2014年05月31日
ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』抜き書き
ようやく半分を過ぎた。
目を覆いたくなるような凄まじい人生だ。
よく生き残ってきたね、あなたは偉い。
そう心から褒めてあげたい。
私は、いわゆる心の病であるとか、精神疾患を症状や病名でくくることを嫌うものである。
仏法の観点で立てば、一念三千であり、色心不二であるからだ。
総合していえば、うつはうつとしてしか存在しないわけではない。
それは本人が抱える問題の一側面にすぎないのだ。
病名とは視野狭窄を起こさせ、他の側面を見させなくする、悪魔の呪文だ。
私はそう思っている。
本書のドナの場合。
自閉症という範疇だけで理解できるものでないことは明確だ。
ざっと見ただけでも、
ドナには、自閉症、統合失調症、AC、うつ、発達障害が見受けられる。
もちろん細かくあげればもっと沢山出てくる。
自傷癖とか、多重人格とか、云々。
もちろん、自己愛も非常に強いであろう。
所詮、病名などというものは、見る側が勝手につけるレッテルのようなものなのだ。
一体何を見ている、レッテルか? 目の前にいるその人なのか?
そこが問題なだけなんだけどね。
なぜそんなにも、ありのままの自分と違う自分を作り出してしまうのか。
外の世界(環境)との折り合いが上手にできない人というのは、
そうやって自分しか知りえない、自分の心を守るしかないからだ。
なぜそうなった?
それがわかれば誰も苦労しませんよ。
それでも本人はその原因を取り除こうと、それはもう死ぬような思いを何十回となく続けるのだ。
そしてそれは、襲いくる絶望、消えてしまいたい、ここにいたくない、生の否定、自殺願望へと繋がっていくのだ。
それを弱いと言うなら言え。
それこそ、愚か者のすることだがね。
わたしは自分がこのようにな人間になったのが、家庭環境のせいだとは思っていない。確かにうちは「正常」な家庭ではなかった。それよりもむしろ原因は、自分の意識と無意識が常に揺れ動いているような状態だった点にあると思う。家庭環境に左右されたのは、わたしの行動の一部だけであって、わたしの行動そのものではないと思うのだ。そしてまた、家族から暴力を受けたために自分を閉ざすようになったわけでもない、と思うのだ。むしろわたしは、暴力に対して 心を閉ざしていたといった方がいい。暴力もまた、「世の中」の数多い要素のひとつだから。
ドナは、実に鋭い感性で自分を見つめていると思う。感嘆に値する。
誰のせいでもないよ、ただ意識と無意識が不安定なだけ。
いってみれば、これが彼女の宿命であろう。
家庭環境とか暴力は、そうした彼女の本質が、周囲に波及して、特に母親に虐待をうけたのだ、彼女はそう感じている。
かくいう私もね、自分史を書きあげてからは、そういう感覚なんですよ。
そんなことも、誰にも解りはしないのですがね。
暴力に対して心を閉じたドナ。
恐らくここだけ読んだ人からすれば意味不明だろう。
まあ凄まじいですよ。
学校から帰ってくるなり、母親に髪を引っ掴まれて、壁になんども叩きつけられる。
そして母は叫ぶ「なんであんたは泣かないんだ!」。
ドナは知っている、自分が泣きわめいて、「やめて!!」と叫ぶことで、
自分が相手の思うままになってしまうことを。
自分が自分の生を歩めないことを。
だから彼女は、何をされても無表情で暴力を無視するしかなかったのだ。
「世の中」にあるこういう要素。
人それぞれ違う要素。
その要素から自分を守ろうとすることがいけないことかい?
