2018年05月24日
トルストイ『クロイツェル・ソナタ 悪魔』を読んだ
以下、読書メーターに投稿した感想。
『クロイツェル・ソナタ』が素晴らしい!! ベートヴェン作曲のバイオリン・ソナタ第九番『クロイツェル・ソナタ』が演奏される場面の美しさよ! ピアノ(男)とバイオリン(女)が対等な立場で互いが相手を尊重する同じ心でいる瞬間こそが純愛だと、見事に歌わせているのだから。第一楽章は牧歌的なイ長調ではじまり、悲し気な短調に変わる。第二楽章はこの世で最も美しい感情を表現できるといわれるへ長調。これもまた途中で短調になる。第三楽章、途切れなく踊るタランテラと呼ばれる奏法は、一楽章と同じ牧歌的なイ長調で奏でられる。
長調と短調は、夫婦生活における喜びと悲しみ。主調のイ長調は、人間が一番心地よいと感じる調。いわゆるチューニングで使われるラ音(A)を根音とする。つまり、トルストイの求めた純潔な愛とは、夫婦や家族だけの愛ではなく、夫婦と彼らに関わるすべての人々がみなハッピーになる愛だといって過言はないだろう。ビアノとバイオリンに対等なソナタを創りあげたベートヴェンも偉大なら、その曲に触発されて、一見、嫉妬と猜疑と性欲まみれの悲劇を描いているようで、実は神の愛を描いてみせるトルストイ。――溜息しかでない。
それだけに、最後の場面はあまりにも痛々しい……。顔に痣ができ、刺された妻を目にして、ようやく彼女に自分と同じ権利や尊厳――人間としての平等――があると気づく悲しさたるや……。嫉妬いやそれ以上に猜疑心というものの恐ろしさたるや。『悪魔』はそいう嫉妬や猜疑心はあくまでも主観である――自分で払いのける以外に解決策がない――ことを最後の一行で強烈に訴えてくる作品。他人を狂っているとみているのもその人の主観である……と。
本タイトルは、中編2本、約200ページというボリュームなので、読もうと思えば案外すんなりと読めるだろう。
しかし、取り上げられている内容は、決して明るいものではないので、人によってはしんどいかもしれない。
トルストイの思う、性愛に対する非常にストイックな思想がこれでもかというほど懇々と語られるからだ。
ぬぼーっと読んでいると、「トルストイおじさん、大丈夫か? そこまでストイックに考えてたら、生きていけなくなるぜ……」と呟きたくもなるだろう。
そういう感情を惹きおこさせる最大のところは――
かりに何の目的もなく、人生のために生命が与えられたのだとしたら、生きていく理由なぞありませんよ。もしそうだとしたら、ショーペンハウエルやハルトマンや、それにすべての仏教徒たちは、まったく正しいわけです。またもし、人生に目的があるとしたら、その目的が達成されたときに人生が打ち切られねばならぬことは明らかです。
という部分だろう。
つまり、トルストイは性欲や性愛にもとづく行為と出産や子育ては、人間としてまったき理想の生き方に到達しえないとき、子孫にその夢を託すためだけにあるべきだ、というところまで理想を高めているわけだ。
トル爺さん、何もそこまで思い詰めなくとも……と言いたくなるだろう。
ともあれ、『クロイツェル・ソナタ』は、このような形で、著者の考える純潔な愛と、そうした愛を遠ざけているような世間の性愛に対する態度を徹底的に批判する部分がほとんどで、わたしが感想に書いた個人的に核心と思えた場所は、わずか2ページほどという作品なのだ。
それだからこそ、夜会でクロイツェル・ソナタが演奏される部分は、暗闇の中で一瞬だけ見れた眩いばかりの耀ける美しさがあるのだろう。
気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ。これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。わたしがつきとめたこの新しいものが、いったい何だったのか、はっきりさせることはできませんでしたけど、この新しい状態の自覚はきわめて喜ばしいものでした。妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきたのです。(中略)
わたしは夜会の間、終始、心が軽やかでした、その晩のような妻の姿を、わたしはかつて見たことがなかったのです。演奏している間の、あの光りかがやく目や、端正さ、表情の厳粛さ、そして演奏し終わったあとの、何か身も心もすっかり溶けてしまった風情や、かよわい、いじらしい、幸せそうな微笑。わたしはそれらすべてを目にしました。しかし、妻もわたしと同じ気持ちを味わっているのだ、わたしと同じものが啓示され、まるでついぞ味わったことのない新しい情感が思い起こされた気持ちになっているのだ、ということ以外、そこに何ら別な意味を付さなかったのです。
美しいじゃありませんか!
