2018年08月04日
受動的能動性の重要性
「受動的能動」は、多分この世界が良くなるために最も必要な思想だろう。
わたしはそう確信してやまない。
医学にせよ科学にせよ、あるいは社会活動にせよ、近現代はやたらに「能動的(主体的)」であることを貴んできたが、実はそういった能動性を貴んできたがために人類は地球を巻き込んで、あらゆる破壊をしつづけてきたことに、少なくともわたしは気づいたからだ。
しかし、こういってみたところで、多くの人は能動的であることを貴ぶだろう。
まあそんなことはどうでもよいのだ。わたしはわたしの思想や思いを伝えんと努めたいだけだから。
さてでは考えてみて欲しい。
この世界に能動的だけであるものが存在するかを。
答えは簡単だ、存在しないだ。
証明しよう。
例えば、今夜自分の好みにあわせた夜御飯を食べることにしたとしよう。
さて、どこまで能動的にできるだろうか?
食べたい料理を自由に決め、それに見合った食材を自由に買いに行く。こうした行為は、極めて能動的だと思うだろう。
だが違う。そもそもどんなに自由な献立を考え、どんなに自由に食材を選ぼうとしても、決してどこまでも自由ではないからだ。
なぜなら、食材を選びに行く店によってすでに材料の選択に限界があることは、少し考えれば理解できてしまうからだ。
だったら、品ぞろえの多い店だとか、スーパーをはしごして自由に食材をえらべばいい。
無駄だ。そうしたとしても、やはりそこには限界が存在するのだ。
つまりわれわれは、地球という環境にある食材でしか料理ができないという限界のある受動性の中から能動的にものを選び出しているにすぎないということだ。
ほかの物事もすべてそうだ。
どんなに自由に服選びできると思い込んでいようが、どんなに自由な設計で家を建てようとしても、そこにはかならず地球環境という限界の枠の中でのみ能動的に選べるにすぎないのだ。
よりわかりやすくいえば、ヒトなんてものは、地球環境のなかでも、地表とその上層にある大気のある、地球の規模からすればミリ単位の薄皮の中だけでしか生きられない、そういう儚い存在だということだ。そういうことを考えれば、人権だ権利だと高尚に哲学を語ったところで虚しいとさえ思えてこよう。
つまりこのように、ある一定の限界の中で与えられている生のことを、受動的能動性というわけだ。
人生もまた同じだ。
誰びとも、自身の身体的特徴や性質を自ら選んで生まれてきたわけではない。
だから、誰びとも、持って生まれた、つまり受動的に与えられた自己に基づいて、その限界内で能動的であれるだけだ。
しかし、そういうことをほとんどの人は全くといっていいくらい意識していない。
もちろん、与えられた受動性をひろげ、能動的でいられる範囲を拡大することは可能だ。
しかし、それだって、ヒトという種としての限界や、やがて死ぬという生きものの限界を超えることは決して不可能であることなど、容易に理解できるはずだ。
ところがしかしだ、多くの人はこういった存在論における大前提を意識せず、あれやこれやとものを考えたり、考えたことが実現できると思って行為しているわけだ。
じつに愚かだとしかいいようがない。
カント哲学に嵌ってしまっていた頃は、すべては主観なんだから、例えば曼陀羅御本尊の相貌がどうであろうと、俺が正しく認識していればそれでいいのだ、などとわたしも愚かにも思ってしまっていた。
しかし、ショーペンハウァーとハイデガーを学んで、ああ、そいいうのは間違っていたとはっきり気づいたわけだ。
何故かなら、そういう曼陀羅というものにも、受動的能動性がつきまとうと気づいたからだ。
よりわかりやすくいえば、人は外界や環境からの影響を受けたうえで能動的であるだけなのだから、曼荼羅でいえば、そこに書かれた文字や筆使いや台紙の色や紋様、そういった曼陀羅にある様々なものから、必ず受動的に何らかの印象を、無意識にせよ受けたうえでしか能動的にそれを見ることができないと気づいたからだ。
外が暑い。クソ暑い。そういう状況にあってどんなに精神論で「なんでもない!」と見ようとしても無理なのと同じだ。
「あー暑い……ムカついてくる。――けど我慢しよう! どうということはないと思おう」
そのように、必ず暑いという環境を受動的に受けとった後でしか、能動的(主体的・主観的)な判断が出来ないというわけだ。
リンゴ一つにしたってそうだ。
目の前にリンゴがある。食欲のあるないに関わらず、そのリンゴをじっと見れば、リンゴから何らかの印象をうける。そして、うけたうえで能動的にわれわれは何かしらの判断をしているというわけだ。
すべての事象はそうなっているわけだ。
だから、こうしたことを真面目に考えるなら、仏教に説かれる、悪知識に親近せず、善智識に親しめという意味がどういうことかは容易に理解できるだろう。
釈迦は天才だ!!
