2014年11月

2014年11月30日

ネタバレ 感情、意識、理性、無意識の混沌に苦しむ人間の心を見事に描いている。殺人を犯した時に、雄一郎は感情も理性も失っていることがわかる描写。それだからの苦悩。無意識と意識の相関関係。自分と他人の関係が入れ替わるような心理を作らせる(半ば無)意識の働き。結局のところ、思念(信じること)が人生を作るということだろう。唯一人生で成しえないこととは殺人の贖罪である。だがその償いは出来ると筆者は考えているようだ。私もそれに共感した。なぜ、ラストに仮名云々を言っているのかを読み解ければ、その意味はわかるのではないだろうか。




ズバリ言えば、中村文則版『地下室の手記』と言える作品。
ただし、テーマが異なる。
恐らく、ドストエフスキーより多くのテーマを含んでいると思う。


手記形式をとり、主人公が徹底的に自分を客観視している部分は、
そのままドストエフスキーの手法だ。
必要によって、( )を使い、主観的になりすぎと感じる部分に、客観的注釈を挟む部分や、
どうしても客観的に描けない心理は、「会話文」を使って表現しているあたりは、
まさにドストエフスキーの『地下室の手記』の手法そのものと言っていいだろう。
そもそもタイトルにそういう意図があると思う。


では評価が落ちるかといえば、そうは言えない。
そもそも『地下室の手記』の技法それ自体が非常によく練られた形式なだけに、
そこで評価が下がることはないと思う。




ともあれ、この作品には、中村文則の哲学がある。
ベースは間違いなくカント哲学でしょうね。作中でもカントの言葉は出てくるし、
カントは読んで勉強したと本人も表明しているので間違いない。
そういう観点で読んでいくと、非常に巧みな表現であり、しっかりした真実があると気づけるだろう。
例えば――


善悪は人間が成長していくにつれて既存の社会から学び取っていくもので、元々人間の中に用意されているものではない。
これが善悪一如ということですよね。
人は自分が育った環境で覚えてきた善悪の基準にもとづいて一人一人が自分勝手に、
これが善でこれが悪だと判断しているというのが、事実だということ。
それでは社会的に混乱するので、多くの人の善悪基準を慣例(習慣になったものが、通例になること)となり、
それで法律などを作って、社会を営んでるというのが事実。


そんなことであるから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問すら、
誰もが納得した答えを提示できないのだ。
筆者はこれに対して、殺していけないことに「意味」なんてない! と叫ばせていた。
これは一理あるんですが、ちょっと違うと思った。
けれども最終盤で「かわりがないから」と語っていたので、安心しましたけれどもね。


娑婆世界にあっては、どの生命体も「唯一無二」だから殺してはいけないわけです。
唯一無二だから尊いわけです。
あなたの代わりは誰かには絶対に出来ない。誰かの代わりに誰かがなれないのは、
普通に考えれば理解できることです。


だがこうしたことが、社会的に実現されているかと問えば、NOと言えるだろう。
ある立場で仕事をしていた人が退職しても、その立場に、別の人で代替えすることで、
社会を維持する方法論に洗脳されすぎているといえよう。
人間、歯車化思想とでも言えばいいか。


あいつに相談したいけど、最近不仲だからな。
まあいい、あいつの代わりに相談できる相手ならいるし。
そういう思考に陥ってませんか?
こうした思考がいかに恐ろしいか気づいてますか?
こういう思考をする人というのは、どこかで、他人を「言論する道具」とみなし、
自分にとって有意義なものを言わなくなれば、容易に相手を入れ替えるようなことをします。
心ある人以外、大体そんなものでしょう。
どの人と関わっても、この人との関係は唯一無二なんだと意識している人は相当少ないのではないだろうか。


どちらにしても、我々が善悪と呼んでいるものなど、所詮、個人個人の生育環境で作られた、
個人的かつ主観的な基準でしかない。
そういう基準で「あいつは悪だ!!」とか言い出すのが、まあ人間ですし、それが現実です。
非常に愚かだと言えるでしょう。


