2017年07月10日
マイクル・ムアコック『雄牛と槍』を読んだ
前三部作では、コルムや人間たち自らが作りだした神や天秤や法・混沌といった概念を全てぶち壊すことで幕を閉じたわけで、さてこのあとどうやってムアコックは物語を進めていくのだろうかと、興味津々だった。
そうきたか! と読みはじめてすぐに感じとったのだが、後三部作は、人間と自然との関わりを描いていたわけで。
やっぱスケールでか! と。
簡単にいえば後三部作は、生物多様化とか生態系とか、食物連鎖、自然界の法則、自然と人間の関係性などといった事柄を考えながら読んでいくような物語だといっていいだろう。
「諸行無常」がどう英語で書かれているのかも気になったが、そういった言葉も出てきた。
けっきょく、すべては夢みたいなものという表現もあちこちに。
そうなんですな。思考は現実化するわけで。人間のもつ想像力というものは、うまく使えばこれほど優れた英知はないのだが、その想像力を不安だの恐怖に向けるととんでもないものを生みだし、そういった妄想で作られたものが、現にあるものという強烈な思い込みで、自分たちを苦しめているのだから、すべては夢みたいなものといっても過言はないわけで。
神だ、天使だ、悪魔だ、天秤だ、善だ悪だ、秩序だ混沌だといっても、それらは全て人間が身勝手に作りだした概念に過ぎない。そういう意味でいえば、御本尊だってそういった概念でしょ。
そんなのいい迷惑だ! ってことで、コルムはそういう概念を前三部作ですべて破壊し尽くしたわけだ。
それは仏法でいうところの、全てはただうつり変わる事象の連続にすぎない。諸行無常だということを悟ったと見てもいいだろう。でもってそうした事象の移り変わりの原初を訪ねれば、それは宇宙のビックバンの瞬間なわけで。そこには変化もなければ事象も概念も存在しない。もちろん心もないわけだ。
作中ではそれを<百万の天秤の結合>などと表現してるんですがね。
さて、そういう瞬間にたち還れたならば、苦はもちろん、何も無いのだから、安穏でしょ。そもそも何も感じられないのだから、安穏すらないんだけどねというのが、いわゆる仏法でのものの見方でしょ。
ともあれ、物語では、そうして人間が作りだした夢とも妄想ともいえるものが全てなくなったら、そこに残っているものは、人間と自然(動植物や大気や無機物と人間が呼称している概念と事象)との関係性だけなんですね。
さてそうなると、じゃあ人間はこの自然の中にあって、何のために生きるんだ?
コルムにしても愛したラリーナを失い、生きる希望が潰えてしまってるわけで。
でも、それでも生きなければならない。
だとしたら、人間が生きることに必要な動機づけとは何なのだろうか?
ムアコックはこういっていた。
自分は何もマブデンの連中に借りがあるわけではない。マブデンの戦争なんか、どうでもいいじゃないか。いったいあの連中が何をしてくれたというのだ?
そのときコルムは思い出した――かれらはラリーナを与えてくれた!
そしてまた、マナク王の娘メディブのことを思った。投石器とタスラムを持ち、武具をつけた赤髪のメディブが、ケーア・マーロッドに救いをもたらす自分の帰りを待っている……。
マブデンはコルムの家族を殺害し、コルムの片手を切り落とし、片目をえぐりだして、憎悪を教えた。不安と恐怖と強い復讐心とを教えた。
だが、愛を教えてくれたのも、かれらなのだ。
愛であれ憎悪であれ、苦痛であれ、憤怒であれ、それを知ることができるのは相手があるから。
ことの善悪は別としても、そうしたことを知れたのはマブデン(人間種)がいたからだし、(エピソード)記憶しておけるという人間種のもつ特異な能力によるのだと言いたいのでしょう。
いえば、人間が生きる動機とは「恩」を感じるからといっていいでしょう。
別の言い方をすれば、自分が誰かに何かを与えられたのなら、生きているだけで自分も誰かに何かを与えられるからというのが恩の本質なんじゃないですか? だから生きるの。その与えるものが愛であろうと、憎悪であろうと、善であろうと、悪であろうとね。
もちろん記憶というのは、悲しすぎる記憶ゆえに、また似たような悲しみを繰り返すことを恐怖させるものもあるのだが……。
「わたしの妻、ラリーナもそうだった。わたしも(死別を)恐れてはいないと思っていた。実際に体験するまではわからないものだ。妻を失ってみると、もう一度あの思いに耐えられるとは考えられなくなった」
「まったく同じ思いを二度感じることはありませんわ、コルム」
「それはそうだ、だがそれでも……」
「人が死ねば残るのは遺骸だけでしょう。遺骸を愛するのでないならば、誰か生きている恋人を見つけなければなりませんわ」
