2018年02月09日

百瀬明治『日蓮の謎』備忘録(1)

宗教団体やそれが教える――換言すれば叩きこんでくる――教義というものは恐ろしい。
世には広くマインドコントロールという言葉で認知されているようだが、ともかくも宗教による独善ほど恐ろしいものはないと今のわたしは思っている。

しかし、これを他人の責とすることはできない。
なぜなら、最終的に認識し受け入れるか受け入れないかを決めているのは、いかなる場合にあっても主体者という「わたし」であるからだ。

そういうことに気づいたわたしは、それまでの自身が信仰に対してなにをどのように認識し受け入れてきたかを結構な時間をかけて点検してきたつもりだ。
そしてここ数年では、かつては全面的に崇拝していた日蓮に対しても猜疑を抱くようになった。
だが、こうした猜疑にも難しい問題がある。極端に陥るということだ。理想としては崇拝と猜疑の中間に自分を置いておきたいということだ。

そんな考えから、今一度、様々な人が日蓮をどう見ていたかを学び直そうと思いついて、ふと手にとった一冊である。
一応、再読である。著者の百瀬明治は宗教家ではないので、残された日蓮の遺文や日蓮研究家の意見を「一般的」な視点でどう見ているのかに注意しながら頁をめくってみた。


まず、末法思想。
百瀬の考え方は、わたしの思想と一応は一致しているようだった。

この思想の眼目は、釈迦入滅後年代がたつにつれて、正しい教法が衰微するというところにあり、衰微の段階は正法・像法・末法の三時に分かたれるとされていた。

ここで百瀬が言っているのはあくまでも「教法」の衰微であり、釈迦の説いた教えそのものが衰微するとは解釈していないのである。
創価の戸田が言っていたように釈迦仏法は去年のカレンダーみたいなものであるなどというインチキな解釈はしていないわけだ。

鎌倉時代の僧、曹洞宗の開祖・道元もわたしと同じ思想であり、彼もまた、正法とか像法、末法という時代区分で仏教を語ることはおかしいという思想の持主だったらしいですがね。

どんな濁悪の時代であろうと、わたしは人の道を歩くという人はそれなりにいるわけだ。そういったことを顧みず、「末法」という言葉ひとつで人間をくくるなど、もってのほかということだ。例え、多くの人が濁悪な心しかもたない風潮が現実にあるとしても、世界のすべてがそうであるなどと言う末法思想など極端の極みなわけだ。


鎌倉仏教に共通し、それ以前の仏教ときわ立った違いをみせているものに、個人の救済という概念がある。旧来の仏教は、おおむね、まず第一に鎮護国家を掲げ、ついで、一族・一家の繁栄や後世安穏を、あるいはすでにみかまった人々の菩提を祈念することに比重を置いていた。
だが、仏教の思想の根源は、今ここに生きている一人一人の悩みにどう対応し、いかに救いとるかということのほうにある。


普通に思索すれば辿りつく答えであろう。
ではなぜ、鎌倉以前は鎮護国家などが重用されてきたのか? おそらくこうであろう。
社会が形作られていく過程でそうなったのだと。
日本であれば、文字や言葉をつかって思想を伝えることが出来た勢力は政治をつかさどっていた勢力にほぼ限定されていたわけだ。
日本の近代において、個人化が進んだという部分を学べば、こういうことはすんなり納得できるはずだ。
それまでの日本は、個々人に名前などありはしなかったわけだ。個人は家族、一族、家系というものに含まれていたのだから、そういう家族、一族、家系、ひいては国家を守るものとして鎮護国家というかたちで宗教が広まったのは当然の結果といえるわけだ。

現に日本最古の史書ともいわれる『古事記』『日本書紀』を学んでみればいい。それが、いかに為政者にとって都合のいいように書かれ、事実を歪曲しているかがわかる。
日本では仏教はそのように広まって来たというわけだ。

そしてこういう仏教伝播の過程を眺めていくと、日蓮が鎮護国家という観点から布教をはじめ、やがて釈迦の説いた「今ここに生きている一人一人の悩みにどう対応し、いかに救いとるかということ」に傾いていったであろうことが窺えるわけだ。

しかし、その日蓮にしても鎮護国家という思想を終生捨てきれなかったのだろう。
だから、池上邸で亡くなる寸前にも、『立正安国論』を講義していたのだろう。
そう考えると、日蓮の限界がどこにあるのかも見えてくるのではないだろうか。
もっともそれは時代性ゆえに致し方なかったこととも言えるのだが。

