2013年03月28日

小説・短編『あたたか〜い極寒』#1


 あの男が感傷に浸っている。部屋じゅうが不穏な空気をまとわせている。家具や床がまとうのは埃だけで十分である。「掃除でもして体を動かして感傷の列車など途中下車してしまいなさい」という訓戒を垂れてやりたいところだが、勘忍袋の口をぐぐっと縛って辛抱してやろう。さあ話せ、何がいいたのだ?……。
「いや別にさ、そんな大袈裟なことじゃないんだけどね、ちょっと書き出していない思い出が湧きあがってきてね、書いたらスッキリするかしら、なんて思ったりしてね」
 相変わらず言い訳がましいのは、この男の特徴ではあるが、短所でもあるとそれがしは思うのだ。
 ――いいから早くいえ。待っているほうも楽じゃないのだから……どうせろくでもない内容なのは……。
「今までさ、寒かった経験は数々してきたんだけどさ、格別なのがあるんだよね」
 この男、いままで何度も支払いを忘れて電気が止まった経験をしている。いや、それだけでなく電話はもちろんのことガスも水道も止まった経験があるのだが……。
「世の中って不思議だよね。誰かがいると余計に寒かったりする。その反対にさ、寒いはずなのに誰かがいることで指先が真赤になって感覚すらなくかじかんで、口が回らないほど青紫色の唇を震わせていても、心はあたたか〜いってことがあるんだよね」
 あたたか〜いですか。冬場はそうですね。自動販売機のあの赤い地色に白抜きの文字で書いてあるやつですね。「あたたか〜い」ね。たいていの場合、書体が丸ゴシックになっているやつですね。たまに、「あったか〜い」とか「あったかぁ〜い」とかいうバージョンも見かけますね。自販機のメーカーさんは談合して「あたたか〜い」一本に統一しましょう! とかしないのかしらね?
 とまあ、この男をからかっていても埒があかないので、話を先に進めよう。

