2016年12月07日

ルソー『エミール』第五篇を読んでいる(3)

もし第五篇を章にわけろといわれたなら、わたしは3つにわける。
第一章を「女性論、男女論、恋愛・結婚論」としたなら、第二章は「その実例――エミールとソフィーの場合」と命名する。そして多くの読者はこの第二章のあまりの美しさに微笑せざるを得ないはずだ。それぐらい美しい場面と物語が綴られている。ルソーの恋愛小説『新エロイーズ』が発表当時、爆発的に売れて人気を博したということに肯ける。わたしはまだ『新エロイーズ』は読んでいませんがね。

しかしそれは、第一篇から第四篇(上中巻と下巻の約80ページ)までにわたって、ルソーと読者が営々と積みあげてきた努力があったからといっていい。こういうところに長編小説だけがもつ醍醐味、言葉では説明できない滲透性が間違いなくあるのだろう。哲学者・三木清もそういっている。「長編には固有の滲透性がある」と。

わたしはここで「美しい」や「滲透性」という言葉をつかってそれを表現したわけだが、なんとも陳腐であることよ。陳腐というのではない。言葉では説明できないものをいおうとするとどうも滑稽になってしまいがちだといいたいのだ。

ではなんとか自分の感じたものを正確に伝えんとしたいなら、どうすればいいか?
まず正確な字義語義を知ること、そしてそれを駆使できる自分になるしかないだろう。これは信仰においても同じであろう。様々な福運に恵まれて功徳の体験があったとしても、それを伝える術というのは意外と限られているからだ。そしてそういう意味でいえば言葉とそれを用いた表現力というのはなかなかの力があるといえるだろう。しかし、それが難しいわけだ。
「とにかく凄いの、あなたもやってみなさい、やればわかる。信じればいいだけだよ。学会にはいっていわれたとおりにやればいいの」大体こんな調子になる。あるいはそれまで記憶してきた指導を引っ張りだしてあれこれいう。
記憶してきたもの、正確にいえば暗記してきた指導を、あるいは聞きかじった他者の体験を話して、それを折伏と呼んでいる。おかしくないですか?

ネットにあるいわゆる学会員の書いた記事なるものを眺めてみればいい、ブログでもツイッターでもいい。ほとんどがそういう内容だから。
自分がしてきた体験を顧て、そのことを宗教的にまたは哲学的に思索し、あるいはまた自分個人の感受性からなにを思ったのか、そうして見出したものがいかに価値あるものであったかということを具体的に言葉にしている学会員の少なさよ。

聖教新聞や大白蓮華で読んだ内容を書く。その内容とやらには既に釈がついており、「こう考えるべきだ」または「こうすべきである」というのがほとんど。そして多くの学会員が語ってるのは釈のとおりだよね、凄いよね。だから学会は素晴らしい。こういうことですよね? つまりは賛意というよりは同意をしめしているだけ。ひどい言い方をすれば、読んだ内容に便乗して「そうだ、そうだ」といっているだけ。

それはそれでいい――そうしたい人は一生そうしていればいい。
では、解説はあっても内容のすべてに釈のない長編文学を読んで、自分なりに釈をつけたりしている人はいるのだろうか? まずいない。だから読書をしても自分が感じたものさえ言葉にできていない場合がほとんどだ。もちろんこうしたことは学会員であるなしではなく、実は多くの人がそうであろう。

その証拠に、多くの人が文学作品ではなく新書やハウツー本から知識を得ようとしている姿勢から窺いしることができよう。場合によっては長編文学を読む前に副読本に目をとおし、まず他人の釈を得ておいてから読むようなことも見受けられる。これでは、その作品を先入観なしに読んだときに自分が感じるものに、はじめからバイアスをかけてしまっているようなものだ。わかりやすくいえば、「この作品はこう読んだほうがいい」というマインドコントロールを自分にしているのであって、はじめから自分の感受性、あるいは解釈力に疑問を感じていることを曝け出しているようなものではないか。

