2014年07月31日

夏目漱石『坊っちゃん』筆写#7



 おれは即夜下宿を引き払った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つことがあるなら、言っておくれたら改めますと言う。どうも驚く。世の中にはどうして、こんな要領を得ないものばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、いてもらいたいんだかわかりゃしない。まるで気狂きちがいだ。こんなものを相手に喧嘩けんかをしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出て来た。
 出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまってついて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数てすうだ。こうしてあるいているうちには下宿とか、なんとか看板のあるうちをめつけ出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿ということにしよう。とぐるぐる、閑静な住みよさそうな所をあるいてるうち、とうとう鍛冶屋町に出てしまった。ここは土族屋敷で下宿屋などある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考えついた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかもしれない。さいわい一度挨拶あいさつに来て勝手は知ってるから、捜してあるくめんどうはない。ここだろうと、いいかげんに見当をつけて、御免御免と二へんばかり言うと、奥から五十ぐらいな年寄りが古風な紙燭しそくをつけて、出てきた。おれは若い女もきらいではないが、年寄りを見るとなんだかなつかしい心持ちがする。おおかた清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乗り移るんだろう。これはおおかたうらなり君のおっさんだろう、切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出しては実はこれこれだが君どこか心当たりはありませんかと尋ねてみたら。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野はぎまちといって老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷をあけておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼んだことがある。今でも貸すかどうかわからんが、まあいしょに言って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。

 その夜から萩野のうちの下宿人となった。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、あくる日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれのいた部屋を占領したことだ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれないわけになる。巾着切きんちゃくきりのうわまえをはねなければ三度の御膳ごぜんがいただけないと、事がきまればこうして、生きてるのも考え物だ。といってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へすまないうえに、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にもたたない芸を覚えるよりも、六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれのそばを離れずにすむし、おれも遠くから婆さんのことを心配しずに暮らされる。いっしょにいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立てのいい女は日本じゅうさがしてあるいたってめったにはいない。婆さん、おれのたつときに、少々風邪かぜを引いていたが今ごろはどうしてるかしらん。せんだっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、返事がきそうなものだが――おれはこんなことばかり考えてさん日暮らしていた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびになんにも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。爺さんが夜になると、変な声を出してうたいをうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうとむやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうしても奥さんをお連れなさって、いっしょにおいでなんだのぞなもしなどと質問する。奥さんがあるように見えますかね。かあいそうに、これでもまだ二十四ですぜと言ったら、それでもあなた二十四で奥さんがおありなさるのはあたりまえぞなもしと冒頭を置いて、どこのだれさんは二十はたちでお嫁をおもらいたの、どこのなんとかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、なんでも例を半ダースばかりあげて反駁はんばくを試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をおもらいるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉をまねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。

