2014年04月

2014年04月30日

その日がくるのを待つのか、
待たずに進むのか。

たとえ傷ついたとして、僕は進んでいく。
裁きの下りる日を待つなんて、
まっぴらご免だ!!

遅かれ早かれ、
その日はくるのだから。
ならば、前へ! 前へ進むしかない。





追記:
いや、何もないですよ。
自分らしく自分の言葉で、僕は僕らしく前進する決意を書いたまでです。
心配いりませんYO☆

別に誰かに向けてのメッセージでも何でもありませんから。

誤解したり、疑心暗鬼にならないでくださいNE☆

埋め込んだQUEENの曲「Hummer To Fall」、
意訳すれば「裁きの日」となるかなぁ。
そんな感覚で僕の決意を述べたまでです^^

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2014年04月27日





わたしもまだまだキチンと理解しているわけではないが、
まあ、難しすぎますね。

でも、少しでも理解できると、ものの見方、考え方が変わることは間違いない。
カントを知るということは、これまで自分がいかに間違ったものの見方をしてきたかを知るということ。
それぐらいの衝撃性をもつ哲学でしょうね。

純粋理性というのは、カントの主張によれば、たぶん、無意識の部分なんだろうね。


純粋理性批判


うん、まあ捉え方によっては私の見方も間違いではないが、危ういね(笑)

ようするに、純粋理性批判というのは、
人間がどのように世界を認識しているかというものを考えた内容なのだね。

でもまあ、かつての私もそうだったが、
普通の人ってのは、自分がどう世界を認識しているかなんて考えもしないで認識しているわけで、
無意識の部分のことを詳述しているといっても、あながち間違いではないのだね。

しかしまぁ凄いよね。
確かにこいつは「コペルニクス的転回」ですわ。

物事を批判する以前に、自分(人間の理性)が物事をどう認識しているかを
知らなければ、批判が批判にすらならないということですよね。

多くの普通の人や、かつての私は、
自分がものごとをどう認識しているかすら考えずに、
ものごとを批判していたってことになるね。

そういうことに気づいたから、
私はこのブログで散々カントについて触れてきたんだけどね。

ちゃーんと物事を認識せずして、あれこれ考えたってさ、
それは土台のない場所に空中宮殿を建てようとしているようなものだからですよ。
根無し草。根っこのないまま空中を漂う草みたいなものですからね。

目の前に現れた色々な物事を、場当たり的に対応しているのと一緒なんですよ。
そんな事をしていて、幸せになどなれないのは、自明の理なんですよ。
目の前に現れた色々な物事に怒ってみたり、喜んでみたり、あーしてみたり、こーしてみたり。
そんなもんでしょ。
ま、私も40年間以上そういう生き方をしてきていたんですけどね(苦笑)。


ともあれ、私の場合、カントを学んで辿りついた答えは。
簡単に言えば、以下のふたつ。

1)人間は全て主観でものごとを捉えている。
ゆえに、事実上客観視はできないということ。

例えば、相手はきっとこう思っただろうという想像も、
突きつめれば、自分の主観であるということ。

この1)は本当に理解することも、理解し実践することも難しい。
例えば、私を中心にして起こった一連の騒動。
それの原因は、私の立場にあっては、当然私が原因なんです。
ですが、関わった方それぞれの立場にあっては、
それぞれの方に原因があるのです。

であるのに、全ての原因は私にある、という誤った認識をしている人が
いまだにいることを見るだけでも、その難しさがわかるというものです。

つまりですよ――
私以外の立場で騒動に関わった人というのは、
私という縁に触れて、ご自分の中の因果が表出したのだということを、
いまだに認識されていないのですな。

いまさら言いたくもないが、
全ての騒動の原因が、ひとえに私にあるという認識は、改めるべきですよ。
私はただ縁になっただけですからね。
そりゃね、全てを私の責任にしてしまえば、私を悪人にしてしまえば、楽なのはわかりますが、
それは卑怯というものですよ。

