんじゃない? そう勧めているのが仏法ということなのですがね。

まあ、こういうことをきちんと経典から学ぶと、どこぞの団体の掲げている「師弟不二」というのが、いかにインチキなものかはすぐにわかるのではないだろうか。


それにしても面白い。
一流の人はみな同じ境地に辿りつくというのがね。
ブルース・リーが生んだジークンドー(截拳道)。これは型をもたない武術であって。
常に変化する事象を見極め、そのときそのときに自分の知っている論理(知識や経験)の中で最高の攻撃や防御をしていくという武術なのだそうな。
もっともブルースとかの次元になると、論理的な攻防を無意識にできるようになるまで訓練しているし、攻撃はと防御を同時におこなえたりもするわけで。

そしてブルースは、そのシークンドーを生きるための哲学としても広めたいと思っていたのだとか。
そんな彼の残した言葉は実に仏法に合い通じているわけで。







ipsilon at 15:07コメント(0)『法華義疏』 

2017年07月20日

人は、生まれて成長して、老いて死ぬまでがひとつのサイクルでしょ。これまで大事にされてきたのは、人生の一部だけだと思わない。仕事で社会に貢献できる人間を、どう育て、どう活かすかってことが、一番の目標のように言われてきたんじゃないかしら。病気や障害を抱えた人への社会の視線も、似た感じがあるでしょ。けど、人間って、何々しなければ、認められないって、そんな軽い存在?


自分の秘密を、共感を抱いて、知ってくれている人間が、ふたりもいる……。
自分もまた、彼らのつらい過去、哀しい秘密を、共感を持って、共有している。
へたな慰めなど言わず、責めることもせず、憐みの目で見たり、もちろん蔑んだり、怖がったりもしない。信じられないなどと、わずかでも否定する言葉を口にしたり、否定的なしぐさをすることもない。
互いの経験を、まるで自分が経験したかのような感覚で、受け止めようと努めている。
相手が経験したことを、我が身が受けたとしたらと想像し、自分の感情で、その経験を生きてみようと試みる。
とてもつらいことだった。悲しく、やりきれず、胸がつまった。実際にからだの痛みを感じることもあった。



両親の前で感情をつなげば、つらい記憶が彼女に襲いかかる。虐待と、虐待があった事実を否定された記憶……存在が否定され、押しつぶされたときの感情が、彼女を責める。だから、感情を切らざるを得ない。
結果として、無力感にとらわれたようになり、自分の意志を表現できなくなる。



自分を犠牲にしたり、身を粉にしてつくすような形じゃなく、ただ相手を認めるだけでよかったの。あの人が一番望んでいたことも、結局わたしと同じだった。あの人が、あの人として生きていることを、わたしが、ただ認め、受け入れるだけで、支えになるとわかった。そんな単純なことで、わたしの人生は意味のあるものに変わっていったの。


現実の時間は、きっと終わりがあることを、幼い頃から、覚えさせられてきた。永遠など、ありはしない。自分が作ることでしか得られない。自分の心のなかにのみ、永遠と呼ぶものは生まれる。




もしあなたが生きていきたいと思うなら、楽しかったこと、嬉しかったことだけ、記憶にとどめ、辛くなったならそれを思い出せばいい。生きていれば、またああいう楽しいことが来ると信じればいい。
楽しく嬉しい記憶を無くそうと思わなければ、それは永遠にあなたのものなのだから。
それを感じられたのも、それを覚えておけるのも、唯一無二のあなただけ。
その無二なる感情を、「〜であらねばならない」などと人や社会に――あなたが崇敬し尊敬する人に――合わせようとして歪める必要なんてない。

もしもあなたが強い人であるなら、知れたことをただ喜び、苦しくて、悲しくとも、それを記憶にとどめていけばいい。

どんな記憶を繋いでいくにしても、それはたった一度しかないこと。それを知る人の心の奥に生まれるのは、きっと感謝なのだろう。

生きることは、死ぬことより、ずっとずっと過酷だ。
僕たちがただ知るために生まれ、死んでいくとしても。

ipsilon at 15:23コメント(0) 