どんなに強い意志で、俺は悪になんか影響されない!! などと思っていても、影響されないことは絶対にないからだ。それが受動的能動性というものだからだ。
ゆえに、今更、支離滅裂な日蓮の曼陀羅本尊など、わたしには必要ないと結論したわけだ。
この、受動的能動性をハイデガーは見事に論拠している。
人は可能性に対して常に開かれた存在である。かつそのうえで、可能性を理解(それが可能か不可能かを判断)することを任された存在だ、と。
可能性に対して常に開かれた存在=受動的、可能性を理解することを任された存在=能動性というわけだ。
まあこういったことは仏教でも説かれていたし、実は新約聖書にもある。
マタイによる福音書20章17節〜28節がそれだ。
法華経で、釈迦の弟子たちが末法に法を説くことを望むが、釈迦が「いやいや、やめておきなさい、それにはそれにみあった(地涌の)菩薩がいるから」と説いているのも、受動的能動性を指していると解釈することもできるわけだ。
もっとも、わたしなどは末法思想なんてもんは信じちゃいないのだが。
また、『夜と霧』の著者として知られる、V・フランクルが述べた、
「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」も受動的能動性に他ならないわけだ。
人生に問われる=受動的であり、人生からの問いに答える=能動性ということだ。
二度も読んだベルハルト・シュリンクの『朗読者』にも、そういったテーマがあった。
ナチスの犯罪に手をそめた悲しい女の話だが、そこで提示されたテーマは、
もしも、彼女と同じ状況に陥ったなら、あなたならどうしますか? だったわけだ。
つまり、ある意味で受動的な状況に対してどう答えていくかで、犯罪者にもなりうるのがわれわれの人生なのだという重いテーマなわけだ。
文盲であった彼女が生きるために選んだのがナチスの強制収容所の監視員だった。
しかし、著者のシュリンクは文盲であったからという言い訳は通用しない。ある意味で、受動的なことが原因で文盲になったとしても、監視員でない生き方を能動的に選ぶことが彼女にはできたはずだ、という厳しいテーマなわけだ。
仏教の教えもそうだ。
それが可能かどうか明らかに極めて(明らめ)、そのうえで行うか行わないかを決めなさい、と教えているのだから。
まあ、似非仏教者らは、こんな記事を読もうと、諦めたら負け! とにかく祈れば叶うとか妄信をやめないのだろう。日蓮への狂信者もそんなところだろう。死んだあとのことすら知れもしないのに、三世永遠の因果の法則を説き明かしたのが日蓮仏法だなどと宣い、それを妄信することを止めないのだろう。
ま、お好きにどうぞという感じだ。
ともあれ、弁護士の伊藤真さんがいいことをいっていた。
一点集中できる人は、環境を整える技術をもっているし、それを実行している、と。
もちろん、環境を整えるということは、ここでは受動的に受けとるものをなるだけ能動的に制御するということであり、受動的なものを完全に排除などできないということでもある。
また、伊藤さんのいうとおりのことをしようと思うなら、少なくとも、自分はこういう環境にあるとどうも流されてしまうとか、こういう環境にあると集中できるというように、自分の性質を熟知している必要があるというわけだ。
何事につけ、「汝自身を知れ」ということは、すべての前提になるということだ。
汝自身を知らなければ、「汝と世界との関係性」を出来る範囲で調整することなど不可能だということだ。
無論、ここにはもう一つ、「世界とは何か?」、――つまり受動的であっても、われわれに何らかの印象を与えてくる働きをもつものの性質を知っておくことも必要になってくるのだが。
残念なのは、昨今、こういうことに気づいて発信しはじめた哲学者、國分功一朗さんがそれほど注目されていないことだ。
しかし、こういう人が日本に現れたこと自体は、ある意味で人類の進歩だと思う。
わたしはそう確信してやまない。
医学にせよ科学にせよ、あるいは社会活動にせよ、近現代はやたらに「能動的(主体的)」であることを貴んできたが、実はそういった能動性を貴んできたがために人類は地球を巻き込んで、あらゆる破壊をしつづけてきたことに、少なくともわたしは気づいたからだ。
しかし、こういってみたところで、多くの人は能動的であることを貴ぶだろう。
まあそんなことはどうでもよいのだ。わたしはわたしの思想や思いを伝えんと努めたいだけだから。
さてでは考えてみて欲しい。
この世界に能動的だけであるものが存在するかを。
答えは簡単だ、存在しないだ。
証明しよう。
例えば、今夜自分の好みにあわせた夜御飯を食べることにしたとしよう。
さて、どこまで能動的にできるだろうか?