2)二律背反。
もう説明しませんよ。


でもこれってさ、今回勉強しなおしてみて、思ったんですよねー。
なるほど、カントのいうことは正しい。
なぜ牧口先生が、「認識せずして、評価するな」と口癖のように言っていたかも、
すごく納得できますね。

牧口先生の考えは恐らく(これは私の想像でしかないですがね)
自分(人間)の認識能力の限界を知り、その上で、相手が何を伝えようとしているのか、
何を言わんとしているのかを認識せよ、という高い次元だったのでしょうね。

自分の認識能力をまるで省みず、
相手が何を伝えようとしているのか耳を澄ますような、
一方的かつ、自分がまったく存在しないような認識をするな、という意味でもあったのでしょうね。
そういう認識は認識ですらなく、いわゆる喧嘩の原因になる感情論や、
感情面での受容にしかならないということを、よくよく認識されていたのでしょうね。


つーか人間の認識能力というものに、カントの言う通り限界があるのなら、
例えば、我々人類より遥かに高い認識能力のある宇宙人がいたらさ、
宇宙にはじまりがあるかどうかなんて、「キミ、ソレハ、ジョウシキダヨ! みたいなこともありえるわけですよね。
まあそんなことはないと思いますけどね。
人間は人間が考えている以上に、この宇宙では優れた知的生物だと思いますからね。
であるからこそ、人間らしく生きたい。
私はそんな風に思うわけだが、
言うは易く、行うは・・・なんですわ(笑)


この宇宙は十二次元で出来ている。
だが我々人類が認識できるのは、四次元までである。
そんな風にも言われてますが、
そう考えると、自分の認識能力がどんなものかを知って、
その上で理性を働かせるということは、非常に重要だということがわかってくる。

12分の4。つまり、人間の理性の認識力なんてものは、
トータルの内の3分の1、30%なんです。
でもこれは計算上です。
ただボーッとしててなにも認識していない時間なんかがあることを考えると、
恐らく人間が理性で認識できるものは、10%にも満たないでしょうね。
さらにここに、傾向性に流されやすい点を鑑みれば、恐らく5%程度に低下するでしょうね。
これ、化学が宇宙について解き明かした数字と同じ程度ですわ。

そんな頼りない5%にも満たないかもしれない理性でもって、
俺が正しい、あれが正しい、いいやあたしが正しいんだ!
とか言い合って争ってるのってさ、馬鹿らしくないですか?


A点からB点までの距離を測る。
そのさい、センチをつかうのか、インチを使うのかを決めずに計測しても、
なんら理性的な価値は生み出せないだろう。

つまり、自らの認識能力を知るということは、それぐらい重要なことなのだ。

でもさ、蔑ろにしてるよね。
カントといっても、随分昔の人なんだけど、
今この瞬間を生きる現代人でさえ、
カントが提唱した「認識」という1点に関しても、
まじめに考えてる人って少ないと思うんだよね。

そしてそのことで、人間は実に不幸になっているわけでよ。
つまりね――
自分がどう物事を認識しているかも知らずに、
これまでの生体験や常識、一般論や知識をもとに、
ものごとを批判し、判断し生きているというのが現実なわけですよ。

ようするに――
自分の認識能力をまるで省みず、
相手が何を伝えようとしているのか耳を澄ますような、
一方的かつ、自分がまったく存在しないような認識をしている人がほとんだと言うことであり、
つまり――
これこそが外道であると伝えてきたんだけどねぇ。
言ってみればこれは言葉のあやであり、
便宜上、そういう使い方をしてきただけのことなんですよ。

カントがなにがしかを定義するために、言葉の意味を定義しなおしたのと同じなんです。
でもさ、そういう認識で書いたものですよと、
読む側が認識してくれないと、当然、私が無茶苦茶なことを言っていると思われるわけですわ。

そんなわけで、
仏法でいう内道、外道ってのはそういう意味じゃないぞ。
お前は己義を語っている! とか言われちゃったわけです。
それが事実でしょ。
つまりは認識のずれなんですよ。

じゃあさ、これこれはこういう事で定義しなおしますよーとかって具合に、
カントのように哲学書を書くように記事を書けば良かったわけですか?
まあ、それもありでしょう。
でもさ、ただでさえ堅苦しい記事を書いているのに、
そんな定義を書いて、学術書みたいに書かれた記事を誰が読みたがるんですか?


