2018年07月07日

ルソー『社会契約論』(1)

Q:ルソーはなぜ社会契約論を書いたか?
A:わたしの発言が公の政治に、いかにわずかな力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。

簡潔明瞭な理由だが、国家や政治体の所属員であるなら、政治について考えたり発言することは、当たりまえの「義務」であるということだ。
政治なんてどうせ変わりはしない、という態度が最も問題だということでもあろう。


Q:社会契約論のもっとも大きな主題は?
A:人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか? わたしはこの問題を解きうると信じる。

つまり、ルソーが社会契約論を書いてまで解決したかった社会問題は、もともと自然状態にあれば、必ず保証されている自由が、人と人が関わって社会をつくったとき、必ず互いの自然状態を束縛しあい、自由を失い互いが互いに隷属する関係に陥ることを、なんとしても解決したいと思ったし、また解決できると信じたということだ。
従って、ルソーが何にもまして最重要視していたのが、教育論である『エミール』でも述べられていたとおり「自由」であることがわかろう。

いいや、俺は支配する側になるから、不自由にはならないなどという論理は通用しない。ルソーはそういう過誤の芽をきちんと潰している。例え支配する側になったとしても、被支配者を支配するということに隷属している事実があるのだ。したがって、支配者になった=自由ではなく、むしろ不自由になったといってるわけだ。
わかり易い言葉でいえば、支配・被支配の関係は「共依存」状態だと述べているわけだ。

よりわかりやすくいうなら、奴隷を使う主人になったところで、その奴隷に命じてやらせていることは奴隷によって制限され束縛されているのだから、主人であろうが、所詮は他者の奴隷なのだということだ。


Q:では、互いが奴隷にならない社会関係ってなに?
A:いかなる人間もその仲間に対して自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利も生みだすものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけが残ることになる。

いいや、何の約束もしないでも、俺は権威や力によって他者を従わせられるなどという論理は、ルソーにいわせればクソ理論だ。
彼はいっている。そういうのは権威でもなければ力による支配でもない。なぜなら、そういう行為はただ単に「暴力に屈した(屈させた)」に過ぎないのだ、勘違いすんなよ阿呆! というわけだ。
例え暴力に屈したとしても、それがそのまま屈した側が、権威を受けいれ、支配を受けいれたということにはならないのだ、と。
したがって、互いに自由を犯しあうことなく互いが権威をもち力を行使できるのは、双方同意のもとにおいて取りかわされた約束がある状態においてのみなのだ。
この約束という概念こそ、のちにルソーが「一般契約」という語句をもって説明するものなわけだ。

そしてまた、社会における最小の約束(契約)こそ、家族関係であり、父と子、母と子、あるいは夫と妻とのあいだに交わされた約束だということになる。実際には約束という名の信頼関係になるだろうが。
もっとも現実には結婚にしろ親子関係にしろ、そういう約束は暗黙のものであり、契約書を交わすわけでもない。そして、そういう暗黙状態ゆえに、なにか問題が起こったときに約束があることすら顧慮できず、感情的に衝突しあって破局に至るということが多いのだろう。

何か問題が起こったなら、再契約するくらいのつもりで話し合えばいいのだろうが、こういうルソーの思想などを学んでいないと、そういうことにはなり辛いのだろう。

細かいことをいえば、子が成人に達し親元から独立したりすれば、それはある種の契約の解除でもあるなどと、ルソーは非常にきめ細やかに述べていますがね。

人間は体力や、精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということでる。



Q:では、先に述べた「暴力に屈する」ということでない争いというものが存在するのか?
A:存在する。それが国家間の戦争というやつだ。

戦争は人と人との関係ではなくて、国家と国家の関係なのであり、そこにおいて個人は、人間としてでなく、市民としてでなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのだ、祖国を構成するものとしてでなく、祖国を守るものとして。

つまり、戦争の定義は約束(契約)したもの(国家どうし)の争いだということだ。
この約束を守らないなら、武力を行使するぞという約束があって行われるのが戦争だということだ。
したがって、兵士は祖国の構成員ではなく、国家の構成員として戦うのであり、結果、国家の中心機関(政府や軍司令部)を守るという意味で祖国を防衛するという意味になる。
こういう定義を考えると、戦争がいかに政治(国家)的であり、国土や人民を愛する心とは無縁かが理解できよう。

