2013年09月

2013年09月30日

アランの『幸福論』というのは、とても優良な一冊だ。
93点のエッセイが纏められた本であり、私はまだ三分の一程度しか読んではいないが、これは読んでおいたほうが良い、座右の書であろうと判断できた。
とくに、私のような心の病をもつ人種ならば、と付け加えておきたい。

前半では、「恐怖は妄想、幻想である」ということについて書かれているものが多い。
あへて臆病にては叶うべからず
つまりはそういうことを、アランは坦々と書いている。

ようするに、何がその恐怖を呼び出しているか、それがわからないから、人間は恐怖するのだ。
でもさ、その恐怖には必ず原因がある。
しかし人間は愚かであって、その原因を究明することなく、ただ恐怖するということ。
じゃ、どうすればいいの?

アランの『幸福論』には、はじめの手記にこんな内容がある。
赤ちゃんがおむつを留めているピンが気になって泣く。
しかし、親にはそれがわからない。
なんで泣いてるんだ? なんでだ? どうしてだ? 
――つまり、これが恐怖というものであり、原因も究明しないで恐ろしがる愚かな人間の姿だ。

アランはそこでこう言っている。
「産着のピンのつけ方を直せばいい」――と。

まあその通りですよ。

でもですよ、これは二重の構造になっているので注意がいります。
なぜかなら、全ては関係性(縁起)によって起っているということを意識する必要があるからです。
つまり――
赤ん坊と産着のピンは依報であり、幻想に恐怖しているのは、正報である親たちの心にあるということだ。
私の場合だとね、幼少期に家庭内暴力のある環境で育ってきた。だからいまだに音に敏感で、大きな音がすると恐怖を感じるわけですよ。
でも音は依報なんですね。音の発生をおさえる防音とかすれば、少しは改善させられますが、私の心にある恐怖する原因を取り除かない限り、いつまでも根拠のない恐怖に苛まれるわけです。
――ああ、これはただの音です。あるがままの音です。細かく言うと、隣人が部屋でズッコケタ音です。
まあ、こんな具合に、依報にある原因を分析しながら、自分の心にある、物事を「ありのまま」に受取れていない部分を探し出すわけです。
でもってそのボタンを押せば、恐怖などとたんに消えるってな寸法です。

しかし、孤独に一人でいて、想像や空想や思考をしていて、恐怖から抜け出すことは非常に困難なことなのだ。
つまり依報にある何かの縁に恐怖しているわけではなく、思考の中に自ら恐怖を作りだしてそれに怯えるからですね。
こんなところから、人と関わっていった方が、自分を知れるという点が見えてくるということ。
会話してればさ、「あー、恐怖の原因はこれか!」っとなんとなく気づけるってことですし、自己幻想でありもしない恐怖を増殖させることもないからですね。
無論、認知療法と呼ばれるような方法も有効である。
言ってみれば、私のように、文章を書くことで、自分の心が何をどう感じて、何をどう考えているかを、自己分析するということですね。
最近いろいろ外野さんが言ってますが、私がブログをやっている理由はそれだけなんですよ。
そうした自分と向き合う場所がここであるだけであって、その記事が同時に誰彼への励ましになれば幸いである。
それしか考えてないんですね。
つまり、自利=利他であればいいなぁ。そういうことですわ。

でも最終的に人間は一人であり、祈りを叶えたいなら、恐怖の根本原因を排除する必要があるのだ。
さあどうする? どうしますか?

題目あげて、思索して、ひとつひとつ原因が自分の心のどこにあるか、それを見つけ出せばいいんです。
というか、見つけ出せなくても、どんどん唱題を重ねていけば自然に恐怖しなくなるんですよ。
それが(一念三千)3000個のボタンを押すということ。
見つけ出そうとすることは、これかな? と思索して探す行為にあたる。
そして、とにかく愚直に唱題する行為は、とにかく順番に、手当たりしだいボタンを押していく。そういうことになるだろう。
どちらを選ぶかはその人しだいだろう。
私は前者派だ。自覚しておけば、以後、同じような恐怖を感じたときに対処しやすいというのが、その理由だ。
けど、どちらを選ぶかはその人しだいですよ。