本当ほんとう本当ほんまのって僕あ、嫁がもらいたくってしかたがないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちはだれもそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事ができなかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。わたしはちゃんと、もう、ねらんどるぞなもし」
「へえ、活眼だね。どうして、ねらんどるんですか」
「どうしててて、東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちこがれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚いた。たいへんな活眼だ」
「あたりましたろうがな、もし」
「そうですね。あたったかもしれませんよ」
「しかし今どきの女子おなごは、昔と違うて油断ができんけれ、お気をおつけたがええぞなもし」
「なんですかい、僕の奥さんが東京で間男まおとこでもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気をつけるんですかい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこにふたしかなのがいますかね」
「こちらにもだいぶおります。先生、あの遠山とおやまのお譲さんを御存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだ御存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪べっぴんさんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生がたはみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「そうかもしれないね。驚いた」
「おおかた画家の先生がおつけた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川先生がおつけたのじゃがなもし」
「そのマドンナがふたしかなんですかい」
「やっかいだね。あだ名のついてる女にゃ昔からろくなものはいませんからね。そうかもしれませんよ」
「本当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、妲己だっきのお百じゃのててこわい女がおりましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あのかたの所へお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福えんぷくのある男とは思わなかった。人は見かけによらないものだな。ちょっと気をつけよう」
「ところが去年あすこのおとうさんが、おなくなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持っておいでるし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮らし向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人がよすぎるけれ、おだまされたんぞなもし。それや、これやでお輿入こしいれれも延びているところへ、あの教頭さんがおいでて、ぜひ嫁にほしいとお言いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んでかけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐに返事はできかねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓てづるを求めて遠山さんのほうへ出入りをおしるようになって、とうとうあなた、お譲さんを手なずけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お譲さんもお嬢さんじゃてて、みんながわるく言いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、いまさら学士さんがおいでたけれ、そうのほうへ替えよてて、それじゃ今日様こんにちさまへすむまいがなもし、あなた」
「まったくすまないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまでいったってすみっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友だちの堀田さんが教頭のところへ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になればもらうかもしれんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするにはべつだん古賀さんにすまんこともなかろうとお言いるけれ、堀田さんもしかたがなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合いがわるいという評判ぞなもし」
「よくいろんな事を知ってますね。どうして、そんな詳しい事がわかるんですか。感心しちまった」
「狭いけれなんでもわかりますぞなもし」

――つづく

妲己(だっき):殷の皇帝の妃の名前。悪女の代名詞として『史記』に記述がある。

今日様が許さない=太陽を敬って言うこと。お天道様が許さないという意味。


これまでで一番長い、会話文だけの部分ですかね。
漱石の心やいかに?
人の噂だとか、世間は狭いだとか、いろいろ伝えたいがゆえなんでしょうが、
その心やいかに?

思うに、これまでのことは客観性のあることで、はっきりと、善悪をつけることができた。
しかし、こういう「色恋」に関してはそうはいかない。
だから、会話という現実の人間に近い形で表現したのだろう。
確かに、今日様が許さないってのはあるでしょうし、金で心の売買いするとかよー、オイコラ!
とか言いたくなるのだが、まあ生活、経済地盤とかも考えるとね、なかなかに難しい話なのでしょう。

最後は当事者同士の問題だということ、心の人間性にあるということを伝えるには、
会話文が一番いい。読者に何が善であるかを、それぞれの立場で考えてもらうには、
押しつけにならにようにするためには、会話文が最適だと考えたのではないでしょうか。

あのうらなり君が? とか赤シャツが! とかね、オイ坊っちゃん、お婆さんにあなたが勝手につけたあだ名で話しても伝わらないよ、という部分が面白い。
赤シャツだけ、しっかりお婆さんも、途中から赤シャツとか言ってるし。
この辺で微妙に、漱石は「こいつ悪人ですよー!」ってコソーリ意見を述べている。
漱石かわいい。

いやまあ、それ以上に、坊っちゃんの――
「ちょっと気をつけよう」というところに、漱石の本音がチラ見えしてて、私は爆笑してしまった。
漱石さん、かわゆす。

(男と女のことは)ちょっと気をつけよう(^ー^)


ともあれ、これが日本にかつてあった、中間層の人間の絆だったのであり、
日本ほどその中間層が破壊された国はないという部分であろう。
確かに、噂話は偏見を生むこともあるが、良くも悪くも、人々がお互いのことを知りあっているということは重大なことなのだ。

東京で長いこと暮らしてきた私は、この中間層の破壊が、
いかに日本人に壊滅的打撃を与えたかを身を持って知っている気がする。
亡き母もよく言っていた。
「おれなんかな、自分から人にあれこれする方じゃないから、学会に入ってなかったら、随分淋しい思いをしてたんだと思うよ」と。卓見だ。
組織利用だとか云々だとか、そういう次元の話でない。

人と人との絆が破壊された社会は人間を育てることはない。
人間を人間たらしめないのだと思うだけだ。

それにしても、ゆっくり(書き写しながら)読むというのもいいものですね。
ざざっと読むより、遥かに、精密に作家の個性とか考えたであろうことが伝わってくると思うのです。

ipsilon at 11:13小説「筆写(著作権切れの作品)」  
プロフィール

イプシロン(シンジ)