だからこそ、絶対的に過ちのない方法は、「善悪を自分で決めない」。
絶対的に正しい「妙法」に身をゆだねるということでしか、善として生きられないということ。
別の言い方をすれば、「自他にわたる善性の薫発」以外の方法で、善として生きようとしたところで、
そんなものは、個人的な善悪判断に過ぎないということだ。
何度でも言いますよ。依法不依人であり、身軽重法なのです。


残念ながら、『悪意の手記』は、そうした宗教の役割や必要性には言及していなかったが、
これは恐らく、別の作品で語られている(いく)のだと思う。
実際、死刑囚と刑務官(そこに教誨師が含まれるかは不明)の小説も書いているし、『悪意の手記』のあとがきで、「僕は少年鑑別所や少年院の教師の資格を取ったりもした」と語っているし、聖書なども読んでいるようなので、宗教や教育に関しても相当に興味がある作家なのだと判断できるからだ。




さてでは、なぜ人は個人的に執着している善悪で物を判断しようとするのか?
簡単です。感情的にものを判断するし、間違って理性を使うからです。
もうね、こんなことはトルストイが『人生論』で語りきってることですよ。
私からしたら、もうここに書くのも馬鹿らしいんだな。
読めばいいじゃん。それだけ(笑) てへ、また荒っぽい言葉つかっちゃった^^;


だが、問題はその先だ。
つまり、無意識の傾向性、換言すれば、宿業。
筆者はその点にもしっかり触れている。というより、むしろそれこそがテーマであると言って間違いないだろう。
その証拠は――


確かに君は考えていなかった、、、、、、、、。でも、君は自分の無意識まで管理できるかい? そんな人間はいないさ。だから、逆を言えば、そうでないとは誰も言えないんだよ。
――ここだ。


主人公は、殺人を犯すまでに、二度、感情も理性も失っているシーンがある。
どちらも、他人の顔が無くなるという描写だ。
つまりこれは、自分の見ている風景物事が、すなわち自分の心であるという(ようするにカント哲学であり依正不二であり、他人と環境は自分を写す鏡であるという認識)、
を知っていないと表現できない描写なわけで、
それを知っていれば、このことから容易に、(ああ、この時主人公は感情も理性も失い、「情動的」だったんだなと)判断がつくのだ。
こういうことを知らない人は安易に、(こいつ狂人〜とか、幻覚だねと)認識し、判断するわけだ。


言えばですよ、「あいつは狂ってる」と人に向かって言うことは、
自分が狂ってると表明しているということなんですよ。
人に向かって馬鹿という人こそ馬鹿なんですよ。
だから、批判には意味などこれっぽっちもないと、私は言い続けてきたし、
多分、これからも言い続けると思うわけです。


最も、法に照らして「あの人の思想は狂人的」だと、正確に評価することは可能ですが、
大体の心無い人っていうのは、我見で「あいつは狂ってる」とか言っちゃうわけですよね。


ともあれ、こういことで、主人公が犯した殺人は、「情動的」であり、
自分の意志や感情や理性などと言ったものでは制御できないものであることがわかる。
つまり、人間は、(半ば)無意識に殺人を犯すということが、ここで浮かび上がってくるということ。


信じられないでしょ? まあそうでしょうね。
そこまで追い詰められたことのない人には、多分絶対に信じられないでしょうね。
でも、本当ですよ。私もそうだったですからね。まさに「情動的」でしたからね。
自分で自分を殺そうとしたときにね。


まあ、そこまで深刻な話をする必要もないんですけどね。
ようするに、人間という生き物は、
宿業、無意識からの情動の突き上げに翻弄されて、
完全には(というよりほとんどすべて)自分たりえないというのが事実だということですね。
これは、アランの幸福論でもはっきり明言されていることだ。