創価などは、いまだそういったことを検証すらせずに、「日蓮仏法は、立正安国論にはじまり立正安国論に終わる」などと言い続け、選挙支援に血眼になり、それで功徳があると思い込んでいるわけだ。

今、目の前にいるたった一人さえ救えないで、鎮護国家とか、普通に考えればおかしい論理であることなどわかりそうなものだが、そういうことに気づけないのが宗教のドグマの恐ろしさなのだろう。

こうして考えてみれば、大乗のほうが初期仏教より優れているという思想も怪しい思想であることに気づくはすだ。
むしろ小乗と蔑みの意味を含んで呼ばれていた初期仏教のほうが素晴らしい部分を秘めている――正確に言えば根源的である――ことなど自明の理というわけだ。
もっとも、わたしが言うところの初期仏教というのは、釈迦その人の思想であって、文字や言葉として残っている経典から、釈迦は本当のところ何を伝えたかったのかを思索していく行為と定義しているので、初期仏教=小乗でもないだ。

そして、そうした定義で考えてみると、釈尊は他人を変えることは出来ないし、他人を救うこともできないと言っていたのを、大乗仏教は傲慢にも踏み越えて、いわゆる鎮護国家といった、多くの衆生を一度に救おうなどという仏教の根源を顧みない方向に舵を切らせたわけだから、むしろ大乗仏教こそ、仏教を衰退させたとも言えるわけだ。

いやそもそも、多くの人を救えるとかいうのが大乗という意味ではないだろう。
それは日蓮が法華経に拘った理由を見ればわかる。
法華経にあって他経にないものは、「二乗作仏」と「久遠実成」なわけだから、本来の大乗という意味は、いきとしいけるものすべてに仏性があり、いきとしいけるものがすべて幸福になれる可能性を秘めているという意味なはすだからだ。

しかしこういったものとて、おそらくは本来的に釈迦が説いたものはもともとそういう思想であったのだろうが、後世の弟子が経典を編纂したときに釈迦の教えをきちんと理解せず、二乗は成仏できないといった経典を説いてしまったにすぎないと推測できるわけだ。そしてそれをわたしは小乗と定義しているわけだ。


聖人という言葉。

現代では非常に崇高な印象を与える言葉であろうが、鎌倉時代における聖人、つまり聖(ひじり)というのは、そういう概念ではない。

(既に権威化・世俗化の進んだ)寺院から“再出家”した人々を遁世聖という。(中略)そこにおいて遁世聖は朝な夕な、たゆむことなく己の救済を仏前に祈り続けた。

ようするに、聖とよばれ、現代では聖人と呼称されている人々というのは、権威化・世俗化甚だしくなった既成仏教から離れて、仏教の本来の目的である、「仏教の思想の根源である、今ここに生きている一人一人の悩みにどう対応し、いかに救いとるかということ」に目覚めた人であり、わたしが定義した初期仏教に還った人ということになる。

そして、こうした社会と人間と宗教(団体)の関係を見ていくと、結局のところ宗教や信仰の目的というのは、個々人が個々人の立場において、自分をどう救っていくかということになるわけだ。
であるならば、これからの世界がもし正しい方向に進んでいくとしたら、宗教団体に所属し、その団体こそ絶対だと叫ぶようなことは一種、恥ずかしいことだと言えるだろう。

自分の信仰を築く。
しょせん宗教や信仰の目的はそこにしかないのだから。


蛇足だが、日本の鎌倉時代というのは、宗教の権威が最高潮に達し、世の中がそれによって混乱した時代なのだが、これは何も日本だけで起きていたのではなく、同じころ――13、4世紀――というのは、欧州もまたそうだったわけだ。いわゆる中世暗黒時代だ。

そんな時代に、日蓮が生まれ、またアッシジのフランチェスコが生まれ、人々の誤った宗教観を再生させようとしたという事実は何とも不思議なものだと最近感じたりもした。
日蓮は釈迦の時代に還るべきだといい、フランチェスコはキリストの時代に還るべきだと言ったのだから。


罪びとはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない! 罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。我々の考えでは物事をそう考えるほかに仕方がないとはいえ(ヘッセ)


まあ、こう思って生きれているのかが最重要なわけです。
いつか良くなるとか、いつになったら成仏できるやらではないのだ。
今、あらゆる生きとし生けるものは、完璧であり完全であり、なおかつ仏なのだ。
それを信じられないから、悩んだり苦しんだりするだけのことなのだ。

ipsilon at 11:57  
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