食べたい料理を自由に決め、それに見合った食材を自由に買いに行く。こうした行為は、極めて能動的だと思うだろう。
だが違う。そもそもどんなに自由な献立を考え、どんなに自由に食材を選ぼうとしても、決してどこまでも自由ではないからだ。
なぜなら、食材を選びに行く店によってすでに材料の選択に限界があることは、少し考えれば理解できてしまうからだ。
だったら、品ぞろえの多い店だとか、スーパーをはしごして自由に食材をえらべばいい。
無駄だ。そうしたとしても、やはりそこには限界が存在するのだ。
つまりわれわれは、地球という環境にある食材でしか料理ができないという限界のある受動性の中から能動的にものを選び出しているにすぎないということだ。
ほかの物事もすべてそうだ。
どんなに自由に服選びできると思い込んでいようが、どんなに自由な設計で家を建てようとしても、そこにはかならず地球環境という限界の枠の中でのみ能動的に選べるにすぎないのだ。
よりわかりやすくいえば、ヒトなんてものは、地球環境のなかでも、地表とその上層にある大気のある、地球の規模からすればミリ単位の薄皮の中だけでしか生きられない、そういう儚い存在だということだ。そういうことを考えれば、人権だ権利だと高尚に哲学を語ったところで虚しいとさえ思えてこよう。
つまりこのように、ある一定の限界の中で与えられている生のことを、受動的能動性というわけだ。
人生もまた同じだ。
誰びとも、自身の身体的特徴や性質を自ら選んで生まれてきたわけではない。
だから、誰びとも、持って生まれた、つまり受動的に与えられた自己に基づいて、その限界内で能動的であれるだけだ。
しかし、そういうことをほとんどの人は全くといっていいくらい意識していない。
もちろん、与えられた受動性をひろげ、能動的でいられる範囲を拡大することは可能だ。
しかし、それだって、ヒトという種としての限界や、やがて死ぬという生きものの限界を超えることは決して不可能であることなど、容易に理解できるはずだ。
ところがしかしだ、多くの人はこういった存在論における大前提を意識せず、あれやこれやとものを考えたり、考えたことが実現できると思って行為しているわけだ。
じつに愚かだとしかいいようがない。
カント哲学に嵌ってしまっていた頃は、すべては主観なんだから、例えば曼陀羅御本尊の相貌がどうであろうと、俺が正しく認識していればそれでいいのだ、などとわたしも愚かにも思ってしまっていた。
しかし、ショーペンハウァーとハイデガーを学んで、ああ、そいいうのは間違っていたとはっきり気づいたわけだ。
何故かなら、そういう曼陀羅というものにも、受動的能動性がつきまとうと気づいたからだ。
よりわかりやすくいえば、人は外界や環境からの影響を受けたうえで能動的であるだけなのだから、曼荼羅でいえば、そこに書かれた文字や筆使いや台紙の色や紋様、そういった曼陀羅にある様々なものから、必ず受動的に何らかの印象を、無意識にせよ受けたうえでしか能動的にそれを見ることができないと気づいたからだ。
外が暑い。クソ暑い。そういう状況にあってどんなに精神論で「なんでもない!」と見ようとしても無理なのと同じだ。
「あー暑い……ムカついてくる。――けど我慢しよう! どうということはないと思おう」
そのように、必ず暑いという環境を受動的に受けとった後でしか、能動的(主体的・主観的)な判断が出来ないというわけだ。
リンゴ一つにしたってそうだ。
目の前にリンゴがある。食欲のあるないに関わらず、そのリンゴをじっと見れば、リンゴから何らかの印象をうける。そして、うけたうえで能動的にわれわれは何かしらの判断をしているというわけだ。
すべての事象はそうなっているわけだ。
だから、こうしたことを真面目に考えるなら、仏教に説かれる、悪知識に親近せず、善智識に親しめという意味がどういうことかは容易に理解できるだろう。
釈迦は天才だ!!
