2012年05月

2012年05月31日

うほ、なんともオカルトチックなタイトルだこと。
でも、別にそっち方面にいってしまったのではないのでご安心を。

この問題(死後の生命)を真剣に考えるようになったきっかけは、
ズバリ言えば、かつて私は自殺未遂をした経験があることに尽きる。

もう二度と同じ過ちを繰り返すべきではない。
そう強く思ったからこそ、この問題を学ぼうと思ったのだ。

死んだらどうなるのか?
この問題を抜きに今を生きることなんてできない。

そうなんだけど、色々説明するのも面倒なので、結論からいうと、
死んだら多分、光になるってことです。
(御書に明確に書いてあります)


なので、光になるとは? そう考えるところから思索スタートです。
まぁこれはそんなに難しい問題ではありません。
要するに相対性理論を知っていれば、わかることです。

つまり、
死んだら、時間は停止し、生命は無限大の質量(エネルギー)になって宇宙に溶け込むんですね。
でも大事なのは死んだ後より、死の瞬間にあるんですね。
なぜなら時間が止まるからです。

当たり前じゃん! とか言わないように!(笑)

んとね、前記事の「宗教と科学、哲学」を読んだ方なら分かると思いますが、
ようは、この世界には時間も空間も本当は存在せず、
我々個々の生命の中にある因に、エネルギーが縁して作り出している訳ですよ。
ですから、死の瞬間に「痛いよー! 苦しいよー!」という一念を発すると
死んだ後、その一念がずっと続くんですよ。

はいそうです、これが死後の生命の無限地獄です。

だから、「苦しくて仕方ない、もう死にたい。死んでやる」なんて思いで自殺すると、
死んだ後もずっと、「苦しくて仕方ない、もう死にたい。死んでやる」という
苦痛に苛まれるんですよ。
しかも、地獄界の境涯というのは、自らの作った壁で自らを覆う行為ですから、
どこからともなく現れる、生まれ変わりの縁も
多分、自ら受け付けないのでしょう。
これが無限地獄というものの正体だと思います。
嘘だと思うでしょ? そんな時は、前記事のエネルギー保存の法則を考えてみてください。

そもそも、死んだら時間を生成できなくなるんで、地獄の苦しみが続くのは
ある意味、当たり前なんですけどね。

つまり、この信心は一生不退転が大原則だってことです。
どんなに青年時代に頑張っても、死が迫まる最晩年に退転していたら、
意味がないってことなんです。

先生も最後に勝てば良い。
そう仰っています。
これにはそういう意味も含まれていると、私は考えます。

ようするに、臨終の時に
「我が人生に一点も悔いなし! あ〜楽しかったぁ〜! 南無妙法蓮華経!!」
そう言いながら臨終を迎えるのが理想ってことですね。


そうそう、それから、
自殺は自殺だけでなく、他殺でもあります。
これは九識論を学べば分かります。
仏教嫌い、西洋哲学が好き、という方なら、
フロイトの無意識層を学べばよいと思います。

つまり、我々の生命は共通の領域を互いに占有しあって生きているということです。
だから、自殺は自分の命を傷つけ、かつ他人の命をも傷つける行為であるから、
大変な悪業を積むことになるんですね。
だから、もしも自殺したあと、物凄く幸運なことに人間に生まれてることが
もしもあったとしたなら、以前歩んだ人生よりももっと苦しまなければいけなんですね。
もっとも、自殺したら多分人間に生まれ変わるのは無理かと思いますけどね。

上の理論からいくと、
普段生きていて、自分を卑下したりすることも同じです。
それは自分自身を傷つけるだけでなく、他人をも傷つけるんです。
だから先生は、どんなことがあっても自分を卑下するな。
と仰っているんです。大変な悪業を積むからです。

同じように、他人を認めず他人を見下す傲慢は
自分を卑下しているのと同じなのです。
だから、傲慢な人は他人を不幸にするだけでなく、
自らも不幸になる因を作っているのです。

