2018年05月15日

竹村牧男『入門 哲学としての仏教』を読んだ

これまで西洋哲学と東洋哲学を眺めながら、それを仏教の視点で融合し、自分なりの哲学――といってもそれは普遍性があるもの――を求め、4、5年にわたって思索してきた。
しかし、その仏教じたいの基本といえる部分をきちんと把握できているのか? とふと思い、初心に帰って入門という立場で自分の中に組み上げた仏教観がどのようなものかを確認したくて読んだ一冊。

著者の竹村さんは、鈴木大拙や西田幾太郎という相当高い視点に立った人たちから学んでいるだけあって、理論建ては相当に優れている人といっていいだろう。しかし、それと文章表現の技術は違ったもので、そのあたりに目がいってしまうと不満足を憶える部分はあると思えた。
だが、論理はしっかりしているので、そこは信頼していいだろう。

ということで、本書は入門といえる範囲ではきちんと仏教を語っているし、それを理解でき納得できたことで、わたし自身もまた、これまでの思索が論理的であることを確認できたと思っている。

以下、そういった仏教の入門といえる基本を、引用をまじえながら、わたしなりに述べてみたいと思う。


だいたい自然科学は、物質界のみを対象としていて、じつはそれを分析する主観の側がブラックボックスとなっていて、いわば自己そのものが行方不明となっているのである。それは大きな欠陥ではないだろうか。そのことに気づかずに来たことが、また最悪の欠陥だといえよう。

仏教での視点を持つとは、結局、こういった欠陥に気づき、そこからスタートを切るべきだろうが、残念ながら、仏教徒とうたっている人たちであっても、こうした欠陥に気づいていない場合が多いわけだ。
見たものへの批評批判、評価分析への言葉は溢れているが、見る側の視点がどうなっているかを自ら検証していないのだ。
「あいつは悪である」と見たら、そこから一切視点を切り替えられない。これが欠陥である。
そこから翻って、「ちょとまて、それを悪と見ているのは俺か?」と気づき、そこから思索をはじめるのが哲学としての仏教の入口だということになろう。


彼(陳那)はなんと名前(単語)は「他の否定」を表わすにすぎないと鋭く明かしたのである。「他の否定」というのは、「牛」の場合、牛以外の動物ではない、ということだ。つまり、なにか牛という自立的な存在がすでにあって、それを「牛」の名前が表わしているのではなく、牛以外の動物たちもいて、そのなかで牛以外ではないということのみを表わしているにすぎないということ。


つまり、すべての現象事象は、そもそも無自性(無我)であり、縁起によって他との関係性において表出している空という存在なのだから、牛という動物が単体で存在することはありえない。だから、他の動物、つまり牛以外と牛の関係性をはっきりさせるためのものが「名前」だというのが、仏教のものの見方だということだ。

わたしはわたしだけで存在しえない。誰か他人がいて、その人との関係性において、わたしという存在がはじめて定義できる。したがって、わたしという存在は自分だけで存在するという自性はなく、わたしという我もなく、空であるということだ。
「我思うゆえに、我あり」。そうかな? わたしという人物はわたしだけでは定義できませんよ。父がいて母がいて、その間に生まれたのがわたし。その両親と住んでいた地域のA小学校に通ったのがわたし。そうしたわたしが住んでいる地域で、B中学に通っていたのが姉……云々。このように、どこまでいっても、わたしの存在をわたし自身が証明することは出来ないわけだ。いや、自分が感じてる痛みがあるから、わたしはここに在ると言えますか? だってその痛みは、他人には一切知りえないんですよ。いくら痛みがあろうが、何かへの触感があるからといって、わたしは在ると豪語しても、そんなものでわたしがここに居るということは証明できないのですよ。

とまれ、人間にはカントの述べた共通感覚というものがあるわけです。
したがって、痛いということは、それぞれが感じられ、その痛みを「概念」や「言葉」として確認しあえることで、なんとかかんとか自分はここにあるということを実感できるわけだ。そういう必要性から、人類は言語にたけた種であるともいえる。だから竹村さんなどは、仏教は言語哲学でもあると述べてもいる。

