2015年03月

2015年03月10日

そんなことを私が語るまでもない。

ここにすべて書いてくださっている方がいる。

「我もいたし、人も教化そうらえ」
自分でも南無妙法蓮華経、と聞こえなければダメ。人にもそういう風に聞こえなければ広宣流布になんない。だからゆっくりでも良いから確実にあげること。


そうそう、その通りなんですよ。
だから私は、唱題をしている時は、自分の音声に耳を澄ましている。
勤行中は、必ず要典を見ながら、心をこめて暗証している。
うつむいて勤行したくないから、要典は高い位置に持っている。
それくらい真剣にやっている。

なぜなら、広宣流布といっても、基本中の基本は、勤行・唱題だからだ。

結局は、勤行・唱題の姿勢が、すべて生活や言動に顕れるということ。
これは間違いありません。

御本尊に向かって、愚痴や文句ばかり言っていると、
実生活でも、愚痴や文句を言う。

人のことをとやかく言う癖は、御本尊に向かって人のことを(半ば無意識にでも)
とやかく言っているから。
つまり、自分と御本尊の間に誰がしかを挟んでしまっているということ。

あるいは、まったく勤行・唱題していない。
もしくは、してはいるが、他人のことばかり気にしていて、自分が成長しようとしていない。
ようは、祈りの本質が、不平不満になっている。

根底には御本尊不信があるということ。

――ようするに外道。

自分がものの見方、考え方、捉え方を変えればいいんだ。
良いように見れる自分になるんだ!
楽観主義の自分になるんだ!
プラス志向の自分になるんだ!
自分で自分の境涯をわきまえて、行動できるようになるんだ!

――これが内道。
本当の信心。

本当の信心をしていれば、自然、
愚痴や文句は出なくなる。

愚痴や文句を言ってしまっているのは、
正しい軌道に乗れているかいないかを確認できる事実。

お互いに、そういう風に注意しあって、
お互いに、軌道を正していこうとするのが、本当の信心。
これが、愚痴や文句を活かすという。

枝葉の部分、具体的な議論は不毛なだけ。
なぜかなら、人間の理性はどこまでいっても二律背反だから。

それが命でわかっていない人、多すぎ。
(私も含めてね)


御本尊を讃嘆し、感謝し、歓喜しながら唱題していれば、
当然、人や自然や動物、あらゆる生命を讃嘆し、感謝し喜びを味わう言動になるのだ。

だから、苦しい唱題はしないほうがいい。
実際に、苦しくなるからだ。

自分に無理強いしすぎて、強迫観念になるのが、
実は一番苦しい信心の仕方。

そういうことをしている人は、たいてい、他人に強圧的で、
半ば、無意識なんだろうけど、押し付けがましくなってしまっている。
(私が人のこと言えた義理ではありませんがね)

そういうときは無理をせず、十分に休養をとることですよね。
強迫観念にもとづいて、「しなければいけない」という信心を修正すること。

強迫観念と、「止む能わざる」は全くの別物。
考えて行動しているのは「止む能わざる」ではない。
〜しなければならん!
――と
〜したいんだもん! の違い。

そこを見極めることが重要。
誰も教えてくれませんよ。
自分で気づくしかない。
御本尊様は教えてくれますけどね。


無意識に、首、肩が緊張し続けるくらい酷い状態が続いている。
眠りは浅く、全く寝た気がしない。
命の底から湧きあがってくる、凄まじい怒り、憤怒。
だから、しばらくは、記事も書きたくないのが現状。

昔の私なら、呑み込まれていたが、今は呑まれない。
そこは成長した。少しだけ。

今の私に必要なのは、休養。



生きてることが奇跡。
生きてることが可能性。

アナタノオト、聞かせてください。

キラッ☆




ipsilon at 14:04 

2015年03月08日

一応、私なりに、悟性(純粋理性)については説明したつもりだが、
もっとわかりやすく話せないものかと考えていたならば、
(ああ、あるね、そういう例えは)と気がついたことがあるので、書いておく。
いわば忘備録。


ようするに、デジカメ。あるいはカメラ。
これに例えて話せばわかりやすいと思ったということ。

カメラというものは、とくにカメラにある機能をすべて認識し、
知っていなくても、誰でも簡単な使い方さえ知っていれば、
写真は撮れるわけですよね。

つまり、カメラに備わっている機能=悟性(純粋理性)だと考えれば、
悟性とはいかなるものかがわかりやすいということ。

カメラの機能を全て知り尽くしていなくても、誰でも写真は撮れる。
そして撮った写真をそれぞれが持ち合って、批評もできます。

でも、どうですか?
それってなんだか……そんな風に思いませんか?

