2012年06月

2012年06月14日

私の名はイプシロンである。
昭和○○年○月○日に東京都で生まれ、
かくかくしかじかの学校を出て
一応、社会人となり、社会活動をして、
今は病気になり、無職となり東京で暮らしている。

というのが、私自身なのだが、
本当だろうか?
本当ともいえるし、本当ではないとも言える。

ようするに、人間というものは「信じる」という行為によって
自分自身を自分自身たらしめているのだ。
だがしかし、その認識は往々にして間違っていることが多い。
そしてその過った自分像に基づいて生きるから、
人間は不幸になるのである。

では何を信じればいいのか?
先の記事にも書いたが、世界は諸行無常である。
ようするに信ずるべき固定されたものは存在しないのだ。
困りましたね。

でも、信ずるべきものはあります。
それが「本有常住無作三身」という「仏」という存在だ。

この仏というのは縁によって起こる。
難しくいうと諸行無常の世界であっちへ飛びこっちへ飛び
まったく予測できない運動をしている素粒子みたいな存在が
仏縁に触れると、決まった形になって現れるということだ。
それは「真理」であり「慈悲」であり「智慧」であり、
言い換えれば「法身」「報身」「応身」の三身である。

でもこれは個人個人においてであり、
万物がその形になるのではなく、
万物が従うそういう法則があるということだ。

つまり、私には私の「本有常住無作三身」が厳然と存在するのだ。
あなたには貴方の「本有常住無作三身」が厳然と存在するのだ。


んま、簡単にいうと、
諸行無常の世界というのは、
自分という生命体を基準に自分を考えているのであり、
本有常住とは、自分=宇宙という生命体として自分を捉えているということだ。

つまり、宇宙を構成するありとあらゆる物質は
全て自分なのである、という捉え方が本有常住なのだ。

だから、生きていようが、死んで肉体が腐ろうが、
私を構成していた素粒子(宇宙)は、本よりここに有り、常にここに住し
それは、働くこともなく、繕うこともなく、あるがままに存在しているんですね。


つまり、信ずるべきはそういう自分以外にない訳ですよ。
でも、そういう自分を覚知することは非常に難しい訳です。
誰もがそれを簡単に覚知できるなら、全員が聖人になれますからね。
全員がブッダになれる訳ですよ。

ですから、私のような鈍愚な人間は、
聖人が知り、他の人も知れるように顕わしてくださった
宇宙の法則を覚知できる御本尊に帰依して
本当の信ずるにたる、本有常住の自分を知ることで
正しく自分を認識できるのです。
有難いことです。


信仰には多かれ少なかれ、こういったように
一般人が知り尽くせない部分があるんですね。
それを「信じられるかどうか」
それが大切なのは言うまでもないんです。
だから「信」は重要なのです。

ようするに、
第一番目に大切な「信」は、
自分には理解できないような偉大な法則や力がある。
と、そう「素直」に信じ、その偉大さに「畏怖」や「尊敬」の心を持つ「信」である。

しかし、信じているだけでは何の価値も生まれません。
具体的に「こうなりたい」という目標・目的を掲げ努力しなければなりません。
これが二番目の「信」です。
無論目標は「一生成仏」であり、目的は「広宣流布」です。
してこれは「無上道」であり、不断の努力のことをいうのです。
そういう意味では大変に厳しい「信」です。

道半ばにして退転してしまえば、
「俺は御本尊は絶対だと信じている」と言ったところで
もはやその人の中には本物の「信」はないのです。
仏法の冷厳な一面ですね。
心しておかなければなりません。

で、この2点をクリアーすると、
心が澄み渡り、命はいつも安堵感を感じ
いかなる生命体であっても御本尊の前において平等である、
といった仏の悟りを得るわけです。
これが3番目の「信」です。

言い方をかえれば「大確信」と言えますが、
別の見方をすれば、体験や功徳を受けて「信」が強化されていると
言えると思います。


仏法では、この3つの「信」が必要だと説いています。
ゆえに、単純に信じるだけではいけないのです。
世間一般であっても、
初めはなんとなく信じている。
そのうちに様々な経験を重ねることでそれは確信に変わる、
そういった構造はある訳ですが、
それはあくまでも諸行無常の世界でのことです。