言い方を変えれば、前者は質の高い唱題であり、
後者はとにかく量の唱題に挑むというこにあたるのではないだろうか。

どちらにしても、恐怖は幻想である。それは真実だ。
アランは、怒りは興奮の先にある、そうも言っている。
意味わかりますか? わかんないですよね。私もはじめは良くわかりませんでしたよ。

ようはです、原因を究明せずに、そのことを「考える」ことによって、興奮が怒りになるということです。
恐怖も同じです。原因を究明せずにそのことを「考える」から、恐怖という幻想に捕らわれるわけですよ。
頭イイネ、アランさん(`・ω・´)b

けどさ、人間はどうしたって理性的であり、考える生きものですから、どうしたって考えちゃうわけです。
ましてや、私のようなAC体質は特にそうです。
行動を起こす前にあらゆる状況を想定して、行動を起こす(自己防衛思考)をするからです。
幼少期からそういう習慣というよりも、傾向性、性格を作ってきたのだから、仕方ないんですけどね。

けどね、これは別に悪いことでも何でもないんですよ。
なぜかなら、事前に難点を考察しておくのと、行動しながら突然に出会う難点を乗り越えて行くことは、同じである。
そういうことだからです。
妙法の元において全ては平等というのが、こう言う点からも感じられるわけですよ。
もっとも、考えないと、こういう考察ひとつ得ることはできませんけどね。

でも、考える行為は、沢山の妄想(つまり恐怖)を生みだすので、まあ考え慣れない人は、あんま考えない方がいいですよ。
「案ずるより生むが易し」でしょうね。
物事は常に二元的です。こんなところからも、それがわかります。

ともあれ、恐怖なんて幻想です。妄想です。
ゆえに――あへて臆病にては叶うべからず
なのですよ。

恐いなら、原因を探し出して、排除すればいいだけの話です。

アランはそれをこう言っている。
幼い子どもが泣きわめいていくらなだめてもいっこうらちがあかないとき、乳母はよく、その子の性質や好き嫌いについてまことに気のきいた推測をするものだ。遺伝まで引っぱり出して、もう父親そっくりだなどという。そんな心理学的な試みをつづけているうちにいるうちに、ついに乳母はピンを発見したりする。ピンがすべてのほんとうの原因だったのだ。

ま、そういうことですよ。
怒りも同じですよ。喜びも同じですよ。
興奮の先には怒りと喜びが一如として存在するのでしょうねぇ。
やみくもに原因も究明せずに憤るのが怒り。原因を知って歓喜するのが喜びなんでしょうね。

当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり

すなわち、怒るのは愚か者なんですわ。
原因がわかれば、それは喜びになるんですからね。
まあ、私もこの人生、随分長いこと愚か者だったわけです(´・ω・`)
けどね、いつまでもそんな幻想に紛動されていませんよ。

瞋恚というのは、自尊心に基づく怒りです。
つまり、自分を尊ぶ心です。
素直に自分を尊べば、これは喜びになるんですよ。
けどね、ねじ曲がって、自尊心を傷つけられたと感じると、憤りになり、怒りになるんですよ。
修羅っていうのはさ、そういう風に、諂曲(ねじまげる)生命でしょ。
こうやって考えるとわかりやすいんだな。

あーでもない、こーでもない、そう言われても、
うんうん、そうだね、でも俺は俺、私は私、そうやって自分を尊べば、喜びになる。
あーでもない、こーでもない、そう言われて、
てめーこのやろう、俺の誇りを傷つけやがったなと、いつまでも怒ってる人は、修羅の生命に捻じ曲げられて、瞋恚を喜びに変えられない人。ちっぽけな人間ですわよ。
まあ、そういうことですね。一生やっているといいよ。
オレ、そんなこともうしないからね。

気づけば早いんだよなぁ、オラ(`・ω・´)

けどねぇ、この瞋恚ねぇ、
私の場合、エンパス体質ゆえに、人より感じやすいんですよねぇ。
言ってしまえば、「情念」という無意識層から突き上げてくる、「情念」というものの原因が何だかわからないうちに怒ってる。まあそういうことなのよね。情念と感情が直結なのよね。
でもこれも仕方ないのよね。
なぜって、脳へと伝わる情報は、まず感情脳に伝わり、それから理性脳に伝わるからです。
なので、理性など、クソの役にも立たないと、ドストエフスキーが言うのも最もなんですよ。
ようは、無意識層から突き上げてくる、「情念の質」をですよ、喜びに繋がる傾向のあるものに変えるしか手はないってことですね。
して、そういうことが出来るのが、唱題行です。
どうせ理性なんてクソなんだからさ、唱題してればいいんですよ。考えるだけ無駄。

