2010年05月02日

歓喜に寄せて〜An die Freude〜

 再生したシンジは、日々のエクササイズに取り組み、父親の入院先を訪れ、母を励まし、自分のすべきことを淡々とこなしていた。
 そして、ランコと約束した『マドンナ』の絵を描くことにも取り組み始めた。バイトを止めてしまったシンジには、夜、時間があったので、絵を描く時間はたんまりあった。しかし、F5サイズ(352mm×275mm)という、わりかし大きいサイズのカンバスに、久し振りに全精力を傾けて鉛筆を動かすことは、彼の欝を悪化させる危険を孕んでもいた。カンバスに向かえば、どうしても、ランコとの楽しい日々を思い出してしまうのだから。無理もない話なのだった。

「くそー! ここいまいちだなー」
シンジは、半分ほど下描きが進んだスケッチブックを少し手元から離して独りごちた。
「納得するまで直すぞ。あ、CD終わってんじゃん」そういいながら、ラジカセの元に走る。
「たまにはクラシックでも聴くかな。CDとっかえるの面倒くさいしなー」
そういってシンジは、ベートーヴェンの『第九』を取り出した。
「ふーん。カラヤンとー、フルトヴェングラーとー、トスカニーニかー。俺的には、フルトヴェングラーだけどー、まぁBGMだから無難なカラヤンにすっかー」
そういってCDをセットして、またデッサンに戻る。

 シンジがカリカリと鉛筆を走らせる音がしばらく続いたあと、静かなオープニングで第一楽章が鳴り始めた。
「くあー! いいねー この荘厳な感じ。絵を描くならやっぱBGMはクラシックですよー! しかも『第九』とかヤバイね。美しすぎます先生!」 
ひとり馬鹿なことを口ずさみながらも、シンジは真剣に鉛筆を走らせ続ける。

 「第九は、やっぱ3楽章の後半からが最高なんだよな〜。1楽章から面々と培ってきた音楽に自分で酔ってさ〜、安穏を貪ろうとするベトベンに向けて、警告のトランペットが鳴る!」
 どうみてもロッカーな見た目のシンジだったが、中学時代にクラシック狂の友人がいたので、そこそこにクラシックの知識は持っていたのだ。

 「んで、第四楽章の冒頭で、“違ーう!、これはおいらの求めてる音楽じゃーなかとよー!!”ってベトベン叫ぶんだよねー。だから4楽章の最初の和音は、チョー強力な不協和音。聴いてる方はビビルんだけどね。でも、そこが堪んねーんだよなー。くははは」
誰に語りかけるでもなく独りごちている自分に、シンジは思わず自分自身を嘲笑する。
「そして、ベトベン君が書き足したシラーの詩の大合唱ですよー! きゃーたまらん!」
 ともすると自己満足に陥り、安穏の日々を送ろうとする自らを諌め、常に新しいモノを作ろうとする、ベートーヴェンの生き方や楽曲が、シンジは大好きだった。そしてそれが最後には世界愛に到達するという『第九』は、まさにベートーヴェンの真骨頂なのだと、シンジはそう捉えていた。

 ベートーヴェンの情熱の力を借りて、シンジは休むことなく鉛筆を走らせる。
「色は赤。絶対赤でいくぞー」
もう少しで下描きが終わる頃、シンジは力強い声でそう言い放った。
「俺にとってランコは真紅だもんな。それ以外の色なんて考えられっかよー!」

 幼少の頃から絵を描く魅力に取り付かれ、画家を志したかったシンジである。創作に打ち込むその喜びは、恐らく誰人にも侵されることのないものだったのだろう。シンジはただ黙々と全神経を集中していく。

 しかし、それは過酷な作業でもあった。人の持つ狂気とか歓喜のエネルギーは莫大な集中力を生み、そのあと巨大な疲労を残すからだ。だから、『第九』が3楽章まで進んだころには、シンジは極限状態にいた。
 音楽は聞こえていても、何も聞いていない、ただ振動を心で受け止め、自分の周りにあるものは視野から消失して、見えているものはカンバスとモチーフにしている、ランコから預かったパスカードサイズの写真だけになっていたのだ。
シンジはランコを激怒させた、あの夜見た夢のような、純白の世界にいたのだ。

 (俺の指標はなんだ!? そうさ、今はこの絵を精魂込めて描くことさ! 誰もいないこの世界だろうと、もう恐れなどない! 俺の抱いた愛は嘘じゃないって“信じて”、その愛を“与える”ためだけに、この絵に魂を込めるのさ。そうさ、この絵を描き上げれば、まだ見つけていない、最後の指標を見つけられるかもしれないじゃないか! なんとしてもやる! いまこの集中力をもってすれば、針の穴のような小さな文字だって読み取れるんだから!)