つまり、自分は自分の思い通りに生きている。そういう思いが強い人ほど、
その逆の生き方をしているわけですよ。(ようするにエゴイストということ)
自分で自分の中に作り上げた価値判断にしか従わない生き方をしているわけです。
こんなことを証明するのは非常に容易です。
生命の無意識層と意識層の比率を考えれば容易にわかることです。
(意識2割、無意識8割)


ようするに、ここに至ってようやく、
宗教や信仰、また正しい教育(意識を無意識層に向け、無意識層が何を要求しているのかを読み取る思索力)の必要性が確信できるということなんですけどね。
哲学というのは、まさにこの意識を無意識層に向けることである、信仰というのは、
向けるだけでなく、それを変革することだと言えば、わかりやすいだろう。




ともあれ――
私がこの作品を読んでの最大の収穫は、
他者の中に「あいつ良い奴だ、親切で思いやりがあって、生命を尊ぶ優しい奴だぜ」という
印象を残していくことで、どんな深い罪も贖罪できると確信したことだ。


これは本当に目から鱗だった。


ようするに、自分が死んでも、自分が残した「あいつはいい奴だ」という印象は、
誰かの中で生き続けるわけですよ。
そして、そうした印象や、時々交わされるかもしれない、
「あいついい奴だったぜ」という会話――「縁」で、
私は私の犯した罪を贖罪させて頂けるわけですよ。


言えば、自分で自分を救うのでなく、みんなに自分を救ってもらわなければ、
決して償えない罪があるということなんですよ。端的に言えば、殺人(自殺)こそがそれなのです。
もっとも殺人を犯さなくても、日々に動植物を食い、環境にある生命を自分の中に取り込んで生きている人間は、
何もしないでいれば(利他行為をしなければ)、それだけで、どんどん罪を積み上げているわけで、
時代が進めば進むほど、衆生の心穢れるというのも当たりまえのことですけどね。
そこにこそ、「利他行為」の意味があるわけです。
だから、とりあえず何も出来ない境遇にあっても、
あらゆるものごと(生命)に感謝して讃嘆する心でいることが大前提なわけですよね。


結局のところ、あらゆる罪を贖罪するためには、
それ即、「人のために生きる」こと。
「与える」ために愛すること。
これしかないんですよ。
それの究極は、全く見返りを求めない、「母の愛」「無償の愛」であることは確実だ。


ひとつだけ言えば――
学会活動というのは、まさにそれに当たるんです。
だから、人に嫌われるような言い方、表現、
全くもって不必要な批評・批判・非難、もっといえば、誹謗中傷は一切不要ということです。


物凄くスッキリした!!
もう何十回、批判に意味はないと言ってきたか不明だが、
もうこれ確信中の確信だ。絶対的確信だ。
ま、やりたい人は未来永劫どうぞですがね(笑)


同様に、愚痴や文句を言って、その場の空気を濁すもの無駄で無価値だということだ。
心しておこうと思う。


別の言い方をすれば、
愛される人(必要とされる人)になることで、自分は救われるわけですよ。
その為に自分は何をすればいいのか? どうものを表現すればいいのか?
そうしたことを、常に問いかけていけばいいのだ!




けどねー、中村さんに一つ問題提起されちゃったんだよねー。


リツ子によれば、彼(リツコの夫)はこの事件を蒸し返すことに反対し、受けた傷を癒すと主張することで、掘り下げなければ傷は癒えないという彼女と対立することになった。


これはねぇ、非常に難しい問題なんだけど、私は掘り下げるべきだと思うんだな。
なぜかなら、堀り下げないでいて忘れたつもりになっていてもね、無意識層は覚えていてね、
自分が犯した罪は、必ず他の形をとって目の前に現れるからだ。
作中で中村氏はちゃんとその辺も表現してましたけどね。