日蓮仏法は本有常住の世界での「信」です。
この違いは天地雲泥の差であることは
心ある人なら理解できることでしょう。


まぁ、苦しい状況にある場合、
第一番目の信が一番強くなるのでしょうが、
それはそれでかまわないとも思います。

御書には、「賢者は祈り、愚者はただ唱える」とか
「愚者と聖人の唱える題目の力は変わらない」とかありますからね。
ようするに、まず大切なのは御本尊は偉大だと純真に信じることでしょう。
それが大原則なのだと思います。

この仏法は顕益・冥益といって目に見える功徳と
そうでない功徳があるというんですが、
御本尊はそんな小さな功徳しか出さないものではありません。
祈ってないのに叶うこともあると御書にはあるんですからね。

簡単にいえば、ご祈念に書いて祈っていなくても
心の奥底で半分無意識に願っていることが叶うことがあるってことです。
して、そういう願いに限って、実は本人が物凄く苦しんでいることだったりする訳です。

無論、私自身もそういう祈ってないのに叶った体験があるからこそ、
こういうことを書ける訳です。

どんな功徳を頂いているか、
そういうことは祈った内容だけでなく
見ていく必要があります。

この御本尊への信力はそれだけ偉大なのですから。









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2012年06月13日

題目をあげて感じる力は人それぞれだ。
だから、そういったことを検証することは難しい。

御本尊の見え方ひとつにしても、
人それぞれですからね。

金色に輝いて見える人もいれば、
真っ黒に見える人もいるわけでしょう。

私は普通に文字が見えます。
まだまだ金色に光っては見えません。


ですが、自分が決めた唱題ができているときと、
そうでない時の見え方は明確に違います。


私の場合、題目をあげきっていると
文字の書いていない白い部分が
純白に見えるんですね。

反対に題目があがっていないと、
白い部分が土気色に見えるんです。

そんな心霊現象みたいなことありえない。
そう言われるのでしょう。
しかし、それが現実です。

こういうことにこそ科学を役立てるべきなのです。

つまり、題目をあげて生命力がある状態だと、
人間は瞳孔が開くってことなんです。
だから、ものが明るく見えるんです。

うつ病の人が見ている世界は、
真っ暗なんです。
本当に酷い人の場合白黒の景色になります。

こういう違いは題目をあげさえすれば
即座に感じ取れます。

同じように視野も恐らく広がっていると思います。
だから題目をあげていると、
普段なら気づかない周囲の変化に敏感に反応できます。
これも事実。私も体験済みのことです。


さらに、心身から汚いものが排出されます。
ご飯を食べて歯を磨いて題目あげてたのに、
なぜか小さな食べかすが口から出てこようとするんですな。
これも、一度や二度の体験ではありません。

初めは不思議でしたよ。
でも気づいたんです。
あー南無妙法蓮華経と口を動かす動作は
体内の不必要なものを排出する動きなのだとね。

お腹の具合が悪いと
題目を上げ始めると
すぐにトイレに行きたくなります(笑)。

無論、中座などしないように、
事前にバッチリ準備して御本尊の前に座るべきですが、
我慢していても仕方ない部分もありますね。

ゆえに、題目をあげると肉体的にだけでなく、
心にある不必要な毒も体から出ていきます。


題目を唱えるということは、
ある意味で麻薬をやっているのと同じだと
私は思います。
あーもちろん、人畜無害な麻薬です。
いやむしろ、非常に有意義な麻薬です。

人間はこの地球上では
一風変わった生物です。
なぜなら言葉を話すからです。

この言葉を話すという行動は
肉体に非常な負担をかけます。
なぜなら、呼吸を止めるないし、息を吐き続けなければ
言葉を話せないからです。

つまり、動物はこんな危険な状態に自らを置くことはないのです。
そういうことを普段から行っている人間というのは
それだけ特殊なのです。

呼吸を止めれば
当然全身に酸素が行き渡らなくなります。
もちろん脳にも行き渡らなくなります。

さてそうなった時に脳がどのように働くのか?
それがわかるとかなり面白いでしょうね。
単純に考えれば脳死しますけど、
その一歩二歩手前ってのはどういう状態になっているんでしょうね。
この辺、大変興味があります。