 まだ若かったこの男が、無病息災、身体強健、栄養良好であり、心身壮健とはいいがたかったが、なんとなく一人前になった頃の挿話らしい。
 ひとり暮らしは淋しいものである。仕事場では同僚や先輩後輩たちにかこまれて、それなりに愉快だったらしいのだが、灯りの消えた部屋にもどると、心がたちまちにして、どよよーんと沈殿する夜が多かったのだそうな。
 この男、それなりに真面目なところもあって、数日のあいだは何かしら気晴らしを探し出して、どよよーんをぼよよーんくらいにはしたらしい。だが、そうした夜が何日も続くと膨れ上がった水疱から水を抜こうとするかのように、酒を飲みに出かけていたんだそうな。水疱の水を抜くために水を飲むというのも、馬鹿げた話ではあるが、まあいいだろう。
「寒い……死ぬ……」
 おい、どこに寝ているんだ……凍死するぞ……。
 この男、母親と暮らしはじめても胸の皮膚のしたに溜まった水からの圧迫を感じると、郷愁の念に打たれて一人暮らしをしていたころの遊び場に足を運んでいたのだ。いわゆるスナックという場所だ。
 まあ何てことはない。終電を逃した愚か者がそこにいるだけなのだ。都会によくある一場面に過ぎないともいえる。
 晩秋が初冬に移ろっていく季節の深夜だったので、あたりは漆黒に包まれているはずである。しかし、都会の丑三時というものは街燈が滲ませている明るさのせいで、それなりに明るいものなのだ。
 もっともそこは駅の構内であったから、当然のごとく白じんでいたのだが、それでも階段に続く空間は灰色のシャッターに遮られて見慣れた温かさはなかった。
 風がびゅーびゅーと鳴って、丸く太い柱のあいだを吹き抜けていった。褐色の大理石風の柱に貼られたポスターの端が風に煽られて宿酔ふつかよいのような悪寒にはためいていた。
「マジ寒い……酔いが醒めるべさ。けど我慢ならん!」
 男は構内からすこし離れたところにある、「あたたか〜い」という表示の下にあるボタンを押した。金属がぶつかりあう冷酷な音がして、一本の缶コーヒーが落ちてくるのが見えた。
「うっほ! 天国、天国!」と、言っていられるのはほんの僅かのあいだだった。
 紫煙をくゆらせながら、ごくりごくりとする。しかし、缶の中身は無情な早さで冷めていったのだ。
「うえ……よけい寒くなった気がする……失敗ぶっこいたかなぁ……さーむぅーい!!」
 あらゆるものを引きちぎるような横柄な風が、我が物顔で暴れまわっている寒さに耐えかねていた。
 ――歩こう。そうすれば少しはましだろう。
 だが、不幸なことに男が歩きはじめると、夜空が暗くなって雨を降らしはじめたのだ。
 ご愁傷様です。終電なくなるまえに帰ればよかったのにね。
 男は着ていたGジャンの襟を立て、いよいよ強まってきたからっ風を避けようとコートを着た肩に力を入れて、首を縮め、ポケットに手を突っこんで、前かがみになって歩いていた。
 方向さえ定めず行き交う車のヘッドライトを横目に幹線道路を歩いていった。光の玉が通り過ぎるたびに、斜めに降りしきっている細く尖った雨粒が見えた。タイヤが地面を擦る音も冷たく湿っていた。
「あわわわわわ……」
 濃い紫の唇がばたついて、寒気を呪う陀羅尼だらにが吐き出されていた。男は酒気が醒めてゆくのを感じていた。
 ――まじぃーよ。マジで凍死コースだよ、これは……。
 コースってなんだよ。どんなコースだ。ディナーにもそんなコースなどない。食べたら凍え死ぬのか? この男の言葉づかいは時々面白い。男がそれだけ寒かったという証拠なのだが、見ているこっちは思わず滑稽さに失笑を禁じ得ない。
「あー、何ここ! なんかいいね」
 男は電柱を挟んで、ガラス張りになったビルのエントランスを目にしていた。比較的近代的で広いエントランスには贅沢なスペースがあり、その奥には階上へと続いているであろう通路が見えていた。
 男は迷わずに雨と風で冷え切ったアルミ製の銀色の取手を押して中に入っていった。
「あー天国、天国ー! あったけ〜!」
 いかにも動物的で本能のままの言葉だ。味もそっけもない、もちろん工夫もない。詩情などという美的なものは絶無であり無縁の言葉が血色の悪い唇のあいだから滲み出していた。
 なにかというと天国とか神とかいう。本当のところ神も奇跡も信じていないくせに。どちらかといえばこの男、現実主義者リアリストなはずだ。神や天使からすればいい迷惑であろうに。
 いや、それよりもここでは、「あたたか〜い」と言うべきだろう。いちおう三度くらい繰り返せば、読者もここは笑うべき所だと気づいてくれるのだから。小説にはそういうテクニックが必要なのである。
「あたたか〜い! あたたか〜い! ここ、あたたか〜い! とっても、あたたか〜い!!」
 あてつけに四回も言う必要もなかろうに……。しかも一回多いではないか。どうも某とこの男は相性が悪いようである。まあよい。凍死しない程度に見守ってやろう。
 ともかくも、男からすればそのビルのエントランスはそれだけ温かいと感じる場所だったのだ。
「でもさ、微妙に風はいってくるよね……」
 男はエントランスの先に階段を見いだして、そろそろと足を進めていった。
 ――足音、響くなぁ……。
 人気のない雑居ビルの一角である。しかも時間は深夜である。妖しい男に襲われても不思議ではない。いな、この男のしていることがそもそも妖しいのだが……。
 階段の先には広い踊り場があり、壁の高い位置には閉めきられた窓があった。微細な雨粒が水玉模様を描いていた。階段は踊り場を基点として方向を変えて螺旋を描くように上階へと続いていた。
 ――まあいいか。始発までここで休もう。
 男は壁に背をあてて座り込んでしまった。時々雨交じりの風が窓を叩く音が聞こえていた。体が内側から温まってくるのを感じていた。酒はすでに半分は抜けていたようだった。
 こんな状態になれば、次に起こることは予想ができよう。そう、眠けである。じつに本能的であり、動物的な現象に襲われたのだ。
 ――ちょっと横になるか。
 ……どうせちょっとじゃないだろう。なんたる呑気さであろう。ビルの住人だとかが階段を利用しないとも限らないというのに……。もちろん、男もそうしたことには気がついていたのだが、抱擁してくる睡魔の腕をはらうことが出来なかったのだ。この男にいわせればこう言っただろう。
「だって〜しょうがな〜いじゃな〜い♪」――旋律が聞こえたことだろう……もしかして、カラオケがしたりなかったのか?
 時々、夢でなのか、現でなのか、男は足音を聞いた気がしていたのだが、寒さに負けじと、しだいしだいにくるくると丸まってゆき、最後には母親の子宮に帰ったようになって眠りつづけた。
 幸いなことに、男は不審者として通報されることもなく、朝を迎えた。
 高い位置にある窓からまばゆい陽光が差しこんで、踊り場に浮かんでいる塵をきらめかせていた。
 ――もう懲り懲りだ……こんどは終電で帰るようにするぞ!
 とまあ男は自分にいい聞かせたらしいのだが、それからも度々終電を逃したことは言うまでもない。
「仲間と酒を飲んで楽しい思いをしたあとだったからね。だから余計に寒かったんだと思うんだけどね。あの時以上に寒い経験なんてさ、数々あるはずなのよ。でも、今でもあれがナンバー・ワンだね」――だそうです……。
 しかし、あの男のした経験は無駄ではないとも感ずる。人の温もりというものは、それだけ有難いものなのだから。それを知ったあの男は幸せであろう。もっとも、そうした体験をしなければ有難味に気がつけなかったことには、お気の毒様としか言えないのだが……。

(つづく…… 次へ この記事の最初に戻る

―#1―

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