でもこういうことは、私の体験でもある。何度も何度も似たような状況に陥ってきた、これまでの経験からして、
それはほぼ間違いない。逃げても無駄〜(笑)
どんなに逃げても、自分からは逃げれませんからね。


だから私は、ある意味で口うるさいくらい、言うべきことを言っていこうとしている、その場で。
思った(感じた)ことを言わないのは、それ即ち自分からの逃げだからだ。
無論、それにも限界があるんですがね。(嫌われたら終わりってことですね。そこまで言っちゃダメ〜と言うこと)


ともあれ――
掘り下げる下げないはね、
その人の精神力によると思う。
ふふふ、中村さん、そのことを伝える場面で、主人公にこう言わせている。
「私は、それと向き合う強さがなかった。弱かったんだ」的なことをね。


どうなの? どうなのよこれ?
「弱い」。すごく嫌いな言葉です。
人それぞれ、耐えれる限界ってありますからね。
それを比較して、「弱い」と言ってしまうのはどうなの? とか思うわけです。
それって上から目線でしかないよね? そう思うわけです。


ま、ヘミングウェイの言ったことが正しいと思いますけどね。
人間は、負けるように造られてはいないんだ。殺されることはあっても、負けることはないんだ。
そう思えるかどうかですよね。逃げるか逃げないか、それだけ。
but、言うは易く、行うは難し。
but but、案ずるより、生むがやすし。






Unconditional Love ――無償の愛。
現実はそう甘くないね。相当にビター(笑)


なんにしても――
ラスト2行が素晴らしい。
手記2からの名前は、アルファベットの混乱を避けるために、主に仮名を用いた。だが少し変えただけであるから、読む人が読めばわかるかもしれない。
――がね。


つまりこれが、
他者の中に「あいつ良い奴だ、親切で思いやりがあって、生命を尊ぶ優しい奴だぜ」という
印象を残していくことで、どんな深い罪も贖罪できる。

ということを表現しているわけです。


そういう意味でいえば、例えば小説だとか本という形で何かを残してゆけば、
死んでからなお、人類に貢献しつつ、自分をも救う行為になっていることは明確だろう。
もちろん、その場その場で、多くの人の胸に「あ、こいついい奴」という縁を埋め込ませて頂くことも、
それに当たるであろうことは、言うまでもないだろう。
それが偽善じゃー意味がないのがミソでしょうけどね。
本当の思いやり、本当の同志愛でこそ。
さあ、それは何だ? そこは自分で答えを出さないとですよね(笑)





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2014年11月29日

作家・エッセイストによる愛犬アンソロジー集。みなが口を揃えて言っているのは、犬は全身で感情表現するということ。個人的には、犬と同じくらい感情を爆発させていた小澤征良(征爾氏の御子息)が特に印象的。大型犬を飼うために引っ越した作家の愛情も感動的。幸田文(露伴の娘)はさすがに良い文。糸井、小川両氏はあくまでも個性的。作家を深く知りたいなら、エッセイも読まないとと思う。ああ、この人いいいな、そう思って検索したら、悲しい最期だった作家が一番好みです。結局のところ、犬も人間も、どう生き、どう死ぬかが大事なのだろう。




ちょっとー涙腺崩壊やないか。脱水症状になるわ(笑)
なんかもうだめ。後半とか、ずっと目の周りが濡れっぱなし。ま、いいけどね。別に誰かに見られるわけじゃないしネ。
馳星周さんにどやされそうだな。


なぜ悲しいことだけ心に刻みつけるのか。死別の悲しみは大きいが、それ以上の喜びをあなたは犬から受け取っていたはずだ。なぜそれを忘れてしまうのか。――と。


ちゃうねん。ちゃうねんよ。受け取ってきた喜びをもう二度と直接肌で感じられないから泣くんですよーだ。
と、言い訳しときまんねん(笑)
だってー、元気にしてたり、阿呆なこと、お馬鹿なことしてる姿を目に浮かべた瞬間、どどどーっときちゃうんだから、しょーがないじゃんかヨー。