私の場合、すぐ怒るその原因はさ、五陰の違いだから、なんでそんなにすぐ怒るかなぁ……と言われようと、仕方ないの(´・ω・`)
と、そう答えるしかないんだけどねぇ。
けどね、私という奴はそういう奴だ、そう認識していれば、ああ、また怒っちゃったのね、少しそっとしとこーって出来る訳ですよ。
これが知恵でしょ。無知の人、愚痴の人はさ、私を見ないで、私の怒ってる文字だとか、そういうもんしか見てないんだわさ。
でもって、それに反応して、怒りに感応する。
怒りの毒を世間にまき散らす、怒りの毒を増殖させる。いと愚か。

境涯の高い人=ああ、また怒っちゃったのね、少しそっとしとこー☆
境涯の低い人=てめぇ、何いってやがんだ! ぜってー許さないからな!
まあ、こうなるってことですわね。

どちらにしても、恐怖や怒りなんてものは、原因さえわかれば、何とでも出来るということですよ。
もちろんその根本的原因は外側にはありませんよ。
言うまでもなく、自分の内側、自分の心にその原因があるわけですよ。
だから、自分の内側を探すか、3000個のボタンを手当たりしだいに押して、怒りストップボタンに命中すれば、一件落着なのだな。

実際、真剣に三千遍なり一万遍の唱題するとですよ、怒りはスッと消えるんだな。
消えないなら、それはそのことにやたら執着しているから、自分で自分の怒りを消そうとしてないだけのお話しですよ。
でもって、怒りの原因を自分の外側に見て執着すると、怒りはなおさら増殖するわけですよ。
御書ではそれをこう説いてくださっている。
そいつは――「無量の苦行」だ、とね。
まあ、外道の方は一生怒っているといいですよ。
そんなことをしていると、自分で自分の身を焼くだけのお話しですがね。
可哀そうですね。

ちなみに、アランという方は、実践教育というものに重点を置いた教育者です。
「実践」してみて、真実に到達した数少ない哲人ですね。
私の記事なんて信用できねー! そう思われるなら、『幸福論』でも、ひもといてみるといいですよ。


ああ、この曲は、Hungry Like The Wolf だね。
怒りは Anger だね。似てるようで全然似てないじゃまいか!(笑)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へにほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ


ipsilon at 23:57コメント(4)トラックバック(0) 
学べや。
俺のやっていることはすべて善だ。
そんな阿呆なことを言っている人は仏教徒でも何でもない。
学べや。


以下、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』より引用。


つまり、ひとつの真理は常に、一面的である場合だけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。崇高なゴーダマが世界について説教したとき、彼はそれを輪廻と涅槃に、迷いと真(まこと)、悩みと解脱とに分けなければならなかった。ほかにしようがないのだ。教えようと欲するものにとっては、ほかに道がないのだ。だが、世界そのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。人間あるいは行為が、全面的に輪廻であるか、全面的に涅槃である、ということは決してない。人間は全面的に神聖であるか、全面的に罪に汚れている、ということは決してない。そう見えているのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない、ゴーヴィンダよ、私はそのことを実にたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、善と悪の間に存在するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いにすぎないのだ。

つまり、俺のやっていることは全て正しいとかいう思考自体が仏法ではない。
おわかり? わかった? 学べや。
いいかい、ヘッセは「人間あるいは行為が」と言ってるぞ。意味わかるか?
行為=振舞いだよ。
それすら善であれなんて言ってねーんだよ。
悪になれとも言ってねーんだよ。
中道実相であれ、そう言ってるんだよ。
絶対に善であれなんて言ってやしねーんだよ。釈尊も大聖人もそう仰せだろうが。

ヘッセはこうも言ってるなぁ。
「われわれの周囲と内部に存在するものは」
これさ、小我である一人の人間と大宇宙のことだろ。
カントの言葉で言えば――
我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない
――そういうことだろ。


娑婆世界には時間がある。
嘘だ。時間なんかない。ようは物体として存在するものに、精神性や心が宿っているから、時間があると妄想を抱くだけの話だ。
全ては動的であるから、いつか死を迎えると勘違いしているだけの話だ。
成住壊空である。

