2014年08月

2014年08月31日

個人の内的真実とは、個人にしか理解できない真実であろう。誰にも理解されずとも、内的真実を書くことでしか生きれなかった太宰が濃く滲みでた作品。理解されなくとも一縷の望みは捨てない――タンポポという言葉に隠れた太宰の思いに涙を抑えがたかった。『HUMAN LOST』の散文にしても、その後の助詞を省く独特の文体にしても、詩が真実を語るには最高の武器であることを太宰も知っていたのだろう。それでも小説を書いた心境とは如何なるもか? その答こそ、小説を通しての破壊と建設の二十世紀旗手たらんとした心意気だろう。涙。


一読ではとても読み取れない「真実」のある作品集。


私は言葉を軽蔑していた。瞳の色でこと足りると思っていた。けれども、それはこの愚かしき世の中には通じないことであった。苦しいときには、『苦しい!』とせいぜい声高に叫ばなければいけないようだ。黙っていたら、いつしか人は、私を馬扱いにしてしまった。

その通りなんだけど、その逆もまたしかりなんですね。
言えば言うほど馬扱いもされるんだよ。
言っても言わなくても馬扱いならさ、言うほうが得じゃん。
それだけの話。
けど、言うべきことは徳のあることなのが条件。


好き嫌いが先に定って、理窟が後になる事実ほど恐ろしく、嫌なものはありません。お好き? お嫌い? それで一瞬は過ぎて、今は嫌いなのです。だから世の中の言葉はひとの感情をあやつるに過ぎない気がします。

このあとに続く文が味わい深いんだけど、引用しません。
好きになったから好きと言う。嫌いになったから嫌いという。素直な表現をすればするほど人に疎まれる事実。
だったら言わないよってことを言ってるんですけどね。

そも、好き嫌いに踊らされているうちは仏法者でも何でもありません。
仏道とは好き嫌いを捨て、因果を見る修行ですからね。
けどまあ、世の中の実相は大概は好き嫌いに左右されているということは、憶えておいて損はない。


盾の片面の金色を、どんなに強く主張してもいいわけだ。けれども、その主張の裏に銀の面をもちゃんと認めて、そのうえの主張でなければならない。

もう何回ここに書いたかわからないことだ。
善悪一如。物事は二面的、特に言葉には必ず二面性がある。すなわち全ては相対的である。
なぜなら、すべては縁起によって起こっている、とね。
もう言うのもの馬鹿らしい。けど言う。
先にも書いたように、言うことに徳のあることだからだ。

愛の裏が憎悪。
いまさら言うまでもない。
怒ったら怒ることしかしない。
怒ってる人を見たら、こいつは怒ってるとしか思えない。
すなわち一面しか見ない人の思想であり、ものの見方だ。
これほど愚かなものはないと、何度も言ってきた。
なにせ「世界は空」ですからね。

キリスト教のように愛ばかり主張して、愛だけが最重要事だという思想の恐ろしさはここにある。
すなわち、縁によって愛が引っくり返ったときに凄まじい破壊力を発揮するからだ。

ゆえに仏法のほうが優れているのだ。
愛と憎悪は一如。見方の問題であり、どちらでもなるし、どちらでもある、と。
選ぶのは自分自身だと。
で、どっちも選ばず、愛である時もあるし、憎悪であるときもあるよね〜
なーんて具合にひょうひょうとしているのが中庸の精神であり、
常にそうして極論に陥らないことを中道一実というわけだ。

でも、これほど言うは易く行うは難しのことはない。
まあ、全てに感謝すればいいだけなんですけどね。


どのような人でも、生きて在る限りは、立派に尊敬、要求すべきである。生あるものの、すべて世の中になくてかなわぬ重要の歯車、人を非難し、その尊さ、かれのわびしさ、理解できぬとあれば、作家、みごとに失格である。この世に無用の長物ひとつもなし。

