2014年07月29日
フルトヴェングラー『音と言葉』を読んだ(抜き書き)
いかなる時間も、またいかなる力も
生命をうけて自らを展開してゆく彫琢された形姿を
破砕することはできない。
ゲーテ
(ベートーヴェンの音楽は)音の言葉と魂の言葉との間の合一。音楽の建築と、人間の心的生命のうちに根を下ろし、錨を投じた劇との間の合一。特に「私」と「人類」と、個々の不安に脅かされた個人の魂と、いっさいを包括する共同体の間との合一。
いったい我々にとって文献的真実のほうが生きた精神よりも重大なのか。
(表現とは)芸術家たちが訴えずにいられない人間的な普遍妥当性を自由に表現する軌道が啓かれること。
あらゆる技術的訓練の中心点に人間を持ちこむこと。
(ワグナーが一番だという人は)ワグナーによって「堕落させられた」耳を通してしか聴いていないことがわかる
(自分の作品にすら執われない人とは)作品を最後まで創作し、それを形式として完成させることによって、自分をその素材の重圧から解放してしまう。
欠点が無いとか無欠点だとかいうことが、或る芸術作品の持つ意味を形つくるのではありえません。
――そんなことを信じているのは、もう生まれつきの批判家的性格の人か、俗物根性の男でしかありません。
(音楽や芸術を鑑賞する意味)私たち自身の行くべき音楽の道に何を与えてくれたか、――
私たちの未来にとっていったい何を意味しうるか、という問題を提出するとなると、それは同時にまた少なくとも我々自身はいったい何ものなのかという問題にぶつからざるをえない。
「普遍妥当なるもの」への意志は内心の真の合一を標的とします。これこそまた偉大なる天才であることの兆候と言うべきなのです。
(音楽を作り演奏するのは)「党派」でもなければ、「才能」でもありません。音楽を作るのは人間であり、その人間的な生命感情であり、それが真に人を感銘せしめる動因としてすべての芸術家の仕事の背後に隠されているのです。
音楽とは、人間生命の賛歌でありまた哀歌でもある――イプシロン談(笑)
ま、最後は趣味の問題だから、どうこう言う必要もないが、
音楽であれあらゆる芸術であれ、最高峰とか偉大とか呼ぶにふさわしいものは、
きまって必ず「シンプル」だ。フルヴェンももちろんそう言っている。
もっと言えば、複雑さを内包しているシンプルだそうだ。
例えば、スターウォーズのスターデストロイヤー。
表面はあんなにも緻密でごたごたした印象だが、その形は実にシンプルじゃないですか。
地球だってそうでしょ。
実に複雑怪奇な生態系と進化の歴史がある。
けど遠くからみると、物理学的にいって一番効率がよく単純な球体なんですよ。
だから、私はいわゆる12音階とか無調性という、わざわざ生命を複雑怪奇に見せ、
かつ誤解させるような音楽が優れたものだとは思えない。
これは仏法にも相通ずることだ。
難解の極致、すなわち、難信難解という仏法を、
たった七文字の南無妙法蓮華経で顕現してしまった大聖人の境地にも見ることができる。
最近しった脳生理学によると、
人間が、一瞬にして認識して記憶にとどめられる文字数は七文字だそうだ。
だから、脳は呼吸などにより、刹那的にマイクロスリープに陥る関係上、
五〜七文字が人間の最大認識文字数になるのだ。
これは事実ですよ。筆写とかすればすぐわかります。
7文字以上を記憶しようとするのは、かなり難しいという体験でも簡単に裏打ちできますからね。
5・7・5・7・7とか、五字七字ということも、
結局は人間というものを中心に置いて、出来上がってきた、普遍妥当性なるものであることは、
自明の理なのだ。音楽にもそういう点が必ずある。
ベートヴェンなどは、それを熟知していたとしか思えない。
必要な音数、流れ、主題のアレンジ、あらゆるものに普遍妥当性なるものをあたえている。
だから、私はベートヴェンが一番好きだ。
いやまあ比べても仕方ないんですけどね(笑)
つまり、私の場合、ベートーヴェンの楽曲こそが、一番妙なる和音と調べだと感じるということ。
フルヴェンがあえて物語性と言わずに、「劇(ドラマ)」と言っているあたりも、実に興味深いんですけどね。
つまり、自分の作った脚本(楽曲)を自分のいる場所(劇場)で演じるのが芸術であると言ってるんですね。
物語性とは時間の流れがあるが、劇という言葉をつかうことで、そこに永遠性が生れるということだ。
瞬間に全てが納まるということだ。
ま、周りで見ている人というのは、気楽なものなのです。
「題材なんていくらでもある、小説なんていくらでも書ける」とか、
私も言われてきたのだが、その事に関しては、まあ何もわかってないなぁと密かに思っていた。
フルヴェンも無から有を作る創造がいかに困難であり、
かつまた、有がいかなる無(混沌)から生れたかを解釈するのは至難の業であり、
いわゆる解釈役である指揮者が、惨憺たる思いをして解釈するために苦悩しているかなど、
一般人には理解不能であろうとも言っている。
もちろん、無から有を作り出すようなものではない、俗物的な創作ならいくらでも出来るだろし、
現にそういうものは世間に氾濫している。
それも認めるのだが、やはり芸術を志すものであるなら、
追い求めるべきものは決まっているのだ。
ま、愚痴を言っても仕方ないんですけどねーだ。
けれども、今の私にはわかる。
晩年のフルヴェンが悲しみに襲われたということが。
そう、本物の芸術はほとんどすべて破壊され、再創造の時を待っているのが現代だからだ。
それを知っている者の悲しみは、時に怒りにもなるのですよ。
