2018年06月07日

メルヴィル『白鯨(下)』を読んだ

解釈や作品にある問いへの答えは一つではなく、人それぞれあるものだ。しかし『白鯨』くらい読後、幻惑感に包まれるものはないかもしれない。主題は魂は決して穢されない清浄なものであり、神の慈悲はそれを知らしめるということだろう。エイハブが白鯨を敵視するのは、聖書に登場するヨナが神の命令に背く姿であり、エイハブが三日三晩白鯨と闘うのは、ヨナが神の使命から逃れられず鯨に三日三晩のまれる姿であり、エイハブが死してようやく魂の浄化を果たすのは、ヨナが唐胡麻の木を神に枯らされて神の愛の大きさを知ることに重ねられるのだろう。

とはいえ、エイハブは憎悪だけに生きた不幸な老爺ではなく、彼はただ感じて、感じることだけに集中し、自己肯定の連続に生きてきただけなのだと語られるあたりから、彼に対する憐憫の情が湧き、彼の最期を看取ったとき、いいようのない悲しみに包まれた。神や運命とはなにかを考えるにはもってこいの作品といって過言はないだろう。

しかし、『白鯨』の何が凄いかといえば、メルヴィル35歳の作品であるということだ。35歳にして、これだけ宗教に対する知識をもち、鯨学その他に徹底的に挑んでいた姿を瞼に浮かべたとき、自らの卑小さを思い知らされたことだ。


以上、読書メーターに投稿した感想。


いつまでも感想記事を書かないと、読み終わった本がテーブルに積まれていくだけなので、記事を書くだけというのがこのエントリーの内容。

上下巻とおしての感想は読書メーターに投稿したとおり、「幻惑感に包まれた」としか言えない。
ということで、付箋を貼った部分を抜きがいて終わりにする。
とはいえ、引用した部分だけを読んで著者の思わくを正確に把握するなどできないと思って欲しい。
そもそも1000頁もある大作を、わたしの引用などで知ったつもりになられても困るわけだ。
文脈を読むというのは、そういうことを言うのだから。


万人は疑惑を抱き、多数のものは否定する。ところが、疑惑もしくは否定と、天上のいくつかのものに対する直観と、この二者を併せ有するなら、その人は信仰者にも不信者にもならず、そのいずれも同等視する人間なのだ。


非常に優れた思想といっていいだろう。いずれも同等視するとは、ものごとを相対的(二元)ではなく、一元で見れるということだ。こういう境地に至るのが、最も難しいとわたしは確信している。


人間の狂気は天の正気なのだ。そしてあらゆる人間理性からさまよいでて、人はついに、理性には不合理とも狂気ともみえる、あの天上の思想に到達し、その時こそ、幸せであろうが、不幸であろうが、彼の神同様に、妥協せず、無頓着でいられるのだ。

これもまた非常に優れた思想だ。
ドストエフスキーは『地下出の手記』で感情も理性も否定し、地下室で狂人のように暮らす男を描いてみせたが、ほとんどの読者は彼を狂人と見て、他人事として面白がっているようだが、彼こそ神のような境地に達した人間なのだと、メルヴィルはメルヴィルで、同じことを語っているわけだ。
無頓着でいられる。なんと素晴らしい心の平安であろうか。


おお! 友よ、だがこれは人間を殺すものだ。しかも、それが人生なのだ。なぜなら、俺たち人間が長い間あくせく働いて、この世界の巨大な胴体からわずかながら貴重な鯨脳をしぼり取って、それから根気よく辛抱して、この世のけがれを洗いおとし、そしてここ魂のけがれなき仮の棲家に住む悟りをひらいたと思うまもあらせず――あそこに汐噴き! ――汐噴きの幽霊があらわれて、おれたちはまた別の世界と戦うために船を出して、ふたたび若い生命のいにしえからの定めの仕事をはじめからやりなおすのだ。