感謝とはこういうことでしょ。正しく生きるとはこういうことでしょ。
なにも作家だけがそうすべきって訳じゃあない。
でもとてもわかる感覚だ。
今はそうでもないが、少し前、強く主張しようとする記事を書くことが出来なくなったことがある。
別に誰の何を責めていたわけでもないが、異様な怒りのため、
何を書いても、讒言じみたものに感じられ、何度も記事(下書き)を削除した。

別に私は作家なんかではないが、やはり曲がりなりにも、そういう精神は鍛えたいと思っている。
言えば、『逆行する宇宙』を書いたのもその一因。
悪に落ちたものであっても、その尊さや、わびしさを理解してあげて欲しいという、
切なる願いのような気持ちで書いた。

極悪であるからこそ、善がなんたるかを最も照らすんですよ。
太宰もユダになろうと人だから。莫迦で、下衆で、阿呆な自分を見せているわけですよ。

でもこれ、ただの「ありのまま」とは違うんですよ。
すなわち、何千回も考えに考えたすえの思想に裏打ちされているんです。
ただ、思ったことを書いているのは「ありのまま」とは言いません。
これは仏法にあっても同じです。
根底に信心の実践があって、「止む能わざる」ものがあって、その上での「ありのまま」なんですね。
そこを勘違いして、何でもかんでも「ありのまま」でいいとか言うのは。
ありのまま利用に過ぎない。


私が欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、サチの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。

この悲しみが、わかりませんか。
わからないのか、わかんないの? ――ふううん。
幸をサチと書くところがいいじゃないか。幸なんてね、人間だけが独占してるわけじゃないよ。
植物や動物の名前を学術的にいう時は、たいがいカタカナですよね。
そんなこと思って読むと、味わい深いんじゃあないかな。
信頼って言葉も重いですなあ。あーうっとりうっとり。


ひとつ言おう。最悪のものを言おう。
疑心暗鬼。これほど最悪なものはない。

たとえば、太宰情死未遂のときのこと、こう書いてる。
「背中のほうで水の流れるような音がした。ぞっとした。かすかな音であったけれども、脊柱の焼けるような思いがした。女が、しのんで寝返りを打ったのだ」――と。

自意識過剰。女がどんな気持ちで寝返りを打ったのかは、実際のところ、女にしかわからない。
だが、太宰はその寝返りに「しのび」を感じたことで、翌日情死しようとしたんだな。
疑心暗鬼で人は死ぬんだ。
これが太宰の内的真実でしょ。
この「しのぶ」は忍ぶなのか偲ぶなのかで意味は違ってくる。

相手が何をどう思い、なにを言い、書いたかは、相手にしかわからない。
何も確かめもせず認識もせず、礼を欠く行動を取ることが、いかに人間的でないか。
よく考えるべきであろう。
相手が何をどう思い、なにを言い、書いたかは、相手にしかわからないなら、
相手に「それはどういうこと?」と訊けばいいだけの話だが、
それが出来ないのが人間の業の深さというものだろう。
訊きもしないで、いきなり文句をつける。
そういうことね。僕は嫌いだなあ。そういうのは。
だってびっくりするもん。心臓縮んで寿命減るよ。

それでもきちんと対応はしますけどね。
なぜって、そういう世の中だと認識してますからね。

でもね、立派な人はいるんだな。
あるとき、僕はある人に向けて嫌味な記事を書いたことがあった。
でもその人は立派だった。
ちゃんとメールで、これは私の事を言ってますか?
と訊いてくださった。

僕は感心しました。その人間的な振る舞いに感動しましたよ。
その度量の広さ、寛容さに感心しました。
だから今でも忘れませんし、今後も忘れません。鏡としてね。
僕は素直に正直にいいました。
はい、ごめんなさい、そうです、とね。