まあ、どちらにしろ、
私の伝えたかった、外道とか内道とかって概念は、まったく伝わらないし、伝わってもね、
自分の認識能力を省みて常に物事を見る習慣をつけることっていうのは
非常に難しいんですよ。
それまで行ってきた、生体験や常識、一般論や知識をもとに物事を判断する傾向性に
引き戻されてしまうんですわ。

私は毎日、毎日、そうならないように戦ってきたんですけどね。

ようするに、『一生成仏抄』をさ、
ものすごーく私なりに解説すると、上記した内容であるということなんですよ。

自分の認識能力を省みて常に物事を見る習慣をつけていけば、
一生成仏間違いなし! そういうことなんですね。
けれども、いま私が言っているのは、意識できる理性の部分のお話しですよ。

人間には無意識な部分もあり、直感という部分もあるわけです。
そう、そこは唱題でもって洗い清め、きちんと無意識にものごとを
ありのままに認識できるようにしていかないといけないということ。

誰に何を言われようと、
こういう確信はね、
よほど相当のことがない限り揺るがないのですよ。
それが今の私。

方法論? そんなものにしがみついて生きる気など、これっぽちもないんですよ。

まいいのです。
学びたい人は学べばいいのだし、
どうでもいいと思う人はどうでも良く生きてくだされば。


私は自分が知ったことを、
自分がボロボロになるまで伝えよう、伝えようと努力してきたんです。
現時点では限界を超えたんです。

自分のことをやりますよ。
お節介は、ひとまず、ここまでです。


しょせんお前さんは頭で考えて言ってるだけだろ、ようするに理屈、屁理屈だろ。
そう仰るかたもいるかもしれない。
でも違うんだなぁ。

信心していて行き詰り、
それでも必死に唱題していたときに聞こえた声。
「今は哲学を学びなさい」
私はそれに従ったまでのことですよ。

そして、一生涯、内道を貫くこと、
カントの言葉を使って言えば、
自分の認識能力を知ったうえで、ものごとを見て行かなければ、幸福になどなれない、
という現実を知ったんですからね。

でもって、ともすると、すぐに長い間の習慣でできあがった、
自分の認識能力を無視して物事を見ようとする、自分の傾向性と
毎日毎日、戦ってきたんですよ。

ここに書いてきたきたことは、理屈でも、屁理屈でも、
ただの頭でっかちの理論でも、卓上の空論でも何でもないんですわ。
こちとら真剣に生きた生き様を書いてきてたんですわ。

それに難癖つけられて、否定されて怒らない人がいるんですか?
まあ、今はもうその怒りも全て消えてなくなりましたがね。

なんで怒りが納まったか?
簡単なことです。
私に難癖をつけたり否定してきた人達というのは、
自分の認識能力がどういうものかという点を、恐らく意識したことのない人なだけなんです。
わかってみれば、単純明快なことなんです。

今ははっきりそれが見えます。

そもそも、認識の方法が違うのに、
対話しても平行線を辿るのは、当たり前なんですねー。
それだけのことに気づくのに、随分苦労はしましたけどね。


さーて、ここからが大問題な部分ですよ。
私が気づき知り、語ってきたことには、当然、勘違いもあれば、間違いもあるはずなんですよ。
けどね、こういう記事にそういうことを論理的に反駁してくれたコメントってのはほとんど皆無なんですよ。

それがいかに私自身にとって危険なことかは、
実は私自身が一番強く意識してきたことなんですよ。
こんな状態が続くと、私はいつか慢心するんだろからね。

けれども、いないんですよ。
こうした私の記事に反駁を加えて、認識を改めていける縁はね。
まあ、全ては主観的であり、人間の理性は二律背反であると知った瞬間から、
答えというか、正しいものごとの刷新は自分の中で行っていくしかない、
ということには気づいていましたから。
他者からの反駁など必要ないとも言えるのですがね。