現実生活に追われて一生を送るとは、こういうことなわけだ。
で、結局、輪廻してまたはじめから現実生活の苦労を味わいなおすというわけ。悟りに至らない限り、そのように死んだ瞬間生まれかわって、またはじめから現実生活の苦労を味わうというわけだ。
それがいやなら、魂のけがれなき棲家を求めて、悟りを得ることに励むしかないのだが。
もっとも、悟ったなら生まれ変わらないとは言えないが、少なくとも、死んでから相当に長い時間、平安な境地で宇宙に溶け込んでいられるだろうことは推測できるわけだ。

あれが嫌だ! これが好きだ! ああでもない、こうでもないとしていたいということは、すなわち、楽しかろうが苦しかろうが、幸せであろうが、不幸であろうが、正義だとか悪だとか絶叫しながら感情を味わっていたいという思考だ。死の瞬間までそういう感情のままでいれば、死んだ瞬間、すぐに生まれ変わって、また、あれが嫌だ! これが好きだ! ああでもない、こうでもないという感情を味わうことは、因果の道理なのだ。
もちろん、輪廻したあと生まれた自分は過去の記憶など一切ないのだから、メルヴィルの言っているように「若い生命のいにしえからの定めの仕事をはじめからやりなおす」ことになるわけだ。

だからといってわたしは悟りに至ることを勧めるわけではない。感情を何度も味わいたい人は何度も味わえばいいだけです。わたしはそういう自由ももちろん認めている。
ただまあ、悟れなければ、悟れるまで何度も何度も感情の味わいを繰り返さなないとならない。悟りの道をある程度進んでも、悟るまえに死んでしまえば、それもまたはじめからやり直しだと考えれば、どちらがいいかは自ずと見えてくるのではないだろうか。


ここに思想の食物がある。だが、エイハブはけっして考えることはせぬ。彼はただ感ずる、感ずる、感ずるだけじゃ。生身の人間にとっては、それだけでも十分に胸の痛むことだ。考えるなどということは生意気千万じゃ。神だけが、考える権利と特権をもっているのじゃ。考えるということは冷静さであり、落ち着きであり、またそうなくてはならぬ。

ほんと素晴らしい境地に辿りついてますよ、メルヴィルという人は。
神における考えるとは「冷静さであり、落ち着き」だと。つまり神は考えるのではなく、平安にあるだけ、、、、だと言っているのだから。悟ってるんだなァこの著者も。


下巻でもっとも感動したのは、第九十二章「竜涎香りゅうぜんこう」だ。
病死や不慮の出来事で自然死した鯨を「立ち枯れ鯨」と呼ぶと語ったあと、その腐敗して悪臭をはなつ鯨の内部から世にも高貴な香りをはなつ竜涎香がとれるという内容だ。つまりこれは、死ねば腐敗する人間の肉体と、死んでも決して失われない魂を、香り(目に見えないもの)に例えて語っているわけだ。いわゆるメタファーだ。
仏教でいうところの、肉体は不浄であるという譬喩にそっくりなわけだ。もちろん、本当に肉体が汚らわしいのではなく、肉体(ようるすに物質)に執着しても報われませんよということを伝えるための語り口なわけだ。だから、生きていく間は、体も大事にしなさいとも経典にはあるわけで。

こうした表現は各所にかたちをかえて、何度も出てくる。ダブルーン金貨と黄道十二宮を語る章とか。白鯨が赤道付近に現れるとか。つまり、中心には魂があるということを、メルヴィルは手をかえ品をかえて何度も語っているわけだ。

他にも、世間の常識人から見たら同じ狂人にみえる、エイハブとピップの魂が共鳴しあう場面も美しい。
外見から見れば、憎悪の塊のエイハブと極度の臆病から白痴になってしまったゆえの共鳴に見えるのだが、メルヴィルは決してそうは描写していないわけだ。憎悪と恐怖は魂が共鳴しあう「きっかけに過ぎない」のだと語っているわけだ。

そして、彼らは、共鳴したことで半ば無意識に自分たちの中に、清らかで決して穢されない魂があることを実感しているわけだ。
こういう描きかたをすることで、臆病であったり、歪んだ視線しかもてずに生きてしまう悲しい人間をメルヴィルは優しく憐れんでいるわけだ。美しい人間愛ではないか!

ipsilon at 22:33コメント(0)  

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