ご本尊の前にあっては、誰人も平等なのです。
心ある学会員であるなら、それを実践や生活の中で活かしていくべきであることは
言うまでもありません。
愚痴や文句を言うならば、その人に言いたい文句を祈りに変えればいいだけの話です。
「細かなことばっかに執着しやがって、腹立つ!」を
「高所、大所から物を見れる人に成長させてあげてください!」と祈ればいいんです。



世間一般の人は「自由だ! 平等だ! 贅沢がしたい!」
とかいったものを基準に生きてる訳ですが、
これっていうのは、言ってしまえば「餓鬼界」の命です。
こんなものを一生積み上げて、人によっては他人の物を奪い、
必要以上に物を消費してて生きてきたなら、
死んだ後も、「あれが欲しい、これが欲しい、金が欲しい」とかいう
際限のない欲望に支配されて、生まれ変わるまでずっと苦しむんです。

でも、仏法を真面目に保った人は違います。
ひとくちで言えば「無私、無欲」を目指すわけですからね。
だから死んだあとでも、なぁ〜んら欲というものに執着がないので、
「世は満足じゃ! ララララ〜♪」なんて境涯でいられる訳です。

んま、そうなれるように、今生きて
そうなれるように弱い自分に打ち勝ちっていこうとしていくのが
現世での正しい生き方だということは、これで納得がいくのです。

もちろん、世の中には厳しい因果の法則で、
不慮の事故で無くなる方もいらっしゃいます。
当然、死の間際には「死にたくない!」と苦しむことでしょう。

こんな場合も、やはり苦しみの世界である地獄に行くのかといえば、
そうではないと思うんです。
ようするに、普段から題目を唱えてさえいれば、
自分の感情や気分といった表面的な生命の層(五感)は苦しんでいるかもしれないけど、
自分では感じられない無意識の生命の層は南無妙法蓮華経で
洗いつくされ、全てが慈悲と智慧に変わっていれば、
死んでも苦しまないんですね。

つまり、いつ死んでもいいように、
月月日日に題目を唱えぬいていくのが理想の生き方だってことですね。

ほんと、人間なんていつ死ぬかわからんのですよ。
そう思って生活していないだけです。

大聖人は「只今臨終」と思って生きなさいと仰っている意味が
心に響く今日の記事でした。

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2012年05月30日

そもそも、宗教というものは、
「信じる」という次元に我が身を置いてこそ、その功徳にまみえることができる。
これは、どんな宗教、宗派であろうと同じだ。

しかし、人間は自らが作った先入観や
社会通念によってできた偏見に支配され、
たやすく宗教を信じることができない。

ならば、科学的かつ、哲学的に自分が興味をひかれる宗教を
検証してみればよい。

科学・哲学とは、そもそも万人が納得できることを証明しようとする学問であるのだから、
それによって宗教を解明し、
何一つ疑いようがないとわかれば、実践すればよいのだ。

しかし、多くの人は
そういった煩わしいことを嫌い、
先入観や偏見でしか宗教を見ない。
残念なことだ。


しかし、宗教がそんなに簡単に科学や哲学によって解明できるかといえば、
「できない」が答えだ。
なぜなら、科学と哲学には、現時点では限界があるからだ。
今日は、そういう記事を書こうと思う。


「私は、この世界でどのように生きれば正しく価値ある人生を送れるか?」
こういった命題を考えるためには、
「世界とはなにか?」「私とはなにか?」を知る必要がある。

世界(環境)とはつまり、客観的に捉えた、この世界のことであり、
私とはつまり、主観的に捉えた、自分自身(主体)のことである。

しかし、残念ながら、これは別個に解明することができない代物なのだ。
仏法ではこれを「依正不二」という。
環境と主体は一体であるということ。

これを解明するのは比較的容易だ。
量子力学で考えればよいからだ。
なぜなら、物体を最少単位に分割すると、
すべては素粒子によって構成されているからだ。
ようするに、人間も動物も草木も、鉱物も、素粒子の段階まで分解して考えれば、
あらゆる物体は素粒子であるのだから、境界など存在しないということ。
簡単に言えば、この世界は素粒子という、物凄く小さな粒粒で満たされた世界であるということだ。