だから読書メーターの感想なども感想ではなくレビューやあらすじを書いている人がおおい。そこで自分は何を感じ、いかに物事の見方捉え方を深めたかを綴っている人は非常にすくない。それが悪いとはいいませんがね。
あらすじは読んで字のごとくである。レビュー(書評)とは、この記事であれば冒頭に書いたように、自分なりに書かれている内容を体系化してそれを伝えることであり、そうして体系化したもののうちで「ここには価値があるが、ここの部分は偏見を生む(反価値)」といったように、ある程度の評を下すことといえよう。
こうしたレビューにたけた人はそれなりにいる。中には毎回素晴らしいレビューを書いてくださる、ありがたい方もいる。
だが、自分の心がどう感じ、どのように思想哲学を高め、深めたかを語るとなると、どうやら相当に難しいようだ。こういえばいいだろうか。本を読んでも「心の糧」となったものを言語化できる人は僅少である、と。

じゃあどうすればいいか? 自分の頭で考えればいいんじゃないですか?
そんな乱暴な――といわれるかもしれないが、最終的にはそうなる。本なら読んでみればいいんじゃない。信仰ならやってみればいいんじゃないというしかないですからね。

いやそれこそ乱暴だろ……というのでしょう?
だったら、自分の頭で考えて自分で判断されたらどうですか?
そういう以外にどういえるのだろうか。ほかにい言い方があるなら、むしろ教えて欲しいくらいだ。

何かあるだろ……何か?
だったら感じてみればどうです? 考えて判断するためにはまず感じないと無理でしょ? 体験もなしで考えてもそれは観念妄想ですからね。
だから感受性を高めたらどうですか? としかいえないわけだ。
なら感受性を高めるにはどうすればいいのと訊きますか?
お答えするなら、やってみればいいでしょ。本なら読む、信仰ならやってみる。そういうしかないんですよ。

堂々巡りやないか! というのでしょう。
そのとおりですよ。つまり、大事なのは順番や優先度などではなく、いくつかの物事を関連付けて、それら複数のものを同時にやっていくということなんですよ。そして倦むことなくそれをつづけていく。この継続がね、また大きな難問なんですが……。

毎度のごとく脱線した――。
だから正確に表現するなら、こういうことになろう。
本なら読みながら感じながら、考えながら価値観を自分の中に作りだせばいいんじゃない、と。
信仰も同じ、実践しながら感じながら、考えながら価値観を自分の中に作りだせばいいんじゃない、と。
だが、こうしたことをきちんとやっている人は僅少のなかでも僅少だと、わたしなどはお見受けしている。

じゃあルソーは恋愛とその先にある結婚についてであれば、そこにどういった価値観があるのが理想だと結論づけたのか? そうしたことを読みとり、そのあとそれを生かすか殺すかは読者しだいというわけだ。

わたしの場合、ルソーさん、あなたの言ってることでこことここには大変感動しました。是非わたしも自分が生き、もしも恋をして愛に落ちて、まんがいちにも結婚などを考えることがあるなら、あなたの忠告を忘れず、なおかつもし出来るならその教訓を普段の暮らしのなかで、さらに高いものとしていく努力を怠りたくないと思う。そういうでしょう。

そういうことを感じさせた文章がどこかと訊かれれば、ここだといいます。

わたしは、男女いずれにたいしても、ほんとうに区別されるべき階級は二つしかみとめない。一つは考える人々の階級で、もう一つは考えない人々の階級だが、このちがいが生じるのはもっぱら教育によるものといっていい。

非常に重々しくわたしの中に響いた箇所です。
ルソーはこの結論を書く前に、恋愛や結婚を阻害するものには階級意識がある。裕福だとか、貧乏だとか、生まれた家の貴賤だとかいう話をもちだす。
え……ちょっと待ってよルソーさん、あなたの思想はそんな次元が低いの? 読んでいてちょっとちょっと大丈夫ですかという厭な気持になったものです。しかしそれは、この一文を光輝あるものにするために用意したミスリードともいうべき伏線だったと見破ったとき、大きな感動に包まれた。

大事な人に大切なことを伝えたいなら、場合によっては相手に恐怖や不安を募らせ、こっちの話を真剣に聞かせる技術も必要なのだということを、わたしはここから学び取り、また書いてある内容にも非常に賛同したということだ。