そんな経験をしてからは、至極気をつけている。
自分から先にそういうことはしないが、
でもやられたら反撃はしますよ。

けどね、先にやってくる人は、名指しにせよそうでないにせよ、
自分から先にそういうことをしたという意識が薄いね。僕の経験からの考察ですけどね。

ともあれ、疑心暗鬼は地獄への入口ですよ。
悪しからず。何事も自分のものの見方ひとつで善なるものに変えられます。
それを善知識というわけで。

すべては良くなるしかなーい。
絶望名人の私でさえ、実は日々に心の中では自分にそう言っている。

絶望? それはなに?
言語化されていない内的真実のことですよ。
言語化することで、それはやがて現世的にも事実となるんですよ。
だから、内的真実の言語化ほど大切なものはない。

but、内的真実の主張とさ、生活は別だよ。
そこを理解せずにお前は口だけだとか言ったら、最悪の人格者の出来上がりだ。
そりゃそうでしょ、内的真実→具現化にはさ、時間がかかるんだもん。
そこは寛容であるべきなのが仏法者としての視線だよね。

けどまあ、内的真実の言語化さえやってない人が多い。
つまり、記事とかにそういうものが表出してないと思うのね。
簡単に言えば、内的真実の言語化とは、自分の体験を語ることなんだけね。
それを物語にしてるのが小説ってことでしょ。






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2014年08月30日

濃いなあ、『源氏物語』って。やっぱ古典は凄い。馬鹿にできない!
――以下、忘備録兼、思索。


第一帖 桐壷(きりつぼ)
桐は古来より「神聖」なものの意。
壺は内裏(だいり)の中庭にある殿舎のこと。
おそらく局(つぼね)とかけている。
つまり、桐壷の局(更衣:こうい)は神聖な御局(みつぼね)という意。
桐壷=淑影舎、藤壷=飛香舎。

藤とは戯れという意が強い。
藤娘といえば、美人だけど見て楽しむだけみたいな、虚画的な意味がある。

桐壷は内裏向かって東北にある。ここ、けっこうポイント。

桐壷=源氏の実母。
藤壷=源氏の継母であり半ば愛人(桐壷に似た風貌:つまり男は母親に似た存在を愛すという暗示)。
葵の上(輝く日の宮)=源氏(光の君)の正妻。

侍(さむら)い=寵愛をうける。
下瓠覆欧蹐Α法畤畔が低いという意。対義語:上瓠
上達部(かんだちめ)=摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議、および三位以上の人の総称≒側近。
上人(うえびと)=上達部より上位の人。上人より上位は聖人。
馬道(めどう)=殿舎と殿舎を結ぶ通路。
曹司(ぞうし)=女官や官史の部屋。
典侍(ないしのすけ)=侍女。


もう第十五帖まで読んだんですが、こんな風に全部まとめるのはきついなぁ。
全部で五十四帖あるし……。


第二帖 帚木(ははきぎ)

帚木=遠くからだと箒のように見えるが、近づくと見えなくなってしまう伝説上の木。
求愛に応えるように見せて、なーんちゃってネ! と拒むことを指す。
作中人物では「空蝉(うつせみ)」のこと。蝉の抜け殻とか生態を匂わせるネーミングにうっとり。
うつせみとは「現身」とも書く。つまり生きている人間であり、その儚さを言っている。
ここでまたうっとり。いとあわれ。


源氏「帚木の 心を知らで園原の 道にあやなく 惑いぬるかな」
(近寄れば消えてしまう帚木のように薄情な人とは知らず、あなたに迷ってしまったのだ)

空蝉「数ならぬ 伏屋に生うる名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木」
(身分いやしい育ちの私は、帚木のように姿を消すしかないのです)

勝手に言ってろよ……気色わりぃーw
まあ、焼きもちのやかせ方の云々を言っているらしい。
なにごとも「ほどほど」にネ! という教訓らしい。深いねw

でも、こうあれですね、一期一会ってのも言ってる気がしますね。
読み取り方は人それぞれ。勝手にしやがれ。勝手にしやがる。みたいなねw


なお、一帖と二帖は、繋がりがおかしいので、一帖はあとから書きたされたものではないかとも言われている。
確かに、脈絡とかあまりないと思った。与謝野晶子とかの解説つきのを読むと、面白いのかもしれない。
私は角川のビギナーズ・クラシックスで、ほぼ現代語訳で読んでますけどね。