どんなに強い意志で、俺は悪になんか影響されない!! などと思っていても、影響されないことは絶対にないからだ。それが受動的能動性というものだからだ。
ゆえに、今更、支離滅裂な日蓮の曼陀羅本尊など、わたしには必要ないと結論したわけだ。
この、受動的能動性をハイデガーは見事に論拠している。
人は可能性に対して常に開かれた存在である。かつそのうえで、可能性を理解(それが可能か不可能かを判断)することを任された存在だ、と。
可能性に対して常に開かれた存在=受動的、可能性を理解することを任された存在=能動性というわけだ。
まあこういったことは仏教でも説かれていたし、実は新約聖書にもある。
マタイによる福音書20章17節〜28節がそれだ。
法華経で、釈迦の弟子たちが末法に法を説くことを望むが、釈迦が「いやいや、やめておきなさい、それにはそれにみあった(地涌の)菩薩がいるから」と説いているのも、受動的能動性を指していると解釈することもできるわけだ。
もっとも、わたしなどは末法思想なんてもんは信じちゃいないのだが。
また、『夜と霧』の著者として知られる、V・フランクルが述べた、
「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」も受動的能動性に他ならないわけだ。
人生に問われる=受動的であり、人生からの問いに答える=能動性ということだ。
二度も読んだベルハルト・シュリンクの『朗読者』にも、そういったテーマがあった。
ナチスの犯罪に手をそめた悲しい女の話だが、そこで提示されたテーマは、
もしも、彼女と同じ状況に陥ったなら、あなたならどうしますか? だったわけだ。
つまり、ある意味で受動的な状況に対してどう答えていくかで、犯罪者にもなりうるのがわれわれの人生なのだという重いテーマなわけだ。
文盲であった彼女が生きるために選んだのがナチスの強制収容所の監視員だった。
しかし、著者のシュリンクは文盲であったからという言い訳は通用しない。ある意味で、受動的なことが原因で文盲になったとしても、監視員でない生き方を能動的に選ぶことが彼女にはできたはずだ、という厳しいテーマなわけだ。
仏教の教えもそうだ。
それが可能かどうか明らかに極めて(明らめ)、そのうえで行うか行わないかを決めなさい、と教えているのだから。
まあ、似非仏教者らは、こんな記事を読もうと、諦めたら負け! とにかく祈れば叶うとか妄信をやめないのだろう。日蓮への狂信者もそんなところだろう。死んだあとのことすら知れもしないのに、三世永遠の因果の法則を説き明かしたのが日蓮仏法だなどと宣い、それを妄信することを止めないのだろう。
ま、お好きにどうぞという感じだ。
ともあれ、弁護士の伊藤真さんがいいことをいっていた。
一点集中できる人は、環境を整える技術をもっているし、それを実行している、と。
もちろん、環境を整えるということは、ここでは受動的に受けとるものをなるだけ能動的に制御するということであり、受動的なものを完全に排除などできないということでもある。
また、伊藤さんのいうとおりのことをしようと思うなら、少なくとも、自分はこういう環境にあるとどうも流されてしまうとか、こういう環境にあると集中できるというように、自分の性質を熟知している必要があるというわけだ。
何事につけ、「汝自身を知れ」ということは、すべての前提になるということだ。
汝自身を知らなければ、「汝と世界との関係性」を出来る範囲で調整することなど不可能だということだ。
無論、ここにはもう一つ、「世界とは何か?」、――つまり受動的であっても、われわれに何らかの印象を与えてくる働きをもつものの性質を知っておくことも必要になってくるのだが。
残念なのは、昨今、こういうことに気づいて発信しはじめた哲学者、國分功一朗さんがそれほど注目されていないことだ。
しかし、こういう人が日本に現れたこと自体は、ある意味で人類の進歩だと思う。
コメント一覧
1. Posted by マイ第一 2018年08月05日 01:10
イプシロンさんの事を書いてるブログ見つけました!