ようするに、題目をあげている時ってのは
そういう状態になっているということです。
ただでさえ生物としては普通じゃない言葉をはなし、
さらに酸欠になる。

それだけ尋常でない世界で誓願すれば
それだけ尋常でない何らかの力が作用するのは
考えてみれば当たり前なのです。


かつて私はロックヴォーカルをやっていた時期がありました。
歌も同じように、理不尽な呼吸をします。
そして、詞という最もストレートな言語表現法にのせて
感情を爆発させるわけです。

酸欠になると凄まじい世界が垣間見れます。
世界はキラキラ光って、脳は水に浮いたようになり、
気分のいい痺れを起こします。
一度、仲間とあの感覚を味わってしまうと、
抜け出せないってのはわかります。
ゆえに、ミュージシャンは薬に走るのです。
薬のあの恍惚感は酸欠の恍惚感にそっくりですからね。
はい、体験済みです。

ギタリストだって同じです。
トランスするようなギタリストは大体
引きながら声を出してます。
なんか唸ったりしてます。
ドラマーも同じです。
クラシックの指揮者とかもそうですね。


という具合に、
題目というのは尋常ではない世界への扉なのです。

こういうことを読むと「気持ち悪い」と思うのでしょうが、
これは事実です。

でも安心です。
南無妙法蓮華経は絶対に間違ってないので。
それは唱えてみれば確信できることですので。


戸田先生が獄中で悟達された人間革命の描写とか、
あれはある意味、生きたまま臨死体験されたという描写でしょ。

つまり、題目は生と死(脳死)をつなぐ扉なのですよ。
いな、三世をつなぐ扉といった方が正確ですかね。

考えてみてください。
牢獄という最悪の環境にいて、栄養状態も衛生状態も最悪な場所で
200万遍の唱題をして
そのうえ、ずっと法華経を思索されていたんですよ。
どんだけ脳に負担がかかっていたことか。

そういう尋常でない環境にあって
脳が酸欠になるような題目を上げ続けていれば
それは何らかの悟りを得られるのは、ある意味当然なんですよ。
しかも正しい題目である南無妙法蓮華経ですからね。

でも、勘違いしちゃいけないのは、
戸田先生には、そうした題目と思索をやり抜いた
これまた尋常でない鋼のような意思の力があったということなんですね。

だから戸田先生は偉大なんです。


ナポレオンも、同じように
人並み外れた、ある種狂人めいた強烈な信念を持っていたゆえに、
あれだけのことを成し遂げたのだそうです。

そして、そういったナポレオンを育て、一生涯守っていたのは、
彼の母親だったんだそうです。

母は偉大ですね。


大人になると、両親に育んでもらった自分という存在を忘れ
自分が自分で努力したみたいな感覚になるんです。
でも、自分の半分くらいは両親が作ったものなのでしょう。

そんな思いがこみあげると
今は亡き両親に感謝する気持ちが自然に湧くというものです。


ともかくも大切なのは
強靭なまでの絶対的な信念です!
これさえあれば怖いもはないのです。

先生はこれを
「決定した一念」、あるいは「一定の信念」などと仰っていますね。


ナポレオンは「吾輩の辞書に不可能という言葉はない」と言ったといわれていますが、
実際には「フランス語には不可能という言葉はない」と言ったのだとか。
彼がどれだけフランスを愛していたかが伺える。

なににしてもその「折れない心」や「信念」は学ぶべきものである。

ipsilon at 22:12コメント(24) 
ちょっと前に法華経非仏説ということが話題になった時期があった。

私は思った。
くだらない、と。
誰が説こうがその内容が正しいと信じられればいいことであるからだ。

私がそう思っていた時、とある先生の著作物で、
先生も同じ事をおっしゃっていたので、
私は自分の考えを完全に肯定できた。


言ってしまえば、
私が研鑽してきた御書にだって真筆ではないものは
含まれるであろう。
しかし、私はその編纂に努力された
戸田先生や日亨上人という人物を信じるゆえに、
御書を信じる訳である。