そういう状態で、議論しているのが、いわゆる、
悟性を使っていない議論であり、批判合戦だということです。

こんな状態では、正邪善悪どころか、議論をしていること自体、
無価値であろうということは簡単にわかります。

こういうことに気づいたならば、
普通、良識のある人であれば、
このカメラにはどんな機能があるんだ? と徹底的に学ぶわけです。

でも、それだけでは悟性(カメラ)を使って、優れた作品を撮影することは出来ませんよね。
当然、その後に、
実際にその機能をフルに使って、
何十枚、何百枚と写真を撮り、
なるほど、この機能をこう使うとこう撮れるということを知っていき。
やがて、思い通りの作品を撮影できる境地に至るのです。
当然、そうして撮影された作品を見た人は感銘を受けるわけです。

そう、学会活動の重要性、利他行為の重要性は、ここにこそあるわけです。

いくら、悟性(カメラ)の機能を知り、使い方を憶えて知っていても、
それらを使って実際に作品を生み出し、
他者がそれらを作品として、
認識できるようにしなければ、悟性の素晴らしさを伝えることが出来ないからです。
(ここで言う認識は五感と意識を通して見る、時間と空間のある娑婆世界で認識できる形式にするという意味ですよ)

牧口先生が、カントの真・善・美を
利・善・美と書き換えたことには、そういう意味があるわけです。

真理を知っているだけでは、誰かや何かの役には立たない。
真理の法則にのっとり、実践して利益を生まなければ、
真理を知っても価値は無きに等しいということですよね。

これで、カント哲学が、現実に実践可能な哲学へと進化したわけです。
でも、心ある学会員であれば、それは日蓮仏法じゃあないか、
いや、創価学会の運動そのものではないか、そうすぐに気づくわけです。

ここまでが悟性について。
ここからは、ネットとリアルを立て分ける誤った思考につて書いておく。

はっきり言えば、もう、こんなことは説明するまでもなく、
何度も書いてきたので、今さら書くまでもないこと。
じゃあなぜ書くか? 最後の親切とでもいえばいいかな。

ズバリ、カント哲学を理解していれば、こういうことは完璧に理解できるということ。
人間が、ものごとを認識しているのは、五感と意識、理性や悟性なわけです。

では質問しよう。
リアルとネットという環境で、人間がその認識能力を使い分けているのですか?
そんなこと、出来るわけがありません。

スイッチひとつでネットモード、リアルモードというように、切り替えられるんですか?
不可能です。

だって現実での出来事は、自分の心身にいろいろ影響を及ぼすけど、
ネットは違うじゃん。

嘘を言いなさい。
ネットだって、心身に影響を及ぼしますよ。

ネットで死ねと言われて死んでしまった事実をどう説明するんですか?


つまり、ネットであろうとリアルであろうと、
情報を受け取り、それを認識しているのは、主体者である人間であり、
その人間(個人)の心だということがわかっていれば、
ネットとリアルに境界も差別も存在しないことなど、理の当然であり、
当たりまえすぎる当たりまえであると気づけるということです。

ようするに、ネットとリアルは別物だとか、
たかがネットだとか言う人というのは、
ネットに対して、かなり酷い偏見をもっているということです。

証明しよう。


例えばトラウマ。
以前経験した嫌な記憶が、縁にふれて蘇る。
ときによってはそれは身体症状をも生み出す。
どうですか? ネットとリアルで違いがあると言えますか?

よくわからない……。
ではもっと細かく説明しましょう。

人間は、縁に触れてさまざまなことを感じ、認識し、それが症状(結果)を生み、
やがてそれは報いとなって、現実(心身)へと影響する生き物なんですよ。
まだわかりませんか?

