2015年06月25日
M・ムアコック『黒曜石の中の不死鳥』を読んだ。
いわゆる、ムアコックの<エターナルチャンピオン>シリーズ。
その中で非常に重要な位置にある、<エレコーザ・サーガ>の第二巻。
なぜ重要かといえば、エターナルチャンピオンとは、
転生を繰り返しながら永遠に生き、なんらかの使命をもって誰人かに呼び出される主人公の中で、
エレコーゼだけが、ぼんやりながらだが、転生(前世)の記憶を持っているから。
前世の記憶があればなあ……。
そんなことを考えたことはないだろうか?
私はある。
だけれども、この作品を読むと、
なくてよかったのだと思えてくる。
今世の生まれてからの記憶だけですら、自分を苦しめるには十分なのに、
転生の記憶があったら、とても生きてはいけません。
恐らく、それが現実的なところだろう。
ムアコックの<エターナルチャンピオン>シリーズは、
高校時代・専門学校時代に<紅衣の公子コルム>シリーズに夢中になり、
<エルリック><エレコーゼ><ホークムーン>と買いあさって集めたものだ。
なんであんなに必死になったんだろう?
今ならわかる。
そう、こういう思想――転生と宇宙との関係や、宇宙の中心、
ようするに私は高校生の頃から、無意識にでも仏法を求めていたという証拠だろう。
『黒曜石の中の不死鳥』はそういうことを確信させてくれる一冊だった。
物語としては非常に暗く、終末論的なので、
明るく楽しい読書をしたいという方には、お勧めできない。
わたしはこのとき、黒の剣をちがった目で見ていた。この剣は、わたしから見れば悪であることを多々なしてきたが、もしかしたらその悪は、さらに大いなる善を成就するためのものだったのかもしれない。
善だ、悪だと――
自分勝手に決めつけることで自らに苦悩を引き寄せる。
見方しだいで、立場しだいで、あらゆる出来事は善にも見え、悪にも見えるのだ。
そんなものになんの価値がある?
ならば決めないことだ。
善でもあり悪でもある。善でもなく悪でもない。
だがそれは厳然として存在する。
なにに酷似する思想かなど、いまさら私は言わない。
黒曜石の中の不死鳥とは――
琥珀に閉じ込められた昆虫を連想させる。
実際、そういったことが語られるシーンがある。
その場面で、黒の剣の意志に突き動かされ、
ウルリック伯は、水晶のテーブルを叩き割る。
目覚めのシーンと言えるだろう。
が、何よりの不幸は、そのウルリック伯自身が、
わが使命に目覚めたことを自覚できないということ。
そう、使命を自覚しはじめる(引用した箇所に至る)までには、
したくない生殺与奪という「体験」をするしかなかった……というお話。
体験なくして人は目覚めることなど不可能なのだ。
人が必然的に苦悩の中を生きるしかないということは、
こういう部分からも読み取れるのではないだろうか。
一言でいえば、それこそが「難」であろう。
難を安楽に変えるかどうかは、自分しだいである。
その中で非常に重要な位置にある、<エレコーザ・サーガ>の第二巻。
なぜ重要かといえば、エターナルチャンピオンとは、
転生を繰り返しながら永遠に生き、なんらかの使命をもって誰人かに呼び出される主人公の中で、
エレコーゼだけが、ぼんやりながらだが、転生(前世)の記憶を持っているから。
前世の記憶があればなあ……。
そんなことを考えたことはないだろうか?
私はある。
だけれども、この作品を読むと、
なくてよかったのだと思えてくる。
今世の生まれてからの記憶だけですら、自分を苦しめるには十分なのに、
転生の記憶があったら、とても生きてはいけません。
恐らく、それが現実的なところだろう。
ムアコックの<エターナルチャンピオン>シリーズは、
高校時代・専門学校時代に<紅衣の公子コルム>シリーズに夢中になり、
<エルリック><エレコーゼ><ホークムーン>と買いあさって集めたものだ。
なんであんなに必死になったんだろう?
今ならわかる。
そう、こういう思想――転生と宇宙との関係や、宇宙の中心、
ようするに私は高校生の頃から、無意識にでも仏法を求めていたという証拠だろう。
『黒曜石の中の不死鳥』はそういうことを確信させてくれる一冊だった。
物語としては非常に暗く、終末論的なので、
明るく楽しい読書をしたいという方には、お勧めできない。
わたしはこのとき、黒の剣をちがった目で見ていた。この剣は、わたしから見れば悪であることを多々なしてきたが、もしかしたらその悪は、さらに大いなる善を成就するためのものだったのかもしれない。
善だ、悪だと――
自分勝手に決めつけることで自らに苦悩を引き寄せる。
見方しだいで、立場しだいで、あらゆる出来事は善にも見え、悪にも見えるのだ。
そんなものになんの価値がある?
ならば決めないことだ。
善でもあり悪でもある。善でもなく悪でもない。
だがそれは厳然として存在する。
なにに酷似する思想かなど、いまさら私は言わない。
黒曜石の中の不死鳥とは――
琥珀に閉じ込められた昆虫を連想させる。
実際、そういったことが語られるシーンがある。
その場面で、黒の剣の意志に突き動かされ、
ウルリック伯は、水晶のテーブルを叩き割る。
目覚めのシーンと言えるだろう。
が、何よりの不幸は、そのウルリック伯自身が、
わが使命に目覚めたことを自覚できないということ。
そう、使命を自覚しはじめる(引用した箇所に至る)までには、
したくない生殺与奪という「体験」をするしかなかった……というお話。
体験なくして人は目覚めることなど不可能なのだ。
人が必然的に苦悩の中を生きるしかないということは、
こういう部分からも読み取れるのではないだろうか。
一言でいえば、それこそが「難」であろう。
難を安楽に変えるかどうかは、自分しだいである。
ipsilon at 11:34