やはり日本のというか世界的古典小説ですから、読んでおかないとね、
ということで読みはじめました。
基本、読んでいて源氏がただの女好きにしか見えないし、
馬鹿なんじゃないの!? の連発ですけどねw
まあでも人の心(恋心)が人を生かすエネルギーなのだろうな、という気もします。

しかしまあ、ギリシャ神話のゼウスもそうだけど、
なんで古典からして女たらしの男が主人公なんだろうねぇ。うけるw

気が向いたらまた書きます。




ipsilon at 22:11コメント(7) 
心を表現できる作家は少ないが、小川さんは間違いなくそれができる人。たとえば聞きなれている雨の音なのに、その日に限って特別心に沁みわたってくるという感覚。『ドミトリイ』はそれを表現していると思う。そう言う音を聞くと何も手につかなくなりませんか? 婚約者を投げだしパッチワークに没頭してしまうとかあるでしょ?。『夕暮れの給食室と雨のプール』は、「空(くう)」を見事に表現しているのだろう。また、かつて難儀だったものを超えることでそれに郷愁が湧く、あの感覚を鮮やかで爽やかに描写している。表題作は解説のままでしょう。


心が潤った。

小川さんの作品は、ある程度はっきり言葉にできるテーマらしきものがあるものと、
そうでないもの――ぼんやりしていて言葉にできない「こころ」を表現している二種類があると思う。
この後者の作品を読み終えたときの感覚が実に心地良いんですね。

え? 終わりなの? 意味わかんなーい……。
とか思いながらも、じんわりと心に残ったものを味わっていると、
突然閃くんですね。
多分こんなこと言いたかったんだろうなあ、と。

それを言葉にして解説するのは、本来の純文学の楽しみを削ぐし、
未読の人にとっては最大に楽しみを削ぐものだとは思うのですが、
感想を書くのが私の常ということで。

ようは、言葉にできないけどさ、ねえほら、あるじゃん、こういう瞬間てさ、ない?
という「こころ」を小川さんは文字にしてくれていて、
そのある感覚の発見を作者も楽しんでいるし、読者も楽しんでいるというものがあると思う。

そこには、A=Aといったものは必要なく、
書き手と読み手の共通認識も必要ないと思う。
A=Bという答えが出ることだってなんら不思議はない。
でもこういう作品を書ける人は稀少だと思う。
やはりテーマを添えて書いたほうが書きやすいからなんでしょうね。
もちろん、読み手も意味わかんない? となることもある部分があるのですが、
本来「こころ」を表現する純文学というのは、そういうものだと思う。
読み手に「?」を与えるだけに純文学=売れないという時代もあったが、
昨今はそうでもないとも思える。


何ごとも定義しようとするとたちどころに、本当の姿を隠してしまうものですね。

あなたはそこに立っている。質問は宙を漂っている。わたしはここにいる。ただそれだけのことで、これ以上変化のしようがないと思うのですが。犬の気持にお構いなく、雨が降るみたいに。


この二文は「空(くう)」のことを上手くいっていると思う。
あまりの巧みさにうっとりしましたよ。
決めないと何も出来ない。
たしかに時間と空間のある娑婆世界というのはそういう世界なのだが、
その決めた瞬間に決めたことはもう過去になっているのだから、
決めたことは既に役立たずなんですね。
だから先生は「電光石火」と言ってらっしゃるわけです。
決めたことが無意味にならないうちに、さっさとやる。
もちろん、それは誠実の現れだとも言えますが、
私はそこに二つの意味を見ています。

だから全ては空である。
yesともnoともいえないし、yesでもないしnoでもない、yesでもあるしnoでもあるんだけど、
それら全てが一瞬という時に結実(中道一実)して因果となっている。これが空。つまり妙法。
だから、それ(あらゆるもの)を拒否せずに受け入れることが真実を受け入れることであり、
いったい正しい生き方なわけです。