戦争にはこういった約束ごとがあるので、約束の交わされていない国家(実際には国家に準ずる集団)どうしの争いは武力によったとしても、それは「紛争」と呼ばれるわけだ。
先に述べたような、約束の不履行に対する約束事の行使ではなく、ただ単なる「暴力による屈服」を相手に強いる行為を、「紛争」と呼んでいるわけだ。
もちろん、テロもこういった行為の一種であり、約束どころが、誰が誰を狙ったかすらはっきりしない、無差別さがあるだけに、自由や人間性から最も遠い卑劣な行為であることが理解できよう。

だから、国家としての約束ごとを取り決めている国際連合などから見れば、テロほど卑劣な行為はないとなるわけだ。


Q:でもさあ、本当に契約って必要なのかな?
A:人間は新しい力を生みだすことはできず、ただすでにある力を結びつけ、方向づけることができるだけであるから、生存するためにとりうる手段としては、集合することによって、抵抗に打ちかちうる力の総和を、自分たちが作り出し、それをただ一つの原動力で働かせ、一致した働きをさせること、それ以外にはもはや何もない。

いってみれば、最後は数だということだ。しかしこれは理の当然であるし、現実の歴史にも事実として記録されている。政治力の行使のゆきつく先は武力行使、近現代の戦争が物量戦、総力戦だったことを顧みれば、ルソーの理論に一点の曇りがないことがわかろう。
だが、そういう理論は理解できない愚者がいる。それが宗教の狂信者だ。
例えば、日蓮のいった「祈りとして叶わざるはなし」といった言葉を馬鹿正直に信じて、物事には必ず限界があるということを理解しない輩がたくさんいるからだ。

そもそも仏教というのは、どこまでは実現できてどこからは出来ないということを明らかに見極める教えだったことさえ理解していない似非仏教団体が政治に“直接”コミットしているという恐ろしさがあるのだ。
いわずもなが、創価→公明であるとか、日本会議→自民云々、そういう輩だ。

実際問題、宗教団体の役割は政治への直接的介入ではなく、宮台真司さんが既に散々訴えてきた――もとはトクヴィルの提唱した――知識階級や宗教団体、余暇をもって政治・経済を学べる中産階層が運営している各種団体、そうしたコミュニティどうしの切磋琢磨が、政治や社会に対しての啓蒙役になるべきなのだが、残念ながら、時代はもはやそこを通り過ぎているようだ。

資本主義のゆきすぎで、格差が広がりすぎ、その余暇をもって政治・経済を学べる中産階層がほぼ崩壊してしまっているのが現状だからだ。
宮台氏曰く――、もはやそうした中産階層のルネッサンスは不可能であるところまで来ているということだ。
ルソーはそうなるだろうことを予見していたということが、この『社会契約論』では語られていますがね。
それが以下の部分だ。

これらの団体の各ゝの意志は、その成員に関しては一般的で、国家に関しては特殊的なものになる。その場合には、もはや人々と同じ数だけの投票者があるのではなくて、団体と同じ数だけの投票者があるにすぎないのだといえよう。

つまり、いかな中産階層が運営している各種団体・コミュニティが充実していようが、その団体が政党でいうところの党議拘束が働いているような状態にあれば、それはもはや一般(契約)的――すべての人びとにとって必ず有益――ではなく、特殊(契約)的な――一部の人びとにのみ有益――なものになってしまうということだ。

創価学会がその典型ではないか。どの政党に投票することも自由だなどという建前をひけらかし、いかにも人々に政治的関心を抱かせ、人々を社会的に啓蒙しているように見せかけて、その実、創価会員であるならば、公明党を支援するのが当たり前、それ以外の選択肢などありえない、そういう圧力を会員に加え、しかも愚かなことに、その会員もそれを受けいれて、功徳だ! 功徳だ! などと叫んで、公明以外の選択肢など考えることもしない。いわんや、啓蒙などどこふく風というわけだ。

宮台さんが、つくづく感心したように、「ルソーはそういうところまで見通していたんだよねぇ……」といっていた映像が目に浮かぶというものだ。

つまり、結局のところ、政治をよくしたいと思うならば、個々人が自分自身の迷妄を打ちはらって、自己を啓蒙していく以外に方法はないと見極めていたということだ。
そして、それを「啓蒙とは何か」という表題で言葉にしたのが、カントというわけだ。

啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。
この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。
したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。



ともあれ、この辺まではそんない難しくないのだが、(一般)意志や主権が説明されはじめると、とたんに難しくなる。
主権は分割できるか? とか 主権の及ぶ範囲はどこまでか? とか、そもそも主権とは何ぞや? など、われわれが主権=主役みたいな感覚で捉えていることがいかに間違ったものかを抉りだされるわけだ。

簡単にその辺りを述べるなら、こんな感じになるだろう。

主権とは一般契約によって「あれはこうしたい」といったように起こる、一般意志のことである。
そしてその主権は譲渡することも出来なければ、分割することもできない。
なぜなら一般意志は、その国家の構成員全員の同意のものであるからだ。譲り渡すべき存在が存在しないからだ。
同様に、主権は分割することもできない。なぜなら、一般意志は国家の構成員全員の同意であるから、一般意志以外の意見(意志)というものが存在しないからだ。

Q:しかし、現実の政治を見ると、ああいう場合にはこうやって、こういう場合にはこうやるといった形になるが、それはどういうことか?
A:それは、一般意志の(主権)が分割されたのではなく、意志の行為が分割されただけであり、一般意志(主権)それ自体が分割されたわけではない。
大前提として主権(一般意志)があり、その意志にもとづいて、司法、行政、立法、軍事、官僚制という行為に分割されたのであって、主権(一般意志)それ自体が分割されたわけではない。
つまり、主権とは自由であることを望むという意志と考えればわかりやすい。
現実政治にあらわれる、司法、行政、立法、軍事、官僚制などは、すべて自由を保障するための機関であり手段であり、意志から起こった行為だと理解すればよい。

他方、意志とは約束(契約)によって現れる方向性であるが、意見の相違があったとしても、前提として一般契約(約束)を交わしたという状態であれば、多数決がその集団の意志であると見做すことができる。
つまり、一般契約において重要なのは意見の相違ではなく、一般契約を交わした構成員であるという同意が根底にあるので、多数決も一般意志であると見做せるということだ。

ここからがまた難しい。
前述したように、主権・意志という概念は、ある意味で受動的であり、それだけでは現実には何も行使できないということだ。
したがって、意志を行使する代表者が必要になるというわけだ。
そしてそれが、君主、あるいは元首とか呼称は様々あるが、そういう人物が現実に必要だとルソーは述べてゆく。もろん言うまでもなく、司法には司法の、行政には行政の長となる人物が必要であるわけだ。

だが、この君主などになるべき人物の定義が誠に厳しい。
自分のことは一切考えず、博愛精神に溢れ一般意志をなんとしても現実的な行為として実現していける、神のような人物でなければならないというわけだ。

いわば、ここに民主主義の限界が既に存在しているわけだ。
なぜってそんな有能な人物は何千年に一人くらいしか現れないような人物だからだ。
そして、そういう人物が現れると、形式としては民主制であっても、必ずその有能な人物による専制制という実態をもつようになるというわけだ。
ローマ帝国の五賢帝時代を見れば、そういったことは容易に理解できるだろう。
もっとも五賢帝時代は、すでにローマ帝国が抜群の安定期に入っていた時期なのだが。しかしそうであっても、「もはや版図拡大すべからず、現状維持が帝国にとって最も重要だ」と判断できたからこそ、彼らは有能であったのだし、彼らはロ−マが絶頂期にあったという幸運にも恵まれていたわけだ。
有能だけではだめ、幸運に恵まれてかつ有能であらねばならないのが、神がかった主君というわけだ。
そういう主君によってのみ、共和制であっても先制的に人民に安穏と自由を享受させられたというわけだ。

そして、そうした神のごとき人物であるべく存在のなかで、最も重要なのが、法をつくる立法者だとルソーは述べているわけだ。

ははは、日本の国会議員を見て、神のようだなどととても思えないのだが、まあ、こういうところに代議士制民主主義の限界がはっきり見てとれるということなのだろう。

そして、こういった神のような主君……という概念から、宗教の政治利用が起こったのだと、ルソーは述べているし、それはまたマキャベリの理論でもあったと注釈されているわけだ。