そりゃあそうだよね。考える人と考えない人が夫婦になったなら、こんな不幸はないですからね。想像してみればいい。また考えない人同士であったなら、これは人間的ではなく動物的結婚といっていいだろう。であるならばいかなる人物どうしの結婚が優れてめでたいのかというのは必然的に答えは見えてくるはずだ。答えが偶然見つかるなんてことはないのです。いつも必然なのだ。
一点注釈をくわえるなら、「このちがいが生じるのはもっぱら教育による」とルソーがいっている部分だ。あえていうならルソーはそう信じているとかそんな甘いことはいっていない。「みとめない」といっているのだ。ある意味断言。ここ注意がいりますよね。

実は彼、この前文で多くのものが自然状態にあることが素晴らしいが、こと教育においては自然のままにしているということはほとんど学んでいないということである、動物的に過ぎるのだと述べている。

ほかの物事――例えば善とか徳とかいう直感できるもの――は学ぼうとせずとも自然に任せていけば必然的にわかってくるし良いものとなるが、教育だけは違うんだといっているのだ。よくよく心すべきことだと思う。
「学は光」美しい言葉じゃあないですか。そしてそれがさす意味。


感じやすい心、誠実な魂それだけがあればいい。
結婚して幸福になれる二人のもつべき徳性はこのふたつだけ。そのとおりだ。


(時間に)おくれてくることも、早くからやってくることも、望ましくない。正確に来ることを彼女は望んでいる。早く来るのは、彼女のことよりも自分のことを考えているからだ。遅れるのは彼女を軽く見ているからだ。
生涯にわたって公平であれる二人でいなさい。自分を優先しすぎたり、相手を見下してはならない。こういうことを誠実というのであって、結局は上に抜き書きしたことに収斂されるのだ。感じやすい心がなければ、自分の欲得を優先していることにも気づけないし、また相手を軽んじていると気づくこともできないからだ。
ここでいう公平とは二人が「ありのまま」でいられるということだ。またそういう状態を維持しようと学び、努力しているということだ。

またここではルソーは時間を正確に守るという事例を出しているが、ここにある本質を人間関係に当てはめると「約束を守れる人が偉大なのだ」といっているといっていい。嘘をつく人はろくでなしなのだといっているのだ。約束を守る心とは誠実さに収斂されるとは思うが。

わたしの体験からいっても、これは真実である。広告代理店で営業をしていた頃、わたしはアポイントメントの時間に非常に正確だった。早く目的地について喫茶店などで時間を調整し、訪問先のチャイムをオンタイムで鳴らすくらい正確な行動をとっていた。
そうしたことをつづけていたある日、顧客がなんとはなしに「あなたいつも時間に正確だからね、まるで時計見ながら計ったようにチャイムならすからね、とても楽なんですよ。だから仕事も気持ちよくできるんだよね」と笑顔で褒めてくれたことがある。そりゃあ嬉しかったですよ。
「暇があってテレビを見てようが、書類に夢中になっていようが、あなたが時間ぴったりに来るから、仕事にも集中できるんですよ。ああそろそろかな? とかいって時間を気にしたこともないしね。遅れもしないし、早くも来ないからね。あなたがチャイムを鳴らしたら午後3時、多少ズレても2、3分、まず5分以内だからね。ほんと助かってるよ」なんてね。

ルソーを読んで感動したというカントは毎日おなじ時間に散歩するから、それが窓から見える人はカントを時計代わりにしていたという挿話を読んだとき、「わかるー!」そういう人って重宝がられるんだよね。堅物に見られがちだけど、などととても共感したことも懐かしい。

またこんなこともあった。俺は日本海軍式で行くんだ! とか信念を燃やし、会合の5分前には必ず会場に入っているようにしていた。でもそれをつづけていて気づいたんですね。なんだか婦人部長とかが少し遅れてくると、会場につくなり異様にそわそわして、ちゃっちゃっと動いて、ちゃっちゃっと喋りだすのを。
(これはいかんな……)とそのとき気づいたわけです。
海軍式に5分前集合が当たり前なんていう原理原則に忠実なことをしていると、この場合、余計なプレッシャーを与えるんだなと。それからは、なるべくオンタイムあるいは少しだけ遅れて会場につくようにした。見事に婦人部長はそわそわしなくなったという。
仕事をしながら活動している婦人も多い。また家庭のことをやり切ってから会場にくる場合も多い。とにかく婦人部というのはいそがしい。婦人部にとってみれば、オンタイムを守ること自体、現実的に難しいことが多い。
そして敏感な人は、そういうことを気にかけすぎてしまう。へたをすると委縮してしまう。これでは意味がない。そう思ったわけです。のびのびと朗らかに。大事なのはそこ。旧海軍式もいいけどほどほどにね! ほどほどを知るのを中道というわけで。
これもわたしの中の事実の体験による揺るぎない確信である。すなわち時を知ること(人の心を尊重すること)こそ、最も大事である、と。