カテゴリ別アーカイブ
記事検索
最新コメント
ギャラリー
  • 小自分史(1)
  • Thank you my girl
  • 。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
  • 勝利のアクビ
  • 一瞬の憩い
  • 笑顔は美しい
  • 4つ目の自分
  • 4つ目の自分
  • 3つの自分
  • アリイ 1:48 三菱零式艦上戦闘機52丙型(a6m5c)
  • ハセガワ 1/700 病院船「氷川丸」 竣工
  • フジミ 1/72 空技廠 零式小型水上偵察機(E14Y) 完成
  • ハセガワ 1/700 重巡洋艦「古鷹」 完成
  • スケッチ アミダラ女王
  • 静止した時間
  • 蝶
  • 祈り
  • チャム・ファウ
  • どこかのお家の猫ちゃん
  • 「みちくさ」
  • ザハロワは美しい!
  • デジ絵「星座と少女」(完成)
  • チュチュがじゃまだよ〜
  • アティチュード
  • 瀕死の白鳥
  • デジ絵「夏の風」(完成)
  • デジ絵「風」(完成)
  • デジ絵 ランカ・リー(完成)
  • 栗木さん 応援イラスト
  • イラスト「天使」
  • 水彩画 愛嶋リーナ 完成
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「graduation 」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「アメジストの祈り」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「初雪」
  • 水彩画 愛嶋リーナ
  • デッサン 愛嶋リーナ
  • 水彩画 アリスとネズミ
  • イラスト アリスとドロシー
  • イラスト 眠そうなネフェルタリ
  • スケッチ 微笑の国の人
  • なんでだろうう? と思うこと
  • スケッチ アソーカ・タノ
  • スケッチ ライオン
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG 缶コーヒー"カフェバニラ"
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • スケッチ 騎士の左腕
  • アーソウカ、、だった!
  • スケッチ 懐かしのアイツ
  • ニャンとも言えない気持ち
  • 旧作 ペン画
  • デッサン ドイツ兵 in 1944
  • 水彩イラスト ニホンカモシカ
  • デッサン アフリカゾウ
  • 水彩画「水辺の豹」
  • 習作デッサン「豹」
  • 旧作 Gジャンガール
  • イラスト「蜜虫」
  • 「ネフェルタリと豹」下絵
  • イラスト「ネフェルタリ」
  • 水彩画 「装身具をといたクレオパトラ」
  • デッサン+色鉛筆 眼
  • スケッチ 「装身具をといたクレオパトラ」
  • 習作 ネフェルタリ 下書き
  • デッサン 眼
  • デッサン途中 布の研究
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • デッサン チャイナドレスの子
  • スケッチ クレオパトラ
  • 水彩画 死せるクレオパトラ
  • スケッチ クレオパトラ
  • デッサン 小野田寛郎さん
  • デッサン 猫
  • デッサン Diane Kruger
  • デッサン ベッキー・クルーエル
  • デッサン 中澤裕子
  • ベッキー デッサン
  • 萌えキャラ 線画 修正 その1
  • 萌えキャラ 下塗り
  • デッサン 杉崎美香 8時間目
  • 習作 フォトショップ 萌えキャラ風塗り
  • デッサン 杉崎美香 6時間目
  • 欝
  • 習作 水彩 その1
  • デッサン 杉崎美香 4時間目
  • 習作 小池栄子 その1
  • 習作 杉崎美香 その4
  • 習作 Face
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 杉崎美香 その3
  • 習作 杉崎美香 その2
  • 習作 その4
  • 習作 杉崎美香 その1
  • 習作 その2
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 好き好き大好き
  • 電話中
  • βズガイキング
  • モー様の絵 ハケーン!(笑)
  • Mクン 見っけた!(笑)
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