トラウマ。
こういうものの発生システムを知っていれば、ネットもリアルも立て分けることは出来ないことくらいわかる。
そう言っているんですよ。

リアルで、過去に味わった苦痛に似た場面に出会った。
瞬間的に、五感などが反応して、動悸、息切れが起こり、眩暈までも……。

ネットで、過去に味わった苦痛に似た文章を読んだ。
瞬間的に、五感などが反応して、動悸、息切れが起こり、眩暈までも……。

どこが違うんですか?
同じでしょ。

こういうことすら認識せずに、ネットなんてと言ってる時点で、
人間の心とか、人間がもの認識している能力に関して無知である。
あるいは偏見があるとしか、言いようがないわけだ。

自分と同じ病に苦しむ人の記事を読んだ。
自分は克服して、今は元気だが、
あまりにも似通った記事だったから、
瞬間的に当時五感が感じた、痛みや苦痛が蘇り、
吐き気すら起こし、立っていることが出来なくなった。

言えば、感受性の問題なんですよ。
自分が実際に見聞していない物事に対して、鈍感な人と。
文章を読んだだけで、別人のした体験を五感で感じ取ってしまう敏感な人。
そういう差異があるだけです。

で、ネットとリアルを立て分ける人というのは、
いわば、そういう差異を認められないということですね。

ネットで死ねと言われて、過去のトラウマが蘇る敏感で繊細な人。
まあ、世の中というのは、そういう人々を得てして、弱いとか馬鹿者扱いするわけです。

は!? 何言ってるんですか!?

よーく考えてみてください。
そういった敏感で繊細な人が、社会にあるあらゆるもの見て、
ここはこうした方がいいと気づける貴重な存在だってわからないんですか?
そういう人が能力を開花したら、鈍感な人、何人分の仕事が出来ると思ってるんですか。

歴史を見ても、そんなことは一目瞭然でしょ。
偉大な発見をした科学者や哲学者、作家、そういう人達の多くが、
心の病の持ち主ですよ。
ようするに、驚くほど感受性が強く、繊細で敏感な人こそが、
世界に貢献してきたという証拠です。

だが現実は違いますよね。
うつだとか、心の病をもっているとかいうだけで、
あの人は扱いにくいとか、あの人と仕事するのはやりにくいとか云々。

方法はふたつにひとつですよね。
敏感で繊細な人が、自分の能力を殺して、
強くなったふりをして、自分に嘘をついて、ふてぶてしく振る舞って生きるか。
鈍感な人が、敏感な人の良さをどうすれば引き出せるか考えて振舞う。

少し前に貼りこんだ、精神科医の廣瀬氏などは、
そういうことをしっかり認識しているから、
真面目で完璧主義で頑張りすぎる、いわゆるうつになるような人を、
守っていけば世の中は良くなる。
そうい言っているわけです。

でもね、鈍感な人は大体、繊細な人にこう言うんですよ。
もっと強くなれ。図太くなれ。鈍感になれ。細かいことを気にしないようにしろ。
つまり、差異を認めずに、自分と同じようになれ。
つまり、お前が、俺たちに合わせるのが普通のことなんだよ。
そう傲慢なことを言ってるのと同じですよ。

それってさ、ようは繊細である人の個性を否定しているわけですよ。
よく学会指導の「病気は個性」とか書いてる人いますが、
現実、そういう風にして私に接してくれた人は一人もいませんでしたよ。
それが事実です。
今はいますけどね。そういう友人が。

この十年以上、私は何十回何百回、そうして存在すること自体を否定されてきたことか。
そしてその度に、ここにいちゃいけないんだと自分で自分を苛んできた。
だから、痛いほどわかる。
同じ立場にある人の痛み、苦しみがね。
文字を読んだだけで、即効で、五感に記憶が蘇るんだもん。
そこに、ネットとリアルの境なんてありはしませんからね。

うつ病関連の本を読んで感銘を受けた。
そういう記事に書いたものです。

うつになるような人を使いこなせない人達ばかりが世間の中心にいるから、
会社のリーダーになっているから、
世の中は良くならない、とね。

全くもってその通り。

うつだから? 心の病だから? だから何よ?
もっと自信を持っていいんですよ。
そういう個性なんだから、それを活かせばいいだけですからね。

強いこと言えない……。
その気持ちもわかります。
だから、私のような輩が、半分喧嘩腰になっても言ってるんですよ。
もういいんだよ。わからない人には、言わせとけばいいし、放っておけばいいんだよ。
鈍感な人の意見なんて、そんなに必死になって聞かなくてもいいんだよ! とね。