また、こういった共通感覚にカントはなぜ気づけたか? 自信をもってそれがあると言えたかが面白いのだ。
人それぞれ好みに差異があり、趣味趣向がある。であるならば、その対極も相対的に存在するはずである、そう考えたんですね。カント、頭いい! ――したがって、人間、ひいては生きとしいけるものには共通感覚があると結論し、仏教でいう七識に辿りついたのだそうだ。

と説明してみても、よくわからない人も多いのだろうが、これがわからなくて、仏教徒だと言うのならば、そういう人は似非仏教徒だということだ。


外界に存在すると思われる本来の物について、カントは「物自体」と呼んで、それはどういう色をしているか、どういう形をしているか、まったくわからないとした。

その通りであり、わたしなどはこのことをずっとずっとずっーーと伝え続けようとしてきたのだが、どうもこの真実に気づけた人はほとんどいないようだ(極々少数、気づいた人がいるのも知ってますがね)。
ともあれ、わかってしまえば、どうということはないのだが、わかるまでが大変なのは承知している。
無論、こうしたわれわれは「物自体」を知れないというのは、有名なソクラテスの「無知の知」と同じ意味である。

なぜ「物自体」を知れないのかはもう説明しませんよ。
それぞれが考えて、なぜそう言えるのかを考えて、自分で見つけ出さなければ、信じられないものなのだから。

ネスは、ガンジーの主題は実は政治運動ではなく自己実現であり、しかもその自己は狭い個我にとどまらない、究極的・偏在的な自己のことであると明かしている。

これもその通りだといえよう。
ガンジー自身は一応はヒンドゥー教徒だったわけだが、彼はあらゆる宗教にある共通点を自己にとりこみ、それぞれの宗教にある良い部分をも取り込んで、自己の信仰を築きあげよう――自己実現しよう――としたのであるから、彼のやったことは政治運動ではないのだ。
とある教団などは、ガンジー、キング、イケダなどと宣って、政治運動に邁進しているようだが、愚かなことだと思う。

ガンジーのように、ヒンドゥーでありながら、カ−ストを教義としては認めながら、行為でそれを否定し、ヒンドゥーの聖典『ギーター』とキリスト教の聖書が(三位一体と絶対神の存在という部分で)酷似していることに気づき、バラモンやヒンドゥー教の原典となっているヴェーダ聖典を否定するジャイナ教からは、彼が信念とした非暴力(アヒンサー)の思想を取りこみ、また仏教からも学んでいたわけだ。
こういう生きかたが、自己実現でなくてなんであろうか。

つまり、自分自身に生きるということは、宗派に執着するのではなく、あらゆる宗教が目指す真理はたった一つだと見抜き、各宗教にある共通点(普遍性を担保しつつ)、良い部分を、自己のなかに取り込み、総体的宗教を自分のなかに築いていくということに他ならないのだ。


もし世界と自己が一体であることが真実であり、そのことが自覚されれば、少なくとも根本的に、身心のみを自己と思う立場から対象的に世界を支配し、しかも自己本位に操作し、必要以上に傷つけ、破壊することは、慎むだろう。世界自身の自己実現をもっぱら追及することであろう。

こういう視点に立ったなら、俺たちの宗派だけが唯一絶対に正しいなどとはとても言えないということだ。


一の中に一から十までがあるとして、そのそれぞれにまた一から十までがあり、そのそれぞれにもまた一から十までがあり、というように、ここにおいてだけでも関係は無限なものを内蔵していることになるからである。

本書で一番感銘をうけた部分だ。
そう、わたしのこれまで考えてきた一念三千への思索がいかに浅薄だったかを思い知らされたからだ。
一念三千というのは、十界の中にまた十界があり、それら各々の界は三世間を具えるという論理だが、本当の意味の一念三千はこんな簡単な文脈で説明できないと気づいたわけだ。

実際の一念三千は、十界の中にまた十界があり、そのまた十界の中にまた十界があり、そのまた十界の中にまた十界があり……各々の界には、三世間が具わり……と無限に続くものだと気づいたわけだ。