そもそも大聖人はこう言っている。
「出来る限り道理にかなったように生きて行きなさい」と。

猜疑を抱いたなら、自ら真剣に学べばいいだけである。
そうした行為もなしに、御書は真筆でないかもしれないという、
先入観に蝕まれては、何の意味もない。


心ある学会員であれば既に気づいていることだろうが、
先生と大聖人は、話し方がそっくりなのである。
つまり、御書の文章の進め方と、
先生の話の進め方がそっくりだという事だ。

先生がいかに御書を学びに学び
大聖人のように生きようとしているかは
その1点をもってしても簡単に感じ取ることができる。

ゆえに、学会は御書根本ではあるが、
その御書を心胆にそめて学びつくしている先生の著作を
読むことだけでも十分に正しい信心のしかたを学べるわけである。

御書は鎌倉時代の文章である。
だから、誰もが容易に学べるとはいえない。
そういう点を考えただけでも、
先生の著作物の存在意義は計り知れないくらい大きい。

先生が学会員に尊敬される理由はそこにある。
言動も行動も全て、
大聖人に直結しているからだ。


そしてアンチな方々は、そういうことが理解できない。
ゆえに、鎌倉時代に大聖人を迫害したのと同じ方程式で
先生を迫害し、学会を批判するわけである。


そもそも、何度も記事に書いてきたように、
万人が納得する論理的基準など存在しないのだ。
全ての人間は「我が体験」と「我が信念」によって生きるのだ。

だから、何が信ずるべき価値のあるものか?
を自らに問うことが一番大切なのだ。
しかし、そういう行動をしている人は甚だ少ない。
他人の眼を気にして
自らの行動を決める。
理論理屈で考えるならまだしも
感情という動物的感覚で物事を判断し、
ほとんんどの事を好き嫌いで決めてしまうものなのだ。
実に残念なことだ。

宇宙には厳然として、万物が従う何らかの法則が存在する。
なんらかの道理が存在する。

ひも理論?
しょせんは、実験によってさえ証明できない
ただの理論である。
そんなものに自らの信念を置くことなど
私にはとうてい出来ない。

不確定性原理?
それによって人間に自由はあるということなど、
とうてい信じられない。
不確定なのは「縁」だけである。
「因」も「果」も既に備わっているという事実を無視して
「縁」だけを見ようとするのは
木を見て森を見ずに過ぎない。

しょせんは縁起ではあるかもしれない。
しかし、縁だけで物事が起こるのではないのである。

ゆえに、偶然など存在しえないのである。
ただ単に縁という振れ幅が存在するに過ぎない。
それを持って人間は自由だとは私は思わない。
電気コードでつながれたリモコンは自由なのか?
確かに思うままに操ることも出来よう。
しかし、しょせんは電気コードの長さの範囲内でしかありえない。
これを「境涯」ということも出来よう。

しょせん、因果の法則にのっとれば、
出発地と目的地は変わらないのだ。
縁によって途中経過が変わるだけのことだ。
そして、それは自由とは言えない。

本当の自由とは、
仏縁という「縁」に触れることを言う。
(ようするに題目を唱えることだ)
仏界には全てが備わっている。
だから、題目をあげて仏縁に縁するということは
リモコンのコードを外すことに他ならない。
無論、そうなったさい、
他人を苦しめるような行動をしたならば、
厳然と罰を受けるのであり、
他人を幸せにしたのなら、
厳然と功徳を頂けるのである。

本当の自由には必ず責任が付きまとう。
リモコンコードのある自由は
責任など付きまとわない。
だって「果」は既に決まっているんだからね。

「生」という「因」から始まる人生は
「死」という「果」で終わる。
その間にどんな破廉恥なことをしても、
どんな犯罪を犯しても、
「死」という「果」によって責任は取れる仕組みになっている、
限られた自由というのが現実の人間の一生だ。
だからといって人殺しを肯定している訳ではない。
それはモラルの問題であって、
今はなしている責任とは意味あいが違う。