頑張りすぎて具合悪いんですよ。
でも、誰のせいにもしませんけどね。
誰がそんなことするもんか。

関係各位には心配や迷惑もかけてしまう。
いや、実際かけている。
心苦しい部分もある。
でも、私は黙ってませんからね。

もっとも、もう言いませんけどね。
所詮、こんなものは愚痴なこと、知り尽くしてますからね。



繊細で敏感な人は、どう生きればいいか?
鈍感になればいい。絶対に違います。

繊細で敏感のまま、そのまま、ありのままの自分に自信を持って、
そのまま、ありのままに生きればいいんです。

わたしはここに居ていいんだ!
何があっても、そう思い切ること。

鈍感な人が言ってくる、無碍な言葉に耐えれる強さを持つ。
あるいは言い返す!! 三倍にして言い返す!!
どうしてもそこの部分だけは、強くならなければいけないが、
所詮、鈍感な人に言ったところで、
理解されないのが普通。
でも、言うべきことは言う。黙ってたらだめだ!
多分、それでも鈍感な人は何一つ理解しないことだろう。

ゆえに、最後は忍耐。
忍耐とは仏の性分なのだから、そこは仕方のないことだ。




ipsilon at 13:56 

2015年03月07日



ものごとがわかっている人の訳詩って素敵ですね。

Here I go Again を、
「でも またやっちまうんだ」と訳す洒落っ気、優しさ。

そうそう、ここ数日の私――
またやっちまったよ……。

はははー これに尽きますね。



ふたつにひとつ――
進むか、進まないか。

それを決めるだけ。いまここで。




ipsilon at 16:33 


知的生物に不足しているのは、
己の業を乗り越えられんことだ。


――名言だ!

憎しみあえばあうほど、自分たちで自分たちの寿命を縮めているということが、
なぜわからない!!


坊やだからさ!
by シャア・アズナブル



釈尊もソクラテスと同じこと言ってるの発見!

自分が愚かであるとわかるほどの賢者であれ。
みずからを賢いと思うとき、自分は愚かであると知れ。

――「スッタニパータ」第1章


だから、誰も知らない。俺も知らない。理由もいらない。
風(御本尊)とともに、歩いてゆく〜
――になるわけだ。

それでいいと、信じるしかないということ〜
須梨槃特(すりはんどく)でいればいいということ〜




ipsilon at 13:04 

2015年03月06日

まず、ここでも見てみてください

リンク先にある内容が、サクっとわかってしまったら天才です。


自分は、この問題を認識して、こうするべきだという結論を、導き出すために、
感性と理性と悟性を、こういう風につかって判断した。

そう自信をもって言い切れる人がいるんですか?
そんな人はいません。そんなことは出来ないということを、
カントは見つけ出した人ですからね。

すなわち、人間とは、人間の理性とは、
自分の言っていることの正邪さえ正確に認識できずに、正しいと思い込んで言っているということ。
馬鹿ですね。愚かですね。笑っちゃいますね。どうしようもない無知ですね。

じゃあどうすればいいか?


カント哲学を学びに学べば、感性と理性と悟性をどう使えば、物事を正しく認識できるか、
という方法論はおそらく発見できるでしょうね。

でも、それは基本、実践不可能です。

なぜかなら、リンク先にも書かれている通り、
感性と理性と悟性を総合的に使って判断される真理というものは、
経験則があてはまらないものが存在するからです。

言ってる意味わかりますか?
経験がなければ、人に説明しようがないということです。

つまり、説明のしようがないから、「信じるしかない」と説明するしか方法がないということ。

こういうことがわかっていれば、
くだらない議論や批判など、完璧なまでに無価値であることに気づくんですね。


釈尊や大聖人という聖人と呼ばれる人々は、
ようするに、経験則があてはまらない真理に気づき、それを説いたということ。

自分でさえ経験したことのない、経験則があてはまらない真理をどう人に説明すればいいんだ?
これはこれは深い悩みだったのでしょうね。

最終的には、人がわかろうがわかるまいがそこは気にしない。
信じてください! と、説くしかなかったんだと思います。

でも、それだけでは、見聞する人たちからしたら、ただの詭弁家になってしまうのです。
だから、自らその真理に従う生き方をして、
経験則から説明できる部分を体験として、方便として、説いていったのでしょう。

その間に、数々の難ありき。
考えてみれば当たり前のことですよね。
真理のしの字どころか、感性と理性と悟性の使い方すら認識していない人々――
自分の言っていることの正邪さえ認識していない人たちに、
真理を説くのですからね。
それはあなた、奇人変人呼ばわりされて、迫害されますよね。
ゆえに、大聖人は御書にもあるとおり、迫害されることは、百も承知だったわけですよね。


理論的に破たんしている。
理屈が通じない。
感情論だけでものを言っている。
そういって相手を責めても、
言っている本人も実は自分の言っていることの正邪をどう認識しているかすら、
見つめていないわけだ。