娑婆世界では、肉体を持つという形体でしか、生命が存在しえないだけの話だ。
だから、時間だとか寿命があると勘違いする、妄想を抱く。死を恐れる。
馬鹿くさい。時間なんてねーんだってばさ。学べや。

なんで自殺すんなっていってるかわかる?
生命は尊いから。そんな理屈じゃねーぞ。
自分の生命に対して一番破壊的なカルマ(宿業)を積む行為だからだよ。
しかもこれ「縁」じゃなくて、そういう「因果」を積むことに当たるからだよ。
究極の自己破壊であり、究極の自己嫌悪、自己卑下だからだよ。
ね、因果具時なのよ。別の言い方すれば因果一如。
だから、自殺した瞬間にもうその果を受けてる。
あとは来世に生まれたときとか、あるいは生まれ変われないで、報を受けるって話だろ。


あのね、娑婆世界に肉体を持って顕れた生命は、時間を感じるしかないの。
だから時間を無駄にするなとなるだけの話だ。
そもそも、時間を感じるのは、肉体があるからだろうが。
五感と意識があるからだろうが。そんぐらい分れよ。分別しろって意味だよ。
五感と意識などなくても、生命はそれ自体存在しえるってことだ。それが無始無終であり、生死即涅槃だ。
なんで時間があるんだよ? 考えろよ。ねーとさ、娑婆世界では行動しずらいからだよ。
ここからあそこにいくには10分かかる。そういう現実性がないと、不便だからだろうが、そんなことは方便ですから。
実際には時間なんかねーんだってばよ。
いいか、時間を作りだしてるのは意識だぞ。寝てるとき意識ねーだろうが。でも生きてんだろ。
それが本来の生命だよ。おわかり?

全ては縁起なんだぜ。全ての縁がなくなってみなよ。
因果は現れなくなるだろうが。そのときの生命に届くのは題目という仏縁だけだ。
だから地獄に堕ちて、縁のない世界で、停止した時間の中で無間地獄に堕ちたって、題目が届くから、いずれ救われる。そういうことだろうが。


つまり、善も悪も分けることなど出来ない。
善であるとか悪であることとか、そんなものは存在しない。
おわかり? それが「ありのまま」であり、無作三身でしょ、「はたらかさず」「つくろわず」「ありのまま」だよ。
つまりさ、意識に現れると善であるか、悪であるかに感じるってことだよ。
そんなら、いいやこれは善でも悪でもない、一如だ。そう思えるように意識を自分の理性で変革すればいいという話だろ。それが仏法ですよ。

善も悪も単体じゃ、存在しない、そういうことだよ。
善悪一如だということだよ。

大聖人もそう言ってるじゃん。
「無明即法性」とね。「煩悩即菩提」とね。即とは不二って意味ですよ。一体という意味ですよ。
迷えるを凡夫といい、覚るを仏という。
そう言ってるじゃん。わかれよ。時間は実在しない。すべては縁起によって起っている。
そう確信するのが悟りだろ。
人と会って縁に触れなくてもさ、食い物くってれば、縁してんだろうが。引きこもって本読んでたって、本だって、本に書かれてる文字だって縁だろ。道端に落ちてる石だって、う○こだって縁なんだよ。
だから、全て尊い、娑婆世界にあっては、縁することで生命が顕現してるから、う○こだって尊いんだよ。

娑婆世界で言葉にするってーことはさ、そうやって、本来ひとつのものを、ありのままのものを、分けて表現するしかねーんだよ。けどさ、そんなことしたら「ありのまま」じゃなくなるだろうが。だから、そういうことをすんな。
善だ! イエーイとかさ、悪だ・・・ウエーンとかやってんなって言ってんだよ。ただただ穏やかであれ、一喜一憂すんな。そう言ってるんだろうが。
言葉にしたら、どうしたってそうしなければ表現できねーから、そうしてるだけのことだわさ。

けどね、これは「理」なんだわさ。

大聖人の仏法はその「理」に適った「事」の生き方をしなさい、そう仰せだよ。
だから、事の一念三千というんだろうが。
つまり、「理」に則った行動、振る舞いをしなさい。そう言ってるんだよ。
仏法は道理ですからねぇ。世法じゃねーぞ。世法に生きたら、仏法じゃねーぞ。
おわかり?