前の記事に書きましたが、リズムを合わせようとすることで、人と人は「あるがまま」の心を通わせあえる。
音楽のもつ、詩歌のもつ、韻律の偉大さよ。
だが、残念なことに、主人公が事件のあとそれを振りかえって告白しているとおり、そういう情感を、「何だったのか、はっきりさせることはできませんでした」という部分に、妻殺しの原因があることがわかるわけだ。
それぐらい、リズムを合わせて人と人が「あるがまま」である感動や喜びや称賛の素晴らしさを言葉にするのは困難であり、なおかつ「今ここにしかない、あるがまま」は、直感と直観のみで、その一瞬一瞬しか感じとれないものだと、トルストイは語っているのだろう。
また、「妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきた」という一文にも注目して欲しいと思う。
こうしたところから、純潔な愛=神の愛(誰人をも平等に尊重する心)だとくみ取れるだろうから。
ちなみに、尊ぶというのは、比較や評価なしにということであり、貴ぶは、比較や評価したうえでという意味の違いがある。
こうしたことを見据えて、最後の数ページを読むと、主人公が二度にわたってい言う「どうも失礼しました」という言葉に、たまらなく心を突き刺され、いたたまれなく悲しかったのだ。
『クロイツェル・ソナタ』が素晴らしい!! ベートヴェン作曲のバイオリン・ソナタ第九番『クロイツェル・ソナタ』が演奏される場面の美しさよ! ピアノ(男)とバイオリン(女)が対等な立場で互いが相手を尊重する同じ心でいる瞬間こそが純愛だと、見事に歌わせているのだから。第一楽章は牧歌的なイ長調ではじまり、悲し気な短調に変わる。第二楽章はこの世で最も美しい感情を表現できるといわれるへ長調。これもまた途中で短調になる。第三楽章、途切れなく踊るタランテラと呼ばれる奏法は、一楽章と同じ牧歌的なイ長調で奏でられる。
長調と短調は、夫婦生活における喜びと悲しみ。主調のイ長調は、人間が一番心地よいと感じる調。いわゆるチューニングで使われるラ音(A)を根音とする。つまり、トルストイの求めた純潔な愛とは、夫婦や家族だけの愛ではなく、夫婦と彼らに関わるすべての人々がみなハッピーになる愛だといって過言はないだろう。ビアノとバイオリンに対等なソナタを創りあげたベートヴェンも偉大なら、その曲に触発されて、一見、嫉妬と猜疑と性欲まみれの悲劇を描いているようで、実は神の愛を描いてみせるトルストイ。――溜息しかでない。
それだけに、最後の場面はあまりにも痛々しい……。顔に痣ができ、刺された妻を目にして、ようやく彼女に自分と同じ権利や尊厳――人間としての平等――があると気づく悲しさたるや……。嫉妬いやそれ以上に猜疑心というものの恐ろしさたるや。『悪魔』はそいう嫉妬や猜疑心はあくまでも主観である――自分で払いのける以外に解決策がない――ことを最後の一行で強烈に訴えてくる作品。他人を狂っているとみているのもその人の主観である……と。
本タイトルは、中編2本、約200ページというボリュームなので、読もうと思えば案外すんなりと読めるだろう。
しかし、取り上げられている内容は、決して明るいものではないので、人によってはしんどいかもしれない。
トルストイの思う、性愛に対する非常にストイックな思想がこれでもかというほど懇々と語られるからだ。
ぬぼーっと読んでいると、「トルストイおじさん、大丈夫か? そこまでストイックに考えてたら、生きていけなくなるぜ……」と呟きたくもなるだろう。
そういう感情を惹きおこさせる最大のところは――
かりに何の目的もなく、人生のために生命が与えられたのだとしたら、生きていく理由なぞありませんよ。もしそうだとしたら、ショーペンハウエルやハルトマンや、それにすべての仏教徒たちは、まったく正しいわけです。またもし、人生に目的があるとしたら、その目的が達成されたときに人生が打ち切られねばならぬことは明らかです。
という部分だろう。
つまり、トルストイは性欲や性愛にもとづく行為と出産や子育ては、人間としてまったき理想の生き方に到達しえないとき、子孫にその夢を託すためだけにあるべきだ、というところまで理想を高めているわけだ。
トル爺さん、何もそこまで思い詰めなくとも……と言いたくなるだろう。
ともあれ、『クロイツェル・ソナタ』は、このような形で、著者の考える純潔な愛と、そうした愛を遠ざけているような世間の性愛に対する態度を徹底的に批判する部分がほとんどで、わたしが感想に書いた個人的に核心と思えた場所は、わずか2ページほどという作品なのだ。
それだからこそ、夜会でクロイツェル・ソナタが演奏される部分は、暗闇の中で一瞬だけ見れた眩いばかりの耀ける美しさがあるのだろう。
気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ。これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。わたしがつきとめたこの新しいものが、いったい何だったのか、はっきりさせることはできませんでしたけど、この新しい状態の自覚はきわめて喜ばしいものでした。妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきたのです。(中略)
わたしは夜会の間、終始、心が軽やかでした、その晩のような妻の姿を、わたしはかつて見たことがなかったのです。演奏している間の、あの光りかがやく目や、端正さ、表情の厳粛さ、そして演奏し終わったあとの、何か身も心もすっかり溶けてしまった風情や、かよわい、いじらしい、幸せそうな微笑。わたしはそれらすべてを目にしました。しかし、妻もわたしと同じ気持ちを味わっているのだ、わたしと同じものが啓示され、まるでついぞ味わったことのない新しい情感が思い起こされた気持ちになっているのだ、ということ以外、そこに何ら別な意味を付さなかったのです。
美しいじゃありませんか!
前の記事に書きましたが、リズムを合わせようとすることで、人と人は「あるがまま」の心を通わせあえる。
音楽のもつ、詩歌のもつ、韻律の偉大さよ。
だが、残念なことに、主人公が事件のあとそれを振りかえって告白しているとおり、そういう情感を、「何だったのか、はっきりさせることはできませんでした」という部分に、妻殺しの原因があることがわかるわけだ。
それぐらい、リズムを合わせて人と人が「あるがまま」である感動や喜びや称賛の素晴らしさを言葉にするのは困難であり、なおかつ「今ここにしかない、あるがまま」は、直感と直観のみで、その一瞬一瞬しか感じとれないものだと、トルストイは語っているのだろう。
また、「妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきた」という一文にも注目して欲しいと思う。
こうしたところから、純潔な愛=神の愛(誰人をも平等に尊重する心)だとくみ取れるだろうから。
ちなみに、尊ぶというのは、比較や評価なしにということであり、貴ぶは、比較や評価したうえでという意味の違いがある。
こうしたことを見据えて、最後の数ページを読むと、主人公が二度にわたってい言う「どうも失礼しました」という言葉に、たまらなく心を突き刺され、いたたまれなく悲しかったのだ。