こうしたことも、互いに感じやすい部分があるから気づけたし、女性が女性らしく言葉では「あなたのそれ、ちょっとプレッシャーになってるんだけど……」といわずながらも態度でいってしまうあたりに、ルソーの女性論が真実であることもわかるわけだ。

相当に自画自賛だが、どちらも実話です。
以上は暴走特急による脱線の自画自賛の余談だ。


人間であれ。きみの心をきみにあたえられた条件の限界に閉じ込めるのだ。その限界を研究し、知るがいい。それがどんなに狭くても、そこに閉じこもっているかぎり、人は不幸にならない。
是非に及ばす――。ひとことでいうなら、「魂の自由を勝ちとれ」ということだ。「自分自身を完全に制御できる人だけが自由を勝ちとれるのだ」ということだ。

欲にも嫉妬にも、そして愛する人との死別にもくじけない心。そういう心であれ。そういう心であるためには何をすればいいかを考え感じ、実行しろ。そのために学びあう最高のパートナーが夫婦であり、愛人という友人である。そうルソーはいっているのだ。そしてそのパートナーを失ったとしても、絶対に壊されない心である自分たれといっているのだ。

ゆえに、このあとルソー先生はエミールにこういう。
「ソフィーと別れなければならない。断じて、と」
ちょっと待てよ! 鬼教師!! とか思いながら読んでましたが、なぜルソーがそういったのかはすぐに理解ができた。
結婚生活というのは、日々の終わりなき日常生活というのは、二人だけで過ごしていけるわけではないからだ。ゆえに鬼畜先生ルソーは、社会の中における夫婦、市民としての結婚生活、ひいては国家における結婚生活とはいかなるものかを学ぶために、ひとまず別れなさいといったのだ。
なんとも厳しい先生だが、なんとも慈悲深い先生ではないか!
「かわいい子には旅をさせろ」なんですな。

また、彼ら二人だけで恋愛が育まれ互いがありのままの気持ちをうちあけられたのではないという表現にも注目すべきかと思う。エミールとルソーの周囲には、ルソー先生、ソフィーの両親、幾人かの親切で純朴な知人がいるわけで。
だが主要な人物を抜き出してみると、4、5人になる。
かつて古の時代、仏法では僧(僧伽=サンガ)のことを、4人以上が集まって法を学ぶ集団としていたのだが、その本来の意味に戻って考えると、なるほどよく出来ているなと感心させられるのである。
4人というのは、おそらく比丘、比丘尼、優婆夷、優婆塞ということを指すのだろう。

また僧伽の「伽」は分解すればわかるが人、力、口となり、人々が意見を出しあい、それが力となる。善き人間交流という意味になる。宗教施設のことを(大)伽藍とも書くが、これも本来の意味を考えるといいだろう。
伽=善き人間交流。藍=弟子が師以上に優れた存在となること(いわゆる従藍而青ですな)であり、宗教施設というものがいかなるものであるべきかを明確に物語っているといっていい。

余談であり蛇足だが、学会の会館もなんだか豪華になったものですよね。
戸田先生は「質実剛健」であればいい。そういわれていたんですがね。それが今では3階まで吹き抜けで、シャンデリアなんかあってね。個人的には、なんかおかしくね? キリスト教の寺院などが豪勢になっていったのとそっくり……とか思って、冷めた目でみてるんですけどね。
なぜ先生がそうした会館を見ても「よかったね、素晴らしいね! おめでとう!」とみながやってることを褒めるかといえば、本心をいって「あれもだめ、これもだめ!」などといおうものなら、先生は独裁者になってしまい、それこそがファシズムへの道だと熟知されているからなのだが、そういう先生の真意をわきまえず会員は真似をして、なんでもかんでも「おめでとう!」といってるってことですよね。