いわゆる仏界にある「妙因妙果」というのは
何でもできる自由な状態を言う。
だから「因」を選んで植えることも出来れば
「果」を選ぶことも出来る。
その為に必要なのが誓願であり、
これが本当の自由だ。
ただし、そこにはあまりにも冷厳な責任があることだけは
しかと心に留めておくべきだ。


つまり、こういった宇宙の法則を感じ取り、
その法則と自らの信念が一致する生き方をする。
それこそが理想なのである。道理なのである。

その為に必要なのが、題目であることは言うまでもない。
ゆえに、題目さえあげていれば
論理的証拠になどに拘る必要は全くない。
なぜなら、おのずから信じるに値する正しいもの(道理)が、
自然とわかるからだ。

「現証にはすぎず」である。
どんな立派な学術書であっても、どんな立派な理論であっても、
しょせん1つの体験には及ぶべくもないのだ。

題目をあげたものが最後には勝つ。
それに尽きる。
体験を積んだものが最後には勝つ。
そういうことだ。


でも、その題目が最近全然あがらないのである。
だから、ここでこうやって自分で自分を励ましているのだ(笑)。


引越しによる環境の変化で、
生活はボロボロ。
夜、普通の時間に寝ても、
こういう風に夜中に目が覚める。
「あれ? ここどこだ? あ、、引越ししたんだっけ」となる。

日中は日中で
これまでとする音が違うため、
神経に触れる。

道路が近くなったせいで、
家が振動する。

隣室が近くなったので、
これまで以上に気をつかう。
むろん題目も力いっぱいにはあげられない。

いつかは慣れるのだろうが、
今はそういう環境の変化で
心身がまいっている。

自律神経がおかしくなり、
体中いたるところに
じんましんができて猛烈に痒く、
物事に集中すらできない。


であるからこそ、題目しかないことも
知り尽くしている。
だから、布団に入っても題目を唱えながら寝るようにしている。

しかーし、そんな程度じゃ不十分なのだ。
すっきりしないのだ。

なんとしてもすっきり出来る量の題目を唱えられる自分になるのだ。
なにがなんでもやるのだ。
その為に死ぬのならそれでも良い(笑)。
まぁ死なないから大丈夫だけどね。

今は死ぬ気で御本尊の前に座るしかないのだろう。
必死とは「必ず死ぬ」と書くんだけど、
人間はいつか必ず死ぬんだから、
別段、必死になることを躊躇する必要もないだろう。



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2012年06月12日

これまで、私は私なりに信心に関して学んできた。
でもそれは信心という一面からではなく、
科学や哲学という面からも信心、
というか人生いかに生きるべきかを学んできた。

して、ここまできて思うのは、
しょせん、尽きるところ信じられるのは「我が体験」だけである、
ということだ。

極論すれば、人生の中で確信的判断材料になるものとは
体験だけなのである。

様々な本も読んで学びもした。
しかし、それはあくまで知識なのだ。

人間が不幸になる最大の原因は多分、ここにある。
動物が不幸に見えないのは、
彼らが体験以外に基づいて行動していないことを
見ていて理解できるからだ。
動物は良い意味でも悪い意味でも
他者に理屈や知識でもって干渉しない。

これはある意味素晴らしい生き方であると思う。

人間がしていることと言えば、
自分が体験もしていないようなことを
平気で自分の信念のように話し、
それをさも当たり前のように肯定し、
時にはそういった価値観を他人に押し付けることだ。

ネットで様々なページを見ていると
本当にそういうことに気づかされる。

例えば、生活保護の問題とかね。
生活保護を受けたり、その手続きに関するこを
体験してもいないのに、
さも物知り顔で話す。
そして、その論理は間違っていないと思っている。
見ていて悲しくなる。