言ってるほうも、言われて反論してるほうも、
同じ穴の貉。
これが、世の中でよく見られる議論だとか批判合戦というもの。

理論的に破たんしている。
理屈が通じない。
感情論だけでものを言っている。

その程度のたてわけで、正しくものが認識できていると思い込んでいるから、
大聖人に「それは傲慢ですよ」といわれるんですよ。

信じればいいだけでしょ。
信じて実践すればいいだけ。
実践して体験したことを語ればいいだけ。


愚痴も文句も怨嫉も、屁理屈も、知ったかぶりの広報活動も、
意見も干渉も忠告もいりません。
むしろ迷惑です。

ソクラテスの言ったことが正しい。
私は何も知らない。知らないということを知っているから、いくぶん賢いんだ。


いいですか、少々荒っぽいが、理性と悟性(純粋理性)の違いを説明してみようと思う。
いわゆる一般的にわれわれが使っている理性というものは、
観察する対象があって、それに対して感性などを働かせて得る結果をもって理性的判断と言っているのです。

しかし、純粋理性(悟性)というものはそうじゃあない。
すなわち、われわれの内側にある、ものを感じ認識し、悟る仕組みを言ってるんですよ。
つまり、具体的にアレとかコレといった対象物がない状態で、
未経験のものごとの正邪、善悪をきちんと認識し、
それに対する、絶対的に正しい行為を導き出す認識能力があると、カントは言ってるのです。

じゃあそれを言葉にすればいい。
出来るわけないでしょ。
経験していないことに対する認識を、こう認識したななど、語れるわけがないのですから。

なぜかなら、われわれは時間と空間というものがある状態ではじめて、
言語や言葉にして相手に何かが伝えられるのですからね。

言えば、
この純粋理性(悟性)というものは、われわれの中にある妙法なんですよ。
仏性なんですよ。

だから、大聖人ですら、言葉にして説明していないんですよ。
そういう認識力をわれわれは持っているんだと「信じて」ください。
そういうしかなかったからですよ。

これがわかればね、
批判とか議論がいかに無意味かは理解できるはずですよ。

われわれが、普段使っている理性というものは、
対象物(議題)があってはじめて働かせられるんです。
でも、その議題というものには、必ず関係性(相対性)があり、
ケース・バイ・ケースで、善にも悪にもなりえるわけです。
何万年討論したところで、結論なんて出やしませんよ。
時間の無駄。限りなく時間の無駄です。

だから、議論や批判など、一億年間やっていようが、
一銭の価値もないということ。

そんなことしているなら、一遍でも多く唱題して、
自分の悟性をしっかり使う生き方ができるようにするほうが、
百千万億倍も価値があるということ。

悟性を磨くにはどうすればいいか?
只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり(一生成仏抄)

悟性が発揮された瞬間。つまり智慧が発露された瞬間という状態をあえて言葉で説明するなら、
前を歩いている人がハンカチを落とした。何も考えずに拾ってあげた。

何も考えずに拾ってるんだから、
その瞬間、自分の行為は善でもないし、悪でもない、善とも悪とも言えない。
そもそも、そんなこと考えてないんだからね。

功徳が出てる瞬間というのは、こういう時でしょ。
何も考えてない。感じてない。
苦しんでもいない。喜んでもいない。ほーら、一喜一憂してないでしょ。
何も考えてないんだから、自我も存在しない。いや存在してはいるが、
それは大我(妙法)とイコールになっているということ。

だが、馬鹿な人間という生き物は、
何も考えずに拾ってあげた後に、それが善だったのか、悪だったのかを理性的に判断してるんですよ。
いわゆる結果主義ですね。
で、それをもとに物事の判断基準をする、価値観を作り上げてるわけですよね。
馬鹿ですよねー。ほんと、馬鹿。物凄く馬鹿。馬鹿すぎて馬鹿すぎて、
言葉を失う。

だけならまだしも、そうして作り上げた価値観に、
自分のやってきたこと(過去)や、
これからやろうとすること(未来)を、
照らして、後悔してみたり、不安や心配を抱えて、取り越し苦労してる。
馬鹿すぎでしょ。
なんで、自分から進んで苦しんでるの? 馬鹿なんじゃないの!!