そんなはずはない。
それでも彼女は努力を続ける。
「正常」に生きれるようにと。
現実の手ざわりとして感じられるものは憎しみだけになってしまった。その憎しみを燃やしていない時は、わたしは自分が呼吸をしているのも、わずかばかりの場所を占めていることも、身が縮むほど申し訳ない気持ちになって、いたたまれないようになった。さらにはいたたまれないと感じることさえ、いたたまれないようになっていった。生への否定。生きる権利の拒絶。これが、正常にふるまおうとわたしが努力し続けた結果だったのである。
わたしの世界の外側の人たちは皆、この状態を克服するには、正常にふるまう術をもっと磨いてゆくしかないと言った。だがそれが何を意味するのか、わたしは知っていた。それは、あるがままの自然なわたしは、受け容れるに値しない人間、どこにも属することのできない人間、つまり、生きている価値さえない人間、ということだったのだ。
それでもドナは幸せだったと思う。
確かに、ギリギリの綱渡りではあるんだけど、彼女は今まで読んできた部分からすると、
一人ぼっちにはなっていないんだな。
確かに、人に触れられることさえ、自分を壊されると感じて、徹底的に拒否してきたドナからすれば、
そこに友達がいようがいまいが、精神的には常に孤独だったのだろうし、自分の心を開きたいと思う人とは、本当の自分ではない自分で(いわゆる多重人格を使って)、コミュニケーションを取ることができたという面は、幸福に値するだろう。
もちろん、本人からすれば、それも苦痛以外の何物でもなかったんだけどね。
だってそれは、自分で自分の心に嘘をつき続けるということだからね。
本当の孤独は恐ろしいんだ。
私は知ってるよ。
7年間、そういう場所にいたからね。
ネトゲでネカマをすることで、人とコミュニケーションを取った時期。
確かにあのとき幸福は感じた。
けれども、そいつは自分でない自分を演じていただけのこと。
幸福感の奥には、埋めることなど到底不可能な孤独があったんだ。
その孤独に押しつぶされないために、偽りの自分でいるしかなかった。
そうしなければ、生きてさえいかれなかったんだよ。
これまで、それを理解している人は、恐らく一人もいないだろう。
かくいう私でさえ、こうして自分と向き合わなければ、
こうまで自分というものがはっきり見えることはなかったんだからね。
そう、逃げてきた。
あの引き籠った期間の自分を見つめなおすことをね。
そのことは誰よりも自分が知っている。
逃げて何が悪い!?
思い出すだけで自分が引き裂かれるような苦痛。
死ばかりを追い求めた日々。
誰がそんな日々を、砕け散ったあの頃の心を精緻に組み上げようと思うのだ?
その砕け散った欠片に触れただけで、僕の指は、心は血を流すというのに。
けれども、今はそれをしなければいけない時だと感じている。
死への恐怖が薄らいできたからね。
死んでもいい。知りたい自分を見つけ出せるなら死んでもいい。
それがいまの私だ。
近寄らない方が身のためですぞ。
このダークパワーは凄まじいから。
うつになりますよ。
infection――(毒病)の感染。
ふ、こんな文章をタイプしていても、ニヤニヤしている自分が――
気持ち悪いんだよ!!
目を覆いたくなるような凄まじい人生だ。
よく生き残ってきたね、あなたは偉い。
そう心から褒めてあげたい。
私は、いわゆる心の病であるとか、精神疾患を症状や病名でくくることを嫌うものである。
仏法の観点で立てば、一念三千であり、色心不二であるからだ。
総合していえば、うつはうつとしてしか存在しないわけではない。
それは本人が抱える問題の一側面にすぎないのだ。
病名とは視野狭窄を起こさせ、他の側面を見させなくする、悪魔の呪文だ。
私はそう思っている。
本書のドナの場合。
自閉症という範疇だけで理解できるものでないことは明確だ。
ざっと見ただけでも、
ドナには、自閉症、統合失調症、AC、うつ、発達障害が見受けられる。
もちろん細かくあげればもっと沢山出てくる。
自傷癖とか、多重人格とか、云々。
もちろん、自己愛も非常に強いであろう。
所詮、病名などというものは、見る側が勝手につけるレッテルのようなものなのだ。
一体何を見ている、レッテルか? 目の前にいるその人なのか?
そこが問題なだけなんだけどね。
なぜそんなにも、ありのままの自分と違う自分を作り出してしまうのか。
外の世界(環境)との折り合いが上手にできない人というのは、
そうやって自分しか知りえない、自分の心を守るしかないからだ。
なぜそうなった?