仏陀は「とにかく妄想を捨てなさい」と
言い続けた訳だが、
その気持ちは痛いほどわかる。

かつては私もそういう「妄想組」にいたことは否定しないが、
今はそこから抜け出そうとしている。


結局、科学にしろ哲学にしろ、
完璧とはいえない。
なぜならば、科学のとある実験を何度も繰り返して
同じ結果が出て、その法則は正しいと証明されたとする。

果たしてそうだろうか?
答えは否だ。

温度や湿度など、様々な事柄を全て同じにして行ったとしても、
その実験をおこなった時間とそれに関わった
(縁した)人間は絶対に違うからだ。

つまり、この世は何もかもが一期一会であり、
一瞬たりとも同じことを再現できないということだ。

だから、科学が証明したものとて
しょせんは統計に過ぎないということなのだ。


万人が納得する別の系統に、
推論や論理学があるが、
これとて同じだ。

とある論理を完璧に証明した人がいるとしよう。
しかし、他人はその人になり変わらない限り、
その証明が完全であると理解することは出来ないのだ。
人間というのは、同じ理論に対しては
大まか同じに思考できるかもしれない、
しかし、細部では全く違った捉え方をするのだ。
だから、いくら完璧な理論を証明したところで、
万人に通用する理論など、この世に存在しないのだ。


と、こう考えると
だったら仏法だってそうじゃないの? という疑問が湧くことだろう。
答えは否だ。

だから、日蓮仏法はことさらに体験主義を重んじているのだ。
だから、創価学会は行動主義を重んじているのだ。


御書の有名な一節にはこうある。
「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事尤も大切也」と。

ようするに、あーでもない、こーでもないと言わないで、
題目を唱えて題目の力を実体験してみなさい、ということだ。


百万冊の本で読んだ知識より、
一遍の題目のほうが偉大なのである。

どんなに本を読んだところで、
題目を唱え、「ただの知識」を「生きるための知恵」に変えない限り
無価値といっていい。
知識など、しょせん自分の体験からはほど遠いところにあるものなのだから。
題目を唱えるということは「(九)識」全てを「慈悲と智慧」に変えることなのだから。
だから、知識はすべて行動となって奉仕という他人のための慈悲の働きに変わる。
これがどれだけ凄いかは、体験しなければ理解できないだろう。
そうなったなら、ただ外を歩いているだけでも他人を救えるんだな。
これは本当ですよ。
題目をあげきっている時ってのは、
動物はもちろん、人間も自然と寄ってくるんですな。
こっちは何もする気がないのに、困った人が目の前に現れるんですな。
でもって自然と手を差し伸べられるんだな。
そんな経験は一度や二度ではない。

とにかく、うつ最強の頃は、
公園にいる動物も寄り付かなかったし、散歩してる犬も私のことを避けて通ったんですよ。

でも、題目あがってると、犬なんて寄ってきまくります。
動物も逃げて行かないんだな。



あの学会指導はおかしい。
あの人のいう事はおかしい。
あの人は甘えている。
あの人は弱い。
あの人はでしゃばりだ。
あの人は強情だ。

そんな自分が体験していないようなことばかり言っていたところで、
そんなことを批判したところで、
それはただの自己満足であり、過った自己正当化であり、
見方を変えれば、他人を高所から批判する
修羅界の諸行であり、傲慢以外の何者でもないのだ。

そんなことをしているなら、
題目を唱えるべきである。
そう確信している今日このごろだ。


ここ数年、ネットのいろいろな記事を読むたびに
異様にイライラしていた。
その理由がずっとわからなかったのだが、
最近わかった。

誰もかれも、自身の体験をベースに話していないからだ。
誰もかれも、体験さえしていないものを
さも知り尽くしているかのように放言しているからなのだ。
その傲慢さに、命はイライラさせられていたのだ。
ようやく正体不明のイライラの原因がわかった。

昔から、評論家や批評家は大嫌いだった。
理由もわからず大嫌いだった。
でも今は、その理由がはっきりわかる。


百万の正論より、
ひとつの体験にもとづく何気ない話のほうが
遥かに説得力がある。

民衆が強いのは、
生活の辛苦という体験を舐めつくしているからだろう。


いま世界には国連とか人権NGOとかがたくさん存在している。
しかし、しょせんその土地で生活を体験していかないかぎり、
その土地での幸せとは何なのかを知ることは出来ないのだろう。

御書にもそうある、
「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と。

そういう行動を世界に広げているのがSGIであろう。
ならば、私は私で、自分の足元を固めるべきなのである。

どこかあらぬ場所にいって幸せを掴もうとか、
社会の構造がどうだとか、制度がどうだとか言っていないで
自分自身に帰るべきなのだ。
それが全ての体験の源であるのだしね。