すなわち、ハンカチの件について言えば――
相手が迷惑そうな顔をした=自分の行為は悪だった。
相手が嬉しそうな顔をした=自分の行為は善だった。
そう感じて、次に似たような場面に出会ったときの判断基準(役に立たない価値観)を作って、
自らを苦しめているということ。

馬鹿ですよねぇ。評価して判断しなきゃ、一喜一憂しないで済むのにね。
あてにもならない価値観とは、こういう経験の積み上げでしょ。

何も考えずに拾った自分の行為に満足すれば、
相手がどんな反応を示そうが、関係ないでしょ。
縁に紛動されないというのは、そういうことでしょ。
智慧をつかう、悟性を働かせるというのは、そういうことでしょ。

ガンジーの言ってるとおりじゃないですか。
行為こそ大事である。
その通りですよね。

智慧は、直感的に、何も考えずに、口や手や体が勝手に動く。
そうしなければいけないと自分の内側から湧きあがってくるものなんですよ。
しかもそれは、問題が起こった瞬間に完全無欠の解決法を示すわけですよ。
こんなありがたいもの、ありますか?

腰がギク!
いちいち頭で考えて、
「あ、いまギクいった腰はあのあたりだから、右手をつかって骨に異常がないか確認しよう」
そんなこと考えてる人いませんでしょ。

瞬間的に、グキっていったとこに、無意識で手が伸びるんですよ。
それが智慧。
転びそうになったら、瞬時に、転ばないように体動かすでしょ。
倒れる時だって、無意識に受け身とってるんですよ。

もっとも現実的には、智慧を発露するためには、集中して物事に取り組んだり、
強い意志を働かせたり、五感をフルに使って感じようとする努力は必要ですけどね。
それをするために欠かせないのが、生命力。
生命力をつけるためにするのが、唱題。

簡単なことじゃないんですか?
いや、それが一番難しいから、みんな苦労するんだろうけどね。
私もねw

もっとカント哲学を知りたい!
という方は、ここでもご覧になってみてください

多分、急に眠気に襲われると思いますけどねw
こういうの勉強するの大変だから、
誰にでもわかる方法でというのが、先生の心ですよね。

ありがたい師匠ですよね。


牧口先生の口癖は、
「認識せずして評価なし」だったそうです。

しかし、この言葉は、われわれ一般人が使っているような「認識」のことを言ってるんじゃないんですね。
当然ですよね。

獄中にあってまでカント哲学を学ばれていた牧口先生が、
私ごときよりも遥かに高い次元で、
(感性、理性、悟性を駆使しての)認識の重要性を理解していなかった筈はありませんからね。

その牧口先生を師とした、戸田先生。
その戸田先生を師とした池田先生。
思想の一貫性は全く失われていません。

周囲の人を見ることも重要だが、
師匠の思想から視線を外してしまうと、間違った信心や思想に陥ることを、
しっかりと心に銘記していきたいものですね。


余談ですが――
『開目抄』という重書には、今日ここに書いたように、
大聖人が、経験したことを自ら振り返っている部分があります。
その部分のことを、戸田先生は「実に味わい深いではないか」と語っています。
論理的な説明など、何一つされていません。
それが創価の魂でしょうね。
感じとるしかないし、感じとったものをおいそれと言葉には出来ないということでしょう。

また、日蓮研究家に言わせても、『開目抄』は、非常に珍しい書き方をされていると言われています。
つまり、智慧の発露がそこにあった。
何も考えてないのに、文字や言葉が溢れだして、勝手に筆が動いていたのではないかということを、
感じとれるということです。

いきなり論述的になったかと思うと、自分の過去を述懐してみたり。
そうかと思うと、いきなり中国の故事を引いてみたり、
かと思えば、いきなり誓願を叫んでいたりと、それはもう自由奔放。

ほかの御書のように、まず序論や挨拶や御礼を述べ、それから要件。
それから比喩、故事の引用。そして結論。結びや挨拶、
などといったような体系だった書き方がされていないのだそうです。
つまり『開目抄』という一書は、それだけありのままの大聖人の姿、
自由闊達な智慧に身を任せている、大聖人を拝せる書なのだそうです。

私も、開目抄は数度拝読してきましたが、確かにそれは感じました。
なんで『開目抄』はこうも、話されている内容があっちこっちに飛ぶんだろう?
うーむ、わかり辛いというか、理論だてて憶えるの大変だなぁなどと、
そんな風に感じたものです。

お時間のある方は、今一度、『開目抄』を拝されてみては如何でしょうか。

人に勧めるまえに、まずお前がやれ!!
ごもっともです^^;




ipsilon at 23:34 
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