コルムは首を振った。「愛らしいメディブよ……きみには、そんなに簡単なことに見えるのか?」
「わたしは簡単なことを口にしたとは思っておりません」
そうなんだけどね。諸行無常であり、一期一会であり、二度と同じ瞬間や同じ思いなんて感じることはできないのだけど、人間の想像力(記憶)というのはやっかいで、「もう二度とあんな思いはしたくない」と過去を思い出して恐怖してしまうわけで。
その自身の中に湧く恐怖を振り払える人が、勇気ある人なんだとも思うが、言うは易く云々なわけで。
つまり、恐怖なんて自分が作りだした妄想なんだけど、それと戦おうと思うとね……。
ようは、どの瞬間も二度とないんだから、それが腹立つことであれ、迷惑なことであれ、何であれ、それは二度と「有り難い」ことなんですよ。だから全ての事象をありがたく見て、感謝していけばいいという仏法的視点が大事なんだと、わたしなんかは思うわけですよ。
しかしまあ、これこそまさに言うは易くの見本みたいなものだというね……。実践は難しいというね。
人間と自然を描いているだけに、動物への描写も細やかだった。草花の名前が列記されたりと、なかなか味な演出のある第四巻でしたよ。
何よりも、コルムに呼び出された雄牛が自分の死と血でもって、凍り尽くされた大地に春をもたらし、咲き乱れる花々や生い茂る若草を再生させる場面は美しくもあり、もの悲しかったのだが。
でもそういうものですよね、生き物というのは。死によって土に還り、荒れた大地を再生させる(他の生き物を生かす)のが生きものの死の意味だからね。
でも、人間はそういうことに逆らってるように見えるんだけどね。
また、そうした「循環の美」こそ美しいというのは、草花が咲き乱れる完璧な自然美はかえって恐ろしいといった描写でもって表現されてもいましたよ。いつでも満開の花々があって、清々しい大気を味わえるような美しい島があったら、それこそが最も恐ろしいものだ、と。
栄枯盛衰があるからこそ、自然は美しいのだと。
そりゃそうですよね。
桜の花が一年中咲いてたら、誰も見向かなくなるんだろうし、綺麗だなんて思わないもんね。
でも、ことが人間になると、いつでも綺麗で、病気もせず、仕事を失うこともなく、あーでもない、こーでもないと完璧を目指して、それこそが美とか利とか善だとか思いこんでいて、無職はクズとかさ、病気になったのは不幸とかさ、そういう見方しかできない人、多いんですよね。
そうやって完璧であろうとして、自分で自分を苦しめてるのが人間でしょ。
そうきたか! と読みはじめてすぐに感じとったのだが、後三部作は、人間と自然との関わりを描いていたわけで。
やっぱスケールでか! と。
簡単にいえば後三部作は、生物多様化とか生態系とか、食物連鎖、自然界の法則、自然と人間の関係性などといった事柄を考えながら読んでいくような物語だといっていいだろう。
「諸行無常」がどう英語で書かれているのかも気になったが、そういった言葉も出てきた。
けっきょく、すべては夢みたいなものという表現もあちこちに。
そうなんですな。思考は現実化するわけで。人間のもつ想像力というものは、うまく使えばこれほど優れた英知はないのだが、その想像力を不安だの恐怖に向けるととんでもないものを生みだし、そういった妄想で作られたものが、現にあるものという強烈な思い込みで、自分たちを苦しめているのだから、すべては夢みたいなものといっても過言はないわけで。
神だ、天使だ、悪魔だ、天秤だ、善だ悪だ、秩序だ混沌だといっても、それらは全て人間が身勝手に作りだした概念に過ぎない。そういう意味でいえば、御本尊だってそういった概念でしょ。
そんなのいい迷惑だ! ってことで、コルムはそういう概念を前三部作ですべて破壊し尽くしたわけだ。
それは仏法でいうところの、全てはただうつり変わる事象の連続にすぎない。諸行無常だということを悟ったと見てもいいだろう。でもってそうした事象の移り変わりの原初を訪ねれば、それは宇宙のビックバンの瞬間なわけで。そこには変化もなければ事象も概念も存在しない。もちろん心もないわけだ。
作中ではそれを<百万の天秤の結合>などと表現してるんですがね。
さて、そういう瞬間にたち還れたならば、苦はもちろん、何も無いのだから、安穏でしょ。そもそも何も感じられないのだから、安穏すらないんだけどねというのが、いわゆる仏法でのものの見方でしょ。
ともあれ、物語では、そうして人間が作りだした夢とも妄想ともいえるものが全てなくなったら、そこに残っているものは、人間と自然(動植物や大気や無機物と人間が呼称している概念と事象)との関係性だけなんですね。
さてそうなると、じゃあ人間はこの自然の中にあって、何のために生きるんだ?