自分の頭で、考え続ければいいだけのことでもあるってことですね。

ipsilon at 21:13コメント(9)トラックバック(0) 
中途半端は良くない。
正直、いまの私の状態で、それなりの思索をして、
人にわかりやすく伝わる文章を書くと、
もうそれだけで生命力を使ってしまい、自分のことなど出来なくなる。
でも、最後まで書きますよ。


道徳法則を守るのは、それを尊敬するから

カントが最高善に達するために導き出した答えは上記のもの。
でもこれは解説にもあるように――

このカントの言い方にはあまり説得力がない。カントは道徳法則に対する尊敬は普遍的なことだと考えているが、それはマジメな人にしか当てはまらない。納得できる人もいれば、そうでない人もいる。結局のところカントは「耳をすませば尊敬の念が浮かんでくるに違いない」と言っていることになるが、それはかなりの強弁だ。

といえることも確かなのだ。
特に、「マジメな人にしか」という一節は、思わず笑ってしまう。

しかし、本当にそうなのだろか?
私はカントの弁が正しいと思っている。
ようは感受性の問題といえると思うのだ。

例えば、荘厳な風景の大自然を見たとき、
人間は何を感じるだろうか?
スゲー! なんじゃこれは! なんでこんな風になるんじゃ!

例えば、見知らぬ野良猫が怪我をした猫の介抱をする場面にであった。
そのとき感じるものを考えてみて欲しい。

あなたの心に「尊敬」というものが湧き上がらなかったですか?
普通に感受性のある人なら、そうなるはずだ。

アフリカの大平原に立てば、人はその大自然に「畏怖」の気持を抱くものなのです。


けれども、そうならない人もいる。
なぜか?
素直にものごとを見ようとしていないからであろう。
信じることより疑うことを優先するように、生きているからだろう。
なぜそうなった?

おそらく、どこかで、尊敬できるものに出会っても、「畏怖」する心が湧かないような刷り込みを受けてきたからだ。
これの典型的なものが、習慣であったり、風習であったり、一般常識であったり、
その地方独特の自治ルールであったり、
誤った道徳教育であったりするのだ。
時には、幼少期の虐待とか、生育環境もそういう感受性に影響を与えていることだろう。

つまり、突きつめて言えば――
教育を間違えてしまうと、感動や尊敬の出来ない人間を育てることになるのだ。

人間が人間を見て、尊敬の念が抱けない。
その原因は間違った教育や、間違った刷り込みを受けてきているからなのだ。
もちろん、過去生の宿業があって、尊敬の念が抱けない傾向性もその重大要因ですがね。
カントは、その辺もちゃんと「傾向性」という言葉を使って、表現しているあたりがね、凄いんですよ。



徳福(不)一致のアポリア

これを簡単に言ってみると、こうなる。
生活環境的に幸福であり、かつ精神状態的に幸福でなければ、真に幸福とは言えない、ということ。
そう、学会用語的に言えば、絶対的幸福のことを言っているんですね。
もっと平たく言えば、物心両面での幸福といえるだろう。

カントはその実現は不可能だと言っている。
カント流にいえば、定言命法を守り、実践理性批判していく中で見つけ出す道徳。
それを守っていくことが幸福なのだが、
社会を形作る人間には、必ずその社会で生きるために社会性が必要になってくるのだ。

そして定言命令から引き出される道徳と、この社会性は矛盾するものであることが多いから、絶対的幸福の実現は不可能だということ。

例えば、言論出版妨害問題、例えば、日顕宗をけっちょんけっちょんに非難しまくったこと。
これらは、道徳からすれば間違ったことではない、間違いなく正しいことなのです。

真面目に純粋に信心を頑張っている婦人部たちが、
デマやねつ造で悪しざまに書かれることは許せない、守ってあげたい。
それが先生の思いだったはずだ。

邪悪とは徹して戦う、二度と立ち上がれないくらい、徹底的に、芽も出なくなるくらい徹底的にやらなければいけない。これも決して間違いではないのだ。

でもこれを、社会性の中でやってしまうと、ペケを頂くことになるのだ。

言論問題を振り返り、先生はこう仰ったらしい。
あの当時の学会はまだ若くて未成熟だった、と。
若くて熱くなりすぎたために、社会に迷惑をかけることになってしまった、と。

大切なのはそこでしょ。
いつでも進化過程、死ぬまで人間革命の過程にある。
そういう謙虚さじゃーないのですか?