     『第九 第四楽章 その1』

 ヴェートーベンの『第九』が4楽章に突入したとき、シンジの集中力は頂点に達した。
 不況和音の後、重々しく第一主題が現れる。

 (よし、もう少しだ、今日中に下書きは終わらせるぞ!)
その日、何度目かもわからない、離して眺める作業をして、すぐさま顔のデッサンの修正にはいる。と同時に、
 『第九』は主旋律を奏ではじめる。

 (よし、いいぞー、でもここの手の流れが気に入らない。ここはもっと微妙なラインだ! そうじゃない! もっともっと繊細なラインだ、直線でもなく、カーブしているように見えても駄目だ! 違う、そうだ、この感じだ!!)
 その瞬間、フルオーケストラが主旋律を奏ではじめる。

 (よし、いいぞ、祈りのポーズしてるんだから、両手を合わせてる部分は大事なんだ! よし、つぎだ!)

  『第九は』不況和音を鳴り渡らせて、もうすぐ歌の部分に入ろうとしている。
(よし、あとは顔だな、ここはー、ここはー、どうすればいいんだ? くそー、集中だ! 集中するんだ! 自分が一番美しいと思えるラインを思い描くんだ! いや違う感じるんだ! どこからか湧いてくるはずだ、焦るなシンジ、焦るんじゃない! 心を落ち着かせてただ心の中心で感じるんだ! きた! 見えた! そうだその曲線だ、考えるな! 感じるんだ!)

  『第九』は、柔らかく主旋律を奏でている。
「ふぅーっ」
感じることに集中しすぎたシンジは、それまで呼吸をしていなかった感覚がして、大きく深呼吸してから、カンバスに戻る。
(いいぞ、脳に酸素がいった。心で感じたことを、理性が“それは間違っていない”と告げている!)
その瞬間、シンジの耳に“おお 友よ!”という、バリトンの声が響きわたった。

     『第九 第四楽章 その2』

 もうそのあとは、シンジも『第九』も、時に行進曲に合わせ、はたまた合唱に合わせ、怒涛のごとき前進をするだけだった。その様は、絵画と音楽というふたつの巨大芸術の大競演の情景でもあった。
 そしてシンジは『第九』の最後の合唱部分の大爆発とともに下描きを終えた。

鉛筆を置いたシンジは、大きな声でこう叫んだ。
「ブラーヴォ!!」とただ一語。


「歓喜に寄せて」 シラー/ベートヴェン

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
(ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上の楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(シラーの原詩:
時流の刀が切り離したものを
貧しき者らは王侯の兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての被造物は
創造主の乳房から歓喜を飲み、
すべての善人とすべての悪人は
創造主の薔薇の踏み跡をたどる。

口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を
創造主は我々に与えた
快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ
智天使ケルビムは神の御前に立つ

神の計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟たちよ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
父なる神が住んでおられるに違いない

諸人よ、ひざまついたか
世界よ、創造主を予感するか
星空の彼方に神を求めよ
星々の上に、神は必ず住みたもう


     『第九 第四楽章 その3』

ipsilon at 23:47コメント(2)トラックバック(0)私小説『真紅の恋』  

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コメント一覧

1. Posted by 桜餅   2010年05月03日 12:26
ベートーベンの第九をBGMに
マドンナを描く様子…
とても鮮明なイメージで伝わってきました

完成した絵が見れなくて残念です
2. Posted by イプシロン   2010年05月03日 20:22
今もランコが絵を持っていれば
いつか見れるかもしれませんよ(笑)

鮮烈なイメージが伝わってよかったです^^
作者名利につきます!

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