29日の寸鉄でも読めよ。
「仏法に忠実である事が世法でも最も強い――恩師。誠実の人に信頼は燦然と輝く」

なのに、俺が言ってることは全て正しいとか言うのは、そもそも、仏法の「ぶ」の字もわかってないんだってばよ。
おわかり? 頭つかえよ。自分の頭で考えろってんだ。そういう実践を哲学っていうんだよ。
自分の頭で考えない奴ばっかの時代だから、哲学なき時代と先生は仰せなんだよ。
ちったー頭使えよ。

な、釈尊の説いたのはさ、「理」なのよ。つまり、心の持ち方を説いてるのが初期仏典だよ。
理論理屈だけ見ればさ、大聖人仏法より簡単な表現をしてるし、わかりやすいんだよ。
だから、理論理屈で話しをすると、初期仏典が正しいように勘違いしやすいんだよ。仏陀最強! とか騙されるんだよ。
正法、像法はさ、それで救われたんだよ。
けど末法は違うぜ。三毒に汚れまくってるからな。
心の持ちようだけじゃ救われない、だから「事」としての菩薩行をしなさい、そういってるわけだ。
それが大聖人仏法でしょ。

釈尊の法華経は正しい。そういう心根を持ち、
大聖人の言うように、現実の娑婆世界の中で、善でも悪でもない自分であれ、そう言ってるんだよ。
寸鉄にある言葉でいえば「誠実」であれだ。
「誠実」ってなんだよ? 自分の思いがブレない。そのブレない思いを伝えていくことでしょ。
でもさ、娑婆世界に存在するものは全て相対的なんだよ。動的なんだよ。どれもこれも、基準たりえないんだよ。
だから「誠実」とは、この南無妙法蓮華経は絶対だ。そう伝える行動しかないんだよ。おわかり?
その他の論争なんて無意味なんだよ。そんぐらいわかれよ。
「誠実」をさ、自分に素直なこととか、おかしな翻訳すんなよ。
誰が見てようが、見ていまいが、俺には南無妙法蓮華経しかねーんだ。
そういう実践・行動をすることを「誠実」と言うんだよ。
それを「末法の折伏」という。先生はそう仰せだぞ。
破折するのが折伏じゃねーんだよ。あくまでも、俺には南無妙法蓮華経しかねーんだという、実践・行動をするのが本筋だからね。勘違いしないほうがいいですよ。
相手じゃねーぞ、自分の問題だからな。ここ、すげー大事。試験に出るよ(笑)

御書で大聖人はこう仰せだ。
「心地を九識に持ち修行をば六識にせよ」ってね。

心地とは、人の振るまいを引き出す、心の部分だよ。
六識にせよは、菩薩行をしろ、人と「誠実」に関わっていけ、そういうことさ。仏縁を送っていくこと、これに尽きる。それ以外は全部枝葉。
否定も肯定もいらない。容認、認証、承認すればいい、別の言い方をすれば、許せばいい、信じればいい、励ませばいい。
そういうことだろ。わかれよ。学べよ。
相手のこと許せないクズ人間になるな。そういうことですよ。

人を否定したり、自分が絶対正しいとかさ、仏法じゃねーからな。わかれよ。
中道実相だよ。おかわり?

だから、人を恐れるな、人との縁を切るなってことでしょ。
何よりも仏縁を送ることが大切だからですよ。縁切ったら、仏縁送れねーじゃんかよ。
だから、人と人の関係を分断する輩を「魔」と呼ぶんだろうが。
誰がそうなってるかなんて一目瞭然だろうが。

いいかい、末法だぞ。ただ祈ってれば相手が幸せになるわけじゃねーぞ。
祈ったうえで関わる。これだ。これが「事の一念三千」だからな。
人から逃げるな、自分から逃げるな、互いに向き合え。そいうことでしょ。
わかれよ。エセ仏法を実践するんじゃないよ。

口は悪ぃよ。色々とあって頭きてるからね。
こちとら水面下じゃ、巨大ハリケーンと戦ってんだよ。もっともそれだって、弱い自分との戦いさ。
別に、誰かを相手に喧嘩なんてしてませんからね。

でもそういう自分の中にある怒りであっても、正しい行動くらい出来るのさ。
瞋恚は善悪に云々だからね。

冷静であっても、相対的に幸せであっても、エセ仏法実践してたら、無意味であり反価値なんだよ。
おわかり?