インコだってそうだった、ハムスターだってそうだった、ましてや自分が段ボール箱に入れて、
電車の運賃払って、一時間半もかけて家に連れてきたあの子を忘れるはずないからね。
電車の中でも、バスの中でも、ジタバタして、
「わー、かわいい〜!」と周囲に黄色い声をあげさせてたのさえ憶えている。


でも、家着いたら、乗り物酔いしたのか、クター……ってね。
ま、いいか。ちょっと水分補給しまんねん。


ワンコネタ過去記事



生きてるってこういうことなんだよね。朝が来て、陽が暮れてゆく。
潮は満ちて、また退いていく。
過去からここへ歩いてきて、岸壁の港にたたずんで腰かけ、未来を見つめている。
船は港に入り、出てゆく。
全ては「縁」だ。時間だと感じてるものは、「縁」なんだなぁ。
そいつをどう生かすかが問題だ。
あれこれ言われたって、その通りにには出来ないよ。
それでも生きてるし、生きていこうとしてる。
いやむしろ、生かされてるんだけどね、「縁」に。


良いことなんて何もありゃしない……そう歌ってるけどさ、
そいつは、受け身でいるからであって、
何かを良いことにするには、能動的でなきゃってことだよね。
求めるんじゃなくて、与えること。
それはわかってる。わかっちゃ〜いるけど、むずかしぃ〜(苦笑)


(セントバーナード犬の)ルイを見ていると、生きるということは、食べること寝ること身体を動かすこと排泄することで成り立っている、と思い知らされた。そして実際、それだけで十分なのだった。(唯川恵)


ま、人間と犬とじゃあ、ちょっと違うけどね。
でも、そんなかわんないと思う(笑)





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2014年11月28日

ネタバレ 16編全てに戦争批判がある。その怒りに、ろまんの燈籠を灯し平安を祈っている作品集。表だって見えない批判は庶民への憂いに耀いている。『ろまん燈籠』の場合、わがままに育てられたラプンツェルは軍国主義であり、思い通りに生きれないなら死んだほうがましと叫ぶ。生きるとは愛されることではなく、愛することだと嘆く王子。だが本当に彼女を生かしたのは……。ではこの現実世界で一番に勲章をもらうべき立場にあるのは一体誰なのか? 答えは作品で! 結末にリフレインするこの部分を、ナルシッサスな次女が書いているところが太宰らしい。


『令嬢アユ』は日本の風景の中で繰り広げられる、儚く美しい物語だが、しっかり戦争批判をした名作だろう。岩場で川に落ちる令嬢、純白のシャツの胸にできた桑の実の染みは日章旗だ。世間から暇まれる商いに生きる令嬢に注がれる優しい視線。でも友人と令嬢の結婚には断固反対だと言う。これが太宰の心かと、胸が打ちふるえた。


『恥』の登場人物にあっては、菊子=天皇、和子=軍国主義に無批判だったが、騙されていたと気づく庶民。作家戸田が嘘ばかり発表した大本営を暗示している。全16作品全てが戦争批判だと気づくと、安易に面白がるだけでは読めなくなる作品集ではないだろうか。




『みみずく通信』は、新潟を訪れたときの自慢話でもなんでもない。
内地にいても、自分に出来ることを最大限にやった。
そういう太宰の意気込みを書いているのだが、当然、いつもの自虐ネタがあるから、それに気づきづらい。
新潟は戦地の暗喩であると気づけば、全ては見える。


『服装に就いて』は、決して自分のお洒落自慢でも、貧乏自虐でもなんでもない。
どうしても欲しい、必要だと思うものが、国民服になっても君らはそれでいいのかい?
そういう問いかけだ。


『誰』は、自分を知るには外側から(他者の視点で)見てもらうことでわかる。
いまの日本も同じだ。ろくでもない悪事をしているのに気づくためには、
徹底的に客観視しなければわからない。そう言っている作品。