正しいことをそれなりに言っていれば、死んでからちゃーんと評価してくれますよ。
人間なんて死ぬまで一生、完璧じゃーないんですからね。
完璧を目指してはいるだろうけどね。

え? 生きてるうちに評価されたい。
まあ強欲だこと(笑)
そういう欲からこそ、エゴやら慢心が生み出されるのですよ。
誰が見てなくてもご本尊が見てればそれでいいじゃないですか。



とまれ――
こうしたことから、カントは、
社会の中で絶対的幸福を得ることはできないから、精神世界での悟り(つまり心の幸福)を、
人間は目指すべきであると考えた。


ここからは、カントの真骨頂ですよ。
二律背反。
人間の理性はどこまでいっても、肯定に肯定を重ね、物事を高い位置へと考えていける。
にわとりが先か、卵が先か。
二律背反。

ゆえにカントは考えたんです。
であれば、精神世界=心には永遠性がなくてはいけない、と。

すんげー発想力というか思索力だよね。

であるとなると、定言命法から導き出される道徳の最高善も、
つねに進化し続け、どんどん刷新されていかねばならない、とそう考えたわけです。

「無上道」、限りなき道、仏法でも同じこと言ってますよね。



このようにして、カントは
最終的には、最高善を目指すためには、永遠普遍性をもち、かつ常に最高善を目指す原理原則の指標として、
神とか宗教の存在が不可欠なことに思い至ったのですよ。

苫米地氏なんかが、神や宗教なんてのはね、人間が作り出したんだよ。
と言っていたが、それはあながち間違いではないのですよ。
世界の宗教を見ていくと、そういうことも感じられますよ。

例えば三女神。
どの宗教にもこういうものがあってですね、
それは大体、誕生、死、再生をつかさどるとかなってるんですよ。

仏法でいえば、成住壊空。
誕生、生命体としての状態、死、宇宙に溶け込んでいる状態とね。

おいこら、人間が考え出したものなんて信じられるかよ!?
そういうんでしょ。
ところがどっこい、人間が自然を観察していけば、宇宙の法則ってのは、感じ取ることが出来るんですよ。
そいうものを感じて知れる人を賢人といい、感じて知ったもので人を宇宙の法則に導く人を聖人というのですね。

まあ最後は、信じられるかどうかですけどね。


ではキリスト教と仏法の違いは何なのだろうか?

多分ね、キリスト教というのは、人間の理想像を掲げた宗教。
仏教は、ありとあらゆる生命の理想像を掲げた宗教。
そういうことではないかな。

歴史を見れば、それははっきり見えますよ。
人間のことしか考えずに突っ走り、自然を破壊してきた歴史とかね。

環境と自分は一体不二である。
仏教はそう説いています。
であれば、環境破壊=自己破壊であるということですからね。
無論これは、正しく仏教を実践した場合のお話しです。
何事も誤解することで、歪曲することで大変なことになるのでしょう。



そして――
私が一番大切だと思うのは――
そう、このカントの「真善美」を思索し、
「利善美」にした牧口先生は凄いということなのですよ。

カントは絶対的幸福には到達できない。
そう言ったんですよ。
けど牧口先生はなれると書き換えたんですね。

真実(ここではカントの掲げた理想)だけしっても、幸福にはなれない。
けれども、ある方法を実践すれば、利すれば益すれば、絶対的幸福にはなれるよ、とね。

カントの掲げた精神世界での悟り、
つまりこれはさ、心の平穏であり安寧でしょ。
仏法では心と身体は一体不二って説いてますよね。

つまり、心を清らかにしていけば、必ず身も清められるということですよ。
六根清浄。そういうことですよ。
心こそ大切なれ、そういうことじゃないんですか。

色心不二なのですからね、我らの生命は。



カントの墓碑にはこう刻まれている。

「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」

つまりこれはさ、大宇宙をつかさどる法則とさ、私たち一人一人の心の中にある法則は、
まったく同じである。
そのことに気づくと、人間は人間を尊敬し、畏怖する念を持つものだ。