でも、人間はお馬鹿なので、
俺はこうするだとか、こうしたいと自分勝手に決めて、
わざわざ苦しみを作り出しているわけです。
それを的確に表現しているのが、小川さんの上の一文。
定義しようとすると本当の姿を隠してしまうとは、そういう意味ですね。
それを小川さんは「難儀」だと言っていましたよ。上手いですね!
仏法ではそれを「苦」というんですけどね(笑)

いやあ素晴らしい!

ある時、「それに関してはさ、決めてもいいんでしょう?」
とか質問されたことがあるんですがね。
もうね、こういう質問は非常に困るんです。
だから〜 全ては空なんだから、決めればいいじゃんとか言えないんですよ。
しかもそれは私の問題じゃないしね……みたいな。
という感じで、相談されるのって結構困るし、
ましてや答えを求められるのは一番困るわけですよ。
自分で考えればいいじゃん。最後はこれになるんですよ。

ゆえに、私はTPOこそ全てだとずっと言ってきたんですが、理解者ゼロ(笑)
そもそも、空自体を理解できないことが普通なのでしかたないですけどね。
だって空は別の言い方をすれば縁起ですし、仏法の究極の理論ですからね。
戸田先生の獄中の悟達も、それを生命で感覚として、言葉として、文字として、理論として
読み取ったということですからね。


世界は有無ではない。
世界は空。
(仏陀)


小川さんの言ってることと同じじゃないの?




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2014年08月29日

『歯車』は心の病に経験があるとリアルすぎて笑えない。「殺せ」や「誰か殺してくんれ!」とかいう科白は私も最悪の時期に寝台で叫んでいたくらいだ。独占欲の強い女とのたった一度のW不倫、その後の付きまとわれによる被害妄想が彼をここまで追い込んだのだろう。恐怖と不信とはそれほど畏怖すべきものなのだ。反面、恐怖・不信=安寧・確信でもあることは彼も理屈としては理解していたところがまた悲しい。人間の負の一面を芸術的作品として昇華したことは偉大だとは思う。だが悲しい。読んでいて涙が出ないのは、あるいみ芸術なのかもしれない。

『河童』は芥川による痛烈な社会批判。狂人(本当は正常な人)が狂った世界(娑婆世界)で生きる苦悩をコミカルに描いているが、芥川の社会への怒り=自己嫌悪そのもの。信仰を持てればいいんだけど、それさえ信じられないというギリギリの精神状態だったことが良くわかる。


これはヤバイ本です。読解できると非常にやばい一冊。

私自身も、味わった苦痛を文章にしてきたが、どうしても憎悪やら悲痛(感情ばかり)が先に立ってしまい、
芥川のように狂気を芸術にすることなど、とうていできなかった。
もっとも無間地獄という地獄は言葉でも心でも語ることは不可能なので、
そこを追求しようとは最近はあまり思っていない。
誰にも伝えられないし、自分でも言語として認識できないから、
無間地獄なわけですよ。
自殺すっと、恐らくそこにいくんだけどね。
だから私はしたくない。
娑婆世界にいれば、言語にして伝えられなくても、
抱きしめあって泣くとかさ、なんとかスッキリする妥協点はあるわけですよ。
本読んで泣くとか、音楽聞いて号泣するとか、なんでもいいんだけどね。
私はそうやって生きて来たし、今もそうしてますけどね。
誰かに話して理解してもらうのは無理。絶対無理。もうそれは確信ですらありますよ。

つまり『歯車』は、そういうことをやろうとした作品であり、
見事にそれをやってのけているのには驚きを禁じ得ない。
川端が最高傑作だと言うのは理解できる。
つまり、言語を通して最悪の悲しみを癒してくれるのが、『歯車』という作品なんですね。
が、私はそれに同意はしたくない。
作品としては凄いけど、人間として悲しすぎるからだ。
下手をすると、作品に感応して死への道を突き進むこともありえるからだ。