つまりこういうことだ。
わたしがAさんを見た、このときわたしの中に湧いた主観が怒りであればそこには地獄界がある、しかし見られたAさんが喜んでいるなら、わたしの中の地獄界に天界を具えさせるわけだ。そしてAさんが喜びのままBさんを見たとき、Bさんが空腹に苦しんでいたなら、わたしの中には地獄界の中に天界があり、その天界の中にBさんの餓鬼界を具えさせ、そのBさんが空腹のまま、利他行為をしているCさんを見たなら……というように、わたしの一念は無限に他者を内包していっているということだ。

そしてそうした地獄、天、餓鬼、菩薩というそれぞれには三世間が具わっている。
わたしにはわたしが暮らす環境(国土世間)があり、わたしにはわたし独自の五感の感覚(五陰世間)があり、わたいしにはわたしの中にある他者への印象(衆生世間)があり、同様に、Bさん、Cさんにもそういう三世間が具わっているわけだ。
衆生世間というのがこれまですっきり理解できていなかったのだが、今回はっきりわかった。
衆生世間とは自分の中にいる他人であり、ひいては自分の中にいる生きとしいけるものだ、と。

非常に込み入っているが、こういうことこそが真に正しい一念三千を知るということになろう。
したがって、このように一念三千を考えると、わたしの中にはあらゆる生きとしいけるものが内包され草木や砂土、有機物・無機物の隔たりなく、宇宙そのものが内包されており、終局的には、我即宇宙に到達せざるを得ないわけだ。
こういうことから、釈迦が悟ったものも宇宙そのものだったということが推察できるわけだ。

しかし、大事なのは我即宇宙を知ることだけではない。
この我即宇宙という言葉は「我即宇宙 宇宙即我」というようにセットであるべきなのだ。
なぜなら、我即宇宙というのは悟りへの道であり、宇宙即我というのは、そういった悟りを得たあと、現実の自分自身に還って世界的な自己実現を目指すべきということを伝えるために、「我即宇宙 宇宙即我」はセットであらねばならないからだ。

こうした表現は禅の言葉に多い。
有名なものでは、道元の「心身脱落 脱落心身」であろう。
無心とはいかなる境地かと聞かれて、道元が答えたといわれる言葉だ。
意味は、心身を脱落させて無心になった境地になってみれば、所詮それは現実の世界に存在する脱落した我が心身に過ぎなかった、というようなものだ。

こうやって考えると、乱暴にただ法華経の極意は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」だと述べるような日蓮の思想の浅薄さに気づいてしまうわけだ。
もっともこの、法華経の極意は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのは、偽書の疑いが濃い『御義口伝』にあるので、これが日蓮の真意だとは一概には言えないのだが。


永遠の今以外に、時間はない。そこに立てば、老いることも死ぬことさえないはずになる。生きている限りは、死なないし、死んだらもう死なないから。


思わず笑ってしまうだろうが、これが真理なのだ。
詳しく思索したいと思うなら、鈴木大拙の書いたこのあたりを読んでみてはどうだろうか。


その刹那の中の現在は、生じる刹那と滅する刹那と、二刹那によって現在があるとすると、どちらに現在をとらえてよいものか、矛盾に陥ってしまうことになる。一刹那において、生じると同時に滅するというのは、矛盾のようだが、理論的にはそのように表現せざるを得ない。


先にリンクした鈴木大拙の弁は、こういうことを述べているわけだ。
つまり、本当に今ここに生きようと思うなら、われわれが常識的に考えている時間感覚をすてて、直観として自己を観察しなければならないということだ。
したがって、そうした常識を超えた感覚で因果を見るなら、そこには原因があって結果が現れるなどという、常識的な論理さえ通用しないわけだ。

時間的な因果関係は、結果が原因より先にあるか、同時にあるか、後にあるかのいずれかであろう。結果が原因より先にあれば、原因をなくして結果があることになり、そこにはもともと因果関係などないことになってしまう。結果と原因が同時にあるなら、それは時間的因果関係とはいえず、ただ空間的な相依関係があるのみとなる。では結果は原因の後にあるのか。おそらく誰もがそれが当然だと考えるであろう。
しかし、この場合は、原因が無に帰したのち、結果があるということなる。