例えていえば、人間は人間の形をした塩の粒の塊であり。
花は花の形をした塩の粒の塊なのである。
我々が何もないと感じる空気中にも、もちろん塩の粒は存在する。
我々はそれを見ることが出来ないだけだ。
なぜなら、視力によって感知できないほど、塩が疎であるだけだ。
我々人間のように、目に見えるものは、塩がそれだけ密であるということ。
もちろん、人間の可視範囲が非常に限られているのが最大の原因だけどね。

これを、科学的にさらに突き詰めると、
場の理論にゆきあたる。
世界は素粒子でできていて、その素粒子は
いきなり消滅したり、いきなり生成されたりしている訳です。

これは、どういことかというと、
E=mcの2乗ということなのです。(アインシュタインの定理)
つまり、エネルギーは質量×光速の2乗に等しいということ。
ようするに、質量と速度を持った素粒子は、
質量も速度も持たないエネルギーに変換できるということ。
つまり物質は、素粒子が消滅した状態ではエネルギーとして存在し、
素粒子が素粒子として存在するときは、物質となるということ。

この、素粒子がいきなり発生したり消滅する現象は
等量の素粒子と反物質が反応することで起こるらしい、ということは分かっている。
いわゆる、対消滅というのがこれだ。
このとき、エネルギーがどうなるのか、
いま時点の私にはわからない。

反物質というのは、鏡に映した世界みたいなものだから、
エネルギーもお互いに打ち消しあうと考えるのが妥当だとは思うが、
必ずしもそうとも思えない。
なぜなら、熱力学第2の法則があるからだ。
つまり、エネルギー保存の法則だ。
そう考えれば、やはり、素粒子が消滅してもエネルギーはなんらかの形で残っているのだろう。
この世界では観測できなくても、
反物質の世界で虚数のエネルギーとして存在していると考えるのが妥当だろう。

ようするに、我々の肉体や心や、この世界では、
常にこういった科学的な変化が起こっているということだ。
そう、ようするにこれが科学的に見た
この世界であり、私なのだ。

しかし現時点で、科学で解明できているのはここまでであり、
今後、今以上に解明されるには、
ハンゼンベルグの不確定性原理
(素粒子の位置と速度を同時に測定することはできない。
速度を正確に測定しようとすればするほど、位置が不正確になるという原理)
の解決がない限り、今以上の科学の発展はほぼ不可能になってしまっている。
池田先生も、このことは60年代くらいの本で、とうの昔に語っている。

どちらにしても、素粒子は現時点で195種類ほどあり、
物質を構成している最少単位とは考えにくいといわれている。
仏法では、物質は地水火風・空(場の理論)で構成されていると説かれていますので、
科学者の思考は間違ってないでしょうね。
今後科学が進歩すれば、素粒子以上に小さな粒子が発見されることでしょう。



さてでは、哲学ではどうだろう?

まず、私という存在を考えてみると、カントという哲学者の理論につきあたる。
彼はこう言っている。
「この世界は、私という意識にあらわれた世界である。
それゆえ、私は客観的にこの世界を知ることができない。」と。

つまり、この世界も私も、私の五感(+第6感)が感じ取っている世界であるから、
この世界そのものをありのままに知ることが出来ないということだ。
つまり、自分から離れた空間にあるコップであっても、それを見て認識し、知識や経験を踏まえて
「あれは、ガラスで出来たコップである」と感じ取っているのは自らの意識であるということ。
別の言い方をするなら、我々は自分がかけている意識という眼鏡を外すことが出来ないゆえに、
ありのままに世界を知ることが出来ないということ。
そんなら、機械をつかってコップを調べればいいじゃん、というかもしれないが、
最終的ににその調べたデータを認識するのは我々の意識なのですから、
我々は「そのもの自体のあるがまま」を客観的に知ることはできないんです!