つまり、妙法の実践者の気持ちをさ、カントはカントの言葉で言っているんですよ。
仏法こそが、最高善を目ざせる宗教だ。
言葉にはできなかったけれど、カントはそれに気づいていたんだと、私は思いますよ。


ここまで読んでみて、
はてさて、この仏法を伝えていくために、論争が必要かどうか、
今一度考えてみて欲しいのですね。

必要なのは、自分と向き合うこと。
他者と向き合うこと。
自然と向き合うこと、じゃーないんですかね。

そこに争いは必要ないし、介在する意味も存在しない。
それがこの半年間で私が学んだことです。
随分と周囲に迷惑をかけましたがね。

ごめんなさい、ありがとうございます。


そうそう、カントが最後に抱いたもの――
それは、(道徳)教育をこそ、しっかりやっていくべきだ、なんですね。

これ、先生の目指しているものと全く同じなんですよ。
論争なんていらない、必要なのは教育。
おしつけがましい教育や勉強というのが嫌なら、
互いに自律的に学び合っていけばいいのではないですか?

そういうことを学ぶためにあるのではないのかな、
創価学会とは。
学ぶためにある会。
そう文字にもあるように思うのだが。

ipsilon at 15:03コメント(0)トラックバック(0) 
まあほとんどの人が、カントの考えたことなど理解できないのでしょうが。
参考までに。

カント『実践理性批判』を解読する。

そもそも、ここに書かれている内容は、完全ではない。
解読にもなっていないと思う。
しかし、なにがしかの参考にはなるだろうから、リンクさせて頂いた。


リンク先のものは、最後はキリスト教にいきついていると解説しているが、
それは当然間違いだ。
カントはキリスト教を後の書で完全に否定しているからね。
宗教の必要性を伝えるために、キリスト教を例題としただけのことなのです。

ともあれ、文中にある「定言命法」という方法は、実際には不可能なことです。
文章をよく読めば、それはわかる。
あくまでも「形式」であると述べていますからね。

つまり、実際には出来ない方法で理性的批判をしろとカントは、かなり無茶なことを言っているわけですよ。

人間に限らず、あらゆる生命体は、
まず生の体験が先にある。
そうしたものがあってはじめて、理性的批判ができるのです。
であるから、その生きている体験なくして、理性的批判など出来ようはずがないということです。

はじめに経験ありき、その経験をもって自己批判するしかないのが現実だということです。
だから、定言命法は「形式」でしかないと言っているのです。

ともあれ――
たとえば、電車のイスに座っているときに、目の前にお年寄りがやって来て、「疲れていてかわいそう、イスを譲ってあげたい」と思ってイスを譲ることは、カントからすれば道徳的ではない。それはイスを譲ってあげることで満足を得たいという気持ちに流された行為であり、エゴイズムの現われにすぎないことになるからだ。

こういう物の見方こそが、正しいものの見方なんですよ。

これをエゴイズムにしないためには、
その年寄りに――
「立っていると疲れませんか? 良かったら席を譲りましょうか?」と聞くことなんですよ。

つまり、言葉にすることこそが大切なのですな。
相手の気持ちを聞くことが、エゴイズムを打ち破る第一歩なのですよ。

聞信戒定進捨懺。
ほれ見なさい。
まず「聞く」それが一番前に来ているではないか。

また太宰を出しちゃうけど、
如是我聞。
かくのごとく、我聞けり。
これさ、当然仏語であり、経典の冒頭にまず出てくるんですよ。
まず「聞く」。それがものごとの始まりなんですよ。

提示された問題に、常識や戒律を持ち込むのはずっと後ですぞ。
聞き、信じ、そのうえで、戒律や法則にのっとってどう行動すべきかを判断するものである。
そう仏法では説かれている。
先に、これはこうであるべきだ、そう意見を述べ、論争することに意味がないことは、
こういう部分からも理解できるんだな。