また現在では僧といえば坊さん、大伽藍といえば豪華な宗教建築物をいいあらわすように言葉の意味は“変節”してきているのだ。そして多くの場合変節した意味で物事を判断してしまうから、結果は偏見と思い込みになるわけだ。しつこく字義語義が大事といっている所以はそこにあるんですがね。まあそれ以上に文脈も大事なんですがね。

ちなみに、曽は世代が積み重なっていく、そうしたことでますます伸びるという意味。そこに人偏があるのだから、これ以上説明する必要もないだろう。仏法僧の僧もこうした意味で考えるのが法を根源的に知るきっかけになるのだろう。


ともあれ、第三章はわたしが命名する必要もなく、ルソーが文字にした「旅について」となるわけだ。
『エミール』もようやくあと60頁ほどで完結です。
思えば、エミールが赤ちゃんのときからルソーと共に見守ってきた感覚があり、『100分 de 名著』のなかで伊集院光がいっていたように、エミール君もとうとう結婚かい……という、なんともいえない感慨、祝福の気持ちというものをもって読んでいた、これまでの第五篇であった。だからこそ、わたし流に分類した第二章「その実例――エミールとソフィーの場合」が美しいと心に響いたのだろう。ちょっとばかり堅苦しいタイトルですがね。

細かいことをいえば、嫉妬とは何か? とかそれはもういろいろある。動物も嫉妬はする、であるならば自然な嫉妬と情念に憑りつかれた嫉妬の違いはどこにあるか? という難題も提示してたので。
これについては少し思索したので、稿を改めて記事にしたいと思っている。


どう考えたって『エミール』の内容とはあわないよという曲をここで――。


この曲をきくと、大きく頬がゆるむ。とくに歌詞をしっているとね。
わたし流に大意をいえばこうなる。うん。
「やべーよ、なんか出会っちまったんだ。アイツに。そう、ソフィーにね。もう引き返せない。どうすりゃいいかもよくわからん。でもこいつは素晴らしいナイスなんだ! ごめん! 素晴らしいとナイスは同じだな。だけどそういうことにも注意がまわらねーんだよ! 膝がぐにゃぐにゃになりそうだぜ。ひとことでいいあらわせって?」

そうさな……

電撃ビリビリさー!(Thuderstruck !)

いい大人が、演奏に夢中になってボーカルなんてシャウトしまくっている。こんな馬鹿らしいくらい楽しい曲ない。でもって歌詞がああですからね。でも実際、エミールはソフィーに出会ってしまった場面はこんな感じなんですよ。伝わるかなぁ? 伝わるといいんだけど。

Yeah〜ってどんなイェーなんだよ! 溜息ともなんともいいようのないYeah〜っていってるとこ? 歌ってるとこ? 聞くたびに思わず楽しくなる。うん。

ルソー曰く、人間はただ何もせずにはいられない。だったら“今を”楽しめばいいんです、それだけすればいいんです、と。
そうこの何もせずにいられないというのも、常日頃わたしは考え、けどそういう気持ちはなくならないし、何がしたいかはっきりわからないと焦りに呑み込まれるんだよね……どうしたらいいべさ……なんて、何百回も思索したことなんですけどね。
衆生所遊楽――。


さて――
『100分 de 名著』の中で朗読されていた部分を抜き書くか悩んだのだが、例によって例の如く、悩んだならやればいいということで書いておきます。確かにここは非常に有意義なことを述べてますからね。

エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ、存在の目的なのだ。これは自然がわたしたちに感じさせる基本的な欲求であり、けっしてわたしたちになくならないただ一つの欲求でもある。だが、その幸福はどこにあるのか。だれがそれを知っているのか。みんなそれをもとめているのだが、それはだれにもみつからない。人々は一生をついやして幸福を追っかけまわしているのだが、それをつかまえることもなく死んでいく。若い友よ、生まれたばかりのきみをわたしの腕に抱きあげたとき、そして、至高の存在者をわたしがあえて結んだ約束の保証人として、きみの生涯の幸福にわたしの生涯を捧げたとき、わたしはどういうことを約束したのか、わたし自身知っていたのだろうか。いや、わたしはだた、きみを幸福にすることによって自分も確実に幸福になれるということを知っていたにすぎない。