私の書いた『逆行する星々』は、
それとなくそういうことにも実は触れている。
強い自殺願望は自殺したい人を引き寄せる、とね。
無論これは、万般に通じる。
自分の思考に近い人としか人間は出会えないのだ。
が、嘆く必要はない。
死にたい=生きたいの裏面だからだ。

ああ、そうそう、
『金閣寺』でも、主人公の死への道に強く感応したのは、
鶴川という、明るく無邪気な青年だったと表現されている。
けどそういうものの見方を主人公は柏木という意地悪な青年にひっくり返されて、
鶴川だって、毒のある男だったんだと誘惑されるわけですよ。
やめろよ! そういうこと言うの! ばかちん!
とか思いながら読んでましたけどね。

ともあれ――
自ら死にゆこうとする人間を止めることなど出来ない。
冷たいようだけど、これは本当。
これは私の経験からも言える。
でもやっぱり止めてあげて欲しかった。
とめてというより、何か出来ることあったんじゃないの……。
くらいしか言えないのだがねえ……。

ただ、彼の背後にあったであろう物事を知ると、
おい詰ってしまったのは自業自得だともいえるのが無気味。
W不倫とその後のストーカー被害。
良心の呵責を感じてない無宗教観。
全てが最悪に向かう下地は出来ていたとしか思えない。

『河童』的なシニカルさを維持していたら、まだまだ作品は書けただろうに……。
けど、肉体的に相当酷かったんだろうなということも、読めばすぐにわかる。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」
これも誤訳されており、
本当は「肉体が強健であれば、精神も強健になれるんだよねぇ」
という微妙なニュアンスの言葉らしい。太宰が誤読するなと怒ってましたよ。


従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云うのです。

善悪の彼岸を超えたところに真実がある。ニーチェの思想なのだが、
そのニーチェもまた狂死してんだなぁ。
河童世界から帰還するときに出会う、年老いた子供も完全にニーチェの思想ですよね。
羊→獅子→超人→子供という、あるべき人間の理想を言ってるわけですから。

でも、理性(思想)や行動(様式)だけでそれを試しても駄目なんだってば。
そこには絶対的に宗教が必要なんだなあ。
芥川自身も『河童』の中でそう言っているのだが、現実的には理解していなかったであろうことが悲しい。
もっとも彼にとっての宗教とは小説を書くことであり、
その命題の究極的モチーフであるところの「死」を自分に見て書いてしまった以上、
そこから先はもう作品を書けなかっただろうことも想像に固い。

芥川も太宰も日本人の宗教はさ、しょせん「生活教」だろ……。
飲み食いと多少の贅沢したくて無益に生きてるだけー。
お前ら馬鹿なんじゃないの!?
と意見がぴったり重なっているのも興味深い。
もののわからない人は、芸術に生きれなかったら、生活を潤わせれば良かったじゃん。
とか言うわけだが、その「生活教」をもっとも忌避してたのが、
芸道をいく芥川であり太宰だったわけですよ。
それが出来れば苦労しねーんだよー! みたいなね。
パヤオたんなんかも、どっちかというと芸道の人だから、
「創造」しないものは屑とか言っちゃって、生活教の人々に老害とか言われちゃうんだけどね。
んま、私もそういう生き方しかしてきてないから、生活のために生きるとか苦手なんですよ。
あー苦しい、苦しい(愚痴)

けど生活も生きることも実は「創造」なんだけどね。
それが見えてくれば、割と生きやすい。
芸術的であらねばならない、という生き方はこれはきついからねぇ。
生きてることそれ自体が「創造」だということなんですね。
それがわからない学会員とかは、あーでもないとか、こーでもないとか、そーでもないとか、ぎゃーぎゃーぴーぴー、ふんがぁふんがぁとか(以下略)
まあ、「いかに生きるか?」が問われてるのは知ってますけどね。
けど、生きることだって必死にならないと出来ない人に、
その先にはこれがあって、こうであるべきでとかさ、
プレッシャーかけてどうするの? という話ですよね。