2017年07月18日

様々な場面が心に突き刺さったが、ひとつだけ。

性暴力を受けた少年の怒りを鬱積させないようにと、梁平がベッドに石を投げつけさせて、少年の怒りを噴出させてあげる場面。
このとき、ベッドを立てかけた木がハクモクレンだったことについて触れておきたい。

ハクモクレンの花言葉は「自然への愛」「慈悲心」だそうです。
こうしたことから、天童が作中に登場させた草花には何らかの暗喩があると思ったのですが、すべてを調べてはいません。

さて、モクレンとえばわたしなど違うモクレンも思い出すのです。
仏教説話に登場する釈尊の二大弟子の一人で、神通第一とわれる目連です。

彼は三度外道に襲われ、三度目に体の形がわからなくなるくらい石礫を打ち据えられて死にました。
神通第一で、これから起こることを予見し、避けることもできた目連が、なぜ自ら死を選んだのか?
ここに仏法の深遠さというか、罪と贖いがあるようです。

目連は神通力によって、自分が過去世に犯した罪の深さをしっていたがゆえに、その贖いは死をもってでなければならないことを彼は知っていたんだそうな。
だから、二度目までは神通力をもって死を回避したのだそうな。
しかし最後は死を受け入れることによって罪を洗い清めようと決心したのでしょう。
むろん、日蓮仏法では神通力をつかって未来が見えたとしても、理根通力を使ってそれを変えることは厳しく諌められています。

しかし、天童がそこまで暗示を含めて書いたのかはわかりません。
こうした思索はあくまでもわたしの個人的なものですからね。

しかし、そうしてこの少年の石を投げる場面を眺めると、実に悲しいと思うだけです。
少年である彼にはもちろん神通力もなければ、なぜ自分が暴力をうけたかすらわかりません。
しかし、仏法の眼でみれば、すべては原因と結果なわけです。

現実的には、少年は怒りを吐き出し、その後、できれば母親といった存在に抱きしめられ、「お前はなにも悪くないんだよ」という承認を与えられるべきだと天童は書いています。
わたしもそのとおりだと首肯します。

けれども仏法の眼で見ると、この少年の行末が非常に険しいことが見えるわけで。

学んできた池田氏の指導で、今でも心に突き刺さっているものがあります。
それは「逃げるな、避けるな」という指導です。
目連の説話そのものですね。

つまり、自分の犯してきた罪は自分の命をもって贖わなければならない、ということでしょう。
しかしそれは何も命を粗末にすることではありません。
目連にしてもそうでした。彼が死すことを恐れなかったのは、すでに修行が完成し、自らの心身がどんな暴力(苦悩)をうけたとしても、絶対的な安穏にいられることが出来たからです。

日蓮も難について様々語っていますが、多くの人は難の意味を勘違いしているようです。
法華経の行者は正しいゆえに杖木瓦石によって迫害される、と。
まあ表面だけ見ればそのとおりでしょう。
しかし難の本当の意味は違います。
杖木瓦石をもって迫害されても、絶対的安穏に住していられる境地に辿りつくために難があるというのが、正しい解釈でしょう。

むろん難といっても、自分が過去世に行ってきた罪の贖いに過ぎないわけで。
自業自得なのですがね。それはわたしにしてもそう。
法難を受けるのは、かつてどこかで法を誹謗したからでしょ。
すべては自分に原因があるということ。
わたしなど、過去世のどこかで、相当に多くの人の心を深く傷つけてきたのでしょう。

さてそうなると、自分が難にあうのを変わって受けろといった日蓮の思想はいかがなものなんでしょうかね。

若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし。

このようなことから、日蓮であっても、完璧ではないことはわかるのではないだろうか。

ちなみに釈尊は、死を覚悟した目連に何も言わず、彼の主体性を尊重しているんですがね。
少なくとも、わたしは難に関しては釈尊のほうが日蓮より、よほどきちんとわかっていたように見えるんですがね。