創価学会と日蓮仏法と活動 雅彦 2017年12月27日
「生かされるまま生きる」ブログに関して
以前から「生かされるまま生きる」というブログに注目していた。管理人はイプシロン氏。作家志望の方で自身の内面世界を余すことなく披露しているブログである。
略 『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。彼が、何度も理念を説きながら、現実に於いて何の行動も出来ていないのが何よりの証明である。
略 このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような『我見解釈』によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。初期仏教に固執する余り、死後にも生命があることを信じられず否定する様を見ていると痛々しい。自殺を否定する理由を『人間も自然の摂理の一部だから、そこから逃れるのは不合理だ』と無理矢理に自分自身を納得させているようだが、そんな付け焼き刃の考えで現実に太刀打ちできるとは到底思えない。例えば末期癌で苦しんでいる状態、常に間断なく激痛に苦しむ状態、その苦しみから『尊厳死』という考え方が確立したのだが、彼のような現実離れした夢想家では到底現実の生死に抵抗できるとは思えない。大病を患うか・生活が根幹から破壊されるような状態になったときに気付くだろう。
創価学会と日蓮仏法と活動 雅彦 2017年12月27日
「生かされるまま生きる」ブログに関して
以前から「生かされるまま生きる」というブログに注目していた。管理人はイプシロン氏。作家志望の方で自身の内面世界を余すことなく披露しているブログである。
略 『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。彼が、何度も理念を説きながら、現実に於いて何の行動も出来ていないのが何よりの証明である。
略 このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような『我見解釈』によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。初期仏教に固執する余り、死後にも生命があることを信じられず否定する様を見ていると痛々しい。自殺を否定する理由を『人間も自然の摂理の一部だから、そこから逃れるのは不合理だ』と無理矢理に自分自身を納得させているようだが、そんな付け焼き刃の考えで現実に太刀打ちできるとは到底思えない。例えば末期癌で苦しんでいる状態、常に間断なく激痛に苦しむ状態、その苦しみから『尊厳死』という考え方が確立したのだが、彼のような現実離れした夢想家では到底現実の生死に抵抗できるとは思えない。大病を患うか・生活が根幹から破壊されるような状態になったときに気付くだろう。
2. Posted by イプシロン 2018年08月05日 03:39
マイ第一さん、こんばんは。
どういうつもりで、このコメントをされたのかわかりかねますし、善意でされたのかもしれませんが、正直いって、余計なお世話です。
「お前、悪口いわれてるぜ」とわざわざ知らせて、わたしを不快にさせる理由もないのではないですか?
雅彦なるHNの人が私への人格攻撃ともいえる記事を何度も書いていることなどとっくに知ってます。
この方、わたしだけでなく、自分の考えに会わない人に対してはとことん悪口を書いている人です。
つまり、気の毒なことに、自分の思想に自信がないのです。自分に自信があれば、誰が何をいっていようと堂々としていられるものです。
以前、日蓮のいう「現世安穏 後生善処」について彼が間違った解釈を述べていたので、指摘したことがあります。そのことに対して怨みをもっているのか知りませんが、そのように恩を仇で返すような人に関わるつもりは毛頭ないのです。
言いかえすと、余計に面倒になるので、相手にしないだけです。言いたければ思う存分いえばいい。何をいっても批判される、仏教のおしえにもある言葉です。 一々気にするきもないのです。
盛んに「我見」だと切ってますが、彼は何一つ論理的にわたしの言っていることを破折できたことはありません。
そもそも、自分のブログに他人の悪口を書いて悦にいっている人になど全く興味がないのです。
直接会話する勇気がないから、遠く離れたところで悪口をいっている卑怯者など、わたしにすれば、居ないのと同じです。見なきゃいいだけですから。
悪知識には親近しない。それまでのことです。
どういうつもりで、このコメントをされたのかわかりかねますし、善意でされたのかもしれませんが、正直いって、余計なお世話です。
「お前、悪口いわれてるぜ」とわざわざ知らせて、わたしを不快にさせる理由もないのではないですか?