このjimiの曲はどう聞いたってLSDやったことあんの? うん、俺はあるよ。
ってな歌詞に聞こえるんだけど。
良くも悪くも、経験してないことは何も言えないだろっていうjimiなりのメッセージがあると思う。

まぁそういうことなんです。







ipsilon at 21:00コメント(1) 

2012年06月11日

人生に不安や心配はつきもである。
しかし、そんなものに振り回されないで
幸せになる方法はある。

・一点集中して、今を生きること。
・全ての妄想や先入観を捨てること。
・全ては変化することだと納得し、支配したり支配されたりしないこと。

幸せになる要点はだいたいこの3点につきる。


・今を生きるとは信心でいえば「本因妙」の生き方である。

人間は思考する生き物である。
だから、生命力が足りていない時というのは、
水が氷になっているような状態だ。
だから、そんなときは過去を懐かしんだり悲しんだりする。
生命は過去に支配されてしまうのだ。

これが「うつ」の正体だ。


反対に生命力が旺盛だと
未来のことを妄想する。
水は蒸気になって暴れるいうという訳だ。
本当にそうなるかもわからない未来を妄想して
あれこれと取り越し苦労をする。
生命は未来に支配されてしまうのだ。

これが「不安」の正体だ。

今を生きるということは
水が水であるまま流れているということ。
予想外の変化も起こるが
無理にあがなわず素直に流れていけば
やがて大海へといたれるということ。
祈りは叶っていくということだ。
過去や未来という妄想に
支配もされず支配もしないという理想的な生き方。


つまり、心の病、
とくにうつ病の人の場合、
生命力が落ち、いつも過去に支配されてしまっているということだ。

その反対に、不安症などの病の人は
生命力があり過ぎて
いつも未来に支配されてしまっているということだ。


でも、病気というのはそう単純ではない。
なぜなら、未来を妄想する材料は、
自らの過去の記憶
(それも不確かであり、1秒1秒過ぎるごとに変わっていく過去)
を材料にして未来を妄想するからだ。

つまり、
過去という「うつ」も、
未来という「不安」も、
一刀両断にはできない密接なものであるということだ。


人間の思考形態の
こういった傾向は知っておいて損はない。
だが、それは複雑怪奇であり、
1秒1秒ごとに、過去も未来も変わっていくものであるから、
とにかくも、妄想することは全くもって意味がないし、無価値なのだ。

だから、今を生きることが重要なのだ。
病気を治すためにすべき最大の行動は
今を生きることなのだ。


しかし、今を生きるためには
一応、目標・目的が必要だ。
して、その目標をたてる為の材料が
普通は、過去のデータであることは言うまでもない。
そんな風に過去にもとずくから
病気はいつまでも治らない。

だから、目標・目的を立てる材料としての過去を
とりあえず一切捨てて理想の自分像を思い描き誓願を立てるのだ。

この信心の誓願とは、そういう事である。
そういう意味がある。


過去や未来の妄想から自分を解き放ち
あくまでも理想の自分になる祈りが「誓願」なのだ。
だから、口でいうほど簡単に「誓願」はできないのだ。
しかし、「誓願」こそが一番大切なことは
これまでの説明でわかってもらえることと思う。

この仏法はそういうことを教えてくれる。
だから偉大なのだ。

病院にいったところで、
(無論、治療の手段としてそれは有効だが)
カウンセリングとは
えてして、患者の過去について触れ、
その過去を消すないし、癒すことで解決をはかろうとする。

つまりこれは、患者が過去に捕らわれないようにして
今を生きられる手伝いをしてくれている訳だ。

本質的には、本人が誓願していることと変わりはない。
それを他者の援助を受けてやっているだけのことだけなのだ。


「誓願」の凄さ、意味はこれで伝わったことと思う。

あえてもう少し言うならば、
「祈り」と「誓願」は違うということ。

「祈り」とは、今いる自分自身というデータに基づいている。
だから、どんなに祈っても
自分自身という範囲から抜け出せない狭く窮屈な世界しか作り出せない。
もっと言えば自分本位な欲望にすぎない。