日蓮の残した言葉を人情として見るなら、それはそれで理解はできるんですがね。
仏法の厳粛さからしたら、他人の罪を身代わりになって受けることなど不可能なわけです。
でも、その罪を自覚するために受ける痛みや苦悩を分かちあえるのが人間の素晴らしさじゃあないのか?
そう問うているのが恐らく日蓮の本意でしょう。
嬉しいことだけ分け合って、悲しいことは見て見ぬ振り。それじゃあ人間として生まれてきた価値はないよと、日蓮は言いたかったのではないでしょうか。

もっとも他人の苦悩を我が苦悩と感じるためには、全生命をつかって相手の立場に立って凄まじいまでの想像力を駆使する必要があると天童は作中で語っていましたがね。
優希が登山中に行方不明になり、彼女を探すジラフとモウルが、彼女の内面を推し量り、山林のどちらに向かったかを必死に考える場面ですね。

そして大きなクスノキの根元にある洞穴に優希の姿を見つける場面です。
ちなみにクスノキの花言葉は「芳香」ですが、ここでは恐らく、古代から神木として崇められてきたという歴史的な暗喩なのでしょう。

作中には、ゲッケイジュ(ローレル)なども出てきます。花言葉は「栄誉と勝利」ですね。


結局は専門家の問題じゃない。裁判官は個々の好き嫌いで判断するのだとしても、あくまで一市民の価値観に照らし合わせたうえでの好き嫌いだとしたら……社会全体の拠って立つ視点が、<やられた側>からのものに変わったとき、初めて判決なり罰則なりも変わってくるんじゃないか……。もっとも、社会がそんな形に変われば、いままでのような経済的な発展は望めなくなるだろう……。<やられた側>のことなんて見ないようにして、どうにか発展してきたところもあるからな……。うち(弁護士)なんて、一番に仕事がこなくなる。そうなりゃ、そうなったで、別に困りもしないがね。


天童がここで笙一郎の口を借りて語っているのは、<やられた側>に立つ社会になれば、すべてが良くなるという意味ではないだろう。そこを誤解すべきでないと思う。
ようはバランスの問題であり、今の社会は強者の側の立ちすぎているということだと見るべきだろう。
大事なのは平等でありバランスなんだと言いたいのではないだろか。


「ジラフだって、外の世界であったことのすべてを、ぼくに話したわけじゃないだろ」
「かもな……」
「話すには、思い出さなきゃいけないんだ。けど、思い出すのが一番つらいんだ」
「……そうだな」



頭痛がしていた。他人の感情を生きることは、つらくありったけの力が必要だった。
ふたり(ジラフとモウル)は、落ち着くまで、互いに前を向いたままでいた。それぞれ、涙を流していることに気づき、そっと手でぬぐった。息をつけるだけの余裕を得て、顔を見合わせた。


小説はフィクションだというが、この作品はそうともいえない。
現実にこういうことが起っているのだから。

まあ、一般の方は、被告人の実母と内縁の関係にあった男を鬼畜とみて、バッシングするのが関の山だろう。
でも、虐待を本当に考えるなら、彼と彼女も実は加害者でありながら、かつては被害者だったという視点をもってあたるしかない。
心理学からいえば、虐待とは憎しみの連鎖なのであって、そのことに気づいた人が連鎖を止める以外、こうした痛ましい事件を減らしていくことは出来ないわけだ。

単に加害者と被害者という二極だけで見て、愚痴や文句を言っていても、何の意味もないのだ。
政治の世界も同じだ。
一人一人の人間の胸奥に潜んでいる、自己本位性という根源に目を据えずに、日々起こる事件・事故を非難してみても、そこには大した意味などないのだ。いなむしろそうした非難こそが憎悪の連鎖を生んでいるのだが。そうした加害者への憎悪をもっとも煽っているのが、マスコミであり、それに同調する市民なのだろう。


ああそれから、日蓮のことを貶しているわけじゃないですからね。
誤解されるのは癪なので書いて置きますが、引用した部分はそこの文脈ではそう言ってるというだけですよ。
正確にいえば、言葉だけで真実や真理を語り切れるものではないということを伝えたいわけです。