雅彦なるHNの人が私への人格攻撃ともいえる記事を何度も書いていることなどとっくに知ってます。
この方、わたしだけでなく、自分の考えに会わない人に対してはとことん悪口を書いている人です。
つまり、気の毒なことに、自分の思想に自信がないのです。自分に自信があれば、誰が何をいっていようと堂々としていられるものです。
以前、日蓮のいう「現世安穏 後生善処」について彼が間違った解釈を述べていたので、指摘したことがあります。そのことに対して怨みをもっているのか知りませんが、そのように恩を仇で返すような人に関わるつもりは毛頭ないのです。
言いかえすと、余計に面倒になるので、相手にしないだけです。言いたければ思う存分いえばいい。何をいっても批判される、仏教のおしえにもある言葉です。 一々気にするきもないのです。
盛んに「我見」だと切ってますが、彼は何一つ論理的にわたしの言っていることを破折できたことはありません。
そもそも、自分のブログに他人の悪口を書いて悦にいっている人になど全く興味がないのです。
直接会話する勇気がないから、遠く離れたところで悪口をいっている卑怯者など、わたしにすれば、居ないのと同じです。見なきゃいいだけですから。
悪知識には親近しない。それまでのことです。
3. Posted by イプシロン 2018年08月05日 04:02
例えば、ドストエフスキーの『悪霊』を読んで、彼は得意になって評論しているが、わたしに言わせれば、浅い、それこそ我見でしか読めていないということ。
彼にはスタブローギンが悪人にしか見えないようでお気の毒ということだ。
ドストエフスキーが描きたかったのだは、そうではなく、様々な人がいる、個人で見たときには、ほとんどの人は善良な人だ。しかし、そういう個人が関わりを持つことで、人は犯罪を犯したり、死に魅了されたりするというのが『悪霊』で、ドストエフスキーが伝えたかったことなわけです。
スタブローギンも、キリーロフも、五人組も個人としては善良で、世の中を良くしたいと思ってる人々。しかし彼らが関わることで妄想、妄執、つまり悪霊のようなものが生まれて、事件などが起こっているということ。
ドストエフスキーはある時期から、聖書にある予言が現実に事件などとして起こっているのを見つけだし、それを題材にして作品を書いているという面もあります。『悪霊』であれば、新約聖書「ルカによる福音書」第8章32〜36節によっているわけです。
彼はそういうことすら知りもしないで、我見でスタブローギンはどうしようもない悪人だとしか読めない程度だということです。
ルカによる福音書で語られているのは、どんな人であっても生きていて良いのだという究極の赦しです。
彼はそういうことが読みとれないので、わたしに対して、やれ現実がどうのとかしか言えない気の毒な人です。
そんな低い次元でしか解釈できない人を相手にしたくもない。そいうことです。
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/LUKE08.html
彼にはスタブローギンが悪人にしか見えないようでお気の毒ということだ。
ドストエフスキーが描きたかったのだは、そうではなく、様々な人がいる、個人で見たときには、ほとんどの人は善良な人だ。しかし、そういう個人が関わりを持つことで、人は犯罪を犯したり、死に魅了されたりするというのが『悪霊』で、ドストエフスキーが伝えたかったことなわけです。
スタブローギンも、キリーロフも、五人組も個人としては善良で、世の中を良くしたいと思ってる人々。しかし彼らが関わることで妄想、妄執、つまり悪霊のようなものが生まれて、事件などが起こっているということ。
ドストエフスキーはある時期から、聖書にある予言が現実に事件などとして起こっているのを見つけだし、それを題材にして作品を書いているという面もあります。『悪霊』であれば、新約聖書「ルカによる福音書」第8章32〜36節によっているわけです。
彼はそういうことすら知りもしないで、我見でスタブローギンはどうしようもない悪人だとしか読めない程度だということです。
ルカによる福音書で語られているのは、どんな人であっても生きていて良いのだという究極の赦しです。
彼はそういうことが読みとれないので、わたしに対して、やれ現実がどうのとかしか言えない気の毒な人です。
そんな低い次元でしか解釈できない人を相手にしたくもない。そいうことです。
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/LUKE08.html