怒りの師子吼じゃわい! くらえー!(笑)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へにほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ


ipsilon at 15:32コメント(2)トラックバック(0) 













ipsilon at 10:45音楽と動画 










ipsilon at 02:01音楽と動画 

2013年09月29日











ipsilon at 21:38音楽と動画 
プロフィール

イプシロン(シンジ)

カテゴリ別アーカイブ
記事検索
最新コメント
ギャラリー
  • 小自分史(1)
  • Thank you my girl
  • 。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
  • 勝利のアクビ
  • 一瞬の憩い
  • 笑顔は美しい
  • 4つ目の自分
  • 4つ目の自分
  • 3つの自分
  • アリイ 1:48 三菱零式艦上戦闘機52丙型(a6m5c)
  • ハセガワ 1/700 病院船「氷川丸」 竣工
  • フジミ 1/72 空技廠 零式小型水上偵察機(E14Y) 完成
  • ハセガワ 1/700 重巡洋艦「古鷹」 完成
  • スケッチ アミダラ女王
  • 静止した時間
  • 蝶
  • 祈り
  • チャム・ファウ
  • どこかのお家の猫ちゃん
  • 「みちくさ」
  • ザハロワは美しい!
  • デジ絵「星座と少女」(完成)
  • チュチュがじゃまだよ〜
  • アティチュード
  • 瀕死の白鳥
  • デジ絵「夏の風」(完成)
  • デジ絵「風」(完成)
  • デジ絵 ランカ・リー(完成)
  • 栗木さん 応援イラスト
  • イラスト「天使」
  • 水彩画 愛嶋リーナ 完成
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「graduation 」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「アメジストの祈り」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「初雪」
  • 水彩画 愛嶋リーナ
  • デッサン 愛嶋リーナ
  • 水彩画 アリスとネズミ
  • イラスト アリスとドロシー
  • イラスト 眠そうなネフェルタリ
  • スケッチ 微笑の国の人
  • なんでだろうう? と思うこと
  • スケッチ アソーカ・タノ
  • スケッチ ライオン
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG 缶コーヒー"カフェバニラ"
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • スケッチ 騎士の左腕
  • アーソウカ、、だった!
  • スケッチ 懐かしのアイツ
  • ニャンとも言えない気持ち
  • 旧作 ペン画
  • デッサン ドイツ兵 in 1944
  • 水彩イラスト ニホンカモシカ
  • デッサン アフリカゾウ
  • 水彩画「水辺の豹」
  • 習作デッサン「豹」
  • 旧作 Gジャンガール
  • イラスト「蜜虫」
  • 「ネフェルタリと豹」下絵
  • イラスト「ネフェルタリ」
  • 水彩画 「装身具をといたクレオパトラ」
  • デッサン+色鉛筆 眼
  • スケッチ 「装身具をといたクレオパトラ」
  • 習作 ネフェルタリ 下書き
  • デッサン 眼
  • デッサン途中 布の研究
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • デッサン チャイナドレスの子
  • スケッチ クレオパトラ
  • 水彩画 死せるクレオパトラ
  • スケッチ クレオパトラ
  • デッサン 小野田寛郎さん
  • デッサン 猫
  • デッサン Diane Kruger
  • デッサン ベッキー・クルーエル
  • デッサン 中澤裕子
  • ベッキー デッサン
  • 萌えキャラ 線画 修正 その1
  • 萌えキャラ 下塗り
  • デッサン 杉崎美香 8時間目
  • 習作 フォトショップ 萌えキャラ風塗り
  • デッサン 杉崎美香 6時間目
  • 欝
  • 習作 水彩 その1
  • デッサン 杉崎美香 4時間目
  • 習作 小池栄子 その1
  • 習作 杉崎美香 その4
  • 習作 Face
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 杉崎美香 その3
  • 習作 杉崎美香 その2
  • 習作 その4
  • 習作 杉崎美香 その1
  • 習作 その2
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 好き好き大好き
  • 電話中
  • βズガイキング
  • モー様の絵 ハケーン!(笑)
  • Mクン 見っけた!(笑)
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