もちろん、さきの年寄りの話にある、直感ともいえる「疲れていないかな? 席を譲ったほうがいいかな?」というもの、
つまりカントの言う、純粋理性の現れも大切であるのだが、それを正しい形で実行するためには、
どうしても言葉にして相手に聞く必要(実践理性批判の必要性)があるということです。

だから、純粋理性それ自体や定言命法は形式的であると結論しているわけですよ。
んま、世の中には、純粋理性さえ顧みず、目の前に年寄りが立っていても、
何も感じない人もいますでしょうけどね。
でも、そういう人もいていいんですなぁ。
ただ単に、そういう純粋理性の持ち主なだけですからね。

そういうことを認め、ああ、そういう感覚もあるのかと、
共感していくことにこそ、意味があるのです。

年寄りが目の前に立っているのに、席を譲らないことは悪ではないのですな。
むしろそのことを、エゴイズム的に捉え、
「なんであいつは席を譲らないのだ!」と不満を持つことこそが、エゴイズムなんですよ。

そもそも、人間の心の中なんてものは、
いつもこういうエゴイズムに満たされているんですよ。

それが嫌なら、相手が何を感じているのかを知るために、言葉を使って友好的なコミュニケーションを取るしかないのですよ。
そして、相手の感じているものを理解し、共感し、認めることによって、
はじめて正しい行いが出来るのです。

さて、論争にそういう過程が含まれているのかどうか、
考えてみるといいのではないかな。

論争というものは、
そもそもまず先に、「これはこうあるべき(一種これは形式的な定言命法であるともいえる)」という、
非常に主観的なエゴイズムの提示からはじまるものじゃないの?
そんなもののどこに意味がある!

目を覚ましましょうよ。
ともかく、この「定言命法」をきちんと理解すること自体、非常に高度な思考が必要だから、
勘違いすると大変なことになるんですがね・・・。


ともあれ、いろいろ話しあって、話を聞いて、
どうも理解できない、共感できない、
そう感じたなら、それ以上深入りしなければいいだけのことでしょ。
そうすれば自分をも他人をも、傷つけないですむじゃないですか。

私みたいにね、深入りすると、ズタボロになるだけですよ。
世の中にはさ、どうしても共感できないような人もいるもんですよ。
相性といってしまえばそれまでなんでしょうけどね。

そこで無理すれば自他共に不幸になるだけですよ。

まあ、興味のある方は、リンク先をお読みください。


自由とは――
ここでいう自由は、現実に存在するのではなく、道徳法則を実現するために必要な条件として「要請」されるものだ。この「要請」はカントに独自の概念だ。もし理性の自由がなければ、そもそも私の意志が道徳法則を目指すことはできないはずだ。現実には存在しないけれど、道徳法則を意志するために自由が存在するのでなければならない。なんだかヘンテコな言い方だが、とにかくカントはそのように考える。

つまりそういうことなんですよ。
永遠不変の法則を探すために、自由自在に理性をつかってよい。
それが一応、自由の定義です。しかしその理性は、生きた体験が先にあることではじめて働かせられるのです。
であるから、現実には存在しない自由だということです。
(つまり、そうした自由とは、個人個人の生の体験に常に左右されているから、万般の生命体に通用する自由ではないということ)
そのようにして、不完全な理性の自由を使って辿りつくべきなのが、永遠不変の法則に則る自由なわけです。

つまり――
唱題し、広宣流布のために行動しているときだけが本当に自由になっているということですよ。
もちろん、その自由を見つけるために、自由に考える(思索する)自由も存在するが、
それは、いわゆる魂の自由でも何でもないのですよ。

下手をすれば、矮小なエゴイズムに則った自由は、自由などではなく、
放縦になるのですよ。
勘違いしてはいけませんぞ。
謙虚であるべきですぞ。

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2014年04月26日

批判(論争)をする前に、批判とはなにかを考えてみることも価値のないことではないだろう。

批判とは

上にあげたリンク先にある記事はなかなか良い記事だと思う。


感銘深いのは、褒めることも批判だという捉え方。
褒められて怒る人もいる。
まあ、そういう場合もあるから、当然といえば当然といえるのだろう。

で、結局結論はどうなっているかというと――

それ(批判する)よりも、相手の良い所を見つけ、互いに理解できる部分を探し、肯定的な言葉で相手を認める、といった「共感」を積極的に行っていった方が、いきなり「,糧稟宗廚鮃圓Δ茲蠅癲△困辰罰擇冒蠎蠅悗硫善を促せるようになります。