「誓願」は自分という存在を抹消して、無私になり
理想の世界や理想の社会を祈るから、
もの凄い力がある。物凄い価値を生む。

ブッダもそういうことは言っている。
ブッダ自身も「祈りなど何の役にも立たない」と言っているからね。
大事なのは誓願だと言っているくらいだからね。



・全ての妄想を捨て去ること。
これもなかなか難しい。
でも簡単ともいえる。
要は、何も考えずに生きるようにすればいいのだ。

大体、心の病気の人ってのは、
会話などをしていて、他人が今何を考えているのかとか、
何が言いたいのかを想像する。
私もそうだった。

しかし、他人の考えていることなど、
わかりはしないのだ。
そのまま言葉面や表情で感じるものだけを受け取ればいいのだ。
その裏にあるものを探ろうとして妄想するから苦しくなるのだ。

先入観にも同じような害毒がある。
相手のことを決めつけていれば、
額面通りの思いやりにさえ、気づけなくなる。

だから、他人の心を読んだり想像せず、
徹底的に先入観を捨て、
今のその人との会話を楽しめばいいのだ。
今している会話に、
過去や未来や妄想や先入観を持ち込むから苦しむのだ。
自分が作り出したイメージが他人を歪曲させ
自分自身が苦しむ訳です。

「衆生所遊楽」とはそういう意味だ。
信心してれば何でも楽しくなるのではない。
今だけを生きられる自分になれるという事だ。

まぁ心の病の人にはこういう執着の強い思考の人が多い。
私もそうだったし、今でもそういう傾向はある。



・全ては変化する。だから執着するな。
これも簡単そうで、難しい。
1週間前に親友と大喧嘩したとしよう。
その時の記憶は、1週間たてば、
当時とは変化してしまっている。
なのに人はいつまでもその怒りが「当時と変わらない」と
勝手に妄想しているのだ。

全てはそういった具合に
1秒後にはその意味すら変わっていっているのに
「変わらない怒り」として受け止めているから
苦しむ訳である。


1秒前の過去は、その1秒後には2秒前の過去になる。
1秒後の過去と、2秒後の過去が同じであるわけはない。
人間は万物の天上である霊長類とかいいながら、
そんな単純な科学法則すら気づかないで生きている。
愚かなものである。

つまり、すべては変化するのである。
諸行無常なのだ。

良く変わることもあるし、悪く変わることもある。
しかし、その変化を納得し、認めるて受け入れていくことが
病気を治す最善策なのだ。

何も変わらない、全然良くならない。
そう思っているのは「ただの思考」だ。
現実は変化しているのだ。

たとえ悪くなる時期があろうが、
それは生きている証拠であり、変化している現実を
きちんと認識している立派な自分がそこにはいるのだ。

何も変わらないと思いこんだ「硬直した自分」がいるより、
ここのところは悪くなっていると「知っている自分」のほうが遥かに立派なのだ。
だから、悪くなったとしても自分を認めてあげるのだ。
自分を責めるべきではないのだ。

あきらめずに進み続ければ
良く変わる日もあるのだ。
だから、生きていることは
それ自体が希望なのだ。


つまり、
心の病気など

・一点集中して、今を生きること。
・全ての妄想や先入観を捨てること。
・全ては変化することだと納得し、支配したり支配されたりしないこと。

を実行できる自分を作り上げれば
すぐに治るのだ。


・本因妙
・誓願
・諸行無常

大事なのはこれら3点だ。


しかし、生命は本有常住である。
諸行無常とは正反対である。
ここを理解するのは凄く大変だ。

だから、その話は今日はしない。




私も自分自身を拝み倒して、そうなるように生きて行きたい。



この2曲を詩を聴き比べれば
「祈り」という自分の欲望や妄想と
「誓願」という生き方の違いはよくわかると思う。

昔は長淵の祈りが大好きだったけど、
今聞くと、なんとも救いようのない歌だと感じる。
まぁ、この歌詞は彼女が死んじゃったという実話にもとづくものだから
それなりのもの悲しさという深みはあるんだけどね。

ipsilon at 22:41コメント(2)トラックバック(0) 
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