よって他の遺文では、日蓮は釈尊と同じ思想でものを言ってます。
病気になった信徒に対して、「病気を治すとか云々といった次元ではなく、この際、この機会を逃さず、何があっても揺るがない境地に辿りついてみてはどうですか?(趣旨)」と勧めているわけで。
遺文を相当数読んでいる人で、きちんと文脈を読める人なら、こんなことは説明するまでもないのでしょうがね。

すべては諸行無常。であるなら病気にもなるし、それが治らないことだってあるんです。そしてやがては誰人も死ぬのです。ゆえに、はた目から見て、残虐な殺され方をしたとしても、それをもって不幸だとは言えないわけです。
ようは、本人が自分の死の意味をどう自覚していたかが大事なのでしょうが、一般には殺されたりすると悲惨だ、大往生すれば幸福だったなどと、表面しか見ていない場合が多いのでしょう。

むろん、突然殺害などされようものなら、自分の死の意味を自覚する時間もないわけで。
だから、仏教では戒律のはじめに「殺すなかれ」とあるわけです。
だから、日蓮は政治の根底には、まず「殺すなかれ」があるべきだと、『立正安国論』をもって国家諫暁したわけで。

また、仏法の道に既にはいった人からすれば、日々の中で「臨終正念」というものの見方の訓練をしていはずなのだから、どんな死に方をしようと、自分の死の意味はある程度わかっているということになるのですがね。

ipsilon at 20:32コメント(0) 

2017年07月17日

ジミ・ヘンドリックスがカバーしたことで一躍有名になり、これまで数えられないアーティストにもまたカバーされている一曲だ。

わたしもこの曲を知ったのはジミの演奏によってだった。
でも、知った当時は凄まじい内容の歌詞とそれに見合わない曲の雰囲気がどうも好きになれなかった。
しかし、最近はこの曲のメロディーと詩が自然と頭の中で流れるくらいに大好きな曲になった。

歌詞の内容は簡単にいえばこうなる。

ジョーが妻を殺害しメキシコに逃げるというもの。
ただこれ、歌詞を聞いていると不思議な感覚になるという仕掛けがほどこされている。

歌いだしは「ヘイ・ジョー」という彼からの呼びかけからはじまるのだが、歌詞が進んでいくと、ジョーに共感した彼がジョーと一体化していくような流れになっているのだ。
終盤、ジョーは首つり縄にさえ殺されないところへ逃げるという。
彼はそれを応援していう「うまく逃げろよ」と。

なんちゅー歌詞や……と何度も思ったものだ。
しかし、最近はこの「ヘイ・ジョー」の暗澹たる歌詞の底にある哲学が見えるようになった。


自由――。
「ヘイ・ジョー」は、なにものにも縛られない魂の自由のことを歌っているのだと気づいたのだ。
所有欲を捨て去れば、死によってさえ破壊されない自由に辿りつけるのだ、と伝えたいのだろう、と。
「ヘイ・ジョー」では、その表現があまりにも辛辣なだけなのだろう。

最愛の妻を殺すというのは、自分が最も執着しているものからの束縛を断ち切るためには、自分からその道を選ばなければならないという深い意味が隠されているのだろう。
そうしてこそ、真の自由、魂の自由が得られるのだと。

けれども、それを外から見て、共感しあるいは同苦しながら、最後には「それでいいんだ」と承認してくれる存在も必要なんだという深い意味も隠されているのだろう。

こんなふうに思って曲を聞けば、「ヘイ・ジョー」がただのマーダー・バラッド(殺人哀歌)には聞こえないことだろう。
真の自由を求めて、さすらう孤独な魂へのレクイエムに聞こえるのではないだろうか。



わたしがこういった哲学に辿りついたのは、このホームレスらしい男性の歌声を聞いてからだ。

生きていくために歌っているその声が魂に響いたのだろう。
他にもホームレスらしき人たちの歌う動画をいくつも見たが、そのとき感じたものを言葉にするのは難しい。
ま、お金を布施していくのに女性が多かったりとかね、そんな部分も見えたんだけどね。