コルムにしても愛したラリーナを失い、生きる希望が潰えてしまってるわけで。
でも、それでも生きなければならない。
だとしたら、人間が生きることに必要な動機づけとは何なのだろうか?
ムアコックはこういっていた。
自分は何もマブデンの連中に借りがあるわけではない。マブデンの戦争なんか、どうでもいいじゃないか。いったいあの連中が何をしてくれたというのだ?
そのときコルムは思い出した――かれらはラリーナを与えてくれた!
そしてまた、マナク王の娘メディブのことを思った。投石器とタスラムを持ち、武具をつけた赤髪のメディブが、ケーア・マーロッドに救いをもたらす自分の帰りを待っている……。
マブデンはコルムの家族を殺害し、コルムの片手を切り落とし、片目をえぐりだして、憎悪を教えた。不安と恐怖と強い復讐心とを教えた。
だが、愛を教えてくれたのも、かれらなのだ。
愛であれ憎悪であれ、苦痛であれ、憤怒であれ、それを知ることができるのは相手があるから。
ことの善悪は別としても、そうしたことを知れたのはマブデン(人間種)がいたからだし、(エピソード)記憶しておけるという人間種のもつ特異な能力によるのだと言いたいのでしょう。
いえば、人間が生きる動機とは「恩」を感じるからといっていいでしょう。
別の言い方をすれば、自分が誰かに何かを与えられたのなら、生きているだけで自分も誰かに何かを与えられるからというのが恩の本質なんじゃないですか? だから生きるの。その与えるものが愛であろうと、憎悪であろうと、善であろうと、悪であろうとね。
もちろん記憶というのは、悲しすぎる記憶ゆえに、また似たような悲しみを繰り返すことを恐怖させるものもあるのだが……。
「わたしの妻、ラリーナもそうだった。わたしも(死別を)恐れてはいないと思っていた。実際に体験するまではわからないものだ。妻を失ってみると、もう一度あの思いに耐えられるとは考えられなくなった」
「まったく同じ思いを二度感じることはありませんわ、コルム」
「それはそうだ、だがそれでも……」
「人が死ねば残るのは遺骸だけでしょう。遺骸を愛するのでないならば、誰か生きている恋人を見つけなければなりませんわ」
コルムは首を振った。「愛らしいメディブよ……きみには、そんなに簡単なことに見えるのか?」
「わたしは簡単なことを口にしたとは思っておりません」
そうなんだけどね。諸行無常であり、一期一会であり、二度と同じ瞬間や同じ思いなんて感じることはできないのだけど、人間の想像力(記憶)というのはやっかいで、「もう二度とあんな思いはしたくない」と過去を思い出して恐怖してしまうわけで。
その自身の中に湧く恐怖を振り払える人が、勇気ある人なんだとも思うが、言うは易く云々なわけで。
つまり、恐怖なんて自分が作りだした妄想なんだけど、それと戦おうと思うとね……。
ようは、どの瞬間も二度とないんだから、それが腹立つことであれ、迷惑なことであれ、何であれ、それは二度と「有り難い」ことなんですよ。だから全ての事象をありがたく見て、感謝していけばいいという仏法的視点が大事なんだと、わたしなんかは思うわけですよ。
しかしまあ、これこそまさに言うは易くの見本みたいなものだというね……。実践は難しいというね。
人間と自然を描いているだけに、動物への描写も細やかだった。草花の名前が列記されたりと、なかなか味な演出のある第四巻でしたよ。
何よりも、コルムに呼び出された雄牛が自分の死と血でもって、凍り尽くされた大地に春をもたらし、咲き乱れる花々や生い茂る若草を再生させる場面は美しくもあり、もの悲しかったのだが。
でもそういうものですよね、生き物というのは。死によって土に還り、荒れた大地を再生させる(他の生き物を生かす)のが生きものの死の意味だからね。
でも、人間はそういうことに逆らってるように見えるんだけどね。
また、そうした「循環の美」こそ美しいというのは、草花が咲き乱れる完璧な自然美はかえって恐ろしいといった描写でもって表現されてもいましたよ。いつでも満開の花々があって、清々しい大気を味わえるような美しい島があったら、それこそが最も恐ろしいものだ、と。
栄枯盛衰があるからこそ、自然は美しいのだと。
そりゃそうですよね。
桜の花が一年中咲いてたら、誰も見向かなくなるんだろうし、綺麗だなんて思わないもんね。
でも、ことが人間になると、いつでも綺麗で、病気もせず、仕事を失うこともなく、あーでもない、こーでもないと完璧を目指して、それこそが美とか利とか善だとか思いこんでいて、無職はクズとかさ、病気になったのは不幸とかさ、そういう見方しかできない人、多いんですよね。
そうやって完璧であろうとして、自分で自分を苦しめてるのが人間でしょ。