そう、これは仏法の一念三千そのものだ!
一念三千とは、環境も他人も全て我が一念の産物ということですからね。

しかし、このカントの理論、寂しい理論であると言えるとも思えるのです。
なぜなら、個人主義の極致を指しているといえるからです。
この理論から先の哲学者は、個人個人が全て相対的だというなら
この世には相対的幸福しか存在しない、という主義を生み出してしまい、
極度の個人主義に陥らせたのだからね・・・。
個人個人がそれぞれの一念で作り出した世界に生き、
それぞれ自分勝手な普遍的かつ永遠の真理を見極めて行動するなら、
この世界は滅茶苦茶になってしまうのは当たり前です。
でも、それが現実だとカントは言っているのです、、、困りましたね。

簡単に言えば、哲学が究明した今時点での究極はカントの言にあります。
と同時に、哲学の限界がここで示されてしまったとも言えるのです。


そこで登場するのが宗教なのです。
万人に通用する普遍的かつ永遠の法則があると説いているのは
科学や哲学のほかには、宗教しかありませんからね。

でも、これまで見てきたように、
科学も哲学も、これ以上探究してもどうにもならない、という状況まで来てしまっています。
ですから、宗教は「信じる」という行為を最前提とするのです。
無論、科学も哲学も信じることでその価値を生む訳だから、
どんな正鵠を得た理論であろうと、信じることが大前提なんだけどね。
だから、「信は万物の源」という野村克也の言葉はしごくまっとうなのだ。


でも、人々は信じようとしないのです。
愚かとしか言いようがありません。
素粒子を扱う量子力学も、カントの哲学も
ん十年前の理論です。カントなんて18世紀の人ですよ。
なのに人々は「信じる」という行為に暗愚なのです、、、。

しかも、カントの哲学の土台は、
もっと以前の哲学者、デカルト(16〜17世紀)の理論に乗っ取っているんですよ。
なのに、、、なのに、、、、です。


しかし、カントは自分が導き出した、相対主義に絶望なんかしなかったんですね。
彼はこうも言っているのです。
「我々は、この世界を主観的にしか見れないとしても、
この世界には、万物が従う何らかの法則があり、因果があり、普遍的かつ永遠の真理はある。
しかし、それは信仰によってしか証明できないであろう。」と。


そうなんです。その通りなんです。カントってば、素敵です!

また、カントはこうも言っています。
「時代や人種を超えて万人に通用する、
普遍的かつ永遠の真理(実在)を知るすべは『実践理性』によってなしうるだろう。」と。

キャー! カント様ったら、解っていらっしゃること!! グレイト!!

そうなんです。実際に信仰してみて理性的に判断することというのは
言うまでもなく「体験」するということに他ならないのです。

ここまで、お話すれば、信仰者にとって、「信じること」と「体験すること」の重要性は理解できることでしょう。


池田先生はトインビー対談の中で、カントの言う実在を
「究極の実在」と定義して対談され、トインビー博士も、
それ(究極の実在)は存在する、それを掴むのは
「直観」と言ってもいいかもしれませんね。と対話されています。

日蓮大聖人は「直観」によって、宇宙森羅万象の究極の実在を知り、
我々にご本尊として顕してくださったのです。
御書にはこうあります。
「聖人は名前のない万物の法則を感じ取り、理性的に知り名前をつける。(要旨)」
それが(南無)妙法蓮華経であることは、いまさら言うまでもありません。

聖人でもない、一介の凡夫である私なんかが、万物の法則を知ろうと思って学んでも、
科学にも哲学にも、既にその学問の分野自体に超えられない壁が存在することを知るだけなのです。
だから、素直に「信じる」しかないのです。

カントは、人間が生まれながらにもった性質のために、
人間は不自由であると言っています。
不自由の原因は、理性であり、因果であるといっています。
そう考えると理性のない動物は幸せなんだと思えますが、それは間違い。
確かに動物達は誤った理性に基づいて行動することはないけれど、
正しい理性に基づいて行動し、自由を得ることができないんですからね。
そう考えると動物は可愛そうです。全て因果に従って生きてるだけの存在ですからね。
人間に生まれて良かったですよ!