そしてこの「ヘイ・ジョー」の哲学を、わたしは唱題にも見ている。

日蓮は『一生成仏抄』でこう言っている。

深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。


この御文でわたしの心にひっかかったのは「只」という一字である。
只とは、本来は無料という意味である。
つまり、見返りを求めないということだし、いい換えればありのままという意味だ。
まあ、ありのままというのは便利な言葉で、祈りを叶えたいと思うのも、ある意味ではありのままに入るといっていいだろうが、只の意味はあくまでも無料なんですね。よって只にはなにかを払って何かを得るという概念は本来、存在しえないわけだ。

しかしどうだろう、創価では「祈ることによって叶う」という見返りを求めることを教えているわけだ。
すでにこういう時点で欲や執着を捨て切れていないことに気づいたんですがね。
これじゃあいくらやっても……。そう気づいてから、わたし自身は唱題のしかたを変えましたがね。

でも『一生成仏抄』には信心を発してとあるじゃん。それは祈りが叶うって信じることじゃないの?
違います。その点を日蓮は何度も丁寧に言ってます。

妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり
――とね。

さて、唱題のときに、日蓮が教えたとおりに信心を発してる人がどれだけいるのでしょうかね。
わが一念は「空」である。それに名前をつけるなら妙法であり、それを譬喩にしたなら蓮華である。
これは真実なのだ!
そういう心で唱題している人がどれくらいいるのでしょうかね。

日蓮直結などといいながら、根本の根本である唱題さえ、願いを叶える魔法の呪文のように見て唱題していけば、そりゃーおかしなことになりますやね。自分も周囲も世の中もね。
そういった魔法の呪文的唱題は欲を増大させるだけですからね。
その欲が深まれば、自分たちさえ良ければそれでいいという利己主義になるわけで。

今の創価(公明)の姿が明瞭にそういうことを証明してるんじゃないですか。


今日は昨日の夜間散歩のおかげで、疲れ切り、一日中寝た切りオヤジになってました。
冷房つけっぱだったので、頭痛はするわ、寒気はするわ。
ははは、なんて貧弱になってしまったんだと笑う。

ま、なるようにしかならない。ケ・セラ・セラ! いい意味で今を生きてると思えればそれでOK! ある部分では、納得できることもあったしね。
『永遠の仔』の上巻が読み終えられそうだけど、無理はしない。

ipsilon at 23:13コメント(0) 

2017年07月16日

数か月というか、多分一年近くぶりだろうね。
家から公園に向かい、公園を一周。周回が終わる前に足はすでに痛く、帰れるかなって思った。

いつものようにエア・ボーカル、エア・ギターしながら歩いた。
公園半周終わるまで、凄まじい怒りがあることにすぐに気づいた。
何に対する怒りだよ? それも大体わかった。未だに数年前にあった出来事への怒りが抑圧されているのがすぐにわかった。
と同時に時間が解決してくれるとも思えた。

公園を出て、家のほうへ。
30分は歩いたのかな。でも音楽が心に響いてこない。疲れのおかげで怒りは消えてきたけど。

中途半端さを感じて、家を通りすぎてもう少し歩くことにした。
あっちこっち痛い。けどある曲が流れだしたとき、心が震えた。



戦いは飽きたのさ――。

この詩を聞いた瞬間、心が震えだした。
やれ戦え、それ戦え、勝て、勝て、勝たなきゃ意味がないんだ!
そういう不毛な戦いに、どれだけうんざりしていたかに気づいた。
そんなものは自分が自分の中に作りだした強迫観念なんだと。

じゃあ何故またこんな苦しい思いしてまで歩いてんだ?
運命さだめとあれば心を決める――。
それだけのことさ。

いいさ、これまでどうしても嫌だと何度も考えてきた、怒りを原動力にすることが運命なら、受けいれるだけだ。

ipsilon at 23:25コメント(0) 
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