それがわかれば誰も苦労しませんよ。
それでも本人はその原因を取り除こうと、それはもう死ぬような思いを何十回となく続けるのだ。
そしてそれは、襲いくる絶望、消えてしまいたい、ここにいたくない、生の否定、自殺願望へと繋がっていくのだ。
それを弱いと言うなら言え。
それこそ、愚か者のすることだがね。
わたしは自分がこのようにな人間になったのが、家庭環境のせいだとは思っていない。確かにうちは「正常」な家庭ではなかった。それよりもむしろ原因は、自分の意識と無意識が常に揺れ動いているような状態だった点にあると思う。家庭環境に左右されたのは、わたしの行動の一部だけであって、わたしの行動そのものではないと思うのだ。そしてまた、家族から暴力を受けたために自分を閉ざすようになったわけでもない、と思うのだ。むしろわたしは、
ドナは、実に鋭い感性で自分を見つめていると思う。感嘆に値する。
誰のせいでもないよ、ただ意識と無意識が不安定なだけ。
いってみれば、これが彼女の宿命であろう。
家庭環境とか暴力は、そうした彼女の本質が、周囲に波及して、特に母親に虐待をうけたのだ、彼女はそう感じている。
かくいう私もね、自分史を書きあげてからは、そういう感覚なんですよ。
そんなことも、誰にも解りはしないのですがね。
暴力に対して心を閉じたドナ。
恐らくここだけ読んだ人からすれば意味不明だろう。
まあ凄まじいですよ。
学校から帰ってくるなり、母親に髪を引っ掴まれて、壁になんども叩きつけられる。
そして母は叫ぶ「なんであんたは泣かないんだ!」。
ドナは知っている、自分が泣きわめいて、「やめて!!」と叫ぶことで、
自分が相手の思うままになってしまうことを。
自分が自分の生を歩めないことを。
だから彼女は、何をされても無表情で暴力を無視するしかなかったのだ。
「世の中」にあるこういう要素。
人それぞれ違う要素。
その要素から自分を守ろうとすることがいけないことかい?
そんなはずはない。
それでも彼女は努力を続ける。
「正常」に生きれるようにと。
現実の手ざわりとして感じられるものは憎しみだけになってしまった。その憎しみを燃やしていない時は、わたしは自分が呼吸をしているのも、わずかばかりの場所を占めていることも、身が縮むほど申し訳ない気持ちになって、いたたまれないようになった。さらにはいたたまれないと感じることさえ、いたたまれないようになっていった。生への否定。生きる権利の拒絶。これが、正常にふるまおうとわたしが努力し続けた結果だったのである。
わたしの世界の外側の人たちは皆、この状態を克服するには、正常にふるまう術をもっと磨いてゆくしかないと言った。だがそれが何を意味するのか、わたしは知っていた。それは、あるがままの自然なわたしは、受け容れるに値しない人間、どこにも属することのできない人間、つまり、生きている価値さえない人間、ということだったのだ。
それでもドナは幸せだったと思う。
確かに、ギリギリの綱渡りではあるんだけど、彼女は今まで読んできた部分からすると、
一人ぼっちにはなっていないんだな。
確かに、人に触れられることさえ、自分を壊されると感じて、徹底的に拒否してきたドナからすれば、
そこに友達がいようがいまいが、精神的には常に孤独だったのだろうし、自分の心を開きたいと思う人とは、本当の自分ではない自分で(いわゆる多重人格を使って)、コミュニケーションを取ることができたという面は、幸福に値するだろう。
もちろん、本人からすれば、それも苦痛以外の何物でもなかったんだけどね。
だってそれは、自分で自分の心に嘘をつき続けるということだからね。
本当の孤独は恐ろしいんだ。
私は知ってるよ。
7年間、そういう場所にいたからね。
ネトゲでネカマをすることで、人とコミュニケーションを取った時期。
確かにあのとき幸福は感じた。
けれども、そいつは自分でない自分を演じていただけのこと。
幸福感の奥には、埋めることなど到底不可能な孤独があったんだ。
その孤独に押しつぶされないために、偽りの自分でいるしかなかった。
そうしなければ、生きてさえいかれなかったんだよ。
これまで、それを理解している人は、恐らく一人もいないだろう。
かくいう私でさえ、こうして自分と向き合わなければ、
こうまで自分というものがはっきり見えることはなかったんだからね。
そう、逃げてきた。
あの引き籠った期間の自分を見つめなおすことをね。
そのことは誰よりも自分が知っている。
逃げて何が悪い!?