『新郎』は言うに及ばず。
先の見えない戦争の時代に生きるには、
今日を必死に生きることしかないという、痛切な作品。


『十二月八日』も、言うに及ばすだ。


『小さいアルバム』は、最後の一行が痛い。
意外な写真て何だよ? 言わなくてもわかるでしょ。そんなこと。
怒りながら笑うよ、ほんとにもう。


『禁酒の心』も、言うに及ばずだ。
禁酒=戦争、酒屋のおやじ=軍部。
そう見れば見えてくる。


『鉄面皮』も、言うにだ。
最後の数行にすべてがある。
学ばざるものは騙される。学ばずは卑しだ。


『作家の手帖』は、七夕を通して庶民の暮らしが様変わりしてしまったことを嘆き、
それでも楽天的に生きる近隣の奥さんの歌に希望を見出す物語。
無心こそが最も強いのだ。
「ハバカリサマ」は、日常の中で、誰かに細やかな親切することさえ、
無意識に国民に愛国無罪思想をはびここらせていく恐ろしさと、
そんな思想は御遠慮したいという、太宰の微妙な気持ちを一言であらわした名言だろう。


『佳日』。いくら感覚が良くても、それを表現できなければ、ということにすべてがある。
いくら世界情勢を見極めていても、傲岸不遜な表現しかできなければ、
世界から孤立すると言っている。
中国に出征して帰ってきた兵士の態度の様変わりを見て嘆いたのではないか。


『散華』は、言いたくもない。
御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んでください。
自分も死にます、
この戦争のために。

この詩にすべてがある。


『雪の夜の話』。
難破して瀕死になった船乗りは、軍国思想だ。
頼むから、一家団欒を壊さないでくれという太宰の切なる願いがある。


『東京だより』
いうに及ばす。是非もなし。


確かに、戦争批判の暗喩に気づくことは難しいかもしれない。
なにしろ太宰は、検閲を通ることを考えていたし、
それ以上に彼の筆というのは、自虐ユーモアやロマンチシズムで、
辛辣な批判を隠す技巧があったからね。


でも、もう少し気づける読者になって欲しいと思う。
まあ、気づきすぎると、苦しくて、痛くて、悲しくて、仕方がなくなるから、
それもそれできついんですけどね。


でもね、心は傷つけば傷つくほど、強く優しくなれるんだな。
それを知らずに、見聞することを怖れるべからずだ。





あんまり愚図愚図した記事かくと嫌われる(すでに嫌われてるだろうがw)ので、
しょこたんの歌でも埋めとこうかな♪






ipsilon at 11:00コメント(2)トラックバック(0) 






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2014年11月27日

ネタバレ 人は生まれながらに何かしらの技巧をもっている。その巧さを活かしたのがスリなのだろう。だが悪事に染まり切ってしまうことで人は地獄を見る。主人公は目の前で悪に魅入られた友人たち悲しみつつ、絶対悪の快楽に惹かれてゆく。何とかギリギリで踏みとどまるが、彼を踏み止まらせたのは何なのか? 勿論、答えは作品の中にあるし、それは誰の中にもあるものだ。犯罪小説のように思えるが、純文学に近いテーマを内存した作品だが、ハードボイルド・エンタメとしても読める筆使いは見事だ。ネタを提示してから終盤へと畳み込む勢いが気持ちいい。


感想に書いた「何なのか」は一応、作中で登場人物に語らせているが、ラストシーンでそれを読者に問いかけている。つまり、主人公がああなってこうなったと想像した読者の心こそが「その答えで」あるという構図は実に見事。読み終わってダークサイドの答えを選んでしまったなら、中村作品とは相性が悪いかもしれない(ニヤリ)