無理解への怒りにね。
生命をうけて自らを展開してゆく彫琢された形姿を
破砕することはできない。
ゲーテ
(ベートーヴェンの音楽は)音の言葉と魂の言葉との間の合一。音楽の建築と、人間の心的生命のうちに根を下ろし、錨を投じた劇との間の合一。特に「私」と「人類」と、個々の不安に脅かされた個人の魂と、いっさいを包括する共同体の間との合一。
いったい我々にとって文献的真実のほうが生きた精神よりも重大なのか。
(表現とは)芸術家たちが訴えずにいられない人間的な普遍妥当性を自由に表現する軌道が啓かれること。
あらゆる技術的訓練の中心点に人間を持ちこむこと。
(ワグナーが一番だという人は)ワグナーによって「堕落させられた」耳を通してしか聴いていないことがわかる
(自分の作品にすら執われない人とは)作品を最後まで創作し、それを形式として完成させることによって、自分をその素材の重圧から解放してしまう。
欠点が無いとか無欠点だとかいうことが、或る芸術作品の持つ意味を形つくるのではありえません。
――そんなことを信じているのは、もう生まれつきの批判家的性格の人か、俗物根性の男でしかありません。
(音楽や芸術を鑑賞する意味)私たち自身の行くべき音楽の道に何を与えてくれたか、――
私たちの未来にとっていったい何を意味しうるか、という問題を提出するとなると、それは同時にまた少なくとも我々自身はいったい何ものなのかという問題にぶつからざるをえない。
「普遍妥当なるもの」への意志は内心の真の合一を標的とします。これこそまた偉大なる天才であることの兆候と言うべきなのです。
(音楽を作り演奏するのは)「党派」でもなければ、「才能」でもありません。音楽を作るのは人間であり、その人間的な生命感情であり、それが真に人を感銘せしめる動因としてすべての芸術家の仕事の背後に隠されているのです。
音楽とは、人間生命の賛歌でありまた哀歌でもある――イプシロン談(笑)
ま、最後は趣味の問題だから、どうこう言う必要もないが、
音楽であれあらゆる芸術であれ、最高峰とか偉大とか呼ぶにふさわしいものは、
きまって必ず「シンプル」だ。フルヴェンももちろんそう言っている。
もっと言えば、複雑さを内包しているシンプルだそうだ。
例えば、スターウォーズのスターデストロイヤー。
表面はあんなにも緻密でごたごたした印象だが、その形は実にシンプルじゃないですか。
地球だってそうでしょ。
実に複雑怪奇な生態系と進化の歴史がある。
けど遠くからみると、物理学的にいって一番効率がよく単純な球体なんですよ。
だから、私はいわゆる12音階とか無調性という、わざわざ生命を複雑怪奇に見せ、
かつ誤解させるような音楽が優れたものだとは思えない。
これは仏法にも相通ずることだ。
難解の極致、すなわち、難信難解という仏法を、
たった七文字の南無妙法蓮華経で顕現してしまった大聖人の境地にも見ることができる。
最近しった脳生理学によると、
人間が、一瞬にして認識して記憶にとどめられる文字数は七文字だそうだ。
だから、脳は呼吸などにより、刹那的にマイクロスリープに陥る関係上、
五〜七文字が人間の最大認識文字数になるのだ。
これは事実ですよ。筆写とかすればすぐわかります。
7文字以上を記憶しようとするのは、かなり難しいという体験でも簡単に裏打ちできますからね。
5・7・5・7・7とか、五字七字ということも、
結局は人間というものを中心に置いて、出来上がってきた、普遍妥当性なるものであることは、
自明の理なのだ。音楽にもそういう点が必ずある。
ベートヴェンなどは、それを熟知していたとしか思えない。
必要な音数、流れ、主題のアレンジ、あらゆるものに普遍妥当性なるものをあたえている。
だから、私はベートヴェンが一番好きだ。
いやまあ比べても仕方ないんですけどね(笑)
つまり、私の場合、ベートーヴェンの楽曲こそが、一番妙なる和音と調べだと感じるということ。
フルヴェンがあえて物語性と言わずに、「劇(ドラマ)」と言っているあたりも、実に興味深いんですけどね。
つまり、自分の作った脚本(楽曲)を自分のいる場所(劇場)で演じるのが芸術であると言ってるんですね。
物語性とは時間の流れがあるが、劇という言葉をつかうことで、そこに永遠性が生れるということだ。
瞬間に全てが納まるということだ。
ま、周りで見ている人というのは、気楽なものなのです。
「題材なんていくらでもある、小説なんていくらでも書ける」とか、
私も言われてきたのだが、その事に関しては、まあ何もわかってないなぁと密かに思っていた。
フルヴェンも無から有を作る創造がいかに困難であり、
かつまた、有がいかなる無(混沌)から生れたかを解釈するのは至難の業であり、
いわゆる解釈役である指揮者が、惨憺たる思いをして解釈するために苦悩しているかなど、
一般人には理解不能であろうとも言っている。
もちろん、無から有を作り出すようなものではない、俗物的な創作ならいくらでも出来るだろし、
現にそういうものは世間に氾濫している。
それも認めるのだが、やはり芸術を志すものであるなら、
追い求めるべきものは決まっているのだ。
ま、愚痴を言っても仕方ないんですけどねーだ。
けれども、今の私にはわかる。
晩年のフルヴェンが悲しみに襲われたということが。
そう、本物の芸術はほとんどすべて破壊され、再創造の時を待っているのが現代だからだ。
それを知っている者の悲しみは、時に怒りにもなるのですよ。
無理解への怒りにね。
ipsilon at 21:25