――となっているわけだ。


ともあれ、悪しざまに言うであれ、褒めるであれ、それは批判であるとすると、
批判それ自体に存在意義がないことがわかる。

ではいったい何のために批判をすべきなのか。
そこでリンク先の記事は、カントの実践理性批判を持ち出しているあたりが、
なかなか凄いと思う。

カントの定義した実践理性批判というのは、
他者に対しての批判ではない。
自己に対して、徹底的に理性をつかって自分を批判せよということを言っている。
自分のやっていることが何なのかを批判せよと言っている。

ただね、カント自身の言葉を読んでも、チンプンカンプンなんだなぁ。

でもこのwikiにあるカントの言葉には重大なことが示唆されている。

魂の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。

原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel uber mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。


つまり――
生命が永遠であるという確信があって、はじめて無間の可能性も信じうるのである。世間一般の常識などを幸福論と名付けて、そこに普遍性をもたらすためには、どうしても宗教が必要なのである。

カントは徹底的に自分を理性批判した結果、上記のような結論に至ったのだ。
他者と論争したり、相互に批判しあうことで、こうした結論に至ることは、恐らく絶対にありえないことだろう。


さて、その宗教を用いた、永遠性を得るためには何が必要なのか。
それは、己自身、自分自身の認識したもの自体の上に立脚していかねばならない。
神であるとか、不滅であるとかそういったものね。
けれどもそうしていくと、自分というもの自体が存在せず、物自体を発見することだろう。

カントはそう言っている。
これさ、ヘッセが『シッダールタ』の中で仏陀に語らせた言葉と同じなんですよ。

物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は私の同類だということ。それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。

ほらね、同じこと言ってるでしょ。


さらにカントは続けてこういている。
感情的なものでもって言い合わらしたものには、道徳的な価値はないと。
つまり――
自分などない。自分はただのものである。
そういう物自体になって理性批判し、現れた答えにしか、普遍性や永遠性や道徳性は現れないといっているのです。

自分はこう思う、だからこうだろ!
こういう批判がどれほど無意味か、これでおわかりになるだろう。
少々、いや、かなり難しいでしょうけどね。


つまり――

我々が永遠性や自由を勝ち取るために必要なことは、
自分を徹底的に見つめ、批判し、自分などないということを確信することなのですよ。

自分などない、私はただの物。
それを知った人間が悟った人なんですよ。

けれども、カントが最後に言っている言葉は、それがいかに難儀なのかを物語っている。
つまり――ものとしての存在の生命体、つまり肉体などに関しては、
いずれ星々に返すことになり、嫌がおうでも永遠性法則に従っているから問題ないのだ。
だが、人格に関してはそうではない、そう言っているのです。

大事なのはここなのですよ。
その人格も、永遠性の法則に従うべきであるところを、
我々人間は従っていないから大問題なのですよ。

それを意識的にも、無意識的にも正していくために必要なのが宗教である。
カントはそう言ってるんです。


必要なのは、自分と向き合うことだけなんですよ。
ご本尊と向き合うことだけなんですよ。
そしてそのことを、他者にも勧めていくことなんですよ。
そこに論争など必要ないのです。
必要なのは認め、共感していくことなんですよ。


もうこれ以上は言いませんよ。
それぞれがそれぞれの理性で自分を徹底的に批判しない限り、
答えなど出てきようがないのですから。

私は自分のことをしたい。
自分のことをしますよ。
自分なんてないけどね。
けれども、この世界に肉体がある限り、その肉体を健康的に維持していく努力をすべきなのは、
それは永遠性の法則に則ることであるから、自分のことをするのです。

ipsilon at 23:46コメント(0)トラックバック(0) 
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