そう考えれば、人間の理性は、価値あるものでもありますが、
その使い様によって毒にもなりうるのです。
人間は生まれながらに、時間と空間というものを基準にものを見ます。
また、無意識に物事には因果関係があるとして活動しています。
そいうじゃないと生活に不便なので、そうなっているんです。

右からボールが転がってくれば、自然に右を見ます。
どこかで音がすれば、その方向に注意を傾けます。
人間はこういった因果を自分の内側に内包して生きているのです。
だから、当然のことながら因果具時なのです。
雨を知らない子供が初めて雨を体験したら、どう行動するでしょうか?
恐らく空をふり仰ぐことでしょう。ほらね、因果具時でしょ!
大人は、そういうのが常識になってしまっているので、
自分が自分の中にある因果に従って生きているなんて思わなくなるんです。
大人になるということは、図々しくなるということなんです。
だから、世の中に偶然なんてないんです。
ただ少し、ほんの少し因果を感じさせない程度の自由があるだけなんです。
それをいとも簡単に、「俺は自由だ!」とか言っているのは愚の骨頂としか言えません。


では、聖人は世界をどんな風に観じるのでしょうか?
恐らく我々とは違うのでしょう。
多分、人間が生まれ持った、時間と空間、因果という眼鏡を外して物を見る眼をもっていたのでしょう。
それを仏法では、天眼とか慧眼、仏眼というんですね。

そうして見た世界に(南無)妙法蓮華経と名前を付けたのです。
でも、この七文字は、大聖人が勝手につけたわけじゃなんいですね。
天台も伝行も既に南無妙法蓮華経とは書き表しているんです。(御書にちゃんとそう書いてあります。)
じゃー大聖人凄くねーじゃん、、とか言っちゃダメです。
末法という世にご出現あそばされて、南無妙法蓮華経を顕せる方は
大聖人しかいらっしゃらなかったのですからね。
もしも、大聖人おひとりが、自分勝手に南無妙法蓮華経を顕したのなら、
ただのその辺の新興宗教の教祖と同じです。カルトと言われても仕方ありません。
でも、釈迦も天台も伝行も知ってったんです。
ここに計り知れない意味があるんです。


カントの言う通り、人間は世界を主観的にしか見れない生き物です。
その人間が、万人に通用する法則を証明するためには
他者も同じ法則を同じように感じ取っていなければ意味をなさないからです。
そうでなければ、その法則の正しさを証明できないからなのです。


今ここに、私という生命体の因があります。
生命を養う食物という縁に触れ、
私自身の心身を形成しています。
その私には、世界とは基本的にこういう形で存在するという因も内包していますので、
食物によって得た縁により、世界自体をも形作り、
自らが作り出した世界で生き、生活しているのです。

この世界が、あらゆる人におおよそ同じように見えるのは、
そういう因をそれぞれの人々が内包しているからに過ぎません。

それぞれの人々が内包している「世界の基本形の法則」が「妙因」であり、
その因によって作られ、「今自分の目の前にある世界」が「妙果」なのです。
ただし因が埋まっている場所は各個人にありますから、
個人個人は、ある意味では自分が作り出した世界に住んでいる孤独な存在といえます。
でも、妙果によって作られる世界は各個人間で共通な部分が多々あるので、
色々なやり取りや意思の疎通が出来るのです。
それを可能にしている最大の要因は言葉です。
ゆえに言葉は大切なのです。
しかし、残念なことに、言葉は各個人の使い方の違いにより、完全に意思を伝えることが出来ないのです。
そこで重要になるのが「名前」なのです。
哲学者、ウィトゲンシュタインも、これと似たような理論を展開しています。

イプシロン、、、といえば、私の全てを表します。
身長も、体重も、ぶっさいくな顔も、痩せぎすな体も。
私の過去も未来も現在も、私の性格も、意識も無意識も
全てイプシロンという名前に含まれます。

同じように、妙法蓮華経と呼べば、
宇宙の万物森羅万象の法則を呼んでいることになります。
その法則に則って生きます! そう誓っている言葉が南無妙法蓮華経です。


うーむ、宇宙の法則に則って生きたら自分が無くなるんじゃないの?
そう考えるかもしれませんが、それは逆なのです。

さっきから何度も言ってきているように、
カントの言葉にあったように、人間は自分自身が持つ理性や因果、時間・空間、道徳律という意識などを通した
歪んだ世界しか見れないからです。