ともあれ、
死を見透した後は「生」を描けばいいのだが、
そうなれないのが人間のもつ執着であり、傾向性であり習慣化であり、
なによりも言語化したものは現実化するという因果率であろう。

もっともこれらは「芸術」だけに限った話ではない。
つまり生きること=創造なわけだ。
ゆえに善悪の彼岸を超えた生き方をしなければ、何をやっても上手くいかないということ。
ここではずーっと言ってきた「善悪一如」がそれ。
そのことが具現化できるのは仏法の実践以外にはない。

明るい本読みたくなった。
つーことで、最後に一句。

古池や河童とびこむ水の音(芥川龍之介)

まあしかしあれです。
この世の中で一番恐ろしいのは独占欲(嫉妬深い)恋愛にはまることだと確信した。
芥川しかり、太宰しかり。その他の文豪しかり。
もちろん、自分が嫉妬深くなることも危険ということですね。
わかる気もする。
一番苦しかったときに頭をよぎった言葉は「怨み辛み」だったし、
作品(【宇宙シリーズ】)の中でも、怨念と書いてきたしね。
ヒュードラー→ヒドラというコースは危険だということ。
それをあえて書いた。作品にしたという私の精神状態は、
もちろん私自身把握していたんですけどね。

確かに危なかったヨ。
脱稿したあと、死にたい病が酷くなって、
久しぶりに飛び降りられそうなビルを見上げたり、
深夜の幹線道路で、トラックに飛び込みたくなったからね。

それでも生きる!
それがどんだけ苦しいか知りたいなら、『歯車』でも読んでみてくださいよ。
あ、これは愚痴ぃ? ま、いいやね(笑)

これは少々うがったものの見方だが、
もしも、芥川がかなり早い時期に不倫していて、それに苦悩していたなら、
袈裟と盛遠』という作品が彼の偽らざる心情だったとも思える。

これが当たっているとしたら、相当早い時期から
芥川の中には被害妄想と復讐の炎が燃えていたといってもいいかもしれない。
まあ真相は『藪の中』だろうけどね。




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生きることは社会に受け入れられること。それが不可能なら相手を破壊するしかない。金閣寺放火の心理とはそういうもの。これは異常心理なのか? 否だ。孤独な誰もが社会と融和したいがための祈るような願いとはそういうものであり、その満たされぬ願いが犯罪となって表出しただけであるという三島の視線は鋭い。誰もが犯罪者予備軍である。そうならないためには美と芸術に生きるしかないとう、些か短絡的な三島の思想は少し恐い。だがそれも真実な気がする。人によって感想が変わるだろう作品なので、先入観を持たずに読むことをお勧めします。


『金閣寺』は、上に書いた感想以外にも、吃音、美、肉欲、善悪の併存など、様々なテーマが絡み合っているので、これを読み解くのはなかなか難儀だと思う。

吃音からは、コンプレックスが生む自己卑下や内向性からくる精神の孤独、または社会的立場の脆弱さなどを暗示しているのだろう。
ここで三島は内翻足という身体的異常からくる孤独(コンプレックス)をも突合せているのは凄い。
作品では、吃音と内翻足という形で表現されているが、誰しも自分の精神や肉体に大なり小なりコンプレックスを持っているのは自明の理であることを暗示しているわけだ。

そしてこの孤独というものを三島は、肉体的孤独(童貞)や性愛や美にまで結びつけて昇華しようとしている。
ちょっと無理がないかい?
とか思うわけだが、確かにそれが出来たら効率的であるし、形而上・形而下的問題も一気に解決できるのは確かでしょうね。