第4回大江健三郎賞受賞作。
25歳でデビューし、芥川賞、新潮新人賞、野間文芸賞を受けている作家。
いわゆる実在主義の作家と見ていいだろう。


では『掏摸』では何をテーマにしたのか?
ズバリ「信じるものは救われるのか?」ということ。
読メの感想にも書いたが、答えは読者に任せられている。


こういう普遍的なテーマを現代人に訴えるのは難しいんでしょうね。
ゆえに、掏摸というモチーフを使って、犯罪小説風(クライムストーリー)に仕立てている。
真正面からこういう問題に取り組んでも、読んでもらえないであろう社会の疲弊を感じた。
社会とは人間のことなので、読んでいくと、暗澹たる気持ちになるが、
それが筆者に見える、21世紀の人類像なのだろう。




この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむのを見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。
各賞を受け、重いテーマで実在主義の作品を書いているだけに、
筆者はすでに、心とは善悪一如であるということは確信しているのだろう。
問題はそれから先。
それが社会にどう影響を及ぼし、それをどう使うとどうなるかを、考え考え書いているのが伺えるのではないだろうか。


筆者は「刺激」という言葉を使っているが、これは仏法でいう「縁」だ。
「悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ」というのはどういうことかと言えば、
恐らく、犯罪心理学であろう。
本当の悪、絶対悪になれば、落ちるところまで落ちて死ぬしかなくなる。もしくはいつか殺されるという視点だ。
だが、この点を深く考えてみると、実に恐ろしい落とし穴がある。


つまり――
「悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れない」でいれば、絶対悪にはならないが、
悪から足を洗うことが出来ないのであり、結局いつかは……という構図が隠されているということだ。


その証拠としては……
上に抜き書きした人物、木崎が終盤ではこう言い放っている部分だろう。


失敗しても成功しても、お前はここで死ぬと俺は決めていたんだ。――と。


善悪一如であるのだから、僅かばかりでも善の心を持っていてもこうなるのが人間の性であるし、
刺激という名の「縁」に紛動されやすい傾向性を表現していると言えよう。
この、縁によって実在となる娑婆世界では、
意識的に「善」であり続けようと努力するしか、救われる道はないと言っているのと同じである。


もっとも、こんな理論は、すでにドストエフスキーを代表する実在主義の作家たちが散々に、
書いてきたことなのだが、人類はいまだにそういうことを理解していないのだろう。


私はどうか?
もちろん、とっくの昔に理解してはいたが、ほぼ完璧に確信したのは、
『古代への情熱――シュリーマン自伝』を読んでからだ。
例え、周囲から馬鹿にされようと、詐欺師と言われようと、ねつ造したと疑われようと、
あんたは怖いといわれようと、なんと言われようと、
自分は自分の信念を貫きとおす。
そうすることでしか善たりえないということを、シュリーマンに学んだからだ。




もっとも、その信念となる思想には、永遠普遍性が必要であるのだが、
そこいらあたりを信じられず、自分のことしか信じないという人がほとんどなのは残念なところだ。


余談だが――
こうした永遠普遍性の哲学に則ったうえでの善一極の行為(思想は中道で行為は善という調和)というのを体現している作家もいる。
その代表は、先生が大文豪と呼ぶ、ヴィクトル・ユゴーだ。
換言すれば、永遠普遍性の哲学は自然主義(ようするに妙法)であり、
筆頭的代表格は、ゲーテ、トルストイ、シェイクスピアなどであり、
善一極の行為の代表格は、ドストエフスキー、カフカ、カミュなどである。


日本人作家はどうなの?
これがなかなか面白い。
多分漱石は、最終的には、ユゴーの位置までいっている。
だから、漱石以降の名のある作家は、わりと中道主義の作家もいなくもないのだ。
太宰なんかもそういう傾向はあるのだが、
太宰は太宰でしかないとしか評価しようがない。
言えば「自分に生きる主義」と言えるのかもしれないのだが。