そう、現実の娑婆世界においては、その人の生涯のために自分の生涯を捧げることで自分とその人は幸福を感じるのだ。しかしこれで幸福になったといえるのだろうか? 否だ――。

なぜかなら、その人も、自分もいつか死んでいくからである。必ず別れはくるのである。その人と自分が同時に死の床に召されないかぎり、捧げて捧げられてという関係は、いつか必ず破綻をきたすからだ。
ここで「愛と死」、恋愛を肯定すれば最後は情死に至るという森鴎外の言葉が真実であることがわかる。

だとしたら、生涯にわたって生涯を捧げあったとしても、幸福にはなれないではないか。同時に死なない限り、共に情死しない限り……。
であるなら、その人と自分を永遠なる存在にしなければ、幸福を実現することは出来ないのだ。

はたして心中した太宰と富栄を非難したり軽蔑したりすることができるだろうか? 私にはできない。
彼らが辿りついた境地はある意味では至高の感情の場といっていい。
不幸だったのは、彼らが正しい宗教にめぐり会えなかったことなのだ。

ここに宗教の必然性が証明されるのだ。
ゆえに、永遠普遍性のない宗教は偽物であることもわかるのだ。
現世利益ばかりを追求することも極端なことなのだ。
現実の暮らし中で利益をうけ、また常に生命は永遠であると覚知していける、そういう信心が正しい信心なんですよ。現実の暮らしの中での利益とは「今楽しめている」ことですよ。決して、決して成果でも結果でもない。


御書に曰く――。
妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし(開目抄)

「法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて」とは生命は永遠であると感得し確信しなさいという意味だろう。それを確信して妻や子にも教えるのです、と。
この御文の前にあるのはあまりにも有名な一節だ。

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし

なにをもって成仏というのですか? 生命は永遠であると確信するためですよ。御本尊を疑わないということも、信心を途中で投げ出さないということも、所詮は生命は永遠であると確信するためですよね。違うんですか? 違いますか? 違わないでしょ。戸田先生は生死の問題を解決するのに20年かかったといわれていますよね。いわんや我々においてどれだけかかることやら……。
その目的を忘れて、「我並びに――」ばかりを強調するのはおかしいんです。
もちろん、今世で覚ることが出来ない場合、生涯信心を貫くことが最重要であるから、先生は「この御文だけ憶えておけばいい」とまで仰せなわけでしょ。

生命が永遠であることを覚り、それを妻子に教え、彼らもそれを覚れたならどうなりますか?
ルソーの求める理想の結婚とは、こういうことをいっているんですよ。
だからルソーはある日エミールにこういうんです。
「ソフィーは死んだよ」と。だから鬼畜先生とかいうユーモアをわたしはわざと入れたのだ。
少なくともわたしは理想の結婚とは永遠の絆を創ることだと読みましたし、確信しましたけどね。

生命が永遠であるなら、焦る必要もないでしょ。過去を悔いることもないの。小さなことにいちいち怒るのも馬鹿らしいってわかるでしょ。人の悪口や陰口をいう必要もない。意見の違いだって永遠の時間の中でいつか妥協できたり一致していくんじゃないですか?
ましてや出し惜しみしたり、分け与えたくないとか、貯めこみたい、搾取したいなんて思うはずもないんですよ。
病気? 永遠に治らないの? いつか治るだろ。諸行無常だし自然治癒力だとかあんだから。肉体が病気になろうが障害があろうが、心さえ――生命そのものさえ――病気にならなければ、それでいいじゃない。健康な生命とはありのままってことじゃないんですか? 肉体なんていつか宇宙にお返しする借り物でしょ。精神の病だってね死ねば意識失うんだからそこですべて解決するんですよ。もちろんこれらは生命が永遠であると覚ればのお話ですがね。死ねば解決するんじゃないですよ。この相違をきちんと弁えることが最も重要なんでしょ。
びくびく怯える必要もどこにもないし、恐怖という妄想を抱く必要なんてさらさらありませんよね? 違うの? 違くないでしょ? 違うわけがない。
そうなれば今が楽しくて仕方なくなるんですよ。どんな境遇にあってもね。

ipsilon at 14:35コメント(0)ルソー『エミール』  

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