すなわち、愛欲の行為の中には、精神的な孤独も肉体的な孤独をも埋め合わせるものがあるのでは?
という問いがそれなのだが……。

これはまた、絶対的に孤独である人間たちが、社会の中で精神的にかつコミュニティー(ひいては国家)の一員としてもとめる融和性でもあると三島は主題を発展させてゆくのだが、
この辺りの筆致は、けっこう神懸っていて恐ろしい。
三代にわたって官僚の血を引くだけに、何事も一辺に解決しようとする強引さといえばいいのかな。

最後は、こうした問題が畢竟、「認識」することが全てか? 「行為」することが全てか?
という問いにゆきつく。
当然答えは「行為」なわけです。
行動しなければ、何も起こりませんからね。
が、それが金閣寺放火という狂人の行為であるという結末は何より恐ろしいということ。
かつまた、こうした行為を引き出す要因として、三島は自身の体験から、
敗戦の虚無感を上げている。
つまり、いかなる人間であれ、環境の激変などにより、容易に犯罪者になりうると言っているわけですよ。
例えば、他殺であれ自殺であれということ。

しかも、それは誰の中にでもある極あたり前の物であるとも暗示しています。
そういうことを認識して行為に及んでる(行動している)のかい? とこう三島は問いかけているわけです。
行為に移す前に、そうならないように認識しようとしてるのかい? と問いかけているわけです。

でもその行為(認識と行動)なしには人間は生きられないんだぜ、とも言っている訳です。
背筋ぞぞーっとする作品ですよ。

まあ、本当のことを言えば、ここには
「止む能わざる」という生き方もあるのですが、
三島はそれには気づいていなかったようですね。
気づかぬまま、それにひきずられていったということなのでしょう。
言えば、宿命ね。


内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないとものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか?

透けるような色白な肌、紅をさしたような頬と唇。
そういうのは綺麗だっていうけどさ、腹切って見えちゃった内臓とかはなんで気持ち悪いのさ?
あれさ、奇麗なピンク色しててさ、なんか結構いいよ(笑)
どっちも人間だし生命だぜ? というのがこの問い。
言われてみたらそうだよね。どちらも愛せなきゃおかしいよね。糞尿も含めてね(笑)


形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと知ることができようか。

鋭いなぁ……。あの人は美人。あいつはブスとかね。まあ好みはあるでしょう。
けどそういう外見に拘っている人は、しょせんそれと同じように、相手の心を見るにしても選り好みしたり、色眼鏡で見ているということですよ。

これは万事に言えることで、食事への拘りだの形式への拘りだのを持っている人は、
見えない心にももの凄く拘り(つまり執着や偏見)があるということですよね。ここはドキっとさせられたなぁ。


音楽の美とは何とも不思議なものだ! 吹奏者が成就するその短い美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣のような短命の生命の生物さながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはない。

ここを読んだときほど残念に思ったことはない。
ここまでわかっていながら、なぜあんな死に方を選んだのか……とね。
でも『金閣寺』は作品全体で三島のその後を予見しているようなものだから、あの死は遅かれ早かれ現実化していたとは思いますけどね。

余談だが、フルトヴェングラーも三島と同じことを言っていた。
ことそれ(自分の生命を楽譜に吹き込むこと)を一番完璧にやってのけたのは、
ベートーヴェンだと言ってましたよ。
時代の寵児だったとも言えますがね。
彼の前に彼のようなことをやった人はいなかったし、
彼の後にはもはや彼を超えることをする余白が音楽自体に残されていなかったということですね。
だからそこから先、音楽は無調性という破壊する方向にしか進む道がなかったというのは明確に現れてますね。

ポップスだって同じです。
ビートルズにはじまり云々、最後はパンク、デスメタとかいう破壊に進むしかなかったわけです。
もちろん三島もその一人でしょうね。

つきるところ、今という一瞬こそ生命そのものであり、創造されている瞬間だと思うことが
いかに困難なことかということでしょう。

『金閣寺』はある意味、問題作だと思いますよ。
答えがないという作品て、いいですね。






ipsilon at 03:32コメント(0)トラックバック(0) 
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