では芥川はどうか?
彼もやはり理論としては中道にたどり着いているのだが、
人間が、行為として善であることが可能であると信じれなかったんでしょうね。
でもね、これは痛いほどわかる。周りを見れば見るほど、
そいつは不可能だと思えてしまうでしょうからね。
だから、自分を見つめて、一瞬たりともそこから目を離さず、
いいや、私は出来る! という信念を燃やし続けるしかないのだが……。




ともあれ、文学や思想哲学というものは、突き詰めていけばいくほど、
芥川が襲われたような孤独感に圧殺されそうな気分に襲われる。
当たり前と言えば、当たり前なのだが、これは本当にきつい。
私の場合でも、人間はある意味では理解しあえない孤独を背負っていると思い切っているのに、
そのうえ、言葉を交わして共有できる文学や思想でさえ、話のあうレベルの人がいない孤独感を、
想像してみて欲しいとか思う。
だから、本が友達なんですけどね(笑)


少しばかり、『ハムレット』を哲学的に解剖している人はいないかと検索してみたが、
全然いない……。
世界最高とか云々言われ、相当の人に読まれている作品にしてこうなのだから、
これはもう「哲学不在の時代」というのは、間違いないといっても過言ではない。
右を向いても、左を向いても、
「面白かった」「感動した」云々、そうした感情文ばかり……。
何を感じて、何を想ったかなど書いていない。
それって感想文というのかな? ただただ絶望感と辟易が積もるだけ。


なぜそうなるか?
簡単なんだな。読むことに救いを求めてるからでしょ。
娯楽であり、楽しんで、退屈な現実を少しでも忘れたいだけ。


読書することで、わが哲学を極めようと思ってないからでしょ。
芥川が死にたくなった気持ちも、太宰の絶望もわかる気がしますよ。


それでも、いつも、辛くなると、心の故郷、太宰作品を読む。
幸せだ。だってそこには、わが哲学を極めようと、
じたばたしてる太宰がいるからだ。仲間だ! 友だ!
そう思って当たり前でしょ。


』(昭和十七年一月)


この作品が、痛烈な反戦作品だと気づく人、何人いるんだろうね。
子さん=天皇。(菊の御紋章)
子さん=愚かな自分に気づいた国民の一部。日本を表す旧国名は大和ですからね。
作家=嘘ばっか言っておきながら、平然としている大本営発表。
戸田という作家の名前は、高いところという意味だ。これが政府首脳とか、軍上層部でなくて何だと言うんですか。


こういう構図になっているわけだが、
普通に読んでいると――
太宰さん、また自虐ネタですかー! あなたも好きねーと嘲弄しつつ読んでしまうのだろう。
けどね、太宰は叫んでいたんだ。
君たち、恥ずかしくないのか!! と。


書き出しはこうだ。
菊子さん。恥をかいちゃったわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言ってもまだ足りない。サムエル後書にありました。「タマル、灰をその首(こうべ)に蒙(かむ)り、着たる振袖を裂き、手を首にのせて、呼ばわりつつ去ゆけり」可哀そうな妹タマル。わかい女は、恥ずかしくてどうにもならなくなったとき……


形容はなまぬるい。草原をころげ廻ってとはなんだ?
そしてこのサムエル後書の内容はどうだ!?
戦場で土煙をかぶって、服を引き裂かれ、気も狂わんばかりに、頭を両手で抱えて叫ぶ兵士の姿じゃないか!!


気づかないのは、恥ずかしいことなんだ。


作中、なぜ「貴下」と呼んだかを、くどくど説明しているが、
ここだって、人をつかまえて「貴様!」とか呼ぶ、あのいやらしい連中へのあてつけでしょ。
ちゃんと読めば、言論統制され、出版にも検閲のあった時代に、
太宰がいかにして気を吐いていたかはわかる。


気づかないのは、恥ずかしいことなんだ。
気づきましょうよ。じゃないと騙されるんですよ。





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イプシロン(シンジ)

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