カントはこう言っています。
「道徳律に心をとめて行動していると自覚している時だけ、僕たちは自由意志で行動しているんだ。」と。

となれば、
題目を唱え、宇宙の森羅万象が従っている道徳律に従って生きる。
これが正しくて自由な生き方であることは言うまでもないでしょう。

こういったことを知ると、この仏法がとてつもなく偉大なことはすぐに理解できます。
人間に生まれて、題目を唱えられる幸運は推し量るすべもないでしょう。
感謝感激しながら、日々過ごしていきたいと思うわけですが、、、、
んま、現実は中々厳しいのです。



これだけのことを学び、人に伝えられるようになるまで、3年くらいかかりました。
今でも学んでいます。そのきっかけになったのが「病気になったこと」であることは言うまでもありません。
しかし、学べば学ぶほど、「信じる」しかないことに行き当たるのです。
もちろん、信を深めるために学んできたので、それは当然の成り行きなのですがね。
福子っていうのは、恵まれているので、功徳を感じにくく感謝の心が貧しい。
そう感じるゆえに、仏法それ自体とは別の角度から学んできたのです。

ですが、ここに記されたことは、
あくまでも私が考えて導き出した現時点での答えだということです。
多分間違っている部分もあると思います。
でも、大体あってると思いますよ。
だって、スンゲー真剣に勉強して、思索しましたからね。

他にも、色々と、この仏法の正義を証明できる事項は沢山ありますが、
こうして記事に纏めることは簡単ではないんですね。
私の頭の中にグチャっとあるものを整理しないといけないので。

でも、確実に言えることは、
学べば学ぶほど、この信心に間違いはないと気づくことであり、
信じるしかないということです。


なぜ過去世の宿業を消せるか?
それは虚数時間があるからです。
そういうことも科学を学ぶとすぐに分かるようになります。

我々人間の中の時間の流れは、過去・現在・未来と流れている訳じゃーないんです。
過去・未来・現在と流れているんです。ハイデガーもそう言っています。

厳密に突き詰めて言えば、実はこの世界には時間も空間も存在しないのです。
時間も空間も私という生命の因に食物がもたらすエネルギーという縁が介して作り出しているだけなのです。
その証拠は我々が常にエネルギーというカロリーを消費していることで証明できます。
その消費されるエネルギーは我々を秩序だった生命体にする量より多く、
無秩序なエネルギーとなって放出されているんです。(宇宙にあるエントロピーの法則)
だから、何もしないで放って置くと世界は無秩序になるんです。
大きな箱を下にして整理していたはずなのに、
気が付くと箱の順番がグチャグチャになってるでしょ。こういうのをエントロピーの法則というんです。
だから、戦わなければいけないんです。秩序を保つためにね。

ようするに我々は、時間と空間の中に生きているのではなく、時間と空間と自分を同時に生み出し、
我々はその中で生きているんです。
だから、自分が変われ環境も何もかも、思いのままに変えていけるという仏法の哲理は間違いないんです。
というより、あったり前田の因果の法則なんです。

時間というものを、平易に言えば、
我々は過去の出来事を基準に未来を思い描き、可能性を見極め、
現在の行動を決めているんです。
だから、未来に恐怖したり、不安を抱くと、
本当に不安が的中してしまうんです。あたりまえの因果の法則です。
あのナポレオンがなぜあそこまでビッグなことを成し遂げたかと言えば、
彼にはある時期まで、「恐怖」がなかったからなんだそうです。
そして本人自身も「恐怖」を抱くのが一番危険だと言い放っています。

仏法では理想の生き方を「現当二世」と説き、過去のデータから未来の可能性を推し量るのではなく、
現在の自分を起点にして未来の可能性を推し量り祈れと説いてます。
ここまでの文を読んだ方なら、その正しさに素直に頷けることと思います。

恐怖については、先生も同じことを仰っています。今年の年頭のお歌にはこうあります。

恐れなく
不二の師弟の
勝利劇

正義の大城を
世界に築かむ

ま、ともかく、「日蓮が一門は臆病にては叶うべからず」なのです。

めでたし! めでたし!