政治と宗教とが、われわれの間では共通の目的をもつ、というべきではなく、むしろ、諸国民の起源においては、宗教が政治の道具として役立つ、と結論しなければならない。

だから、政治利用されたくないならば、宗教家は政治の世界に足を踏み込むべきではないのだ。

ようするに、神がかった君主がつるく法というものは、例えば人間の内側にある言語化できないような法であるから、便宜上、君主がそれを言葉にできたとしても、一般ピープルはその法を理解することはできないし、その法が有益であることさえ判断できないということだ。
したがって、有能な君主というのは、立法した法を実施すること=君主の行為であるというわけだ。

小説の『銀河英雄伝説』の登場人物、ラインハルトのように、民事、刑事、はては家庭内のいざこざから戦争まで、すべての事象に対して、当事者の話を自ら聞いて、仲裁できるような人物こそ、神がかった君主だと描いているのが、ルソーの言う理想的な立法者なわけだ。
まあ、そんな超人はいないんですがね。

したがって、ルソーの弁をきちんと考えると、いかに完全に見える法律であっても、決して完全ではない。神ならぬ人間の立法した法とはそのようなものであるという大前提のもとに行政を執り行うべきだと言いっているわけだ。
だから、何がなんでも法律厳守だとか馬鹿なことを言う人間は信用しないほうがよろしい。
法治国家なんだからと絶叫する馬鹿も信用すべからずだ。
大事なのは文言にされた法律の外にも法があるという感覚であり、それがどのような法であるかをきちんと見極めていける非常に賢明な主権者であるべきだということなのだ。

わたしが勝手にそう言ってるのではなく、ちゃんとルソーがそう言ってるということだけ断っておく。



また、諸国民の起源にある政教一致の国家のなかで、恐らくもっとも成功したのは、古代エジプト文明だろう。
その理由は、エジプトという国家と宗教の関係にある。
かれらのもった宗教は、あらゆるものに神が宿るというものであり、その象徴がファラオであったわけだ。
それゆえに、ファラオは人民がなにを信仰しようが許したし、その逆にそういう寛容なファラオゆえに人民は王に絶大の信頼を抱いていたという構図があるわけだ。

こういう点を見ると、マキャベリが『君主論』で皮肉りながら述べているように、ある面では、古代エジプトのような政治と宗教の関係性がある政治体ほど安定したものはないことも理解できよう。

しかし、エジプトの場合、ローマ帝国とは違って、周囲からの他民族の侵入が少なかったということも、文明が長寿した原因であるわけだ。
そうしたエジプトに対して、かれらの宗教と異なる一神教的宗教をもつ蛮族が侵入したらどうなるだろうか?
エジプト側は、あらゆるものが神だと見て受け入れるだろうが、一神教の蛮族は決してそうはならないわけだ。
エジプト文明は異教徒だと見て、征服し、改宗させようとするわけだ。

そうして考えてみるならば、決して政治の道具にならない宗教であるためには、あらゆる宗教を認め、受け入れるという宗教であらねばならないわけだ。
だがそうした宗教が現れることは危険なことでもある。
なぜかなら、世界が一つの宗教にまとまってしまったなら、宗教的思想や哲学の進歩がそこで停止してしまうからだ。

したがって重要なのは、各宗教が他宗教を認めて受け入れる信教の自由をもつことなのだ。
が、宗教とはそもそも、そういう存在ではないのだから、やはり政治に直接コミットすべきではないのだ。
そして、各宗教間の争いを極力減らすためには、政治の側も宗教から離れ、信教の自由を保障し、宗教を政治利用しないでいるべきなのだ。
議席欲しさに宗教団体に働きかけている場合ではないのだ。


そうそう、カントが『永遠平和のために』で語っていた、世界が一国家になる形態より国家連合のかたちであるほうが平和を作りやすいと述べていた概念も、すでにルソーが『社会契約論』で述べている。
つまり、意見の相違があってぶつかりあうことで、一つの妥協点に辿りつき、それが一般契約や一般意志になるのだから、と。
もちろん、それと対をなす悪しき思想が、全体主義だ。

したがって、大事なのは対話であるし、ぶつかりあいながらもある妥協点(共通感覚)を見出せる、ある種の寛大な人間性こそ、平和や安穏、そして自由を勝ちとれる人間の本性だということになる。

ipsilon at 17:49コメント(0)ルソー『社会契約論』  

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