思い出すだけで自分が引き裂かれるような苦痛。
死ばかりを追い求めた日々。
誰がそんな日々を、砕け散ったあの頃の心を精緻に組み上げようと思うのだ?
その砕け散った欠片に触れただけで、僕の指は、心は血を流すというのに。
けれども、今はそれをしなければいけない時だと感じている。
死への恐怖が薄らいできたからね。
死んでもいい。知りたい自分を見つけ出せるなら死んでもいい。
それがいまの私だ。
近寄らない方が身のためですぞ。
このダークパワーは凄まじいから。
うつになりますよ。
infection――(毒病)の感染。
ふ、こんな文章をタイプしていても、ニヤニヤしている自分が――
気持ち悪いんだよ!!
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コメント一覧
1. Posted by ちよ 2014年05月31日 15:28
こんちわ
そして母は叫ぶ「なんであんたは泣かないんだ!」。
あーうちと反対だ
なぜ泣く?
そう あなたが私を 叩くから(笑)
なんで なぜ泣く?なんて 言ったのかな?
もう聞こうとは思わないけどね
ただ 何故 手を繋がなかったのかを聞いたら、手を繋がなかった事さえ 覚えていないそうですよ
姉に対してした事は、一度私に 泣きながら話してました
未だに私は 母の手を ひく事ができないんだな
そして母は叫ぶ「なんであんたは泣かないんだ!」。
あーうちと反対だ
なぜ泣く?
そう あなたが私を 叩くから(笑)
なんで なぜ泣く?なんて 言ったのかな?
もう聞こうとは思わないけどね
ただ 何故 手を繋がなかったのかを聞いたら、手を繋がなかった事さえ 覚えていないそうですよ
姉に対してした事は、一度私に 泣きながら話してました
未だに私は 母の手を ひく事ができないんだな
2. Posted by イプシロン 2014年06月02日 15:14
ちよさん、こんにちわ。
>母の手を ひく事ができないんだな
出来ますよ、そのうち。
私の場合、そうせざるを得ないようになりましたけどね。
病気になってフラフラし、支えなければ危険でしたから。
病院にいく途中、何度も腕につかまらせて歩きました。
息が苦しそうな母。
ゆっくりしか歩けない母。
そんなこと目もくれず、母の傍を猛スピードですり抜けていった人達。
猛烈に腹が立った。
いまでも忘れられません。
>母の手を ひく事ができないんだな
出来ますよ、そのうち。
私の場合、そうせざるを得ないようになりましたけどね。
病気になってフラフラし、支えなければ危険でしたから。
病院にいく途中、何度も腕につかまらせて歩きました。
息が苦しそうな母。
ゆっくりしか歩けない母。
そんなこと目もくれず、母の傍を猛スピードですり抜けていった人達。
猛烈に腹が立った。
いまでも忘れられません。
3. Posted by ちよ 2014年06月03日 14:15
いざとなれば できるって事かな?
4. Posted by イプシロン 2014年06月03日 15:25
そうですね。
頭で、出来るかな? 出来ないかな?
そう考えているうちは、本当の生をいきていません。
何度も言ってきましたよ。
「止む能わざる」だと。内発性だと。
自然に体が動くのが本物です。
しょぼい例ですが、私が怒り続けているのもそういうこと。
頭ではわかってますよ、こんなことしても無駄だということは。
けどね、命が怒ってるんですよ、絶対に許さない、とね。
そういうことじゃないですか。
頭で、出来るかな? 出来ないかな?
そう考えているうちは、本当の生をいきていません。
何度も言ってきましたよ。
「止む能わざる」だと。内発性だと。
自然に体が動くのが本物です。
しょぼい例ですが、私が怒り続けているのもそういうこと。
頭ではわかってますよ、こんなことしても無駄だということは。
けどね、命が怒ってるんですよ、絶対に許さない、とね。
そういうことじゃないですか。