ちょっと前に書いた「地獄界と仏界」。
この記事を読むとわかりますが、この仏法では仏界も地獄界も
明確に説かれていませんよね。
それはつまりカントの理論が証明しているんですね。

ようするに仏界も地獄界も、実は酷く個人的なもので、
その人にしか理解しえないものなんですね。
だから、大聖人も釈迦も仏界と地獄界だけは、こんな世界ですとは説いていないんです。

あえて言えば地獄界は自分で自分の周囲に壁を築くことで完全に孤立してしまうことだし、
仏界は歓喜の中の大歓喜といえます。
うんうん、言いえて妙だと思います。
自らの生命の中にある因によって作り出した、
自らが生きているこの世界は、部屋に積もった埃であろうが、ゴミであろうが、
私それ自体なんですからね。
埃だろうとゴミだろうと、それが自分の生命の一部だと知ったら、邪見には出来ないでしょ。


だから、それを知ると、
全てのものが愛おしくて仕方なくなるんです。何一つ無駄に破壊などしたくなくなるんですね。
でもそれを伝えることは甚だ困難なんです。

だって自分の意識の中でしか感知できないものを、
他人の意識に投影などできないですからね。
人はそれを言葉で伝えようとするんですけど、
伝えたい思いの1%も伝わらない。
だから、あなたも実践して自分で確かめなさいと言うしかなくなる。
その仏の名前なら教えてあげられる。

そう、南無妙法蓮華経が、その名前なんです。

私が「南無妙法蓮華経 イオプシロン」であるなら、
貴方は、「南無妙法蓮華経 貴方」なんですからね。


ヘッセの記した「シッダールタ」という小説を読んでみてください。
釈尊が知った世界全てをゴーヴィンダになんとか伝えようと試みるシーンはとても美しいんです。
彼がした行為はただひとつ、額へのキスでした。
あー、なんと美しいのでしょうか!

仏法万歳!!

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2012年05月05日

2012年も、早くも5ヵ月目。ボーっと過ごしてしたら、あっという間に年末を向かえそうですね。

みなさん、今年の目標、いくつか叶ったでしょうか?
4月9日は年が明けてから100日目でした。
何か良いことがありましたでしょうか?

私は、突き指をしましたよ(笑)
引越しの荷造りで、せわしなく動いていて、尽き指しました。
グホ! 100日目を目前にして(正確には99日目に)コレなんですか?御本尊様?・・・
と、1人で部屋で笑っていました。

んまぁ、突き指をしたことで、目標にしていた引越しの期日が
後ろにズレそうなことにはすぐに気付いたので、
んまぁ、諸天が尽き指させて、信心を試しているんだな。
これは、明らかに魔ですな。
と、見破ったので、引っ越しも期日通りに済ませることが出来ました。

でも本当は、引っ越しに関して、心が折れそうになった時期があったのです。
ゴミ処理の件で。


引っ越しで出たゴミの総量、おおよそ3トン車4台分!(笑)
箪笥やベッドといった粗大ごみも相当あり、
家電リサイクルの対象品、テレビやエアコン等も数台ずつありました。
なにせ、有料で処理した、燃えるゴミと不燃物だけでも、45リットルの袋で
75袋分ありましたからね!(笑)

このゴミ、、普通に行政に予約を入れて捨てていたのでは、
1ヵ月はかかってしまう・・・。どうしよう・・・。
そこで思いついたのは、いわゆる民間の不用品回収業者でした。
しかし、こういった民間の業者は、回収代金が高く、
下手をすると違法投棄をしている業者があることを知っていた私は、
そんな業者に頼む訳にはいかないと思っていました。
(聖教新聞にも違法投棄されたゴミが、アフリカに持ち込まれて悲惨なことになっている
記事がありましたね)

しかし、早急に期日内に処理するには、その業者に頼むしかないことは
目に見えて理解できました。

とりあえず、見積もりだけでも取ってみるか。
そう思い、業者に電話を入れました。
案の定、考えられない程の高額な見積もりが出ました。
ひとことで言えば、数十万という額だったということです。