意味わかりますか? わかるまで何度も読んでみるといいですよ。
そうすれば、因果関係というのが、われわれの常識にある時間の概念を超えると成り立たないことがわかりますから。
原因が現れ、その後に結果が現れるのであれば、それは二刹那になり、厳密に言えば、原因が滅したあとに結果が起こるというおかしなことになるわけだ。
では原因と結果が同時に存在するならば、もはやそれは因果関係とは呼べない。因果ではなく、原因か結果のどちらかがある刹那に存在するか、あるいは原因と結果がある刹那に同時に生じて滅するということになろう。少なくとも論理的にはそうなるのだ。つまりあらゆるものは一如であり、因果一如もまた成り立つのが今ここということになるだろう。別のいいかたをすれば因果具時がこれにあたる。

そうなると、結局のところ永遠の今というのは、原因や結果が生じもしなければ滅しもしないということになるわけだ。したがって、「生きている限りは、死なないし、死んだらもう死なない」ことになるわけだ。
であるなら、論理的に思考すれば、ある刹那に、ただ縁によって識から記憶や感覚が呼び起こされるということが繰り返されているとしか言えないだろうし、それが本当の意味での因果具時になろう。

このように、縁起によって何かが起こるというのは、起こった事実を掴まえて、それはやった原因の結果であるとは言えないということだ。真理はそうであるのに、われわれは身勝手な時間概念のもとに原因があって結果が出るという妄想の中に暮らしているということだ。
正しく仏教を考えれば、結果を求めることがいかにくだらない執着であるか、わかろうというものだ。


仏教はこのように、非常に深い深い、直観的実践認識哲学であって、祈りを叶えるための宗教ではないのだ。


ああ、それから、竹村さんが無明とは何かをズバっと言ってるところも衝撃的だった。
稚拙なわたしは昔、無明とは不信だとか、宗教的見地で言ったこともあったが、竹村さん曰く、無明とは自我があるという思い込みだ、と。

いわれてみれば、全くもってそうだと納得した。
そもそも仏教は我とか自分とかいうものは無いというのが究極の教えなのだから、そういう真理を覆い隠すものは、自我があるという思い込みとか、自分が自分が、という思いしかありえない。ちょっと前の記事にも書いたが、人間の中にある最悪のものはエゴイズムという自己中心的信念なのだから。

しかしその自我を呼び起こす感覚は八識という深いところにあるらしく、だからこそ、なかなか我なんてない、したがって生きとしいけるものは平等に尊極だという仏心には至れないらしいのだ。

その八識の奥に九識があるという天台が説いた九識論もなにやら怪しいとも思うのだが。
なぜなら、まったく穢れのない九識というものを設定し、それを信仰の対象にしてしまうことは、唯一絶対の全知全能の神がいるという信仰とほとんどかわらない思想だからだ。

現に天台の九識論を取り入れた日蓮宗は、日蓮本仏論とかを言いだし、彼を神格化し、彼の命こそ全く穢れがないとか言いだしたわけで。

華厳の思想では、あるのは八識(宇宙森羅万象の記憶を収めている蔵)までであり、そこに仏性もある、そこから仏性が引き出された結果、、、悟りや成仏の境地に至ると説いているのだが、この論理のほうが的確だと思えるわけだ。

仮に九識をビックバンが起こる瞬間のほん少し手前の刹那と見ても、そもそもその刹那は特異点といわれており、人知では推し量れない領域だといわれているわけで。だから、九識論はなんだかなあと思うわけだ。

もっとも、ホーキング氏の理論を九識論にあてはめると、十識、十一識、十二というように、ビックバン以前の宇宙の記憶があるということになるのだが……。
まあこうなると、われわれの住む宇宙以外の宇宙の幸福も考慮しなければならない哲学が必要になるわけで。

ともあれ、九識論は仏教を哲学の範疇から押しだし、超自然的、神格的なものにしうる思想だとは言えるのではないだろうか。

ipsilon at 14:13  
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