いくらなんでも、ゴミ処理にそんな額は掛けれない・・・。
行く手には期日が迫り、目の前には山のようなゴミが立ちはだかり
私は1人悶々として、何もかも投げ出してしまいたくなりました。
ゴミに埋もれて行方不明になってやろうかと思いました(笑)

そこには、違法投棄しているかもしれない業者に処理を依頼しようと考えた
自分の浅はかさを悔いての気持も混ざっていました。

しかし、不思議なことが起こります。

用事があって連絡を入れようとしていた人たちから
次々に連絡が入ったのです。

そして思ったのです。

あぁ、ダメ元でもいから支部長に相談してみよう。
そう思い、もらった電話で相談してみました。


すると、手を尽くしてくれ、業者を紹介してくれたのです。
そして、安心できる業者に、妥当な額で処理してもらえることになったのです!

1人で悩まずに早く相談すれば良かった。
まぁ、そういう事なのですが。
私の性格は自分で出来ることは自分でなるべくしよう、という性格なので、
こういう結果になったのです。
(1人で悩まないで周囲に相談したりアドバイスを受けるようにする。
という先生の指導を知っていながら、こうなったことは良い勉強になりました。)

1人、ダンボールに囲まれながら、もう厭だ。
もうどうにでもなれだ。そう嘆きながら、
時にはフテ寝をし、心が折れる寸前まで行きましたが、
心の奥底では「信心で乗り越える」という気持ちがあり、
日々の勤行・唱題だけは目標を完遂していました。

その結果が、先に述べた結果に繋がったことは言うまでもありません。

ということで、目標としていた日付を、たった1日超えただけで、
旧居の引き払いを完全に終えることができたのです。

もちろん、5.3までには絶対に旧居の引き払いを完了すると
祈っていたことは言うまでもありません。


今年の5.3までに、何を成し遂げたか。
今振り返ると、きちんと、自分の決めたことは、
ほぼ全て成し遂げられたことに気づきました。

人間革命、全12巻の読了も成し遂げました。
今年は、本当に晴れやかな気持ちで5.3を迎えられました。
当日、東京はあいにくの雨模様でしたが、心の中は五月晴れでした。
みなさんは、どんな5.3を迎えたのでしょうか?

歓喜で迎えた人、苦悩の中で迎えた人。
様々あるとは思いますが、
どんな境遇にあっても、自分だけにしか迎えられない5.3であったこと。
自分にしか理解できない深い意味のあった5.3であったことでしょう。
そう思わずにはいられませんし、そう確信しています。

さて、次の目標は、私の場合
とりあえず7.3です。

その日まで、弛まず、倦まずに「前進」あるのみです!


余談ですが、
家の中の不用品は、普段の生活の中で
少しずつでも、廃棄したり処分していくことをお薦めします。

大量に溜めると大変なことになります!(笑)

行政が打ち出している
「リデュース(ゴミを出さない)」
「リユース」
「リサイクル」
という3指針は的を得た取り組みだと、私は身をもって実感しました。

年々、環境破壊を防止する取り組みが進んでいますので、
ゴミを捨てることに手間暇やお金が必要になってきていますからね。

捨てやすいように、金属とプラスチックが混ざった製品は
どんどん作られなくなってきていますが、中にはPCの様に捨てるのが大変な製品も
現われてきていますので、購入時に捨てる時のことを考えておくのが良いと思います。

また、古い時代の衣服やカバンなんかは、ジッパーやホックなどに
金属が使われているので、捨てるのに手間がかかるんですね。
金属部分を外さないといけないので・・・。
あと、プラ製の衣装ケースは超無駄なのでお気を付けください。
切り刻めば燃えるゴミに出せるのに、それをするのが大変なうえ
やたら容量を食うために粗大ゴミ扱いで有料ですからね・・・。

ま、あれです。
ゴミは溜めずに、福運を貯めるべきだと反省している、今日この頃なのです。

ipsilon at 13:36コメント(0)トラックバック(0) 
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